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シャドウテイカー 黒の彼方11

时间: 2020-03-27    进入日语论坛
核心提示:10 月は出ていない。雲に隠《かく》れたままだった。まだ夜中とは言えない時間だった。川相《かわい》千香《ちか》が公園に近づ
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10
 月は出ていない。雲に隠《かく》れたままだった。
まだ夜中とは言えない時間だった。川相《かわい》千香《ちか》が公園に近づいた時、トートバッグの中の携帯《けいたい》の着メロが鳴った。家からの電話だった。
「お母さん?」
と、千香は言った。手にしているのは、去年買ったカメラつきの携帯だった。かすかに洩《も》れてくる甲高《かんだか》い声は、彼女を叱《しか》っているらしい。
「ごめん。樋口《ひぐち》んちで話してたら遅くなっちゃった」
沈黙《ちんもく》。
「うん、今公園の前。まっすぐ帰るから。あ、切らないで。公園の中通ってく」
沈黙。
「この時間だったら、まだ結構人いるよ。だから切らないでって言ってるんじゃん」
彼女は「加賀見《かがみ》恩賜《おんし》公園」という案内図の脇《わき》を通って、アスファルトの遊歩道に足を踏《ふ》み入れた。ここは関東有数の自然公園で、ボート乗り場やジョギングコースもある。
「じゃなくて、田島《たじま》の家が火事になったって言ったでしょ? その話してたの」
芝生《しばふ》の中を横切るように伸びている遊歩道を、千香は歩いていった。遊歩道を街路灯が白く照らしている。光源の周囲を、黒い虫が音もなく舞《ま》っていた。
「うん。まだ見つかってないんだって」
彼女はあたりを見回しながら歩いていく。怪しい人影《ひとかげ》はどこにもない。何年か前、ここで若い女性が痴漢《ちかん》に襲《おそ》われる事件が起こって、明かりの数をかなり増やしたらしい。彼女が目指している公園の反対側の出口には交番が建てられた。それ以来、ここで事件は起こっていない。
「知らないよ。でも、田島《たじま》のおばさんは確かに家にいたって言ってるみたい」
芝生《しばふ》の途切《とぎ》れたところにボート池がある。白鳥の形をした足こぎボートの群れが、小さな桟橋《さんばし》のそばでかすかに揺れてる。遊歩道は池を迂回《うかい》するようにカーブしていた。
「え、学校?」
千香《ちか》は立ち止まる。
「なんで学校から電話なんか来たの?」
彼女は電話の向こうの声に耳を傾ける。
「あたし、そんなの知らないよ。お母さん、変なこと言わなかった? そんな電話あっても、なんにも話すことないからね」
と、彼女は言う。自分でも気がつかないうちに声が大きくなっていた。彼女はふと、我に返ったようにあたりを見回す。
「今? 今ボート池のところ。うん。ヘンな人もいないよ。大丈夫。さっきから誰《だれ》も」
不意に池の水面をひんやりした風が撫《な》でていった。
「……誰もいない、みたい」
千香はこの広い公園の中心にたった一人で立ち尽くしていた。桟橋のそばの時計を見ると、まだ夜の九時を回ったところだった。この時間になれば確かに人は少なくなるが、犬の散歩や夜のジョギングに出る人がいないわけではない。こんな風に人気《ひとけ》がまったく絶えてしまうことは珍しかった。
「ううん、別に。ちょっと静かすぎて」
再び歩き出したが、さっきよりも早足になっていた。ボート池を過ぎると、遊歩道は林の中へ続いている。彼女は左右の木立《こだち》をちらちらと見ながら進んでいく。なにか嫌《いや》なことが起こりそうな予感がした。
「もうすぐ外だから……」
彼女ははっとした。遊歩道を照らしていた光が途切《とぎ》れて、道の先が暗闇《くらやみ》の中へ溶けていた。
どうやらこの先の街路灯が壊《こわ》れているらしい。
「ううん。あのね。なんか明かりが」
なんとなくこの公園に入ったことを、千香は後悔し始めていた。だいぶ先まで来てしまったが、後戻りした方がいいかもしれない。今まで来た道を振り向いた彼女は、今度こそ凍《こお》りついた。
背後にも暗闇が広がっていた。
千香は周囲に目を凝《こ》らす。すぐそばにある街路灯を除いて、彼女の視界にある明かりはすべて消えていた。たった今通りすぎた時は確かに点《つ》いていたはずなのに。不意に彼女の周囲もすっと影《かげ》の中に溶け始めた。最後に残った街路灯が消えかかっている。彼女は顔を上げて、真上の光源《こうげん》を見る。
小さな黒い虫の群れが、蛍光灯《けいこうとう》をびっしりと覆《おお》い隠《かく》していた。彼女は携帯《けいたい》を固く握り締《し》めた。
「おかあさ……」
蛍光灯を覆った黒い塊《かたまり》の一部がずるりと崩《くず》れ、何匹《なんびき》もの虫がまるで雪のようにぼとぼとと落ちてきた。飛びのいたつもりだったが、そのうちの一匹が携帯を持った手にぶつかる。手の甲がじゅっと音を立てた気がして、千香《ちか》は思わず携帯を落とした。
(え?)
虫に触れた彼女の手は火傷《やけど》を負っている——まるで虫が熱を発しているように。地面に落ちた虫が、彼女の足元へ這《は》い進んできた。
彼女は携帯を拾うと、踵《きびす》を返して木立《こだち》の中へ飛びこむ。自分がどこにいるのかは分からなかったが、とにかく走り続ければここから抜け出せるはずだ。落とした拍子に電話が切れてしまったらしい。警察《けいさつ》にかけようと思った瞬間《しゅんかん》、着メロが鳴った。母親がかけ直したに違いない。
彼女は通話ボタンを押した。
「お母さん?」
『話した?』
しゃがれた声が返ってくる。背中に水をかけられたような気がして、千香は思わず足を止めかけた。画面を見ると、非通知の相手からだった。
「あんた、誰《だれ》?」
『川相《かわい》さん、秘密を話しました?』
相手は彼女の名前を知っている。面識《めんしき》のある相手なのかもしれない。
「……なに言ってんの?」
『英語のテストのこと』
千香は息を呑《の》んだ。相手は言葉を続ける。
『学校から連絡があったでしょう。あなたからも話を聞きたがってる』
彼女は木々の間をのろのろと歩いている。電話の相手の言っていることは本当だった。彼女が家にいないうちに、加賀見《かがみ》高校の英語の教師から連絡があった。はっきりと用件を口にしたわけではないが、テストのことで話が聞きたいという話だったらしい。
「あたしは話してないよ。それより、誰《だれ》?」
あの日、答案を盗んだことを知っているのは、自分を含めても五人だけだ。だとすると、自分に電話をかけているのは、そのうちの誰かということになる。樋口《ひぐち》とはさっきまで話していたばかりで、田島《たじま》は行方《ゆくえ》不明になっている。残っているのはあの茶道《さどう》部の二人だけだった。
「あんた、ひょっとして」
『あなたたちは秘密を守れない』
ざらざらした声が千香に告げる。冷たい風が吹いて、彼女の周囲の枝をざあっと揺らす。ふと、彼女ははっとした——電話の向こうからもかすかに葉ずれの音が聞こえた。相手もこの近くにいるのだ。
「……あんた、どこにいるの?」
相手は答えない。沈黙《ちんもく》が流れるだけだった。もう一度、同じ問いを繰《く》り返そうとした時、
「だから、消えて」
突然、すぐ後ろから声が聞こえた。首筋《くびすじ》に息がかかるほど近くからだった。彼女の全身が総毛立つ。
走り出そうとした瞬間《しゅんかん》、踏《ふ》み出した先の地面が消えた。
 千香《ちか》は深い穴の底に落ちていた。体を起こした瞬間、右足に激痛《げきつう》が走った。そこに心臓《しんぞう》があるように、ずきずきと脈打《みゃくう》っている。ひょっとすると折れたのかもしれなかった。
見上げると丸く縁取《ふちど》られた小さな空が見える。
公園には古い枯れ井戸があると聞いたことがある。丸いコンクリートの蓋《ふた》で閉ざされていたはずだが、彼女はどうやらそこへ落ちたらしかった。
自力で上がることはできそうもない。携帯《けいたい》もどこに行ったのか分からなかった。さっき、急に通話が途切《とぎ》れたことで、母親は娘に何かが起こったことを知っている。おそらくもう警察《けいさつ》に連絡が行っているだろうし、今頃《いまごろ》は彼女を探し始めているかもしれない。
上にいるのが誰《だれ》かは分からないが、もう少しの辛抱《しんぼう》だ。
そう思いかけた時、かさかさと音を立てて、何かが千香の方へ近づいてきた。もわっとした熱気が頬《ほお》を撫《な》でる。壁《かべ》についていた手を、とがった脚《あし》を持つものが這《は》い回る。彼女は周囲の壁から体を離す。ようやく慣《な》れてきた目で見ると、周囲の壁をみっしりと黒い虫が埋め尽くしていた。
その瞬間、ずず、と重いものを引きずるような音が聞こえ、ゆっくりと頭上の丸い空が閉じていった。
    *
 コンクリートと地面の隙間《すきま》から、くぐもった声とともに、白い煙《けむり》がかすかに洩《も》れてきている。
枯れ井戸のそばに、一人の少女がうずくまっている。蓋を閉じ終えた彼女は、手についた土を払いながら立ち上がる。彼女の操《あやつ》る虫の群れは、今この瞬間に二人目の犠牲《ぎせい》者——川相《かわい》千香を焼き殺しているはずだった。
彼女は穴の奥から聞こえる千香の声に耳を傾けている。その声は葉ずれの音にまぎれて、穴のすぐ近くを漂《ただよ》っているだけだった。最初は助けを求める言葉だったが、すぐに間延びした悲鳴に変わり、それも尾を引きながらゆっくりと消えていった。
彼女の頭上で、雲に隠《かく》れていた月が姿を現し始める。遊歩道に懐中《かいちゅう》電灯の光が見える。通報を受けた警察《けいさつ》が到着したらしい。
もう誰《だれ》の声も聞こえない。彼女は公園の出口に向かって歩き出す——秘密を知っている者はあと一人だった。
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