藤牧《ふじまき》雄一《ゆういち》はほとんど物事の判断を迷わない。
彼は夕紀《ゆき》が帰った後、一人で茶の道具を片づけている。
(なんだったんだ、あいつ)
彼は首をかしげながら、鉄瓶《てつびん》の中身をキッチンでゆすいでいる。今日、設けた茶席は盆の上にすべての道具を載《の》せる盆略点前《ぼんりゃくてまえ》で、いちばん簡単《かんたん》な作法だった。話したいことがある、ということだったが、夕紀との会話はただの思い出話に終始していた。
「わたし、中学の頃《ころ》、先輩《せんぱい》ってただ怖《こわ》い人だって思いこんでて」
と、夕紀は言っていた。ほとんど話したことはなかったが、中学の頃から一応は面識《めんしき》がある。
いや、それ思いこみじゃねえんじゃねえかな、と答えると、冗談《じょうだん》かと思ったのか、夕紀は笑い声を上げた。
「でも、先輩が茶道《さどう》始めるなんて、思ってませんでした」
まあ、そりゃそうだろ、と雄一も思う。俺《おれ》だってそんなこと考えてなかったからな。
「加賀見《かがみ》高校に上がった時、茶道部があるって聞いて、わたしすごく嬉《うれ》しかったんです。中学の頃から茶道ってやってみたかったから」
それについては雄一も知っていた。
「茶道部、楽しかったですね。突然、部室で句会やったりとか」
あれは雄一の思いつきだった。夏休み前のヒマなある日、よっしゃ、俳句でも作るか、と、言い出したのだった。結局、一度で終わりになったが。
「飯倉《いいくら》が一番うまかったよな。あいつは文才あんじゃねえか」
などと応じながら、雄一《ゆういち》は夕紀《ゆき》のやって来た用事がなんなのか気になっていた。彼女はなかなか本題に入ろうとしなかった。それで、と何度か促したのだが、結局もじもじしているだけで最後まで言わなかった。そのくせ帰る前には、また会ってもらえますか、と言っていた。
「……ったくヘンなヤツだな」
夕紀がやって来たのは、「相談《そうだん》」のためだと雄一は思いこんでいる——珍しく少し沈んだ気持ちだった。ここまで来て、何も言わずに帰ったということは、つまり自分がそこまで信用されていないことを示している、と彼は考えていた。
(話だったらいつでも聞くっつってんだろうが)
雄一にはためらう人間の気持ちはよく分からない。なにか決断を下す時、結論が出ているのにその前をうろうろするということがないからだ。結論が出ていないことや、できないと分かっていることなら話は別だが、決めたことはすぐやるのが当たり前で、他《ほか》の方法を考えたことすらない。
玄関のドアの開く音が聞こえた。裕生《ひろお》が帰ってきたのに違いない。昔からドアの開け方と閉め方で、弟に元気があるかないかが分かる。今日は明らかに「なにかあった」という音だった。
裕生がキッチンに現れる。
「ただいま」
「なんかあったのか?」
裕生は答えなかった。雄一が弟に単刀直入《たんとうちょくにゅう》に尋《たず》ねるのはいつものことだったが、容易に答えが返ってこないのもいつものことだった。
「葉《よう》にはメシ食わせたか?」
「うん。作ってきた。食べてたよ」
その質問にはちゃんと返事があった。裕生と葉の関係も、雄一にとっては謎《なぞ》のひとつだった。
雄一は二人が毎日手を繋《つな》いで小学校から帰ってくるのを見ていた。どう見ても葉は裕生を好きだったし、裕生はいまいち分かりにくいが、もちろん葉を嫌いではないはずだ。高校に上がった今になっても、二人が付き合っていないことの方が不思議《ふしぎ》だった。
(どうせお前ら、付き合うんだから)
と、いう目で「温かく」見守っている。葉を引き取るという提案もそれと無縁《むえん》ではない。まともに考えれば、年頃《としごろ》の男女を同じ屋根の下に放りこむのはどうかしているのだが、雄一の中でその点は問題にもなっていなかった。常に裕生と葉をセットで考える癖《くせ》がついている。
雄一はゆすいだ鉄瓶《てつびん》を流し台に干した。裕生はキッチンの隅《すみ》で立ったままそれを見ている。葉とケンカでもしたのかもしれないと雄一は思った。
「お前、葉とケンカでも」
と、また単刀直入《たんとうちょくにゅう》に言いかけた時、裕生《ひろお》が口を開いた。
「あのさ」
「あ?」
雄一《ゆういち》の顔がかすかにほころんだ。ようやく話す気になりやがったか、と思うと少し嬉《うれ》しかった。
「ゴミ置き場に、ヘンな袋が置いてあるのって見た?」
しかし、弟の言葉は予想もしていないものだった。
「……なに言ってんだお前」
「これぐらいの袋で、中身が見えない奴《やつ》」
裕生は胸の前で両手を開いて見せた。それを眺めるうちに、雄一は思い出した。団地に帰ってきた日、ぶらぶらしていて燃えるゴミの集積所で見かけたものだ。生首《なまくび》でも入ってそうな大きさだよな、と考えたのを憶《おぼ》えている。
「あ、あれな。俺《おれ》が来た日からあるぞ。中身が見えないゴミって回収車が置いてっちまうだろ? だからあそこに置きっぱなしになってんじゃねーの」
裕生はなにか考えている様子《ようす》だった。
「なんだ、生首でも入ってたか?」
「入ってないよ、そんなの」
「わっかんねえなあ。なんかあったのか?」
弟は口ごもる。色々と言いたいことはあるが、どれから言っていいのか分からない様子だった。
「怪物ってほんとにいないのかな」
「はあ?」
「兄さん、『カゲヌシ』とかの噂《うわさ》とか調べてるんだろ。そういうのがいるんじゃないかとか、ほんとに思ったことないの」
裕生の声は真剣だった。そういえば、この前も同じようなことを尋ねられた気がする。ゴミ袋からの話の繋《つな》がりがよく分からないが、どうせ雄一には分からないことをうじうじと悩んでいるのだろうと思った。彼はいつになく改まった表情で話し始めた。
「俺がやってんのはいるいないの検証じゃねえ。噂が社会ん中で広まってく過程とか原因の調査だな。噂の中身がほんとかどうか調べんのは別の分野だぞ。分かるか?」
弟は口をつぐんだまま、雄一の顔を見守っている。彼は頭をがりがりかきながら、言葉を続けた。
「まあ、俺の見たとこ、そんな怪物なんかいねえ。見たとかそういうヤツも出てくるけど、疲れてたり、なんか悩んでたりすると、なんでもないもんがそういう風に見えちまうだけだ。そいつの心の弱さが怪物なんてもんを呼ぶんだろ。お前がなんの話してんだか知らねえけど」
「……そうなのかな」
首をかしげながら弟は言う。納得はしていないようだが、少しは気が楽になったらしい。
「そういうもんだ」
自信たっぷりに雄一《ゆういち》は頷《うなず》く。ただ、心の中では密《ひそ》かに付け加えていた。
(多分《たぶん》な)
雄一はほとんど物事の判断を迷わない——しかし、すべての真実を知っているわけではなかった。
彼は夕紀《ゆき》が帰った後、一人で茶の道具を片づけている。
(なんだったんだ、あいつ)
彼は首をかしげながら、鉄瓶《てつびん》の中身をキッチンでゆすいでいる。今日、設けた茶席は盆の上にすべての道具を載《の》せる盆略点前《ぼんりゃくてまえ》で、いちばん簡単《かんたん》な作法だった。話したいことがある、ということだったが、夕紀との会話はただの思い出話に終始していた。
「わたし、中学の頃《ころ》、先輩《せんぱい》ってただ怖《こわ》い人だって思いこんでて」
と、夕紀は言っていた。ほとんど話したことはなかったが、中学の頃から一応は面識《めんしき》がある。
いや、それ思いこみじゃねえんじゃねえかな、と答えると、冗談《じょうだん》かと思ったのか、夕紀は笑い声を上げた。
「でも、先輩が茶道《さどう》始めるなんて、思ってませんでした」
まあ、そりゃそうだろ、と雄一も思う。俺《おれ》だってそんなこと考えてなかったからな。
「加賀見《かがみ》高校に上がった時、茶道部があるって聞いて、わたしすごく嬉《うれ》しかったんです。中学の頃から茶道ってやってみたかったから」
それについては雄一も知っていた。
「茶道部、楽しかったですね。突然、部室で句会やったりとか」
あれは雄一の思いつきだった。夏休み前のヒマなある日、よっしゃ、俳句でも作るか、と、言い出したのだった。結局、一度で終わりになったが。
「飯倉《いいくら》が一番うまかったよな。あいつは文才あんじゃねえか」
などと応じながら、雄一《ゆういち》は夕紀《ゆき》のやって来た用事がなんなのか気になっていた。彼女はなかなか本題に入ろうとしなかった。それで、と何度か促したのだが、結局もじもじしているだけで最後まで言わなかった。そのくせ帰る前には、また会ってもらえますか、と言っていた。
「……ったくヘンなヤツだな」
夕紀がやって来たのは、「相談《そうだん》」のためだと雄一は思いこんでいる——珍しく少し沈んだ気持ちだった。ここまで来て、何も言わずに帰ったということは、つまり自分がそこまで信用されていないことを示している、と彼は考えていた。
(話だったらいつでも聞くっつってんだろうが)
雄一にはためらう人間の気持ちはよく分からない。なにか決断を下す時、結論が出ているのにその前をうろうろするということがないからだ。結論が出ていないことや、できないと分かっていることなら話は別だが、決めたことはすぐやるのが当たり前で、他《ほか》の方法を考えたことすらない。
玄関のドアの開く音が聞こえた。裕生《ひろお》が帰ってきたのに違いない。昔からドアの開け方と閉め方で、弟に元気があるかないかが分かる。今日は明らかに「なにかあった」という音だった。
裕生がキッチンに現れる。
「ただいま」
「なんかあったのか?」
裕生は答えなかった。雄一が弟に単刀直入《たんとうちょくにゅう》に尋《たず》ねるのはいつものことだったが、容易に答えが返ってこないのもいつものことだった。
「葉《よう》にはメシ食わせたか?」
「うん。作ってきた。食べてたよ」
その質問にはちゃんと返事があった。裕生と葉の関係も、雄一にとっては謎《なぞ》のひとつだった。
雄一は二人が毎日手を繋《つな》いで小学校から帰ってくるのを見ていた。どう見ても葉は裕生を好きだったし、裕生はいまいち分かりにくいが、もちろん葉を嫌いではないはずだ。高校に上がった今になっても、二人が付き合っていないことの方が不思議《ふしぎ》だった。
(どうせお前ら、付き合うんだから)
と、いう目で「温かく」見守っている。葉を引き取るという提案もそれと無縁《むえん》ではない。まともに考えれば、年頃《としごろ》の男女を同じ屋根の下に放りこむのはどうかしているのだが、雄一の中でその点は問題にもなっていなかった。常に裕生と葉をセットで考える癖《くせ》がついている。
雄一はゆすいだ鉄瓶《てつびん》を流し台に干した。裕生はキッチンの隅《すみ》で立ったままそれを見ている。葉とケンカでもしたのかもしれないと雄一は思った。
「お前、葉とケンカでも」
と、また単刀直入《たんとうちょくにゅう》に言いかけた時、裕生《ひろお》が口を開いた。
「あのさ」
「あ?」
雄一《ゆういち》の顔がかすかにほころんだ。ようやく話す気になりやがったか、と思うと少し嬉《うれ》しかった。
「ゴミ置き場に、ヘンな袋が置いてあるのって見た?」
しかし、弟の言葉は予想もしていないものだった。
「……なに言ってんだお前」
「これぐらいの袋で、中身が見えない奴《やつ》」
裕生は胸の前で両手を開いて見せた。それを眺めるうちに、雄一は思い出した。団地に帰ってきた日、ぶらぶらしていて燃えるゴミの集積所で見かけたものだ。生首《なまくび》でも入ってそうな大きさだよな、と考えたのを憶《おぼ》えている。
「あ、あれな。俺《おれ》が来た日からあるぞ。中身が見えないゴミって回収車が置いてっちまうだろ? だからあそこに置きっぱなしになってんじゃねーの」
裕生はなにか考えている様子《ようす》だった。
「なんだ、生首でも入ってたか?」
「入ってないよ、そんなの」
「わっかんねえなあ。なんかあったのか?」
弟は口ごもる。色々と言いたいことはあるが、どれから言っていいのか分からない様子だった。
「怪物ってほんとにいないのかな」
「はあ?」
「兄さん、『カゲヌシ』とかの噂《うわさ》とか調べてるんだろ。そういうのがいるんじゃないかとか、ほんとに思ったことないの」
裕生の声は真剣だった。そういえば、この前も同じようなことを尋ねられた気がする。ゴミ袋からの話の繋《つな》がりがよく分からないが、どうせ雄一には分からないことをうじうじと悩んでいるのだろうと思った。彼はいつになく改まった表情で話し始めた。
「俺がやってんのはいるいないの検証じゃねえ。噂が社会ん中で広まってく過程とか原因の調査だな。噂の中身がほんとかどうか調べんのは別の分野だぞ。分かるか?」
弟は口をつぐんだまま、雄一の顔を見守っている。彼は頭をがりがりかきながら、言葉を続けた。
「まあ、俺の見たとこ、そんな怪物なんかいねえ。見たとかそういうヤツも出てくるけど、疲れてたり、なんか悩んでたりすると、なんでもないもんがそういう風に見えちまうだけだ。そいつの心の弱さが怪物なんてもんを呼ぶんだろ。お前がなんの話してんだか知らねえけど」
「……そうなのかな」
首をかしげながら弟は言う。納得はしていないようだが、少しは気が楽になったらしい。
「そういうもんだ」
自信たっぷりに雄一《ゆういち》は頷《うなず》く。ただ、心の中では密《ひそ》かに付け加えていた。
(多分《たぶん》な)
雄一はほとんど物事の判断を迷わない——しかし、すべての真実を知っているわけではなかった。
*
暗い部屋の中で、葉《よう》は膝《ひざ》を抱えている。
裕生《ひろお》が帰ってから何時間|経《た》ったのか、時計を見ていないので分からない。太陽はとっくに沈んでいたが、明かりを点《つ》ける気にはならなかった。
胃の奥に鈍い痛みを感じる。裕生が作ってくれた夕食を必死に食べたけれど、さっきすべてトイレで戻してしまった。一週間ほど前から食欲はなかったが、ここ何日かはほとんど食べることができなくなっていた。
ふと、彼女を取り巻く闇《やみ》の色がかすかに変わった。彼女の前にあるのは、今やただ光のない空白ではなかった。すぐ近くから、濃厚《のうこう》な気配《けはい》を発するなにかが彼女を見ていた。
「もう少し」
彼女は闇に向かって呟《つぶや》いた。ここ何日か、周りに人がいない時に何度となく呟いた言葉だった。
「もう少しだけ待って」
言い終えると、すぐに再び彼女の口が開いた。
『待っていますよ』
彼女のものではない、乾いた声が唇《くちびる》から洩《も》れた。老人のように低い声だった。
『ただ、あとどれほど待てばよろしいですか』
彼女に巣食っているこのなにかは飢《う》えている。その飢餓感《きがかん》は彼女の思考にも影響《えいきよう》を及ぼしている。声が大きくなるにつれて、彼女はまともにものを考えることが難しくなっていた。
『餌《えき》を用意なさい』
彼女の体の奥から、自分ではないものが語りかけてくる。
『二日お待ちします』
「……でも……」
『できなければ、あなたの周りの人を殺します』
彼女はびくっと体を震《ふる》わせた。
『全部なくなって、わたしだけ残るんです』
それは彼女の口真似《くちまね》をして言った。
「……やめて」
彼女は顔を伏せて、力なく呟《つぶや》いた。
『本当にそうなりますよ』
彼女は声もなくすすり泣き始めた。夜はまだ当分のあいだ、終わりそうもなかった。
裕生《ひろお》が帰ってから何時間|経《た》ったのか、時計を見ていないので分からない。太陽はとっくに沈んでいたが、明かりを点《つ》ける気にはならなかった。
胃の奥に鈍い痛みを感じる。裕生が作ってくれた夕食を必死に食べたけれど、さっきすべてトイレで戻してしまった。一週間ほど前から食欲はなかったが、ここ何日かはほとんど食べることができなくなっていた。
ふと、彼女を取り巻く闇《やみ》の色がかすかに変わった。彼女の前にあるのは、今やただ光のない空白ではなかった。すぐ近くから、濃厚《のうこう》な気配《けはい》を発するなにかが彼女を見ていた。
「もう少し」
彼女は闇に向かって呟《つぶや》いた。ここ何日か、周りに人がいない時に何度となく呟いた言葉だった。
「もう少しだけ待って」
言い終えると、すぐに再び彼女の口が開いた。
『待っていますよ』
彼女のものではない、乾いた声が唇《くちびる》から洩《も》れた。老人のように低い声だった。
『ただ、あとどれほど待てばよろしいですか』
彼女に巣食っているこのなにかは飢《う》えている。その飢餓感《きがかん》は彼女の思考にも影響《えいきよう》を及ぼしている。声が大きくなるにつれて、彼女はまともにものを考えることが難しくなっていた。
『餌《えき》を用意なさい』
彼女の体の奥から、自分ではないものが語りかけてくる。
『二日お待ちします』
「……でも……」
『できなければ、あなたの周りの人を殺します』
彼女はびくっと体を震《ふる》わせた。
『全部なくなって、わたしだけ残るんです』
それは彼女の口真似《くちまね》をして言った。
「……やめて」
彼女は顔を伏せて、力なく呟《つぶや》いた。
『本当にそうなりますよ』
彼女は声もなくすすり泣き始めた。夜はまだ当分のあいだ、終わりそうもなかった。