西尾《にしお》みちるは昔から姉の夕紀《ゆき》が苦手《にがて》だった。嫌いということではない。姉は優《やさ》しくて頭が良くて美人で、完璧《かんぺき》な存在に思えた。いつも彼女のまわりには友達が大勢いた。
姉から叱《しか》られたり意地悪をされたこともないし、ケンカした記憶《きおく》もまったくない。みちるはよくクラスメイトに羨《うらや》ましがられたが、みちるにはあまりピンと来なかった。仲がいいというよりは、あまりにもかけ離れすぎていてケンカの余地がなかったのだ。
姉がずっとピアノと書道を習い続ける一方、みちるは男子に混じってサッカーチームで小学校六年までボールを追いまくった末、それに飽きると剣道を始めた。インドアとアウトドアと、姉妹《しまい》できれいに行動範囲《はんい》が分かれていた——いや、みちるの方が無意識《むいしき》のうちに姉の領域に入るのを拒《こば》んでいた、という方が正しい。
小学生までのみちるは背の高い元気な女の子でしかなかった。発育で劣る男子からは「おまえ、ほんとは男だろう」と憎まれ口を叩《たた》かれ、女子からは「みちるちゃんはカッコいいよね」と慕《した》われ、姉とは別の意味で彼女の周囲には友達が集まっていた。
彼女の性格が少し変わったのは、藤牧《ふじまき》裕生に出会ったせいだった。
今となっては絶対に口に出せないが、初めて藤牧裕生と会った頃《ころ》、西尾みちるは彼が死ぬと思いこんでいた。彼女は中学一年生になったばかりだった。いつまで経《た》っても欠席したままの「藤牧裕生」という生徒について、クラスでは「治らない病気なんだって」という無責任かつ残酷《ざんこく》な噂《うわさ》が流れていた。病名は「白血病」であったり「脳腫瘍《のうしゅよう》」であったりとかなりいい加減だったが、疑う理由もなかったので、みちるはその噂を頭から信じこんでいた。
クラス委員ということで、みちるはその「死にそうな」クラスメイトのところにプリントを持っていかなければならなかった。面倒《めんどう》な仕事だったし、行かずに済む方法もあったかもしれないが、責任感の強い性格がそれを拒んだ。
彼女は加賀見《かがみ》市の市立病院へ行った。
病室のベッドには整った顔立ちの小柄《こがら》な少年がいた。小さなノートに何かを書きこんでいる。
みちるがそばにいることにも、しばらく気が付かなかった。
「なに書いてるの?」
と、みちるは言った。
「こんにちは」
彼はみちるの顔を見て言った——会話がかみ合っていない気もしたが、それはぼんやりしているからではなく病気のせいだと彼女は思った。自己紹介の後で、彼女はもう一度そのノートに何が書かれているのかを尋ねた。
「なんか、夢を見るんだ」
と、裕生《ひろお》は言った。
「変わった夢だから、ノートに続きを書こうと思って」
「どういう夢?」
「夜中の海に浮かんでて、どこかの島に辿《たど》り着くんだ。そこには誰《だれ》かが一人で住んでるんだ」
「誰が?」
「分からない。いつもそこで目が覚めるから」
彼は目を伏せて、ノートを閉じた。少し物思いに沈んでいるような、はかなげな横顔だった。
それから、ふと気遣《きづか》うように微笑《ほほえ》んで彼女を見る。
「来てくれてどうもありがとう」
と、彼は言った。みちるは当時の自分を振り返るのがとても辛《つら》い。しかし、もし良心に誓《ちか》って真実のみを述べよと迫られれば、しぶしぶながら認めざるを得ない——この瞬間《しゅんかん》、みちるは藤牧《ふじまき》裕生にときめいていた。なにしろ相手は不治《ふじ》の病《やまい》に冒《おか》されて余命いくばくもない(らしい)同い年の少年なのだ。そして、彼女が来るのを心待ちにしている(ように見える)。
それから彼女は毎日のように裕生を見舞《みま》うようになった。
病気について尋《たず》ねると、決まって裕生は言葉をにごした——人に話せないほど重い病状なのだと彼女は解釈し、死ぬと分かっていてけなげに振る舞《ま》っているのだと感動していた。単に裕生本人が医師の説明をよく理解しておらず、説明できなかっただけだと知ったのはずっと後のことである。
放課後《ほうかご》に裕生の病室に行くと、小柄《こがら》な女の子がいることがあった。少し幼く見えるが、人形のように可愛《かわい》い女の子だった。裕生が葉《よう》、と声をかけていたので、とりあえず名前は分かった。話しかけるときちんと返事をするけれど、自分からは決して話しかけては来ない。ひどく無口な性格らしかった。
ある日、放課後に病院へ行くと、裕生の姿はなかった。何かの検査を受けているということだった。サイドテーブルには初めて会った日に彼が手に持っていたノートが置きっぱなしになっていた。
確か見た夢の続きを書いていると言っていたあのノートだ。彼女は迷った末にそれを開いた。
少し気も替《とが》めたが、好きな男の子がどんなことを書いているのか、知りたいと思う欲求に負けた。
姉から叱《しか》られたり意地悪をされたこともないし、ケンカした記憶《きおく》もまったくない。みちるはよくクラスメイトに羨《うらや》ましがられたが、みちるにはあまりピンと来なかった。仲がいいというよりは、あまりにもかけ離れすぎていてケンカの余地がなかったのだ。
姉がずっとピアノと書道を習い続ける一方、みちるは男子に混じってサッカーチームで小学校六年までボールを追いまくった末、それに飽きると剣道を始めた。インドアとアウトドアと、姉妹《しまい》できれいに行動範囲《はんい》が分かれていた——いや、みちるの方が無意識《むいしき》のうちに姉の領域に入るのを拒《こば》んでいた、という方が正しい。
小学生までのみちるは背の高い元気な女の子でしかなかった。発育で劣る男子からは「おまえ、ほんとは男だろう」と憎まれ口を叩《たた》かれ、女子からは「みちるちゃんはカッコいいよね」と慕《した》われ、姉とは別の意味で彼女の周囲には友達が集まっていた。
彼女の性格が少し変わったのは、藤牧《ふじまき》裕生に出会ったせいだった。
今となっては絶対に口に出せないが、初めて藤牧裕生と会った頃《ころ》、西尾みちるは彼が死ぬと思いこんでいた。彼女は中学一年生になったばかりだった。いつまで経《た》っても欠席したままの「藤牧裕生」という生徒について、クラスでは「治らない病気なんだって」という無責任かつ残酷《ざんこく》な噂《うわさ》が流れていた。病名は「白血病」であったり「脳腫瘍《のうしゅよう》」であったりとかなりいい加減だったが、疑う理由もなかったので、みちるはその噂を頭から信じこんでいた。
クラス委員ということで、みちるはその「死にそうな」クラスメイトのところにプリントを持っていかなければならなかった。面倒《めんどう》な仕事だったし、行かずに済む方法もあったかもしれないが、責任感の強い性格がそれを拒んだ。
彼女は加賀見《かがみ》市の市立病院へ行った。
病室のベッドには整った顔立ちの小柄《こがら》な少年がいた。小さなノートに何かを書きこんでいる。
みちるがそばにいることにも、しばらく気が付かなかった。
「なに書いてるの?」
と、みちるは言った。
「こんにちは」
彼はみちるの顔を見て言った——会話がかみ合っていない気もしたが、それはぼんやりしているからではなく病気のせいだと彼女は思った。自己紹介の後で、彼女はもう一度そのノートに何が書かれているのかを尋ねた。
「なんか、夢を見るんだ」
と、裕生《ひろお》は言った。
「変わった夢だから、ノートに続きを書こうと思って」
「どういう夢?」
「夜中の海に浮かんでて、どこかの島に辿《たど》り着くんだ。そこには誰《だれ》かが一人で住んでるんだ」
「誰が?」
「分からない。いつもそこで目が覚めるから」
彼は目を伏せて、ノートを閉じた。少し物思いに沈んでいるような、はかなげな横顔だった。
それから、ふと気遣《きづか》うように微笑《ほほえ》んで彼女を見る。
「来てくれてどうもありがとう」
と、彼は言った。みちるは当時の自分を振り返るのがとても辛《つら》い。しかし、もし良心に誓《ちか》って真実のみを述べよと迫られれば、しぶしぶながら認めざるを得ない——この瞬間《しゅんかん》、みちるは藤牧《ふじまき》裕生にときめいていた。なにしろ相手は不治《ふじ》の病《やまい》に冒《おか》されて余命いくばくもない(らしい)同い年の少年なのだ。そして、彼女が来るのを心待ちにしている(ように見える)。
それから彼女は毎日のように裕生を見舞《みま》うようになった。
病気について尋《たず》ねると、決まって裕生は言葉をにごした——人に話せないほど重い病状なのだと彼女は解釈し、死ぬと分かっていてけなげに振る舞《ま》っているのだと感動していた。単に裕生本人が医師の説明をよく理解しておらず、説明できなかっただけだと知ったのはずっと後のことである。
放課後《ほうかご》に裕生の病室に行くと、小柄《こがら》な女の子がいることがあった。少し幼く見えるが、人形のように可愛《かわい》い女の子だった。裕生が葉《よう》、と声をかけていたので、とりあえず名前は分かった。話しかけるときちんと返事をするけれど、自分からは決して話しかけては来ない。ひどく無口な性格らしかった。
ある日、放課後に病院へ行くと、裕生の姿はなかった。何かの検査を受けているということだった。サイドテーブルには初めて会った日に彼が手に持っていたノートが置きっぱなしになっていた。
確か見た夢の続きを書いていると言っていたあのノートだ。彼女は迷った末にそれを開いた。
少し気も替《とが》めたが、好きな男の子がどんなことを書いているのか、知りたいと思う欲求に負けた。
黒い海がありました。
海のむこうにちいさな島があります。その島には、女の子がすんでいました。
海のむこうにちいさな島があります。その島には、女の子がすんでいました。
なんだろうこれは。彼の話していた夢の内容と少し違っている気がする。彼女は椅子《いす》に座って、熱心に読み始めた。
気がついたときから、女の子はずっとひとりだったので、名前がありませんでした。
だから、コトバも知りませんでした。
ある日、海のむこうから砂浜にいままで見たこともないものが流れつきました。
それは、
だから、コトバも知りませんでした。
ある日、海のむこうから砂浜にいままで見たこともないものが流れつきました。
それは、
最初のページの文章はそこで終わっていた。見たこともないものってなに、と思いながらページをめくろうとすると、突然ノートを取り上げられた。
「うわっ」
と、言いながら振り向くと、例の葉《よう》という女の子が立っていた。背の高いみちるを前にして緊張《きんちょう》しているらしく、少し体が震《ふる》えている。
「かってに見ちゃだめ」
かわいい声で彼女は言った。そういえばほとんど声聞いたことない、とみちるは思った。
「なんで。いいじゃん、別に」
みちるは唇《くちびる》を尖《とが》らせながら手を伸ばすと、体をよじって避《さ》ける。着ているパーカーの胸元《むなもと》にノートをしっかり抱えこんだ。
「じゃあ、一緒に見よう。ね?」
しかし、彼女はノートを抱えたまま、ぱたぱたと靴音《くつおと》を立てながら病室から出て行ってしまった。なんだろうあれ、と彼女は思った。
「うわっ」
と、言いながら振り向くと、例の葉《よう》という女の子が立っていた。背の高いみちるを前にして緊張《きんちょう》しているらしく、少し体が震《ふる》えている。
「かってに見ちゃだめ」
かわいい声で彼女は言った。そういえばほとんど声聞いたことない、とみちるは思った。
「なんで。いいじゃん、別に」
みちるは唇《くちびる》を尖《とが》らせながら手を伸ばすと、体をよじって避《さ》ける。着ているパーカーの胸元《むなもと》にノートをしっかり抱えこんだ。
「じゃあ、一緒に見よう。ね?」
しかし、彼女はノートを抱えたまま、ぱたぱたと靴音《くつおと》を立てながら病室から出て行ってしまった。なんだろうあれ、と彼女は思った。
さて、みちるの初恋は裕生《ひろお》が回復したことで自然消滅した。裕生は手術を受けて退院し、学校で普通に授業を受け始めたのである。クラスメイトたちは、「不治《ふじ》の病《やまい》」の噂《うわさ》などあっさりと忘れて裕生を受け入れた。元気になった彼は、ただのトロい男子としてたちまちクラスに埋没していった。みちるは病院でのはかなげなイメージが、根拠の薄《うす》い思いこみだったと気づかざるを得なかった。
それまでただ活発だったみちるの性格に、この一件は微妙な変化を与えた。どこか一歩引いて周囲を冷静に眺めるようになり、むやみな思いこみや無責任な噂を戒《いまし》めるようになった。そんな彼女を周囲は「男っぽい」ではなく、「大人《おとな》っぽい」とみなした。当人は自覚していなかったが、要するに恥をかいたことで成長したのである。
裕生《ひろお》とは仲のいいクラスメイトという関係を維持したまま、そろって加賀見《かがみ》高校へ進学した。入学初日、裕生とみちるはそろって茶道《さどう》部の部室へ連れていかれた。二人とも兄と姉がそれぞれ茶道部の部長をしていたわけで、ある意味で当然のなりゆきとも言えた。
その時の部長は姉の夕紀《ゆき》だった。活動の説明を姉から聞くはめになったが、隣《となり》にいる裕生のもじもじした態度《たいど》をみちるは一目で見抜いた。姉の前でそういう態度を取る、気の弱い男子をそれまでに何人も見てきたからだ。
むくむくと頭をもたげてきたのは裕生への怒りに近い感情だった。その時の彼女の内面を一口で説明するのは難しい。できるだけ分かりやすい言葉にすれば、
(あたしと初めて会った時は、あんたそんな顔しなかったくせに)
である。おそらくは初めて裕生と会った時の自分も、こんなマヌケな顔をしていたのだろうか。姉はもちろん、裕生の様子《ようす》には気がついていなかった。あの時の裕生が、自分の気持ちにまるで無関心だったのと同じように。
昔の自分への自己|嫌悪《けんお》でもあり、やすやすと心をときめかせた裕生への失望でもあり、姉に対する嫉妬《しっと》であったかもしれない——複雑な感情だった。
むろん、裕生が告白したという話は聞かなかったし、それほど強い気持ちではなかったことも分かっている。結局、なにごともないまま姉は卒業し、みちるはなんとなくほっとしていた——のだが。
最近、みちるは茶道部に入部したあの雛咲《ひなさき》葉《よう》という一年生が気になっている。あれは確かに病院で見かけた人形っぽい小学生だ。もっと幼く見えたが、自分たちと一歳しか違わないらしい。裕生の幼馴染《おさななじみ》で、団地の同じ棟《とう》に住んでいるという。
みちるが気になったのは、葉がもともと茶道に興味《きょうみ》などなかったようだという話を聞いたからだ。だとすれば、裕生がいたから入部したということだろうか。裕生が入院した時、毎日のように見舞《みま》いに来ていたのも考えてみればおかしな話だ。ただの幼馴染にそこまでするものだろうか。
いっそ二人が付き合っているなら話は別だ。大好きなカレと同じ部活に入りました、少しでも長く一緒にいたくて、ということなら、勝手にしろと思うだけだ。しかし、どう見てもそんな様子はなかった。
みちるは裕生の行動を無意識《むいしき》のうちに注意していた。普段《ふだん》の彼女は他人の行動をいちいち気にかけたりしない。裕生のことになると無関心でいられなくなるのは、苦《にが》い初恋の後遺症が残っているからかもしれなかった。
それまでただ活発だったみちるの性格に、この一件は微妙な変化を与えた。どこか一歩引いて周囲を冷静に眺めるようになり、むやみな思いこみや無責任な噂を戒《いまし》めるようになった。そんな彼女を周囲は「男っぽい」ではなく、「大人《おとな》っぽい」とみなした。当人は自覚していなかったが、要するに恥をかいたことで成長したのである。
裕生《ひろお》とは仲のいいクラスメイトという関係を維持したまま、そろって加賀見《かがみ》高校へ進学した。入学初日、裕生とみちるはそろって茶道《さどう》部の部室へ連れていかれた。二人とも兄と姉がそれぞれ茶道部の部長をしていたわけで、ある意味で当然のなりゆきとも言えた。
その時の部長は姉の夕紀《ゆき》だった。活動の説明を姉から聞くはめになったが、隣《となり》にいる裕生のもじもじした態度《たいど》をみちるは一目で見抜いた。姉の前でそういう態度を取る、気の弱い男子をそれまでに何人も見てきたからだ。
むくむくと頭をもたげてきたのは裕生への怒りに近い感情だった。その時の彼女の内面を一口で説明するのは難しい。できるだけ分かりやすい言葉にすれば、
(あたしと初めて会った時は、あんたそんな顔しなかったくせに)
である。おそらくは初めて裕生と会った時の自分も、こんなマヌケな顔をしていたのだろうか。姉はもちろん、裕生の様子《ようす》には気がついていなかった。あの時の裕生が、自分の気持ちにまるで無関心だったのと同じように。
昔の自分への自己|嫌悪《けんお》でもあり、やすやすと心をときめかせた裕生への失望でもあり、姉に対する嫉妬《しっと》であったかもしれない——複雑な感情だった。
むろん、裕生が告白したという話は聞かなかったし、それほど強い気持ちではなかったことも分かっている。結局、なにごともないまま姉は卒業し、みちるはなんとなくほっとしていた——のだが。
最近、みちるは茶道部に入部したあの雛咲《ひなさき》葉《よう》という一年生が気になっている。あれは確かに病院で見かけた人形っぽい小学生だ。もっと幼く見えたが、自分たちと一歳しか違わないらしい。裕生の幼馴染《おさななじみ》で、団地の同じ棟《とう》に住んでいるという。
みちるが気になったのは、葉がもともと茶道に興味《きょうみ》などなかったようだという話を聞いたからだ。だとすれば、裕生がいたから入部したということだろうか。裕生が入院した時、毎日のように見舞《みま》いに来ていたのも考えてみればおかしな話だ。ただの幼馴染にそこまでするものだろうか。
いっそ二人が付き合っているなら話は別だ。大好きなカレと同じ部活に入りました、少しでも長く一緒にいたくて、ということなら、勝手にしろと思うだけだ。しかし、どう見てもそんな様子はなかった。
みちるは裕生の行動を無意識《むいしき》のうちに注意していた。普段《ふだん》の彼女は他人の行動をいちいち気にかけたりしない。裕生のことになると無関心でいられなくなるのは、苦《にが》い初恋の後遺症が残っているからかもしれなかった。
その日は朝のホームルームがはじまる前から、少しおかしいと思っていた。裕生と佐貫《さぬき》がこそこそと話しこんでいて、みちるが近づくとそれまでしていた話をぴたりとやめてしまった。
昨日|加賀見《かがみ》団地であった火事の話をしながら、みちるはさりげなく二人の様子《ようす》を観察していた。
(……女?)
この二人が自分に内緒《ないしょ》にしたがる話題というと、それぐらいしか思いつかない。それもなにかエッチな話だ。みちるとしては別にどうでもいいことだったが、そのあたりは男の恥じらいだと理解している。
気になったのは、佐貫《きぬき》よりも裕生《ひろお》の方がそわそわしていたことだった。普段《ふだん》は佐貫が裕生に一方的にそのテの話を持ちかけて、裕生の方は「へえ」という表情で傾聴《けいちょう》しているだけなのだが。昼休みも佐貫とこそこそと弁当を食べながら話していたと思ったら、突然立ち上がって教室から出て行ってしまった。
「藤牧《ふじまき》、どこ行ったの?」
と、残った佐貫にさりげなく尋《たず》ねてみると、
「……ウンコじゃねえかな」
「……」
佐貫は裕生よりも頭が切れるし、尋問《じんもん》の対象としては結構手ごわい。しかし、話を誤魔化《ごまか》そうとする時にやたらとトイレを待ちだすクセがある。みちるは裕生がなにか大事な用件で出かけたことを確信した。
昼休みが終わりかけた頃《ころ》、教室に戻ってきた裕生は、明らかにさっきと顔つきが違っていた。なにか真剣に思いつめているようだった。
佐貫がずるずると裕生を窓際《まどぎわ》に引きずっていき、肩を抱いてひそひそ話を始めた。こういう時の男子の態度はまことに分かりやすい。最初は「なあ、どうだったどうだった?」という調子で話しかけていたが、裕生が上《うわ》の空の反応しか返さないらしく「なんだよ、つまんねーな」と言いたげに離れていった。
(分かりやすすぎ)
そもそも注目している方がおかしいのだが、裕生がなにかの用事をこの昼休みに済ませてきたのは分かった。しかし、それは佐貫の喜ぶような結果にはならず、裕生はそれで沈んでいるらしい。
昨日|加賀見《かがみ》団地であった火事の話をしながら、みちるはさりげなく二人の様子《ようす》を観察していた。
(……女?)
この二人が自分に内緒《ないしょ》にしたがる話題というと、それぐらいしか思いつかない。それもなにかエッチな話だ。みちるとしては別にどうでもいいことだったが、そのあたりは男の恥じらいだと理解している。
気になったのは、佐貫《きぬき》よりも裕生《ひろお》の方がそわそわしていたことだった。普段《ふだん》は佐貫が裕生に一方的にそのテの話を持ちかけて、裕生の方は「へえ」という表情で傾聴《けいちょう》しているだけなのだが。昼休みも佐貫とこそこそと弁当を食べながら話していたと思ったら、突然立ち上がって教室から出て行ってしまった。
「藤牧《ふじまき》、どこ行ったの?」
と、残った佐貫にさりげなく尋《たず》ねてみると、
「……ウンコじゃねえかな」
「……」
佐貫は裕生よりも頭が切れるし、尋問《じんもん》の対象としては結構手ごわい。しかし、話を誤魔化《ごまか》そうとする時にやたらとトイレを待ちだすクセがある。みちるは裕生がなにか大事な用件で出かけたことを確信した。
昼休みが終わりかけた頃《ころ》、教室に戻ってきた裕生は、明らかにさっきと顔つきが違っていた。なにか真剣に思いつめているようだった。
佐貫がずるずると裕生を窓際《まどぎわ》に引きずっていき、肩を抱いてひそひそ話を始めた。こういう時の男子の態度はまことに分かりやすい。最初は「なあ、どうだったどうだった?」という調子で話しかけていたが、裕生が上《うわ》の空の反応しか返さないらしく「なんだよ、つまんねーな」と言いたげに離れていった。
(分かりやすすぎ)
そもそも注目している方がおかしいのだが、裕生がなにかの用事をこの昼休みに済ませてきたのは分かった。しかし、それは佐貫の喜ぶような結果にはならず、裕生はそれで沈んでいるらしい。
掃除《そうじ》の時間になった。六月に入ると、各クラスから二人ずつ選ばれて、旧校舎前のプールの掃除をすることになっている。プール開きに向けた準備だった。みちると裕生もその係になっていた。
プールサイドには「めんどくさい」という表情を顔に貼《は》りつけた生徒たちが集まっていた。一人だけ元気な体育教師が掃除の手順を説明する。プールの水を抜いて、中を掃除するのは来週で、今日のところはプールサイドのゴミを拾って、ブラシで水洗いをする、ということらしい。生徒たちはだらだらと作業に入った。
裕生《ひろお》とみちるはデッキブラシの係になった。みちるはふと手を止めて、目の前の旧校舎を見上げる。
「茶道《さどう》部の部室ってあのへんだよね」
みちるは三階の窓を見ながら言った——返事はない。裕生は無言でデッキブラシを動かしている。彼女は裕生の顔をちらちらと窺《うかが》いながら、おもむろに本題に入った。
「あのさ、藤牧《ふじまき》。なにかあった?」
「……なんで?」
「なんでって、朝からおかしかったから」
裕生は視線を落として、物思いに沈んでいる。その表情を眺めているうちに、初めて裕生と会った日の記憶《きおく》がフラッシュバックした。目の前にいるのがあの時のか弱げな少年の気がして、胸が高鳴りかける。
(うわ、ヤバ。ちょっと待てあたし)
彼女は必死で自分に言い聞かせた。ここにいるのはもうすぐ死んでしまう男の子ではない、ちょっとトロいただのクラスメイト。
「……危なかった」
「え?」
「な、なんでもない。もしよかったら、相談《そうだん》に乗るけど」
裕生はしばらくためらっていたが、結局、詳《くわ》しい経緯《けいい》を話していった。一緒に住もう、という提案にはみちるも佐貫《さぬき》と同じく驚《おどろ》いた。雛咲《ひなさき》葉《よう》はもっと驚いたに違いない。
「なにか隠《かく》してる気がするんだ。でも、ぼくがヘンな言い方したからかもしれないから、よく分からなくて」
みちるは黙《だま》って考えこんでいた。話を聞いたかぎりでは、雛咲葉が突拍子《とっぴょうし》もない提案を蹴っただけの気もするのだが。
「……男だと言いにくいこともあるのかな」
そういうことは確かにあるかもしれない、と彼女は思った。
「あの子って、藤牧の他《ほか》に誰《だれ》か相談できそうな人いないの?」
「分からない。うちは男ばっかりだし、兄さんとか父さんじゃなに言い出すか分かったもんじゃないし。ほんとは茶道部の先輩《せんぱい》が一番いいと思うんだけど、先輩もなんか雛咲とあったみたいで、頼《たの》めない感じなんだよ」
裕生の表情がさっきのような愁《うれ》いを帯《お》びる。みちるは強引《ごういん》に視線を逸《そ》らす。自分の顔が赤くなっていないか心配になった。なにか言わなければ、と焦った末に出てきた言葉が、
「もしよかったら、あたしが聞いてみようか」
口に出した瞬間《しゅんかん》、しまったと思った。学年も違う、全然仲良くない、無口な女の子に「あんたの悩みはなに?」などと聞いて、まともな答えがかえってくるはずがない。裕生《ひろお》もそう言うに違いないと思ったが、ぱっと彼の顔が明るくなった。
「え、本当にそうしてくれる?」
止めないのかアンタは。
しかし、言い出したことを引っこめるのはみちるの主義に反する。
「……うん。いいよ」
と、彼女はため息混じりに答えた。
プールサイドには「めんどくさい」という表情を顔に貼《は》りつけた生徒たちが集まっていた。一人だけ元気な体育教師が掃除の手順を説明する。プールの水を抜いて、中を掃除するのは来週で、今日のところはプールサイドのゴミを拾って、ブラシで水洗いをする、ということらしい。生徒たちはだらだらと作業に入った。
裕生《ひろお》とみちるはデッキブラシの係になった。みちるはふと手を止めて、目の前の旧校舎を見上げる。
「茶道《さどう》部の部室ってあのへんだよね」
みちるは三階の窓を見ながら言った——返事はない。裕生は無言でデッキブラシを動かしている。彼女は裕生の顔をちらちらと窺《うかが》いながら、おもむろに本題に入った。
「あのさ、藤牧《ふじまき》。なにかあった?」
「……なんで?」
「なんでって、朝からおかしかったから」
裕生は視線を落として、物思いに沈んでいる。その表情を眺めているうちに、初めて裕生と会った日の記憶《きおく》がフラッシュバックした。目の前にいるのがあの時のか弱げな少年の気がして、胸が高鳴りかける。
(うわ、ヤバ。ちょっと待てあたし)
彼女は必死で自分に言い聞かせた。ここにいるのはもうすぐ死んでしまう男の子ではない、ちょっとトロいただのクラスメイト。
「……危なかった」
「え?」
「な、なんでもない。もしよかったら、相談《そうだん》に乗るけど」
裕生はしばらくためらっていたが、結局、詳《くわ》しい経緯《けいい》を話していった。一緒に住もう、という提案にはみちるも佐貫《さぬき》と同じく驚《おどろ》いた。雛咲《ひなさき》葉《よう》はもっと驚いたに違いない。
「なにか隠《かく》してる気がするんだ。でも、ぼくがヘンな言い方したからかもしれないから、よく分からなくて」
みちるは黙《だま》って考えこんでいた。話を聞いたかぎりでは、雛咲葉が突拍子《とっぴょうし》もない提案を蹴っただけの気もするのだが。
「……男だと言いにくいこともあるのかな」
そういうことは確かにあるかもしれない、と彼女は思った。
「あの子って、藤牧の他《ほか》に誰《だれ》か相談できそうな人いないの?」
「分からない。うちは男ばっかりだし、兄さんとか父さんじゃなに言い出すか分かったもんじゃないし。ほんとは茶道部の先輩《せんぱい》が一番いいと思うんだけど、先輩もなんか雛咲とあったみたいで、頼《たの》めない感じなんだよ」
裕生の表情がさっきのような愁《うれ》いを帯《お》びる。みちるは強引《ごういん》に視線を逸《そ》らす。自分の顔が赤くなっていないか心配になった。なにか言わなければ、と焦った末に出てきた言葉が、
「もしよかったら、あたしが聞いてみようか」
口に出した瞬間《しゅんかん》、しまったと思った。学年も違う、全然仲良くない、無口な女の子に「あんたの悩みはなに?」などと聞いて、まともな答えがかえってくるはずがない。裕生《ひろお》もそう言うに違いないと思ったが、ぱっと彼の顔が明るくなった。
「え、本当にそうしてくれる?」
止めないのかアンタは。
しかし、言い出したことを引っこめるのはみちるの主義に反する。
「……うん。いいよ」
と、彼女はため息混じりに答えた。