午前中で一学期の中間テストが終わると、学校全体が活気を取り戻したようだった。テストのことなど思い出したくもない大半の生徒は、部活なりバイトなり、勉強以外のことに精を出す毎日に戻っていった。
都立|加賀見《かがみ》高校は、加賀見市の中心からわずかに外《はず》れた場所に位置している。
加賀見市は東京の外れにある丘陵地帯を切り開いて作られたベッドタウンであり、この高校はそこに住む子供たちのために作られたものだった。名前からも察《さつ》せられるように、加賀見市で一番古い都立高校である。
「長い伝統と自由な校風を誇《ほこ》る」という、いかにもおざなりな言葉で説明されることが多いが、はっきり言えばこれという特徴《とくちょう》はなかった。特に荒れているわけでもなければ、締《し》め付けの厳《きび》しい進学校というわけでもない。勉強する生徒は勉強し、しない生徒はしない。放し飼《が》いのような状態だった。
すぐ近くに加賀見《かがみ》中学校があるのだが、毎年半数近くの卒業生が同じ名前のこの高校へそのまま進学する。もちろん私立に行く者や、成績《せいせき》が悪くもっと偏差値の低い高校へ行く者もいる。しかし、それ以外の者は「まあ、加賀見でいいか」という曖昧《あいまい》な理由でこの学校を選ぶのだった。当然ながら高校に進学してもまわりは知った顔ばかりという状況で、それもよく言えばゆとりのある、悪く言えばヤル気のない校風に関係している。
都立|加賀見《かがみ》高校は、加賀見市の中心からわずかに外《はず》れた場所に位置している。
加賀見市は東京の外れにある丘陵地帯を切り開いて作られたベッドタウンであり、この高校はそこに住む子供たちのために作られたものだった。名前からも察《さつ》せられるように、加賀見市で一番古い都立高校である。
「長い伝統と自由な校風を誇《ほこ》る」という、いかにもおざなりな言葉で説明されることが多いが、はっきり言えばこれという特徴《とくちょう》はなかった。特に荒れているわけでもなければ、締《し》め付けの厳《きび》しい進学校というわけでもない。勉強する生徒は勉強し、しない生徒はしない。放し飼《が》いのような状態だった。
すぐ近くに加賀見《かがみ》中学校があるのだが、毎年半数近くの卒業生が同じ名前のこの高校へそのまま進学する。もちろん私立に行く者や、成績《せいせき》が悪くもっと偏差値の低い高校へ行く者もいる。しかし、それ以外の者は「まあ、加賀見でいいか」という曖昧《あいまい》な理由でこの学校を選ぶのだった。当然ながら高校に進学してもまわりは知った顔ばかりという状況で、それもよく言えばゆとりのある、悪く言えばヤル気のない校風に関係している。
藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》は茶道《さどう》部部室の畳の上にうつぶせに横たわっている。背の高さは中ぐらいというところ、どちらかといえば線の細い体つきで、顔立ちもよく見ると整っているのだが、そのあたりに着目する人間はほとんどいない。総体としてあまり印象に残らない外見だった。
彼が倒れているのは、命に別状があるからではない。一夜漬《いちやづ》けのテスト勉強であまり寝ておらず、家に帰る前に一休みしているうちに熟睡《じゅくすい》してしまったのだった。
加賀見高校茶道部は彼を含めて部員は三人しかいない。各学年にそれぞれ一人ずつで、唯一《ゆいいつ》の三年生は先日引退してしまい、裕生が今の部長である。しかし彼も成り行きで入部したようなもので、茶道に対する情熱があるわけではなかった。この部じたいが、ほんの数年前に気まぐれのように設立された、伝統とは無縁《むえん》の文化部だった。
部室は旧校舎の空き教室の半分を区切って作られたもので、備品といえば茶器の入ったロッカーと三畳の畳ぐらいだった。
壁《かべ》には何故《なぜ》か歴代部長たちの写真が名前入りで飾られている。「二代目部長・西尾《にしお》夕紀《ゆき》」と「三代目部長・飯倉《いいくら》志乃《しの》」はごく普通の女子生徒のスナップ写真だったが、「初代部長・藤牧|雄一《ゆういち》」の写真だけが異彩を放っていた。壁に立てかけた畳に手をついて、上半身|裸《はだか》・金髪・長身の男子生徒が得意満面の笑みを浮かべている。その上、むきだした前歯は一本欠けていて、顔には明らかな青あざとすり傷がある。
茶道よりは武道に縁《えん》がありそうなこの初代部長と、裕生の苗字《みょうじ》が同じく「藤牧」なのは偶然ではない。藤牧雄一は裕生の三歳年上の兄だった。茶道に関心のなかった裕生がこの部に入らざるを得なかったのは、この初代部長と大いに関係がある。
開いた窓から入りこむ心地《ここち》よい風が、カーテンを揺らしている。このまま邪魔《じゃま》が入らなければ、裕生はもう少し惰眠《だみん》を貪《むさぼ》り続けたに違いない——しかし、その時部室の扉が開いた。
現れたのは小柄《こがら》な女子生徒だった。黒目がちの瞳《ひとみ》とふっくらした白い頬《ほお》。人目を引く容姿をしているが、可愛《かわい》いと呼ぶには少し無表情で、美人と呼ぶには少し童顔《どうがん》だった。わずかに肩にかかった不揃《ふぞろ》いな髪の毛が、彼女の荒い息に合わせて揺れている。ここまで全速力で走ってきたらしい。衣替えしたばかりの半袖《はんそで》のYシャツと、制服のスカートはまだ真新しい。今年入学したばかりの一年生だった。
彼が倒れているのは、命に別状があるからではない。一夜漬《いちやづ》けのテスト勉強であまり寝ておらず、家に帰る前に一休みしているうちに熟睡《じゅくすい》してしまったのだった。
加賀見高校茶道部は彼を含めて部員は三人しかいない。各学年にそれぞれ一人ずつで、唯一《ゆいいつ》の三年生は先日引退してしまい、裕生が今の部長である。しかし彼も成り行きで入部したようなもので、茶道に対する情熱があるわけではなかった。この部じたいが、ほんの数年前に気まぐれのように設立された、伝統とは無縁《むえん》の文化部だった。
部室は旧校舎の空き教室の半分を区切って作られたもので、備品といえば茶器の入ったロッカーと三畳の畳ぐらいだった。
壁《かべ》には何故《なぜ》か歴代部長たちの写真が名前入りで飾られている。「二代目部長・西尾《にしお》夕紀《ゆき》」と「三代目部長・飯倉《いいくら》志乃《しの》」はごく普通の女子生徒のスナップ写真だったが、「初代部長・藤牧|雄一《ゆういち》」の写真だけが異彩を放っていた。壁に立てかけた畳に手をついて、上半身|裸《はだか》・金髪・長身の男子生徒が得意満面の笑みを浮かべている。その上、むきだした前歯は一本欠けていて、顔には明らかな青あざとすり傷がある。
茶道よりは武道に縁《えん》がありそうなこの初代部長と、裕生の苗字《みょうじ》が同じく「藤牧」なのは偶然ではない。藤牧雄一は裕生の三歳年上の兄だった。茶道に関心のなかった裕生がこの部に入らざるを得なかったのは、この初代部長と大いに関係がある。
開いた窓から入りこむ心地《ここち》よい風が、カーテンを揺らしている。このまま邪魔《じゃま》が入らなければ、裕生はもう少し惰眠《だみん》を貪《むさぼ》り続けたに違いない——しかし、その時部室の扉が開いた。
現れたのは小柄《こがら》な女子生徒だった。黒目がちの瞳《ひとみ》とふっくらした白い頬《ほお》。人目を引く容姿をしているが、可愛《かわい》いと呼ぶには少し無表情で、美人と呼ぶには少し童顔《どうがん》だった。わずかに肩にかかった不揃《ふぞろ》いな髪の毛が、彼女の荒い息に合わせて揺れている。ここまで全速力で走ってきたらしい。衣替えしたばかりの半袖《はんそで》のYシャツと、制服のスカートはまだ真新しい。今年入学したばかりの一年生だった。
彼女はまず部室の時計を見て、ほっと息を洩《も》らした。それから畳のほうに目をやり、うつぶせに倒れている裕生《ひろお》に気づく——彼女は顔色を変えた。彼の様子《ようす》は異変が起こったように見えないこともない。彼女は畳へと走り寄り、上履《うわば》きと学校指定の黒い鞄《かばん》を投げ捨てるようにしてぺたんと彼のそばに座りこんだ。そして、自分も畳に顔を近づけるようにして裕生の顔を覗《のぞ》きこむ——。
数秒後。
彼女は呆《あき》れた顔で体を起こした。規則正しい寝息がかすかに聞こえる。こののんきな生徒はただ眠りこけているだけだ、ということを彼女は知ったらしい。
「ひろ……」
と、言いかけてから、口をつぐんで言い直した。
「……藤牧《ふじまき》先輩《せんぱい》」
彼女は裕生の肩を揺する。ぴくりとまぶたが震《ふる》えただけで目は開かなかった。そのかわり畳の上でごろりと九十度回転すると、彼女の膝《ひざ》に背中を預けてくる。一瞬《いっしゅん》、彼女の全身が固まった。スカートからわずかに覗《のぞ》いている彼女の白い膝に、裕生の背中が直接当たっている。彼女の頬《ほお》がかすかに赤くなっていた。
彼の肩に伸びた手が中途半端な位置で止まり、畳の上にぱたんと落ちた。彼女は窓の外を見上げる。はためいているカーテン越しに、昼下がりの太陽の光が彼女の目を射た。
ふと、彼女は裕生の声を聞いた気がした。彼の唇《くちびる》がかすかに動いている。彼を起こさないように、彼の横顔にゆっくりと耳を近づけていった。
「……うみ」
と、いう言葉だけは聞き取れた。何か夢を見ているのかもしれない。
その時、裕生がまたさっきと同じ方向に寝返りを打とうとした。ぐいぐいとYシャツの背中がこすりつけられて、彼女の制服のスカートが少しまくれ上がろうとする。
「……あの、ちょっと。先輩」
彼女の顔がさらに赤くなる。それでも裕生が起きる気配《けはい》はなく、彼女の口元がへの字に引き締《し》まった。その後の動きは素早《すばや》かった。左手でスカートを押さえつつ、右手で思い切りよく裕生の頭を叩《たた》く——ぱん、といい音が部室に響《ひび》いた。
数秒後。
彼女は呆《あき》れた顔で体を起こした。規則正しい寝息がかすかに聞こえる。こののんきな生徒はただ眠りこけているだけだ、ということを彼女は知ったらしい。
「ひろ……」
と、言いかけてから、口をつぐんで言い直した。
「……藤牧《ふじまき》先輩《せんぱい》」
彼女は裕生の肩を揺する。ぴくりとまぶたが震《ふる》えただけで目は開かなかった。そのかわり畳の上でごろりと九十度回転すると、彼女の膝《ひざ》に背中を預けてくる。一瞬《いっしゅん》、彼女の全身が固まった。スカートからわずかに覗《のぞ》いている彼女の白い膝に、裕生の背中が直接当たっている。彼女の頬《ほお》がかすかに赤くなっていた。
彼の肩に伸びた手が中途半端な位置で止まり、畳の上にぱたんと落ちた。彼女は窓の外を見上げる。はためいているカーテン越しに、昼下がりの太陽の光が彼女の目を射た。
ふと、彼女は裕生の声を聞いた気がした。彼の唇《くちびる》がかすかに動いている。彼を起こさないように、彼の横顔にゆっくりと耳を近づけていった。
「……うみ」
と、いう言葉だけは聞き取れた。何か夢を見ているのかもしれない。
その時、裕生がまたさっきと同じ方向に寝返りを打とうとした。ぐいぐいとYシャツの背中がこすりつけられて、彼女の制服のスカートが少しまくれ上がろうとする。
「……あの、ちょっと。先輩」
彼女の顔がさらに赤くなる。それでも裕生が起きる気配《けはい》はなく、彼女の口元がへの字に引き締《し》まった。その後の動きは素早《すばや》かった。左手でスカートを押さえつつ、右手で思い切りよく裕生の頭を叩《たた》く——ぱん、といい音が部室に響《ひび》いた。
裕生は夜の海をゆらゆらと一人|漂《ただよ》っている夢を見ていた。子供の頃《ころ》からなじみのある夢だった。この先の展開も分かっている。波間の向こうに見えるものがあるはずだ。目を凝《こ》らそうとした瞬間《しゅんかん》、頭の上に衝撃《しようげき》が降って来た。
(……雷《かみなり》?)
目を開けると畳があった。雷が落ちて目が覚めるのは珍しい。誰《だれ》かに頭をはたかれたような感覚に首をかしげながら、彼は上半身を起こす。寝ている間、畳に押しつけていた頬に違和感がある。跡が残っていたらマヌケだよなと思いつつ振り返ると、後輩《こうはい》の不機嫌《ふきげん》そうな顔があった。
「あ、雛咲《ひなさき》。お……」
裕生《ひろお》は大あくびをした。
「……はよう」
雛咲、と呼ばれた女の子はかすかに頭を下げる。彼女の名前は雛咲|葉《よう》。今年、加賀見《かがみ》高校|茶道《さどう》部に入部した唯一《ゆいいつ》の一年生だった。
「テストどうだった?」
葉は答えなかった。畳の上できちんと正座して、正面から彼の顔を見据《みす》えている。裕生が別のことを言うのを待っているような感じだった。
「どうしたの?」
と、彼は尋ねる。
「部会は?」
葉が固い声で言った。え、と裕生は口の中で呟《つぶや》く。茶道部は週に一度部会を開くことになっている。やることと言えば次の茶席についての打ち合わせとちょっとした連絡事項だけで、五分か十分で終わってしまうのだが。
「今日はやらないけど。テストの期間中はないって言わなかったっけ?」
「テスト、今日で終わりですけど」
「うちはテスト終了日も期間中。前からそう決まってるから」
わずかに彼女の表情が変わったように見えた。あるいは光の具合かもしれない。
「飯倉《いいくら》先輩《せんぱい》は」
「来てないよ。帰ったんじゃないかな」
飯倉|志乃《しの》は唯一の三年生の部員で、この前まで彼女が部長を務めていた。無口な葉に志乃が色々と世話を焼いており、二人の仲がいいことは裕生も知っている。
「先輩と待ち合わせしてたの?」
「……先輩から借りるものがあって」
「ふーん。なに?」
葉は答えなかった。どうやらあまり言いたくないものらしい。女の子同士の秘密なのかもしれない、と裕生は思った。そういうことには立ち入らない方がいいだろう。
彼女は正座した自分の膝《ひざ》に視線を落としている。そのまま沈黙《ちんもく》が流れる。裕生は葉と黙《だま》って向かい合うことに慣《な》れていた。音楽室で誰《だれ》かがピアノをいじくって遊んでいるらしい。途切《とぎ》れ途切れの音色が聞こえてくる。
「あのさ、雛咲」
彼女は顔を上げる。
「ぼくには敬語使わなくていいよ。近所だし、長い付き合いだし」
裕生《ひろお》は子供の頃《ころ》から葉《よう》と同じ団地に住んでいる。学年は一年下だが、小学校からずっと同じ学校に通ってきた。当然、子供の頃は語尾にですますなどつけなかったのだが、中学に入った頃、葉は突然言葉|遣《づか》いを改めた。裕生以外の相手にはそうしなかったので、以前から不審《ふしん》に思っていた。
葉はしばらく表情を変えずに裕生を見ていたが、
「結構です」
と、答えた。実は裕生は今までにも何度か同じことを言ってきている。しかし彼女の答えはいつも「結構です」で、何がどう結構なのかはよく分からないのだが、とにかく言葉遣いはそのままだった。
「部会、やろうか。せっかくだし」
葉は首を横に振った。それから、突然立ち上がる。
「……わたし、帰ります」
低い声で葉は言った。裕生はふと葉を見上げる。初めて彼女の様子《ようす》に疑問を覚えた。表情に乏しいのは普段《ふだん》と変わらないが、どことなく雰囲気がおかしい。疲れているのか、あるいは具合が悪いのか——いや、それとも少し違う気がした。
(なんだろう)
裕生が考えこんでいる間にも、葉は上履《うわば》きをはいて、投げ捨てられた黒い鞄《かばん》を拾うと、扉の方へすたすたと歩いていった。
「雛咲《ひなさき》」
彼女は振り返る。裕生はどう言うべきか迷ったが、結局ひどく漠然《ばくぜん》とした質問しか思いつかなかった。
「なにかあったの?」
一瞬《いっしゅん》、葉が少しためらったように見えた——が、すぐに、
「失礼します」
彼女はきちんと頭を下げて、廊下《ろうか》へ出て行った。
(……雷《かみなり》?)
目を開けると畳があった。雷が落ちて目が覚めるのは珍しい。誰《だれ》かに頭をはたかれたような感覚に首をかしげながら、彼は上半身を起こす。寝ている間、畳に押しつけていた頬に違和感がある。跡が残っていたらマヌケだよなと思いつつ振り返ると、後輩《こうはい》の不機嫌《ふきげん》そうな顔があった。
「あ、雛咲《ひなさき》。お……」
裕生《ひろお》は大あくびをした。
「……はよう」
雛咲、と呼ばれた女の子はかすかに頭を下げる。彼女の名前は雛咲|葉《よう》。今年、加賀見《かがみ》高校|茶道《さどう》部に入部した唯一《ゆいいつ》の一年生だった。
「テストどうだった?」
葉は答えなかった。畳の上できちんと正座して、正面から彼の顔を見据《みす》えている。裕生が別のことを言うのを待っているような感じだった。
「どうしたの?」
と、彼は尋ねる。
「部会は?」
葉が固い声で言った。え、と裕生は口の中で呟《つぶや》く。茶道部は週に一度部会を開くことになっている。やることと言えば次の茶席についての打ち合わせとちょっとした連絡事項だけで、五分か十分で終わってしまうのだが。
「今日はやらないけど。テストの期間中はないって言わなかったっけ?」
「テスト、今日で終わりですけど」
「うちはテスト終了日も期間中。前からそう決まってるから」
わずかに彼女の表情が変わったように見えた。あるいは光の具合かもしれない。
「飯倉《いいくら》先輩《せんぱい》は」
「来てないよ。帰ったんじゃないかな」
飯倉|志乃《しの》は唯一の三年生の部員で、この前まで彼女が部長を務めていた。無口な葉に志乃が色々と世話を焼いており、二人の仲がいいことは裕生も知っている。
「先輩と待ち合わせしてたの?」
「……先輩から借りるものがあって」
「ふーん。なに?」
葉は答えなかった。どうやらあまり言いたくないものらしい。女の子同士の秘密なのかもしれない、と裕生は思った。そういうことには立ち入らない方がいいだろう。
彼女は正座した自分の膝《ひざ》に視線を落としている。そのまま沈黙《ちんもく》が流れる。裕生は葉と黙《だま》って向かい合うことに慣《な》れていた。音楽室で誰《だれ》かがピアノをいじくって遊んでいるらしい。途切《とぎ》れ途切れの音色が聞こえてくる。
「あのさ、雛咲」
彼女は顔を上げる。
「ぼくには敬語使わなくていいよ。近所だし、長い付き合いだし」
裕生《ひろお》は子供の頃《ころ》から葉《よう》と同じ団地に住んでいる。学年は一年下だが、小学校からずっと同じ学校に通ってきた。当然、子供の頃は語尾にですますなどつけなかったのだが、中学に入った頃、葉は突然言葉|遣《づか》いを改めた。裕生以外の相手にはそうしなかったので、以前から不審《ふしん》に思っていた。
葉はしばらく表情を変えずに裕生を見ていたが、
「結構です」
と、答えた。実は裕生は今までにも何度か同じことを言ってきている。しかし彼女の答えはいつも「結構です」で、何がどう結構なのかはよく分からないのだが、とにかく言葉遣いはそのままだった。
「部会、やろうか。せっかくだし」
葉は首を横に振った。それから、突然立ち上がる。
「……わたし、帰ります」
低い声で葉は言った。裕生はふと葉を見上げる。初めて彼女の様子《ようす》に疑問を覚えた。表情に乏しいのは普段《ふだん》と変わらないが、どことなく雰囲気がおかしい。疲れているのか、あるいは具合が悪いのか——いや、それとも少し違う気がした。
(なんだろう)
裕生が考えこんでいる間にも、葉は上履《うわば》きをはいて、投げ捨てられた黒い鞄《かばん》を拾うと、扉の方へすたすたと歩いていった。
「雛咲《ひなさき》」
彼女は振り返る。裕生はどう言うべきか迷ったが、結局ひどく漠然《ばくぜん》とした質問しか思いつかなかった。
「なにかあったの?」
一瞬《いっしゅん》、葉が少しためらったように見えた——が、すぐに、
「失礼します」
彼女はきちんと頭を下げて、廊下《ろうか》へ出て行った。