次の日の昼休み。
佐貫《さぬき》は図書室に入っていった。裕生《ひろお》がここにいると聞いてやって来たのだった。
加賀見《かがみ》高校の図書室は旧校舎にある。蔵書《ぞうしょ》が多いわけでもないし、広いわけでもない。昼休みにもあまり生徒はいなかった。特に三年生が進路説明会の振替《ふりかえ》休日で、校内に一、二年生しかいないせいもある。佐貫は書架と書架の間を歩き回ったが、裕生の姿は見つからなかった。
佐貫は首をかしげて、それからふと図書室の一番奥のスペースへ向かった。窓に向かって並んでいる机に、何台かパソコンが置かれている。去年、突然設置されたもので、ここで蔵書の検索もできるし、ネットを見ることもできた。
(ここにいたのか)
裕生はそのうちの一台の前に座って、熱心にモニタに見入っていた。
ここにパソコンが設置された頃《ころ》は、物珍しさからよく生徒が集まっていたが、今はあまり使っている者もいない。それでも自宅にパソコンのない生徒は、時々そこで調べ物をしている。
裕生は不器用にマウスをいじくっている。どうも検索エンジンでなにかを検索している最中らしい。佐貫は裕生の背後から、そのキーワードを覗《のぞ》きこんだ。
(……『卵』……『伝説』……『怪物』……?)
確認できたのはその三つだけだった。気配《けはい》を感じたのか、裕生ははっと振り返る。
「調べ物か?」
と、佐貫は言った。裕生は慌てたようにブラウザを閉じてしまった。
「ちょっと……大したもんじゃないんだけど。うち、パソコンないし」
佐貫は不審《ふしん》に思った。確か雄一はノートパソコンを持って実家に帰ってきている。佐貫ともメールのやりとりをしているし、ネットにも繋《つな》げるはずだ。裕生は知らないのだろうか。
「『カゲヌシ』のこと調べてたんじゃないのか。藤牧《ふじまき》先輩《せんぱい》に頼めばいいのに」
裕生は心底|驚《おどろ》いた顔をする。
「……どうして分かったの?」
裕生《ひろお》はぎこちなく椅子《いす》から立ち上がった。
「どうしてって、他《ほか》にないだろ」
佐貫《さぬき》は小脇《こわき》に抱えていた大きな封筒を裕生の手に押しつける。
「ほら、これ。藤牧《ふじまき》先輩《せんぱい》に渡しといてくれよ」
中には例の「加賀見《かがみ》市|東区《ひがしく》における都市伝説について」と印刷された用紙が入っている。「カゲヌシ」の噂《うわさ》について、加賀見高校の生徒が語った内容が、佐貫の字でびっしりと書きこまれていた。
「藤牧先輩に、卵の話はまだ調べてる最中だって言っといてくれ」
「卵?」
「今、お前も調べてただろ。その話だよ。じゃあな」
これからまた別の知り合いから話を聞く予定になっている。佐貫が行きかけると、裕生が彼の腕をつかんだ。
「卵ってなに?」
「はあ? お前、そのこと知ってるんじゃないのか?」
裕生は首を横に振る——じゃあ、今のはなんだったんだ、と聞き返そうかと佐貫は思ったが、知り合いと待ち合わせの時間が迫っている。彼は早口で話し始めた。
「加賀高《かがこう》だけで広まってる『カゲヌシ』の噂があるんだよ。俺《おれ》が最初に聞いたのもそれだったんだけど、『カゲヌシ』が最初は卵に入ってるって話。卵から出てきて、人間を食うんだって」
「卵はどうなるの?」
「そこまでは知らないけどな。卵のほかにも、ちょっと変わった噂もあるぞ。『カゲヌシ』は、人間を焼いて食うんだとか、あとは犬に弱いとか……」
「ありがとう。助かったよ」
裕生は突然、持っていた封筒を佐貫の手に押しつけると、大股《おおまた》で図書室から出て行ってしまった。
「……どうしたんだ、あいつ」
佐貫は首をかしげた。第一、せっかく渡そうとした封筒を置いていってしまった。
(まあ、後から教室で渡せばいいか)
と、佐貫は思った。その時になにが起こったのか聞けばいい。
しかし、授業が始まっても裕生は戻ってこなかった。
佐貫《さぬき》は図書室に入っていった。裕生《ひろお》がここにいると聞いてやって来たのだった。
加賀見《かがみ》高校の図書室は旧校舎にある。蔵書《ぞうしょ》が多いわけでもないし、広いわけでもない。昼休みにもあまり生徒はいなかった。特に三年生が進路説明会の振替《ふりかえ》休日で、校内に一、二年生しかいないせいもある。佐貫は書架と書架の間を歩き回ったが、裕生の姿は見つからなかった。
佐貫は首をかしげて、それからふと図書室の一番奥のスペースへ向かった。窓に向かって並んでいる机に、何台かパソコンが置かれている。去年、突然設置されたもので、ここで蔵書の検索もできるし、ネットを見ることもできた。
(ここにいたのか)
裕生はそのうちの一台の前に座って、熱心にモニタに見入っていた。
ここにパソコンが設置された頃《ころ》は、物珍しさからよく生徒が集まっていたが、今はあまり使っている者もいない。それでも自宅にパソコンのない生徒は、時々そこで調べ物をしている。
裕生は不器用にマウスをいじくっている。どうも検索エンジンでなにかを検索している最中らしい。佐貫は裕生の背後から、そのキーワードを覗《のぞ》きこんだ。
(……『卵』……『伝説』……『怪物』……?)
確認できたのはその三つだけだった。気配《けはい》を感じたのか、裕生ははっと振り返る。
「調べ物か?」
と、佐貫は言った。裕生は慌てたようにブラウザを閉じてしまった。
「ちょっと……大したもんじゃないんだけど。うち、パソコンないし」
佐貫は不審《ふしん》に思った。確か雄一はノートパソコンを持って実家に帰ってきている。佐貫ともメールのやりとりをしているし、ネットにも繋《つな》げるはずだ。裕生は知らないのだろうか。
「『カゲヌシ』のこと調べてたんじゃないのか。藤牧《ふじまき》先輩《せんぱい》に頼めばいいのに」
裕生は心底|驚《おどろ》いた顔をする。
「……どうして分かったの?」
裕生《ひろお》はぎこちなく椅子《いす》から立ち上がった。
「どうしてって、他《ほか》にないだろ」
佐貫《さぬき》は小脇《こわき》に抱えていた大きな封筒を裕生の手に押しつける。
「ほら、これ。藤牧《ふじまき》先輩《せんぱい》に渡しといてくれよ」
中には例の「加賀見《かがみ》市|東区《ひがしく》における都市伝説について」と印刷された用紙が入っている。「カゲヌシ」の噂《うわさ》について、加賀見高校の生徒が語った内容が、佐貫の字でびっしりと書きこまれていた。
「藤牧先輩に、卵の話はまだ調べてる最中だって言っといてくれ」
「卵?」
「今、お前も調べてただろ。その話だよ。じゃあな」
これからまた別の知り合いから話を聞く予定になっている。佐貫が行きかけると、裕生が彼の腕をつかんだ。
「卵ってなに?」
「はあ? お前、そのこと知ってるんじゃないのか?」
裕生は首を横に振る——じゃあ、今のはなんだったんだ、と聞き返そうかと佐貫は思ったが、知り合いと待ち合わせの時間が迫っている。彼は早口で話し始めた。
「加賀高《かがこう》だけで広まってる『カゲヌシ』の噂があるんだよ。俺《おれ》が最初に聞いたのもそれだったんだけど、『カゲヌシ』が最初は卵に入ってるって話。卵から出てきて、人間を食うんだって」
「卵はどうなるの?」
「そこまでは知らないけどな。卵のほかにも、ちょっと変わった噂もあるぞ。『カゲヌシ』は、人間を焼いて食うんだとか、あとは犬に弱いとか……」
「ありがとう。助かったよ」
裕生は突然、持っていた封筒を佐貫の手に押しつけると、大股《おおまた》で図書室から出て行ってしまった。
「……どうしたんだ、あいつ」
佐貫は首をかしげた。第一、せっかく渡そうとした封筒を置いていってしまった。
(まあ、後から教室で渡せばいいか)
と、佐貫は思った。その時になにが起こったのか聞けばいい。
しかし、授業が始まっても裕生は戻ってこなかった。
不安をかき立てるような灰色の空だった。天気予報では雨が降るかもしれないということだった。
裕生は加賀見団地の入り口に立っていた。団地のゴミ置き場で見つけた奇妙な卵。団地の中になにかがいるのは間違いなかった。そして、数日前に起こったあの火事。死体が見つかったという話はいまだに聞いていない。出火の原因もはっきり分かっていなかった。
漠然《ばくぜん》としていたいくつかの事柄が、頭の中で漠然とまとまりつつある。それは裕生《ひろお》を本来ありえないはずの結論へ導《みちび》いていた。
あの卵から生まれた怪物が、人間を食べてしまったのだとしたら。
「カゲヌシ」は本当にいるのではないだろうか。
裕生は火事の起こった棟《とう》の前に来ていた。人通りはまったくない。彼は足音を忍ばせて、階段を上がっていった。
二階のドアの前で、裕生は立ち止まった。煙《けむり》にいぶされたせいか、ドアの周囲は黒く変色している。表札も最初の文字は「田」だと分かったが、その先は分からなかった。そういえば、裕生はこの部屋にいたのが誰《だれ》だったのか、まったく知らなかった。
ドアノブは無残に破壊《はかい》されている。おそらく、中に入るために消防隊員が壊《こわ》してしまったのだろう。大きな×印を描くように、黄色いテープがドアを塞《ふさ》いでいる。鉄のドアを引っ張ると、テープを破ることなく隙間《すきま》が開いた。
裕生はあたりに誰もいないことを確認してから、頭を押しこむようにして中を覗《のぞ》きこんだ。玄関の先に短い廊下《ろうか》があり、その向こうに六畳間が見える。黒く染め直したように、無残に焼き尽くされていた。
裕生は首を伸ばしてさらに奥を見ようとする——ぎりぎりで肩も隙間をくぐりぬけられそうだった。もともと裕生は小柄《こがら》な方だった。ゆっくりと力をこめると、裕生はするりとドアの奥へ潜《もぐ》りこむことができた。
玄関のドアを裕生は後ろ手に閉めた。心臓《しんぞう》がどきどきする。学校をサボった上、こんなところで住居不法侵入をやらかしている。誰かに見つかったら大変なことになることは分かっていた。しかし、この昼下がりのこの時間帯を逃せば、このあたりにも人通りが増える。誰にも見られずにこの部屋を調べることはできなかった。
彼は迷った末に靴《くつ》を脱いで玄関を上がった。焦《こ》げた床板がざらざらしている。壁《かべ》や天井《てんじょう》の損傷も激《はげ》しかった。裕生はキッチンを横目に見ながら短い廊下を進み、部屋へ入った。テレビやソファの残骸《ざんがい》が残っていた。おそらくこの部屋が居間だったに違いない。裕生のうちでもそうしている。
カーテンも焼けてしまい、カーテンレールからわずかに残った切れ端がぶら下がっているだけだった。窓の向こうの空はどんより曇《くも》っていて、部屋の中は薄暗《うすぐら》かった。ガラス越しに道路の反対側の棟が見える。
ふと、何かが足の下で乾いた音を立てた。
慌てて足を上げて、ソックスに貼《は》りついたそれを手にとった。
(虫?)
十円玉を少しはみ出すぐらいの大きさの、平べったい黒い甲虫だった。死体ではなくただの抜け殻《がら》のようで、脚《あし》も触角《しょっかく》もない。それでも裕生《ひろお》の知っているどんな虫とも違っていた。子供の頃《ころ》図鑑《ずかん》で見た、三葉虫《さんようちゅう》に少し似ているかもしれない。
明るいところでよく見ようと、裕生は窓のすぐそばに立つ。
「……雛咲《ひなさき》?」
思わず裕生は呟《つぶや》いた。窓から見える道路を葉《よう》が歩いていた。キャミソールに細かい花柄《はながら》のシャツを羽織《はお》って、ジーンズをはいている。制服を着ていないということは、今日は学校に行っていないのかもしれない。
彼女は加賀見《かがみ》団地の外へ歩いていく。なにか嫌な予感がした。裕生は手にしていた虫を捨てて、玄関の方へ走り出した。
裕生は加賀見団地の入り口に立っていた。団地のゴミ置き場で見つけた奇妙な卵。団地の中になにかがいるのは間違いなかった。そして、数日前に起こったあの火事。死体が見つかったという話はいまだに聞いていない。出火の原因もはっきり分かっていなかった。
漠然《ばくぜん》としていたいくつかの事柄が、頭の中で漠然とまとまりつつある。それは裕生《ひろお》を本来ありえないはずの結論へ導《みちび》いていた。
あの卵から生まれた怪物が、人間を食べてしまったのだとしたら。
「カゲヌシ」は本当にいるのではないだろうか。
裕生は火事の起こった棟《とう》の前に来ていた。人通りはまったくない。彼は足音を忍ばせて、階段を上がっていった。
二階のドアの前で、裕生は立ち止まった。煙《けむり》にいぶされたせいか、ドアの周囲は黒く変色している。表札も最初の文字は「田」だと分かったが、その先は分からなかった。そういえば、裕生はこの部屋にいたのが誰《だれ》だったのか、まったく知らなかった。
ドアノブは無残に破壊《はかい》されている。おそらく、中に入るために消防隊員が壊《こわ》してしまったのだろう。大きな×印を描くように、黄色いテープがドアを塞《ふさ》いでいる。鉄のドアを引っ張ると、テープを破ることなく隙間《すきま》が開いた。
裕生はあたりに誰もいないことを確認してから、頭を押しこむようにして中を覗《のぞ》きこんだ。玄関の先に短い廊下《ろうか》があり、その向こうに六畳間が見える。黒く染め直したように、無残に焼き尽くされていた。
裕生は首を伸ばしてさらに奥を見ようとする——ぎりぎりで肩も隙間をくぐりぬけられそうだった。もともと裕生は小柄《こがら》な方だった。ゆっくりと力をこめると、裕生はするりとドアの奥へ潜《もぐ》りこむことができた。
玄関のドアを裕生は後ろ手に閉めた。心臓《しんぞう》がどきどきする。学校をサボった上、こんなところで住居不法侵入をやらかしている。誰かに見つかったら大変なことになることは分かっていた。しかし、この昼下がりのこの時間帯を逃せば、このあたりにも人通りが増える。誰にも見られずにこの部屋を調べることはできなかった。
彼は迷った末に靴《くつ》を脱いで玄関を上がった。焦《こ》げた床板がざらざらしている。壁《かべ》や天井《てんじょう》の損傷も激《はげ》しかった。裕生はキッチンを横目に見ながら短い廊下を進み、部屋へ入った。テレビやソファの残骸《ざんがい》が残っていた。おそらくこの部屋が居間だったに違いない。裕生のうちでもそうしている。
カーテンも焼けてしまい、カーテンレールからわずかに残った切れ端がぶら下がっているだけだった。窓の向こうの空はどんより曇《くも》っていて、部屋の中は薄暗《うすぐら》かった。ガラス越しに道路の反対側の棟が見える。
ふと、何かが足の下で乾いた音を立てた。
慌てて足を上げて、ソックスに貼《は》りついたそれを手にとった。
(虫?)
十円玉を少しはみ出すぐらいの大きさの、平べったい黒い甲虫だった。死体ではなくただの抜け殻《がら》のようで、脚《あし》も触角《しょっかく》もない。それでも裕生《ひろお》の知っているどんな虫とも違っていた。子供の頃《ころ》図鑑《ずかん》で見た、三葉虫《さんようちゅう》に少し似ているかもしれない。
明るいところでよく見ようと、裕生は窓のすぐそばに立つ。
「……雛咲《ひなさき》?」
思わず裕生は呟《つぶや》いた。窓から見える道路を葉《よう》が歩いていた。キャミソールに細かい花柄《はながら》のシャツを羽織《はお》って、ジーンズをはいている。制服を着ていないということは、今日は学校に行っていないのかもしれない。
彼女は加賀見《かがみ》団地の外へ歩いていく。なにか嫌な予感がした。裕生は手にしていた虫を捨てて、玄関の方へ走り出した。
葉の後ろ姿はすぐに見つけることができた。
彼女は目を伏せたまま、裕生にはまったく気づかずに歩いていく。
なんとなく声をかけにくい雰囲気だった。かといって、このまま放っておく気にもなれない。
迷いながらも、とにかく後をついていくことにした。
(どこ行くんだろう)
なにも荷物を持っていない。彼女は少しふらついた足取りで、加賀見団地の敷地《しきち》を出てしまった。普段《ふだん》より肩が細く見えた。自分の作った料理をきちんと食べたのだろうか、と、裕生はちらりと思う。体調はあまりよくないようだった。
葉は曲がり角のたびに方向を変える。どこへ向かおうとしているのか分からないが、ただ散歩をしているようにも見えない。
どう考えても様子《ようす》がおかしい。やはり声をかけた方がいいかもしれない。彼が口を開きかけた時、突然葉が足を止めた。
尾行に気づいたのかと最初は思ったが、葉は裕生の方を見ようともしていなかった。まるでその先に誰《だれ》かいるというように、右手の路地をじっと見ている——そして、早足で路地に入っていった。裕生も慌ててその後を追う。
葉の足取りはそれまでとはうって変わって、確信に満ちたものだった。彼女は加賀見の古い住宅地を歩いていく。昔からの住民が住んでいるあたりだった。
(あれ、こっちって確か)
加賀見には幽霊《ゆうれい》病院、と言われている廃墟《はいきょ》がある。もう十年以上前に廃業してしまった産婦人科の病院で、何故《なぜ》か建物がそのままになっていた。不意に路地が途切《とぎ》れ、三階建てのコンクリートの建物が現れる。ガラスというガラスはほとんど割られ、壁《かべ》にはスプレーの落書きがのたくっていた。
葉はほとんど走るようにして、その病院の敷地へ入っていった。
彼女は目を伏せたまま、裕生にはまったく気づかずに歩いていく。
なんとなく声をかけにくい雰囲気だった。かといって、このまま放っておく気にもなれない。
迷いながらも、とにかく後をついていくことにした。
(どこ行くんだろう)
なにも荷物を持っていない。彼女は少しふらついた足取りで、加賀見団地の敷地《しきち》を出てしまった。普段《ふだん》より肩が細く見えた。自分の作った料理をきちんと食べたのだろうか、と、裕生はちらりと思う。体調はあまりよくないようだった。
葉は曲がり角のたびに方向を変える。どこへ向かおうとしているのか分からないが、ただ散歩をしているようにも見えない。
どう考えても様子《ようす》がおかしい。やはり声をかけた方がいいかもしれない。彼が口を開きかけた時、突然葉が足を止めた。
尾行に気づいたのかと最初は思ったが、葉は裕生の方を見ようともしていなかった。まるでその先に誰《だれ》かいるというように、右手の路地をじっと見ている——そして、早足で路地に入っていった。裕生も慌ててその後を追う。
葉の足取りはそれまでとはうって変わって、確信に満ちたものだった。彼女は加賀見の古い住宅地を歩いていく。昔からの住民が住んでいるあたりだった。
(あれ、こっちって確か)
加賀見には幽霊《ゆうれい》病院、と言われている廃墟《はいきょ》がある。もう十年以上前に廃業してしまった産婦人科の病院で、何故《なぜ》か建物がそのままになっていた。不意に路地が途切《とぎ》れ、三階建てのコンクリートの建物が現れる。ガラスというガラスはほとんど割られ、壁《かべ》にはスプレーの落書きがのたくっていた。
葉はほとんど走るようにして、その病院の敷地へ入っていった。