いかにも不審《ふしん》な大男だった。
派手《はで》というより悪趣味《あくしゅみ》なオレンジのペイズリー柄《がら》のシャツの襟《えり》の上に、短い金髪が見える。背中を向けているので年齢《ねんれい》ははっきりしないが、おそらく二十歳《はたち》前後だろう。
警官《けいかん》は眉《まゆ》をひそめながら、加賀見《かがみ》団地の中にあるスーパーマーケットの手前で自転車を停《と》める。勤続十年の経験《けいけん》上、怪しい人物はすぐに見分けがつくつもりだった。大男は自動ドアのそばの自転車置き場に立っていたが、問題は彼が一人ではないことだった。加賀見中学の制服を着た少年が、男の隣《となり》でぶるぶる震《ふる》えている。大男は長い腕を中学生の肩に回し、顔を覗《のぞ》きこむようにしながらなにか話しかけている。
(恐喝《きょうかつ》か)
彼は加賀見団地の巡回の最中だった。加賀見市じたいが都心から離れたベッドタウンだが、三十年以上前に建てられたこの団地はほとんど一個の町を形成している。
何故《なぜ》かこの団地の周辺には、未《いま》だに昔ながらの「不良」がまるで天然記念物のごとく生息している。夜中にタバコを吸っている、ケンカをしている、ガラスを割られた……などの通報が一番多いのもこの地域だった。
それに加えて、最近加賀見市の住宅街で行方《ゆくえ》不明者が妙に多いという。県警からは不審者がいないかどうか、警戒を強めるようにと通達を受けている。派出所では団地の巡回の回数を増やしていた。
警官は慎重《しんちょう》な足取りで大男の方へ近づいていった。男の声が聞こえる。
「……だからよ、五分だけ付き合ってくれりゃいいっつってんだろ? 悪いようにはしねえよ……あ、そうじゃねえよ。そんなビビんなって……だからカネの話なんかさっきから一言もしてねえだろ?……いや、お前のサイフの中身が知りたいワケじゃねえのよ。いやジャンプしなくていいって。ってお前、泣いてんのか? マジ誤解されると困んだけど、俺《おれ》は別にな……」
「おい」
と、警官は声をかける。
「あァ?」
大男が不機嫌《ふきげん》そうな声とともに振り向く。黄色いレンズのサングラスをかけたその顔には見覚えがあった。イヤと言うほど見たと言っていい。四、五年ほど前、深夜の巡回の最中に何度も出くわした顔だった——名前はなんといっただろう。
あの当時この男は、せいぜい高校に上がったばかりだったが、彼よりも手を焼かせた不良は他《ほか》にいない。ケンカが強く逃げ足が速く口が悪かった。そのくせ妙に人懐《ひとなつ》っこいところもあり、なれなれしく話しかけることもあった。敬語の使い方を全く知らないらしく、何度名前を教えても彼を「オッサン」としか呼ばなかった。
「なんだ、オッサンかよ。久しぶり!」
彼は中学生の肩に回していた手をほどいて、笑いながらぴしっと手を挙げた。こぼれる笑顔を見ながら、警官《けいかん》は内心ため息をついた。その瞬間《しゅんかん》、男のかげでがたがた震《ふる》えていた中学生が、弾《はじ》かれたように走り去っていった。
「あー、おい。待てコラ! ……逃げられた。いいとこだったのによ」
男は悔しそうに舌打ちする。
「……お前」
警官はどうにか怒りを呑《の》みこんだ。恐喝《きょうかつ》の現場を押さえられたというのに、このふてぶてしさは一体なんなのか。
「何やってるんだ?」
「フィールドワーク」
ガムを噛《か》みながら男は答えた。警官は内心首をかしげた。「フィールドワーク」という単語の意味が分からなかったのだ。英語で恐喝をそう呼ぶのか、と思った瞬間、
「ま、ちょっとしたアンケートっスかね」
警官は無言で雄一《ゆういち》を頭からつま先まで見下ろした。どう優《やさ》しく見ても昔のチンピラで、小脇《こわき》に抱えているバインダーとボールペンだけが違和感を漂《ただよ》わせている。知らない中学生にアンケートをする元不良。どう考えてもまともな組み合わせではない。
「お前、今何やってるんだ? ちゃんと働いてるのか?」
「働いてるっつうかまあ……あ、これ」
彼はポケットの一つから一枚のカードを差し出した。警官は思わず身構えた。自衛隊《じえいたい》の身分証、大型一種の運転免許証、サラ金のカード……等々を想像したが、差し出されたものは彼の予想を完全に裏切るものだった。
派手《はで》というより悪趣味《あくしゅみ》なオレンジのペイズリー柄《がら》のシャツの襟《えり》の上に、短い金髪が見える。背中を向けているので年齢《ねんれい》ははっきりしないが、おそらく二十歳《はたち》前後だろう。
警官《けいかん》は眉《まゆ》をひそめながら、加賀見《かがみ》団地の中にあるスーパーマーケットの手前で自転車を停《と》める。勤続十年の経験《けいけん》上、怪しい人物はすぐに見分けがつくつもりだった。大男は自動ドアのそばの自転車置き場に立っていたが、問題は彼が一人ではないことだった。加賀見中学の制服を着た少年が、男の隣《となり》でぶるぶる震《ふる》えている。大男は長い腕を中学生の肩に回し、顔を覗《のぞ》きこむようにしながらなにか話しかけている。
(恐喝《きょうかつ》か)
彼は加賀見団地の巡回の最中だった。加賀見市じたいが都心から離れたベッドタウンだが、三十年以上前に建てられたこの団地はほとんど一個の町を形成している。
何故《なぜ》かこの団地の周辺には、未《いま》だに昔ながらの「不良」がまるで天然記念物のごとく生息している。夜中にタバコを吸っている、ケンカをしている、ガラスを割られた……などの通報が一番多いのもこの地域だった。
それに加えて、最近加賀見市の住宅街で行方《ゆくえ》不明者が妙に多いという。県警からは不審者がいないかどうか、警戒を強めるようにと通達を受けている。派出所では団地の巡回の回数を増やしていた。
警官は慎重《しんちょう》な足取りで大男の方へ近づいていった。男の声が聞こえる。
「……だからよ、五分だけ付き合ってくれりゃいいっつってんだろ? 悪いようにはしねえよ……あ、そうじゃねえよ。そんなビビんなって……だからカネの話なんかさっきから一言もしてねえだろ?……いや、お前のサイフの中身が知りたいワケじゃねえのよ。いやジャンプしなくていいって。ってお前、泣いてんのか? マジ誤解されると困んだけど、俺《おれ》は別にな……」
「おい」
と、警官は声をかける。
「あァ?」
大男が不機嫌《ふきげん》そうな声とともに振り向く。黄色いレンズのサングラスをかけたその顔には見覚えがあった。イヤと言うほど見たと言っていい。四、五年ほど前、深夜の巡回の最中に何度も出くわした顔だった——名前はなんといっただろう。
あの当時この男は、せいぜい高校に上がったばかりだったが、彼よりも手を焼かせた不良は他《ほか》にいない。ケンカが強く逃げ足が速く口が悪かった。そのくせ妙に人懐《ひとなつ》っこいところもあり、なれなれしく話しかけることもあった。敬語の使い方を全く知らないらしく、何度名前を教えても彼を「オッサン」としか呼ばなかった。
「なんだ、オッサンかよ。久しぶり!」
彼は中学生の肩に回していた手をほどいて、笑いながらぴしっと手を挙げた。こぼれる笑顔を見ながら、警官《けいかん》は内心ため息をついた。その瞬間《しゅんかん》、男のかげでがたがた震《ふる》えていた中学生が、弾《はじ》かれたように走り去っていった。
「あー、おい。待てコラ! ……逃げられた。いいとこだったのによ」
男は悔しそうに舌打ちする。
「……お前」
警官はどうにか怒りを呑《の》みこんだ。恐喝《きょうかつ》の現場を押さえられたというのに、このふてぶてしさは一体なんなのか。
「何やってるんだ?」
「フィールドワーク」
ガムを噛《か》みながら男は答えた。警官は内心首をかしげた。「フィールドワーク」という単語の意味が分からなかったのだ。英語で恐喝をそう呼ぶのか、と思った瞬間、
「ま、ちょっとしたアンケートっスかね」
警官は無言で雄一《ゆういち》を頭からつま先まで見下ろした。どう優《やさ》しく見ても昔のチンピラで、小脇《こわき》に抱えているバインダーとボールペンだけが違和感を漂《ただよ》わせている。知らない中学生にアンケートをする元不良。どう考えてもまともな組み合わせではない。
「お前、今何やってるんだ? ちゃんと働いてるのか?」
「働いてるっつうかまあ……あ、これ」
彼はポケットの一つから一枚のカードを差し出した。警官は思わず身構えた。自衛隊《じえいたい》の身分証、大型一種の運転免許証、サラ金のカード……等々を想像したが、差し出されたものは彼の予想を完全に裏切るものだった。
「東桜《とうおう》大学社会学部二年・藤牧《ふじまき》雄一」
「……がくせいしょう」
有り得ないものを見る思いで、警官は口の中で呟《つぶや》いた。偽物《にせもの》でない証拠《しようこ》に、学生証にはこの男の写真もある。東桜大学といえば、誰《だれ》でも名前を知っている都心の私立大学だった。まず名門と言っていいだろう。
「お前、大学に行ってるのか?」
「そう書いてあんじゃないスか。高校だってちゃんと行ってましたよ」
そういえば、この藤牧《ふじまき》雄一《ゆういち》が最後に警察《けいさつ》へ連れてこられたのはもう何年も前で、以後はこのあたりで深夜にうろうろしているところも見たことはない。てっきり学校を退学にでもなって、家を飛び出しでもしたのだろうと思っていた。
「ここから大学に通ってるのか?」
「いや、一人暮らしですよ。ちょこっとだけ帰ってきたんスよ。この辺《あた》りのガキどもの話聞いて、レポート書くんで。今のヤツにも色々聞いてたんだけど、なんか勘違《かんちが》いしたみたいっスね。まったく、誰《だれ》がこの年でカツアゲなんかするかっつの」
年齢《ねんれい》の問題ではない気はしたが、考えてみればさっきの中学生にも、必死で恐喝《きょうかつ》ではないと説得していたように思える。警官は無言で雄一の抱えていたバインダーに手を伸ばした。雄一は大人《おとな》しくそれを渡す。アンケート用紙らしきものが何枚が挟まっている。
有り得ないものを見る思いで、警官は口の中で呟《つぶや》いた。偽物《にせもの》でない証拠《しようこ》に、学生証にはこの男の写真もある。東桜大学といえば、誰《だれ》でも名前を知っている都心の私立大学だった。まず名門と言っていいだろう。
「お前、大学に行ってるのか?」
「そう書いてあんじゃないスか。高校だってちゃんと行ってましたよ」
そういえば、この藤牧《ふじまき》雄一《ゆういち》が最後に警察《けいさつ》へ連れてこられたのはもう何年も前で、以後はこのあたりで深夜にうろうろしているところも見たことはない。てっきり学校を退学にでもなって、家を飛び出しでもしたのだろうと思っていた。
「ここから大学に通ってるのか?」
「いや、一人暮らしですよ。ちょこっとだけ帰ってきたんスよ。この辺《あた》りのガキどもの話聞いて、レポート書くんで。今のヤツにも色々聞いてたんだけど、なんか勘違《かんちが》いしたみたいっスね。まったく、誰《だれ》がこの年でカツアゲなんかするかっつの」
年齢《ねんれい》の問題ではない気はしたが、考えてみればさっきの中学生にも、必死で恐喝《きょうかつ》ではないと説得していたように思える。警官は無言で雄一の抱えていたバインダーに手を伸ばした。雄一は大人《おとな》しくそれを渡す。アンケート用紙らしきものが何枚が挟まっている。
「加賀見《かがみ》市東区における都市伝説について丸橋《まるはし》ゼミ」
用紙には質問の答えのほかに、場所や対象や日時を書きこむ欄《らん》があり、思いのほか丁寧《ていねい》な細かい字でびっしりと書きこみがある。
「安心しました?」
と、雄一が言った。
「お前、真面目《まじめ》にやってるんだな」
「当たり前じゃないスか。俺《オレ》ァゆくゆくは研究者になるんスよ」
警官は軽い眩暈《めまい》に襲《おそ》われた——四年前、バイクの窃盗《せつとう》の現行犯で逮捕《たいほ》した時、お前も少しは将来のことを真面目に考えたらどうだ、と説教した時のことが蘇《よみがえ》った。あの時、雄一は十五、六だったが、確かあの時帰ってきた答えは「死ね」だったように思う。
警官は雄一の顔を見つめる。服のセンスはともかく、堅実にやっているようだ。先入観だけで判断しようとしたことを少し反省していた。
「まあ、疑われてもしょうがないっスけどね。その用紙に大学の電話番号も書いてあっから、もし心配だったらそこにかければ……」
「いや、いい。まあ、頑張《がんば》れよ」
彼は立ち去ろうとして、ふと足を止める。
「俺《おれ》は『オッサン』じゃない。『菊地《きくち》』っていうんだ。真面目にやってるんだったら、年上の人間の名前ぐらい憶《おぼ》えろ、藤牧」
雄一はにやっと笑った。
「すいません。菊地さん。ご苦労様です」
警官は帽子をかぶり直して、自転車にまたがった。
「とりあえずその服どうにかしろ。じゃないとまた逃げられるぞ。このへんも最近|物騒《ぶっそう》だからな」
「服? なにが?」
雄一《ゆういち》は不思議《ふしぎ》そうな顔をする。分かってねえな、と思いながら警官《けいかん》はその場を走り去っていった。
「安心しました?」
と、雄一が言った。
「お前、真面目《まじめ》にやってるんだな」
「当たり前じゃないスか。俺《オレ》ァゆくゆくは研究者になるんスよ」
警官は軽い眩暈《めまい》に襲《おそ》われた——四年前、バイクの窃盗《せつとう》の現行犯で逮捕《たいほ》した時、お前も少しは将来のことを真面目に考えたらどうだ、と説教した時のことが蘇《よみがえ》った。あの時、雄一は十五、六だったが、確かあの時帰ってきた答えは「死ね」だったように思う。
警官は雄一の顔を見つめる。服のセンスはともかく、堅実にやっているようだ。先入観だけで判断しようとしたことを少し反省していた。
「まあ、疑われてもしょうがないっスけどね。その用紙に大学の電話番号も書いてあっから、もし心配だったらそこにかければ……」
「いや、いい。まあ、頑張《がんば》れよ」
彼は立ち去ろうとして、ふと足を止める。
「俺《おれ》は『オッサン』じゃない。『菊地《きくち》』っていうんだ。真面目にやってるんだったら、年上の人間の名前ぐらい憶《おぼ》えろ、藤牧」
雄一はにやっと笑った。
「すいません。菊地さん。ご苦労様です」
警官は帽子をかぶり直して、自転車にまたがった。
「とりあえずその服どうにかしろ。じゃないとまた逃げられるぞ。このへんも最近|物騒《ぶっそう》だからな」
「服? なにが?」
雄一《ゆういち》は不思議《ふしぎ》そうな顔をする。分かってねえな、と思いながら警官《けいかん》はその場を走り去っていった。
「……服がなんだってんだ?」
雄一は呟《つぶや》きながら自転車を見送った。その間にもスーパーの自動ドアが開いて、次々と客が出てくる。誰《だれ》もが雄一を避《さ》けるように足早に通り過ぎていく。正直《しようじき》なところ彼はあまりファッションに興味《きょうみ》がない。習慣《しゅうかん》で同じものを着ているだけなのだが、センスがまったく欠落しているのだった。
その時、スーパーの袋をぶら下げた、制服姿の少女が店内から現れた。学校帰りに買い物を終えたところらしい。それに気づいた雄一の顔に、みるみる笑みが広がった。
「葉《よう》!」
彼女——雛咲《ひなさき》葉はびくっと足を止めて振り返る。相手が雄一だと気づくと、少しほっとしたように軽く頭を下げた。
「なんだ、今帰りかよ」
葉が住んでいるのは、裕生《ひろお》たちと同じ棟《とう》だった。雄一にとっては弟の裕生と同じく、自分が昔から面倒《めんどう》を見てきた妹のようなものだった。
「久しぶり……でもねえな。でっかくなって……もねえな。ハハハハ」
最後に会ったのは大学の春休みで、まだ何ヶ月も経っていない。雄一はぐりぐりと彼女の頭を撫《な》でたが、葉は嫌《いや》がる様子《ようす》を見せない。少しくすぐったそうに微笑《ほほえ》んでいる。
「相変わらず一人暮らししてんのか」
彼女はこっくり頷《うなず》いた。数年前、葉の両親は失踪《しっそう》してしまった。それ以来、親戚《しんせき》の援助を受けながら一人きりで生活している。雄一はさりげなくスーパーの袋を覗《のぞ》きこむ。まんべんなく目についた野菜を買っているようで、何を作るのか決めているわけではないらしい。雄一の憶《おぼ》えている範囲《はんい》では、葉はあまり料理が得意ではなかった。
「ちゃんとメシ食ってるか? 腹減ったら、いつでもうちに来ていいんだぞ。俺《おれ》は普段《ふだん》は家にいないけど、裕生は料理得意だからな。あいつのメシはまあまあだろ?」
「ありがとう」
少しはにかみながら葉は礼を言った。
「いいんだよ礼なんか! 作んのは裕生だしな!」
雄一は高笑いする。
「そういや、俺の可愛《かわい》い弟はどうした? 一緒《いっしょ》に帰ってこなかったのか?」
「まだ、学校にいると思う」
雄一《ゆういち》は昔から葉《よう》を可愛《かわい》がっていた。無口だが裏表のない真面目《まじめ》な性格だった。雄一の外見にも怯《おび》えずに普通の受け答えをする、というだけでも貴重な存在だった。
「ところで葉、パッと見で俺《おれ》どうよ? 大学生に見えるよな?」
葉はしばらく困った顔をしていたが、やがて目を逸《そ》らしてすまなそうに呟《つぶや》いた。
「……ヤクザみたい」
「な、なに言ってんだお前。いいか、人間ってのは見た目で判断しちゃいけねんだぞ? 本当に大事なもんは目に見えねんだって昔のエライ人も……」
雄一はふと足元に視線を落とす。昼下がりの太陽がアスファルトの上にくっきりと二人の影《かげ》を落としている。その影を眺めているうちに、雄一は意味もなく胸が騒《さわ》ぐのを感じた。彼はまじまじと葉の顔を覗《のぞ》きこむ。
「お前、なんかあったか?」
自分の弟も同じ質問をしたことを雄一は知らない。しかし、裕生《ひろお》に聞かれた時のように彼女は迷わなかった。
「なんのこと?」
「なにって……まあ」
雄一は言葉を捜したが、先が続かなかった。彼は素早《すばや》く頭を切り替える。
<img src="img/shadow taker_047.jpg">
「まあいいか。いつでも相談《そうだん》乗るからってことよ。なんかあったらいつでもこの藤牧《ふじまき》雄一《ゆういち》様が飛んでくっからよ。そんだけは忘れんな」
「……うん」
「お、そうだ。俺《おれ》、今フィールドワークの最中なんだけどよ、ちょっと協力してくんねえか? 俺、それでレポート一本書かなきゃならねえんだよ」
「フィールドワーク?」
「まあ、ちょっとしたアンケートだ。すぐ済むからな」
葉《よう》は頷《うなず》いた。雄一はボールペンのノックボタンを押す。
「『カゲヌシ』の噂《うわさ》、お前知ってっか?」
葉の顔色がかすかに変わった。
雄一は呟《つぶや》きながら自転車を見送った。その間にもスーパーの自動ドアが開いて、次々と客が出てくる。誰《だれ》もが雄一を避《さ》けるように足早に通り過ぎていく。正直《しようじき》なところ彼はあまりファッションに興味《きょうみ》がない。習慣《しゅうかん》で同じものを着ているだけなのだが、センスがまったく欠落しているのだった。
その時、スーパーの袋をぶら下げた、制服姿の少女が店内から現れた。学校帰りに買い物を終えたところらしい。それに気づいた雄一の顔に、みるみる笑みが広がった。
「葉《よう》!」
彼女——雛咲《ひなさき》葉はびくっと足を止めて振り返る。相手が雄一だと気づくと、少しほっとしたように軽く頭を下げた。
「なんだ、今帰りかよ」
葉が住んでいるのは、裕生《ひろお》たちと同じ棟《とう》だった。雄一にとっては弟の裕生と同じく、自分が昔から面倒《めんどう》を見てきた妹のようなものだった。
「久しぶり……でもねえな。でっかくなって……もねえな。ハハハハ」
最後に会ったのは大学の春休みで、まだ何ヶ月も経っていない。雄一はぐりぐりと彼女の頭を撫《な》でたが、葉は嫌《いや》がる様子《ようす》を見せない。少しくすぐったそうに微笑《ほほえ》んでいる。
「相変わらず一人暮らししてんのか」
彼女はこっくり頷《うなず》いた。数年前、葉の両親は失踪《しっそう》してしまった。それ以来、親戚《しんせき》の援助を受けながら一人きりで生活している。雄一はさりげなくスーパーの袋を覗《のぞ》きこむ。まんべんなく目についた野菜を買っているようで、何を作るのか決めているわけではないらしい。雄一の憶《おぼ》えている範囲《はんい》では、葉はあまり料理が得意ではなかった。
「ちゃんとメシ食ってるか? 腹減ったら、いつでもうちに来ていいんだぞ。俺《おれ》は普段《ふだん》は家にいないけど、裕生は料理得意だからな。あいつのメシはまあまあだろ?」
「ありがとう」
少しはにかみながら葉は礼を言った。
「いいんだよ礼なんか! 作んのは裕生だしな!」
雄一は高笑いする。
「そういや、俺の可愛《かわい》い弟はどうした? 一緒《いっしょ》に帰ってこなかったのか?」
「まだ、学校にいると思う」
雄一《ゆういち》は昔から葉《よう》を可愛《かわい》がっていた。無口だが裏表のない真面目《まじめ》な性格だった。雄一の外見にも怯《おび》えずに普通の受け答えをする、というだけでも貴重な存在だった。
「ところで葉、パッと見で俺《おれ》どうよ? 大学生に見えるよな?」
葉はしばらく困った顔をしていたが、やがて目を逸《そ》らしてすまなそうに呟《つぶや》いた。
「……ヤクザみたい」
「な、なに言ってんだお前。いいか、人間ってのは見た目で判断しちゃいけねんだぞ? 本当に大事なもんは目に見えねんだって昔のエライ人も……」
雄一はふと足元に視線を落とす。昼下がりの太陽がアスファルトの上にくっきりと二人の影《かげ》を落としている。その影を眺めているうちに、雄一は意味もなく胸が騒《さわ》ぐのを感じた。彼はまじまじと葉の顔を覗《のぞ》きこむ。
「お前、なんかあったか?」
自分の弟も同じ質問をしたことを雄一は知らない。しかし、裕生《ひろお》に聞かれた時のように彼女は迷わなかった。
「なんのこと?」
「なにって……まあ」
雄一は言葉を捜したが、先が続かなかった。彼は素早《すばや》く頭を切り替える。
<img src="img/shadow taker_047.jpg">
「まあいいか。いつでも相談《そうだん》乗るからってことよ。なんかあったらいつでもこの藤牧《ふじまき》雄一《ゆういち》様が飛んでくっからよ。そんだけは忘れんな」
「……うん」
「お、そうだ。俺《おれ》、今フィールドワークの最中なんだけどよ、ちょっと協力してくんねえか? 俺、それでレポート一本書かなきゃならねえんだよ」
「フィールドワーク?」
「まあ、ちょっとしたアンケートだ。すぐ済むからな」
葉《よう》は頷《うなず》いた。雄一はボールペンのノックボタンを押す。
「『カゲヌシ』の噂《うわさ》、お前知ってっか?」
葉の顔色がかすかに変わった。