藤牧《ふじまき》家は加賀見《かがみ》団地の一番外れの棟《とう》の最上階にある。
「『カゲヌシ』?」
ジャガイモの皮をむいていた包丁《ほうちょう》を止めて、裕生《ひろお》は兄の顔を見た。テーブルの上にはもう切り終えたニンジンと玉ねぎと鶏肉《とりにく》が載《の》っている。今日のメニューはカレーだった。まだ太陽は沈みきっていないが、少し早く夕食の準備を始めていた。
「……ってなんだっけ」
子供の頃《ころ》聞いた言葉のような気はするが、意味までは思い出せなかった。キッチンのテーブルの前で雄一《ゆういち》はタバコに火を点《つ》けようとしていたが、弟の答えを聞いて顔をしかめる。
「おいおいおいおいおい裕生君よ」
と、雄一は言った。
「お前ホントに加賀見で育ったガキか? まあ、最近じゃこのへんでもあんまり使わないみたいだけど、お前ぐらいの年だったらまだ知ってるはずだぞ。このへんのガキは『影踏《かげふ》み』をそう呼ぶだろ。思い出したか?」
「あ」
裕生は言った。そういえばそうだった——子供の頃、このへんの団地でもしたことがある。鬼《おに》が逃げた子供の影を踏む遊びだ。
「方言だな。関東のほかの地域だと『かげおに』って呼ぶ土地もあんだけど」
「ふーん。方言のアンケートなんか取ってどうするの?」
「いやそうじゃなくて」
雄一は真剣な表情になって、改めてタバコに火を点ける。
「俺《おれ》が調べてんのは、『カゲヌシ』の都市伝説の方」
「都市伝説って?」
「要するに噂《うわさ》話よ。最近になって、このへんのガキどもの間で『カゲヌシ』の変な噂が広まってんだ。知ってるか?」
裕生《ひろお》は首を横に振った。
「まあ、お前はそういうの疎《うと》そうだからな。クラスの噂とかも最後に聞くタイプだろ? 結構ポピュラーだぞ。葉《よう》だって知ってたからな」
「雛咲《ひなさき》が?」
ちょっとした驚《おどろ》きだった。案外、人に構われるタイプだし、クラスでも全く孤立しているわけではないと聞いているが、友達らしい友達はほとんどいないはずだ。噂話に敏感だとも思えない。
だとすると、自分はよほど噂話に疎いのかもしれない、と裕生は思った。
「それってどういう内容?」
「それがな、『カゲヌシ』ってのはガキの遊びじゃなくて、ほんとはバケモンの名前だっていうんだ。影《かげ》を踏まれると鬼になるだろ? 人間のところに、なんだか分かんねえバケモンが来る。それが『カゲヌシ』って名前で、そいつに影を踏まれると、その人間は動けなくなる。で、そのバケモンに食われて死ぬ……微妙なバージョンの違いはあんだけど、このへんで広まってる基本的なパターンはそんな感じだな」
「……へえ」
裕生は鍋《なべ》を火にかけて、サラダ油を落とした。
「食われる奴《やつ》ってのは話によって微妙に違うけど、まあ『いつも一人でいる奴』とか、『心に隙《すき》がある奴』とか、そんな感じだな。『誰《だれ》からも名前を呼ばれない奴』ってのもあったかな」
裕生は薄切《うすぎ》りにした玉ねぎを鍋に入れて、慣《な》れた手つきで妙《いた》め始めた。藤牧《ふじまき》家には母親がいない。五年前に病死してしまった。それからはずっと男ばかり三人で暮らしてきた。中学生になってからは、裕生がほとんどの家事をこなしている。
「で、なにが原因でこの噂が流行《はや》ってんのか、調べるのが俺《おれ》の目的ってワケよ」
「本当かどうか調べるってこと?」
雄一《ゆういち》はぷっと吹き出した。口から飛んだタバコを慌てて空中で受け止める。そして、げらげら笑い始めた。
「そんんんんんんんんなワケねえだろオ? いるワケねえじゃねえかそんなもん」
「じゃあ何を調べるんだよ」
むっとした顔で裕生が言うと、雄一は少し笑顔を引っこめて話し始めた。
「俺が調べるって言ってんのは、噂が生まれる背景だよ。こういうありえねえ噂が広がるのはな、心理的な要因があったりすんだよ。よく言われてんのがその社会が抱えてるストレスの解消だな。ストレスの原因が複合的だったり、漠然《ばくぜん》としててはっきり口に出せない状況。これが噂《うわさ》の温床《おんしょう》になる。分かるか?」
裕生《ひろお》は忙しく鍋《なべ》を振りながら、雄一《ゆういち》に背を向けながら首をかしげる。兄が大学で真面目《まじめ》に勉強しているのは本当らしいと思った——急に難しい単語が増えた。
「例えばウチの真下は今|空家《あきや》だけどよ、そこに無口なオッサンが引っ越してきたとするだろ。何考えてるか分かんねえ、お前が挨拶《あいさつ》してもロクに返事しねえ。ゴミ捨て場の前で会うと、収集日でもないのに生ゴミの袋を捨ててる。それも中身が見えないような袋に入れてだ。お前はちょっとイヤになる。これがストレスだ」
「……はあ」
「そうすっとお前は友達のあのデブ気味の……なんつったっけ、タヌキ?」
「佐貫《さぬき》」
「佐貫とかにべらべら喋《しゃべ》るわけだ。そうすると佐貫が言う。『ひょっとして、誰《だれ》かブッ殺したんじゃねえのか? ゴミ袋に生首《なまくび》が詰まってたらどうするよヒロオ?』」
「兄さんじゃないんだから、いきなりそんなこと考えないよ」
「例えばの話だよ。そういえばここらで子供が変質者に追いまわされる事件が起こってる。ひょっとしたら、って話になる。まあ、お前らの間じゃそれで終わりだけど、佐貫が誰かに話す、その誰かも誰かに話す……ってプロセスを繰り返すうちに、いつのまにか『ひょっとしたら』が取れる。『団地で遊んでる子供がいなくなる。一人暮らしのオッサンが部屋に連れこんで殺してる。死体が出てこねえのはそいつが死体を食ってるからだ』……ってな噂になる。ワケ分かんねえ住人なんかどこの棟《とう》にも一人や二人いんだろ? そういう不安を苗床《なえどこ》にして噂ってのはワッと広がるワケよ。まあ、こりゃ一つの例だけど、噂ってのは風邪《かぜ》みてえなもんだな。流行があって、それにも原因があんだよ」
炒《いた》めた玉ねぎのいい匂《にお》いがキッチンに漂《ただよ》っている。裕生はさらに鶏肉《とりにく》を鍋に加えた。ふと、裕生は昼間佐貫から貰《もら》った「法泉《ほうせん》バーガー」の噂のことを思い出した。「ミミズや猫《ねこ》や犬《いぬ》の肉が使われている」という噂も、似たようなものではないだろうか。
「今の話じゃねえけど、加賀見《かがみ》は最近行方《ゆくえ》不明者が多いらしくてよ。この団地も昔に比べると建物が古くなって、住んでる奴《やつ》も減ってきただろ。一人とか二人で住んでる奴も結構いると思うんだ。『カゲヌシ』の噂が広がってんのは、そういうこともあんじゃねえのかな」
一人とか二人で住んでいる、という話に、裕生はふと葉《よう》のことを思い出した。兄も同じだったらしく、次に言ったのは彼女のことだった。
「最近、葉はここに来てんのか? 前はたまーに晩メシ食いに来てたろ」
「高校入ってからは来ないよ。ぼくもなんか避《さ》けられてるみたいだし」
同じ部に所属しているのに変な話だが、葉は前よりもかえって距離を置くようになった気がする。特にこの一週間はほとんど姿を見ていない。
「あのな、裕生。親父《おやじ》に言おうと思ってんだけど」
妙に改まった声で雄一《ゆういち》は言った。
「うちに葉《よう》を住まわせた方がよくねえか」
「へ?」
裕生《ひろお》はもう少しで手にもっていた木ベラを落とすところだった。思わず振り返って兄の顔を見る——冗談《じょうだん》ではないらしい。
「いや、さっき葉から『カゲヌシ』の噂《うわさ》聞いたって言っただろ? はっきり口に出さねえけど、どうも信じてるっぽいんだよな。結構ビビってんじゃねえかな。あいつ、しっかりしてっけどまだ十五だろ? 一人で心細いんじゃねえかと思うんだよ。うちと同じ間取りの部屋に一人で住んでんだぜ?」
「で、でも……」
裕生は口ごもった。とんでもない提案だった。どう言ったらいいのか分からないが、とにかくそれはまずい、という気がする。
「……焦《こ》げるぞ」
雄一が言う。慌てて裕生はまた鍋《なべ》の中身をかき回した。
「俺《おれ》が使ってた四畳半が空《あ》いてるだろ。あそこを葉の部屋にしてだな」
「ちょ、ちょっと待ってよ。雛咲《ひなさき》、親戚《しんせき》が引き取るって話も断ったんだよ?」
「親戚んちってのは新宿の方だろ? だからだよ。親が帰ってきた時のために、ここで待ってるって言い張ったんだぞあいつ」
「え……そうだったの?」
それは初耳だった。兄よりも一緒《いっしょ》にいる時間は長いはずなのに、深い事情を全然知らない。
なんとなく恥ずかしくなってきた。
「うちだったら、同じ建物だしあいつもいいって言うかもしんねえだろ。もちろん、今いる部屋はそのまんまにしといてだな、葉だけはここに住むって感じでどうよ。ここだったら、もし親が帰ってきてもすぐ分かんじゃねえか?」
裕生はさらにニンジンとジャガイモを加えて、重くなった木ベラで鍋をかき回す。最初は驚《おどろ》いたが、よくよく話を聞くと兄の言う提案は決して悪くない。ただ理屈ではなく、やっぱりそれはまずいよ、という気もどこかでする。不快ではないのだが、安易に喜んではいけないという気持ち。しかし、裕生はとりあえずそのもやもやを振り払った。いずれにせよ、あの葉がうんと言うはずがない。
「うん……まあ、もし父さんと葉がいいって言うんだったら……」
「そっか。じゃあ、親父《おやじ》には俺が話す。葉にはお前が話せ」
「ぼく?」
冗談じゃないと裕生は思った。コンロの火を止めて兄の方を振り返る。
「なんで兄さんとか父さんが言わないんだよ」
「本当にお前はバッッッ……」
雄一《ゆういち》はタバコの火をぐりぐりともみ消しながら大声を上げる。
「……ッッカだなまったく。あいつが一番なついてんのお前だろ」
「はあ?」
葉《よう》との会話が裕生《ひろお》の脳裏を次々とよぎった。長い付き合いだから慣《な》れているが、他人から見ればまともに会話が成立しているようには見えないはずだ。一体どこがどう「一番なついている」と言うのだろう。
「『はあ』とか言うな。お前の説得が一番可能性があんだぞ? 昔っから葉になんかさせようって時は、裕生の名前出すのが一番効果あったんだからな。あいつが茶道《さどう》部入ったのだって、お前が困ってるって俺《おれ》が言ったからだし。あいつマジメだから、部会も絶対サボんねえだろ」
「なんだよそれ。兄さんが言ったのか! なんか変だと思ってたんだ」
「俺が作った茶道部がつぶれそうだし、お前も入部したって聞いたから協力してやったんじゃねえか。ちっとは俺に感謝《かんしゃ》しろキサマ」
「気まぐれでヘンな部活作ったのは兄さんだろ!」
その時、雄一が虚《きょ》を突かれたように表情を変えた。
「……別に気まぐれじゃねえよ。俺なりの理由があったんだよ。あん時は」
「理由ってなに」
兄は答えずに、黙《だま》って次のタバコに火を点《つ》けた。
藤牧《ふじまき》雄一が茶道部を作った理由は、未《いま》だに謎《なぞ》とされている。
高校に入ってすぐあたりまで、雄一はかなり荒れていた。「加賀見《かがみ》最強の漢《おとこ》」という、常識《じょうしき》的にはバカ丸出しの称号を得ていたが、ある時期からきちんと学校に通い始めた。裕生は入院している最中で、どういう心境の変化があったのかはよく分からない。口の悪さと気の強さは相変わらずだったが、それ以来無遅刻無欠席、成績優秀《せいせきゆうしゅう》で誰《だれ》からも信頼《しんらい》される、文句のつけようのない生徒となった。
そこへ柔道部の顧問《こもん》からスカウトが来た。体育の授業で雄一の卓越《たくえつ》した運動能力、というか、戦闘《せんとう》能力に目をつけたらしい。是非《ぜひ》入部しろ、と誘ったところ、茶道部に入ります、という答えが返ってきて、誰もが唖然《あぜん》とした。茶道部ってガラじゃないだろうお前、とはさすがに言わなかった——それ以前に茶道部が加賀見高校にはなかったのだ。それを指摘《してき》すると、じゃあ作ります、と雄一は真顔で言い切ったという。
何かの冗談《じょうだん》だと周囲が思っているうちに、きちんと規定数の部員を集め顧問の教師を見つけ、さらに空《あ》き教室を部室として確保した。しかし問題は部室に畳がないことだった。校内で唯一《ゆいいつ》畳があるのは柔道場で、そこを所有している柔道部の顧問に「古い畳を分けてほしい」と雄一は頼《たの》みに行ったのだった。
もちろん顧問は首を縦《たて》に振らない。そこで、雄一が出した提案というのが、
「レギュラーと柔道で勝負。負けたら自分が入部する。勝ったら畳をよこせ」
と、いうものだった。冗談《じょうだん》好きの顧問《こもん》はついそれを受けた——当時のレギュラーにはインターハイの出場|経験《けいけん》のある猛者《もさ》も混じっていた。五人抜きならいいそ、と姑息《こそく》な条件を出し、雄一《ゆういち》はそれを呑《の》んだ。そして柔道場で凄《すさ》まじい死闘《しとう》が繰《く》り広げられ、結局勝ったのは雄一だった。
「茶道《さどう》部を作るために柔道部のレギュラーを投げ飛ばした男」という意味不明の伝説は語り継《つ》がれ、加賀《かが》高生であれば未《いま》だに知らぬ者がいない。裕生《ひろお》が入学した年には既に雄一は卒業していたが、「藤牧《ふじまき》雄一の弟」ということで真っ先に連れていかれたのが茶道部の部室だった。
そして今に至る。
「……ま、まあ、茶道部の話はいいとしてだ。話が逸《そ》れたじゃねえか」
雄一は強引《ごういん》に話を元に戻した。
「とにかく、親父《おやじ》がいいって言ったらお前が葉《よう》に話すんだぞ? 発案は俺《おれ》、責任は親父、説得はお前だ」
「なんだよそれ! ぼくが一番大変じゃ……」
その時、消防車らしいサイレンが近づいてきた。間違いなく加賀見《かがみ》団地へ向かってきている。話に夢中になって気がつかなかったが、そういえばさっきから少し外が騒《さわ》がしいようだった。
「お、裕生。消防車だぞ消防車。火事があったんじゃねえかこの近くで」
雄一はそそくさと立ち上がると、ベランダの方へ行ってしまった。裕生はまだ言い足りなかったが、兄の後を追った。もし本当に加賀見団地で火事が起こったとしたら、兄弟ゲンカをしている場合ではない。
ベランダへ出ると、途端《とたん》にサイレンの音がはっきりと聞こえた。
「すげえ煙《けむり》だな。誰《だれ》んちだろうなアレ」
手すりをつかんで、雄一が大声を発する。他《ほか》の棟《とう》が邪魔《じゃま》になって見えないが、黒い煙が夕暮れの空を覆《おお》うように立ち上っている。
「ちょっと見てくっか。万が一ってこともあんだろうし」
雄一は部屋に戻る。裕生《ひろお》もベランダを離れる前に、建物の前の道路をちらっと見下ろして、ふと動きを止めた。
他の棟の入り口からも次々と人々が出てきていた。皆、火事の現場に向かっているが、一人だけ流れに逆らって、別の方角へ足早に歩いていく人影《ひとかげ》があった。
「……雛咲《ひなさき》?」
裕生は呟《つぶや》いた。制服のままの彼女は、自分の住んでいる棟とも違う方へ歩いていく。彼女は顔も上げようとしない。誰もが火事に気を取られている中で、彼女の姿は異様なものに映った。
「お前はどうすんだ?」
背中から声をかけられて、裕生は我に返った。
「あ、うん。今行く」
角を曲がった葉《よう》の姿はもう見えなくなっている。裕生《ひろお》は首をかしげながら部屋に戻った。
「『カゲヌシ』?」
ジャガイモの皮をむいていた包丁《ほうちょう》を止めて、裕生《ひろお》は兄の顔を見た。テーブルの上にはもう切り終えたニンジンと玉ねぎと鶏肉《とりにく》が載《の》っている。今日のメニューはカレーだった。まだ太陽は沈みきっていないが、少し早く夕食の準備を始めていた。
「……ってなんだっけ」
子供の頃《ころ》聞いた言葉のような気はするが、意味までは思い出せなかった。キッチンのテーブルの前で雄一《ゆういち》はタバコに火を点《つ》けようとしていたが、弟の答えを聞いて顔をしかめる。
「おいおいおいおいおい裕生君よ」
と、雄一は言った。
「お前ホントに加賀見で育ったガキか? まあ、最近じゃこのへんでもあんまり使わないみたいだけど、お前ぐらいの年だったらまだ知ってるはずだぞ。このへんのガキは『影踏《かげふ》み』をそう呼ぶだろ。思い出したか?」
「あ」
裕生は言った。そういえばそうだった——子供の頃、このへんの団地でもしたことがある。鬼《おに》が逃げた子供の影を踏む遊びだ。
「方言だな。関東のほかの地域だと『かげおに』って呼ぶ土地もあんだけど」
「ふーん。方言のアンケートなんか取ってどうするの?」
「いやそうじゃなくて」
雄一は真剣な表情になって、改めてタバコに火を点ける。
「俺《おれ》が調べてんのは、『カゲヌシ』の都市伝説の方」
「都市伝説って?」
「要するに噂《うわさ》話よ。最近になって、このへんのガキどもの間で『カゲヌシ』の変な噂が広まってんだ。知ってるか?」
裕生《ひろお》は首を横に振った。
「まあ、お前はそういうの疎《うと》そうだからな。クラスの噂とかも最後に聞くタイプだろ? 結構ポピュラーだぞ。葉《よう》だって知ってたからな」
「雛咲《ひなさき》が?」
ちょっとした驚《おどろ》きだった。案外、人に構われるタイプだし、クラスでも全く孤立しているわけではないと聞いているが、友達らしい友達はほとんどいないはずだ。噂話に敏感だとも思えない。
だとすると、自分はよほど噂話に疎いのかもしれない、と裕生は思った。
「それってどういう内容?」
「それがな、『カゲヌシ』ってのはガキの遊びじゃなくて、ほんとはバケモンの名前だっていうんだ。影《かげ》を踏まれると鬼になるだろ? 人間のところに、なんだか分かんねえバケモンが来る。それが『カゲヌシ』って名前で、そいつに影を踏まれると、その人間は動けなくなる。で、そのバケモンに食われて死ぬ……微妙なバージョンの違いはあんだけど、このへんで広まってる基本的なパターンはそんな感じだな」
「……へえ」
裕生は鍋《なべ》を火にかけて、サラダ油を落とした。
「食われる奴《やつ》ってのは話によって微妙に違うけど、まあ『いつも一人でいる奴』とか、『心に隙《すき》がある奴』とか、そんな感じだな。『誰《だれ》からも名前を呼ばれない奴』ってのもあったかな」
裕生は薄切《うすぎ》りにした玉ねぎを鍋に入れて、慣《な》れた手つきで妙《いた》め始めた。藤牧《ふじまき》家には母親がいない。五年前に病死してしまった。それからはずっと男ばかり三人で暮らしてきた。中学生になってからは、裕生がほとんどの家事をこなしている。
「で、なにが原因でこの噂が流行《はや》ってんのか、調べるのが俺《おれ》の目的ってワケよ」
「本当かどうか調べるってこと?」
雄一《ゆういち》はぷっと吹き出した。口から飛んだタバコを慌てて空中で受け止める。そして、げらげら笑い始めた。
「そんんんんんんんんなワケねえだろオ? いるワケねえじゃねえかそんなもん」
「じゃあ何を調べるんだよ」
むっとした顔で裕生が言うと、雄一は少し笑顔を引っこめて話し始めた。
「俺が調べるって言ってんのは、噂が生まれる背景だよ。こういうありえねえ噂が広がるのはな、心理的な要因があったりすんだよ。よく言われてんのがその社会が抱えてるストレスの解消だな。ストレスの原因が複合的だったり、漠然《ばくぜん》としててはっきり口に出せない状況。これが噂《うわさ》の温床《おんしょう》になる。分かるか?」
裕生《ひろお》は忙しく鍋《なべ》を振りながら、雄一《ゆういち》に背を向けながら首をかしげる。兄が大学で真面目《まじめ》に勉強しているのは本当らしいと思った——急に難しい単語が増えた。
「例えばウチの真下は今|空家《あきや》だけどよ、そこに無口なオッサンが引っ越してきたとするだろ。何考えてるか分かんねえ、お前が挨拶《あいさつ》してもロクに返事しねえ。ゴミ捨て場の前で会うと、収集日でもないのに生ゴミの袋を捨ててる。それも中身が見えないような袋に入れてだ。お前はちょっとイヤになる。これがストレスだ」
「……はあ」
「そうすっとお前は友達のあのデブ気味の……なんつったっけ、タヌキ?」
「佐貫《さぬき》」
「佐貫とかにべらべら喋《しゃべ》るわけだ。そうすると佐貫が言う。『ひょっとして、誰《だれ》かブッ殺したんじゃねえのか? ゴミ袋に生首《なまくび》が詰まってたらどうするよヒロオ?』」
「兄さんじゃないんだから、いきなりそんなこと考えないよ」
「例えばの話だよ。そういえばここらで子供が変質者に追いまわされる事件が起こってる。ひょっとしたら、って話になる。まあ、お前らの間じゃそれで終わりだけど、佐貫が誰かに話す、その誰かも誰かに話す……ってプロセスを繰り返すうちに、いつのまにか『ひょっとしたら』が取れる。『団地で遊んでる子供がいなくなる。一人暮らしのオッサンが部屋に連れこんで殺してる。死体が出てこねえのはそいつが死体を食ってるからだ』……ってな噂になる。ワケ分かんねえ住人なんかどこの棟《とう》にも一人や二人いんだろ? そういう不安を苗床《なえどこ》にして噂ってのはワッと広がるワケよ。まあ、こりゃ一つの例だけど、噂ってのは風邪《かぜ》みてえなもんだな。流行があって、それにも原因があんだよ」
炒《いた》めた玉ねぎのいい匂《にお》いがキッチンに漂《ただよ》っている。裕生はさらに鶏肉《とりにく》を鍋に加えた。ふと、裕生は昼間佐貫から貰《もら》った「法泉《ほうせん》バーガー」の噂のことを思い出した。「ミミズや猫《ねこ》や犬《いぬ》の肉が使われている」という噂も、似たようなものではないだろうか。
「今の話じゃねえけど、加賀見《かがみ》は最近行方《ゆくえ》不明者が多いらしくてよ。この団地も昔に比べると建物が古くなって、住んでる奴《やつ》も減ってきただろ。一人とか二人で住んでる奴も結構いると思うんだ。『カゲヌシ』の噂が広がってんのは、そういうこともあんじゃねえのかな」
一人とか二人で住んでいる、という話に、裕生はふと葉《よう》のことを思い出した。兄も同じだったらしく、次に言ったのは彼女のことだった。
「最近、葉はここに来てんのか? 前はたまーに晩メシ食いに来てたろ」
「高校入ってからは来ないよ。ぼくもなんか避《さ》けられてるみたいだし」
同じ部に所属しているのに変な話だが、葉は前よりもかえって距離を置くようになった気がする。特にこの一週間はほとんど姿を見ていない。
「あのな、裕生。親父《おやじ》に言おうと思ってんだけど」
妙に改まった声で雄一《ゆういち》は言った。
「うちに葉《よう》を住まわせた方がよくねえか」
「へ?」
裕生《ひろお》はもう少しで手にもっていた木ベラを落とすところだった。思わず振り返って兄の顔を見る——冗談《じょうだん》ではないらしい。
「いや、さっき葉から『カゲヌシ』の噂《うわさ》聞いたって言っただろ? はっきり口に出さねえけど、どうも信じてるっぽいんだよな。結構ビビってんじゃねえかな。あいつ、しっかりしてっけどまだ十五だろ? 一人で心細いんじゃねえかと思うんだよ。うちと同じ間取りの部屋に一人で住んでんだぜ?」
「で、でも……」
裕生は口ごもった。とんでもない提案だった。どう言ったらいいのか分からないが、とにかくそれはまずい、という気がする。
「……焦《こ》げるぞ」
雄一が言う。慌てて裕生はまた鍋《なべ》の中身をかき回した。
「俺《おれ》が使ってた四畳半が空《あ》いてるだろ。あそこを葉の部屋にしてだな」
「ちょ、ちょっと待ってよ。雛咲《ひなさき》、親戚《しんせき》が引き取るって話も断ったんだよ?」
「親戚んちってのは新宿の方だろ? だからだよ。親が帰ってきた時のために、ここで待ってるって言い張ったんだぞあいつ」
「え……そうだったの?」
それは初耳だった。兄よりも一緒《いっしょ》にいる時間は長いはずなのに、深い事情を全然知らない。
なんとなく恥ずかしくなってきた。
「うちだったら、同じ建物だしあいつもいいって言うかもしんねえだろ。もちろん、今いる部屋はそのまんまにしといてだな、葉だけはここに住むって感じでどうよ。ここだったら、もし親が帰ってきてもすぐ分かんじゃねえか?」
裕生はさらにニンジンとジャガイモを加えて、重くなった木ベラで鍋をかき回す。最初は驚《おどろ》いたが、よくよく話を聞くと兄の言う提案は決して悪くない。ただ理屈ではなく、やっぱりそれはまずいよ、という気もどこかでする。不快ではないのだが、安易に喜んではいけないという気持ち。しかし、裕生はとりあえずそのもやもやを振り払った。いずれにせよ、あの葉がうんと言うはずがない。
「うん……まあ、もし父さんと葉がいいって言うんだったら……」
「そっか。じゃあ、親父《おやじ》には俺が話す。葉にはお前が話せ」
「ぼく?」
冗談じゃないと裕生は思った。コンロの火を止めて兄の方を振り返る。
「なんで兄さんとか父さんが言わないんだよ」
「本当にお前はバッッッ……」
雄一《ゆういち》はタバコの火をぐりぐりともみ消しながら大声を上げる。
「……ッッカだなまったく。あいつが一番なついてんのお前だろ」
「はあ?」
葉《よう》との会話が裕生《ひろお》の脳裏を次々とよぎった。長い付き合いだから慣《な》れているが、他人から見ればまともに会話が成立しているようには見えないはずだ。一体どこがどう「一番なついている」と言うのだろう。
「『はあ』とか言うな。お前の説得が一番可能性があんだぞ? 昔っから葉になんかさせようって時は、裕生の名前出すのが一番効果あったんだからな。あいつが茶道《さどう》部入ったのだって、お前が困ってるって俺《おれ》が言ったからだし。あいつマジメだから、部会も絶対サボんねえだろ」
「なんだよそれ。兄さんが言ったのか! なんか変だと思ってたんだ」
「俺が作った茶道部がつぶれそうだし、お前も入部したって聞いたから協力してやったんじゃねえか。ちっとは俺に感謝《かんしゃ》しろキサマ」
「気まぐれでヘンな部活作ったのは兄さんだろ!」
その時、雄一が虚《きょ》を突かれたように表情を変えた。
「……別に気まぐれじゃねえよ。俺なりの理由があったんだよ。あん時は」
「理由ってなに」
兄は答えずに、黙《だま》って次のタバコに火を点《つ》けた。
藤牧《ふじまき》雄一が茶道部を作った理由は、未《いま》だに謎《なぞ》とされている。
高校に入ってすぐあたりまで、雄一はかなり荒れていた。「加賀見《かがみ》最強の漢《おとこ》」という、常識《じょうしき》的にはバカ丸出しの称号を得ていたが、ある時期からきちんと学校に通い始めた。裕生は入院している最中で、どういう心境の変化があったのかはよく分からない。口の悪さと気の強さは相変わらずだったが、それ以来無遅刻無欠席、成績優秀《せいせきゆうしゅう》で誰《だれ》からも信頼《しんらい》される、文句のつけようのない生徒となった。
そこへ柔道部の顧問《こもん》からスカウトが来た。体育の授業で雄一の卓越《たくえつ》した運動能力、というか、戦闘《せんとう》能力に目をつけたらしい。是非《ぜひ》入部しろ、と誘ったところ、茶道部に入ります、という答えが返ってきて、誰もが唖然《あぜん》とした。茶道部ってガラじゃないだろうお前、とはさすがに言わなかった——それ以前に茶道部が加賀見高校にはなかったのだ。それを指摘《してき》すると、じゃあ作ります、と雄一は真顔で言い切ったという。
何かの冗談《じょうだん》だと周囲が思っているうちに、きちんと規定数の部員を集め顧問の教師を見つけ、さらに空《あ》き教室を部室として確保した。しかし問題は部室に畳がないことだった。校内で唯一《ゆいいつ》畳があるのは柔道場で、そこを所有している柔道部の顧問に「古い畳を分けてほしい」と雄一は頼《たの》みに行ったのだった。
もちろん顧問は首を縦《たて》に振らない。そこで、雄一が出した提案というのが、
「レギュラーと柔道で勝負。負けたら自分が入部する。勝ったら畳をよこせ」
と、いうものだった。冗談《じょうだん》好きの顧問《こもん》はついそれを受けた——当時のレギュラーにはインターハイの出場|経験《けいけん》のある猛者《もさ》も混じっていた。五人抜きならいいそ、と姑息《こそく》な条件を出し、雄一《ゆういち》はそれを呑《の》んだ。そして柔道場で凄《すさ》まじい死闘《しとう》が繰《く》り広げられ、結局勝ったのは雄一だった。
「茶道《さどう》部を作るために柔道部のレギュラーを投げ飛ばした男」という意味不明の伝説は語り継《つ》がれ、加賀《かが》高生であれば未《いま》だに知らぬ者がいない。裕生《ひろお》が入学した年には既に雄一は卒業していたが、「藤牧《ふじまき》雄一の弟」ということで真っ先に連れていかれたのが茶道部の部室だった。
そして今に至る。
「……ま、まあ、茶道部の話はいいとしてだ。話が逸《そ》れたじゃねえか」
雄一は強引《ごういん》に話を元に戻した。
「とにかく、親父《おやじ》がいいって言ったらお前が葉《よう》に話すんだぞ? 発案は俺《おれ》、責任は親父、説得はお前だ」
「なんだよそれ! ぼくが一番大変じゃ……」
その時、消防車らしいサイレンが近づいてきた。間違いなく加賀見《かがみ》団地へ向かってきている。話に夢中になって気がつかなかったが、そういえばさっきから少し外が騒《さわ》がしいようだった。
「お、裕生。消防車だぞ消防車。火事があったんじゃねえかこの近くで」
雄一はそそくさと立ち上がると、ベランダの方へ行ってしまった。裕生はまだ言い足りなかったが、兄の後を追った。もし本当に加賀見団地で火事が起こったとしたら、兄弟ゲンカをしている場合ではない。
ベランダへ出ると、途端《とたん》にサイレンの音がはっきりと聞こえた。
「すげえ煙《けむり》だな。誰《だれ》んちだろうなアレ」
手すりをつかんで、雄一が大声を発する。他《ほか》の棟《とう》が邪魔《じゃま》になって見えないが、黒い煙が夕暮れの空を覆《おお》うように立ち上っている。
「ちょっと見てくっか。万が一ってこともあんだろうし」
雄一は部屋に戻る。裕生《ひろお》もベランダを離れる前に、建物の前の道路をちらっと見下ろして、ふと動きを止めた。
他の棟の入り口からも次々と人々が出てきていた。皆、火事の現場に向かっているが、一人だけ流れに逆らって、別の方角へ足早に歩いていく人影《ひとかげ》があった。
「……雛咲《ひなさき》?」
裕生は呟《つぶや》いた。制服のままの彼女は、自分の住んでいる棟とも違う方へ歩いていく。彼女は顔も上げようとしない。誰もが火事に気を取られている中で、彼女の姿は異様なものに映った。
「お前はどうすんだ?」
背中から声をかけられて、裕生は我に返った。
「あ、うん。今行く」
角を曲がった葉《よう》の姿はもう見えなくなっている。裕生《ひろお》は首をかしげながら部屋に戻った。