昼間とはいえ、こんなところに一秒でもいたくはない。加賀見《かがみ》では怪談《かいだん》話といえばこの病院が舞台《ぶたい》で、肝試《きもだめ》しをやる時には必ず利用されるスポットだった。
今日一日は家から出ないつもりだった。それでもここに来たのは、昨日の晩、彼女の携帯《けいたい》にメールが届いたからだ。彼女は自分の携帯を出すと、メールの内容を確認する。
「英語のテストのことをおぼえてますか」
と、いう一文から始まっていた。続いて、
「田島《たじま》さんと川相《かわい》さんのことでお話があります」と書かれている。そして、午後二時にこの病院の屋上に一人で来るよう指示されていた。送信元はフリーメールのアドレスで、誰《だれ》から来たものかは分からなかった。
英語のテスト、という唐突《とうとつ》な文面に一瞬《いっしゅん》戸惑ったが、多分《たぶん》、田島や川相とテストの問題を盗みに行った時のことだろうと思った。
ここ数日、友達の田島|杏子《きょうこ》と川相|千香《ちか》が二人とも行方《ゆくえ》不明になっている。田島の住んでいる団地の部屋が火事になり、中にいたはずの彼女は何故《なぜ》かいなくなってしまった。川相は自分の家に来た帰りに、加賀見公園で忽然《こつぜん》と消えてしまった。どちらも唐突な消え方で、事件に巻きこまれたかもしれないと警察《けいさつ》は考えているらしい。
智世は不吉な思いにかられていた——彼女たちにはもう会えないのでは、という漠然《ばくぜん》とした恐怖。周囲でなにか恐ろしいことが起ころうとしている。それを確かめるには、一人でここへ来るしかなかった。あの日のことは彼女たちだけの秘密だった。
ふと、背後でドアのきしむ音が聞こえた。携帯を握り締《し》めたまま振り向くと、階下へ通じているドアがわずかに開いていた。ドアの向こうの暗がりに誰かが立っている。まるで覗《のぞ》き見るように、片目だけが光っていた。
「……誰?」
何故か、ドアの向こうには誰もいない気がした。大きな人形と向かい合って喋《しゃべ》っているようだった。
「あんたがメール出したの?」
答えはなかった。
「川相と田島のこと、なんか知ってるんだよね?」
彼女は消え入りそうな自分の声を振り絞《しぼ》る。
「二人ともどうなったの?」
「……英語のテスト」
ドアの向こうから、かさかさにかすれた声が囁《ささや》いた。
「憶《おぼ》えてますか?」
かみ合わない会話に、智世《ともよ》の不安は増した。
「……あんた、誰《だれ》」
半ば無意識《むいしき》に、彼女はじりじりと後ずさりをしていた。
頭の中でここから逃げるルートを確認する。この屋上へ来るために、彼女は建物の外側にある非常階段から上がってきた。建物の中を通る気にはとてもなれなかったからだ。もし万が一のことが起こったら、そこを逆に辿《たど》って逃げればいい。
「あなたたちが消えれば、秘密は保たれる」
不意に声の調子が変わった。まるで呪文《じゅもん》を唱えているように、抑揚《よくよう》がなくなった。
「それが脆《もろ》き者のねがい。われら、脆き者のねがいと契約を結びし者、脆き者の影《かげ》に潜《ひそ》みし者なり」
「……なにワケの分かんないこと言ってんの」
しかし、その声は自分にも聞こえないほどか細かった。
「脆き者のねがいにこたえ、影の中よりいでし者なり」
不意に智世は理解したような気がした。ドアの向こうに誰も立っていないような気がするのは、そこにいるのが人間ではないからだ。今まで彼女が出会ったことも想像したこともないものだからだ。
「そしてわれら、脆き者に仇《あだ》なす奴輩《やつばら》を」
軋《きし》んだ音を立てながら、ドアが開いていく。その向こうにある闇《やみ》が、まるで液体のようにどろりと屋上に流れ出した。
「骨残さず喰らう者なり」
次の瞬間《しゅんかん》、その黒いものが智世に向かって殺到した。
今日一日は家から出ないつもりだった。それでもここに来たのは、昨日の晩、彼女の携帯《けいたい》にメールが届いたからだ。彼女は自分の携帯を出すと、メールの内容を確認する。
「英語のテストのことをおぼえてますか」
と、いう一文から始まっていた。続いて、
「田島《たじま》さんと川相《かわい》さんのことでお話があります」と書かれている。そして、午後二時にこの病院の屋上に一人で来るよう指示されていた。送信元はフリーメールのアドレスで、誰《だれ》から来たものかは分からなかった。
英語のテスト、という唐突《とうとつ》な文面に一瞬《いっしゅん》戸惑ったが、多分《たぶん》、田島や川相とテストの問題を盗みに行った時のことだろうと思った。
ここ数日、友達の田島|杏子《きょうこ》と川相|千香《ちか》が二人とも行方《ゆくえ》不明になっている。田島の住んでいる団地の部屋が火事になり、中にいたはずの彼女は何故《なぜ》かいなくなってしまった。川相は自分の家に来た帰りに、加賀見公園で忽然《こつぜん》と消えてしまった。どちらも唐突な消え方で、事件に巻きこまれたかもしれないと警察《けいさつ》は考えているらしい。
智世は不吉な思いにかられていた——彼女たちにはもう会えないのでは、という漠然《ばくぜん》とした恐怖。周囲でなにか恐ろしいことが起ころうとしている。それを確かめるには、一人でここへ来るしかなかった。あの日のことは彼女たちだけの秘密だった。
ふと、背後でドアのきしむ音が聞こえた。携帯を握り締《し》めたまま振り向くと、階下へ通じているドアがわずかに開いていた。ドアの向こうの暗がりに誰かが立っている。まるで覗《のぞ》き見るように、片目だけが光っていた。
「……誰?」
何故か、ドアの向こうには誰もいない気がした。大きな人形と向かい合って喋《しゃべ》っているようだった。
「あんたがメール出したの?」
答えはなかった。
「川相と田島のこと、なんか知ってるんだよね?」
彼女は消え入りそうな自分の声を振り絞《しぼ》る。
「二人ともどうなったの?」
「……英語のテスト」
ドアの向こうから、かさかさにかすれた声が囁《ささや》いた。
「憶《おぼ》えてますか?」
かみ合わない会話に、智世《ともよ》の不安は増した。
「……あんた、誰《だれ》」
半ば無意識《むいしき》に、彼女はじりじりと後ずさりをしていた。
頭の中でここから逃げるルートを確認する。この屋上へ来るために、彼女は建物の外側にある非常階段から上がってきた。建物の中を通る気にはとてもなれなかったからだ。もし万が一のことが起こったら、そこを逆に辿《たど》って逃げればいい。
「あなたたちが消えれば、秘密は保たれる」
不意に声の調子が変わった。まるで呪文《じゅもん》を唱えているように、抑揚《よくよう》がなくなった。
「それが脆《もろ》き者のねがい。われら、脆き者のねがいと契約を結びし者、脆き者の影《かげ》に潜《ひそ》みし者なり」
「……なにワケの分かんないこと言ってんの」
しかし、その声は自分にも聞こえないほどか細かった。
「脆き者のねがいにこたえ、影の中よりいでし者なり」
不意に智世は理解したような気がした。ドアの向こうに誰も立っていないような気がするのは、そこにいるのが人間ではないからだ。今まで彼女が出会ったことも想像したこともないものだからだ。
「そしてわれら、脆き者に仇《あだ》なす奴輩《やつばら》を」
軋《きし》んだ音を立てながら、ドアが開いていく。その向こうにある闇《やみ》が、まるで液体のようにどろりと屋上に流れ出した。
「骨残さず喰らう者なり」
次の瞬間《しゅんかん》、その黒いものが智世に向かって殺到した。
裕生《ひろお》は葉《よう》を見失っていた。葉は割れたガラス戸を潜《くぐ》り抜けて病院の建物へ入っていった。裕生もおっかなびっくりで後を追ったのだが、思ったよりも部屋が多く仕切られている。耳を澄《す》ませても葉の足音は聞こえなかった。仕方なく、一階の廊下の端《はし》から一つずつ部屋の中を覗《のぞ》きこんでいった。
医療《いりょう》用具は何も残っておらず、言われなければ病院であるかどうかも分からない。天井《てんじょう》もところどころ剥《は》がれ落ちており、ドアはすべて取り外され、壁《かべ》にも穴が空いている始末だった。
一階から三階までを一通り見て回るのに、かなり時間がかかった。それでも葉はどこにもいない。
(外へ出たのかな)
と、裕生《ひろお》は思う。だとしたら、彼が尾行していることにも、気づいていたのだろう。彼を撒《ま》くためにここへ入ったに違いない。裕生は慌てて階段を降りてロビーに出る。そして、入ってきたガラス戸から再び外へ出た。やはり葉《よう》の姿は見えない。
(どうしよう)
と、思った瞬間《しゅんかん》、誰《だれ》かの声が空から降ってきた。裕生は振り返って建物を見上げる——屋上から白い煙《けむり》が上がっていた。嗅《か》いだことのない異臭《いしゅう》がかすかにする。
裕生は煙をよく見ようと少し横へ移動する。建物の端《はし》に古い鉄製の非常階段が見える。もう一度、さっきよりも小さな声が聞こえた。
女の悲鳴だった。裕生は非常階段に向かって走り出す。ひょっとすると葉の声だったかもしれない。錆《さ》びの浮いた階段を裕生は駆《か》け上がっていった。踏《ふ》みしめるたびに階段全体がかすかに揺れ、握った手すりからぱらぱらと赤い粉が落ちる。それでも裕生は足取りを緩《ゆる》めなかった。
屋上全体を白い煙が覆《おお》っていて、視界がほとんど遮《さえぎ》られている。裕生は思わず鼻を覆う。肉の焦《こ》げる匂《にお》いのようなものが漂《ただよ》っていた。彼はひび割れたコンクリートの上を慎重《しんちょう》に進んでいく——スニーカーのつま先に、かつんと固いものがぶつかった。
(あれ?)
裕生が屈《かが》みこむと、誰かの携帯《けいたい》だった。女の子のものらしく、ストラップになにかのキャラクターの人形が揺れている。表示されているのはメールの文面らしかった。
「英語のテストのことをおぼえてますか。田島《たじま》さんと川相《かわい》さんのことで」
文章の意味は分からない。しかし、ここに誰かがいることは間違いないようだった。声をかけようとした時、不意に足元でかさかさという音がすることに気づいた。白い煙が薄《うす》れかけて、あたりの景色が元に戻りかけている。
裕生から二、三メートルほど離れた場所に、ぼんやりと黒い小山が見える。この屋上に充満していた煙は、そこから発していたようだった。
その小山に近づこうとすると、乾いた音を立てながら、山の一角がずるりと崩《くず》れた。中から焼けただれた赤黒い塊《かたまり》が現れる。
裕生の手から、拾ったばかりの携帯が滑り落ちた。体が震《ふる》え始める。今もなお燃えているその塊から、四本の手足と頭が伸びている。
人間の形をしていた。
「……あ」
これが人間のはずはないと裕生は思う。服は皮膚《ひふ》ごと焼け落ちて、頭の部分にはわずかに燃え残った頭髪がへばりついているだけだった。さっきは確かに女の悲鳴を聞いたが、今目の前にある肉塊が一体男女どちらであるのか、裕生には分からなかった。再び、黒いものがその死体を覆《おお》い尽くす——その時になって初めて、それが虫の群れだということに気づいた。虫に覆われた死体は、まるで氷が溶けるように小さくなっていった。
(食べてる)
裕生《ひろお》はよろよろと後ずさりをする。逃げなければ、と頭の隅《すみ》で考えていたが、両足に力が入らない。立っているのがやっとだった。彼の目の前で、死体は食い尽くされ、大きな黒い染《し》みのように、虫の群れが広がっているだけになった。白い煙はほとんど晴れていた。
それはゆっくりと裕生の足元に向かってにじり寄ってくる。裕生はその虫が、さっき火事の現場で見た抜け殻《がら》とそっくりだということに気づいた。
コンクリートの上には、裕生がさっき落とした携帯《けいたい》があった。おそらく、あの犠牲《ぎせい》者のものだったのだろう。虫の群れが携帯を呑《の》みこんだ瞬間《しゅんかん》、ぱちっとプラスチックのボディが爆《は》ぜた。
そして、めらめらと青い光を上げ始める。
裕生の全身が総毛立《そうけだ》った。
(虫が火を点《つ》けた)
あの火事もこの虫が起こしたのだ。今、目の前にいるのは、この世に存在するはずのない生き物だった。それでも彼は動くことができなかった。もう少しで彼のつま先に達しようとした時、虫の群れがぴたりと止まった。
裕生の頬《ほお》を、冷たいしずくがぽつりと叩《たた》いた。屋上のコンクリートの上に、転々と小さな黒い点が広がりつつあった。
雨だった。
突然、虫たちは波が引くように一斉《いつせい》に退き、建物の中へ通じているドアの中へと入っていった。その向こうの暗がりに、裕生は目を凝《こ》らす。姿は見えないが、確かに誰《だれ》かが立っていた。
「お前は秘密を知らない」
ドアの向こうで誰かが囁《ささや》き声で言った。
「脆《もろ》き者のねがいに含まれない」
どくんと心臓《しんぞう》が高鳴った。無理矢理《むりやり》声色《こわいろ》を使っているように聞こえる。しかし、その声には聞き覚えがある気がした——それも、裕生がよく知っている人間のような。
「……誰だ」
震《ふる》える声で裕生は言った。相手の返事はなかった。相手の遠ざかる気配《けはい》がする。聞き覚えがある、ということしか裕生には分からなかった。いや、考えるのが怖《こわ》いのかもしれない。
「お前が『カゲヌシ』なのか」
ドアの向こうで、そのなにかの動きが止まった。
「我らに眷属《けんぞく》としての総称はない」
「お前は誰だ」
もう一度同じ質問を口にする。ためらうような間《ま》があった。
「ヒトリムシ」
そして、すべての気配《けはい》が消えた。
医療《いりょう》用具は何も残っておらず、言われなければ病院であるかどうかも分からない。天井《てんじょう》もところどころ剥《は》がれ落ちており、ドアはすべて取り外され、壁《かべ》にも穴が空いている始末だった。
一階から三階までを一通り見て回るのに、かなり時間がかかった。それでも葉はどこにもいない。
(外へ出たのかな)
と、裕生《ひろお》は思う。だとしたら、彼が尾行していることにも、気づいていたのだろう。彼を撒《ま》くためにここへ入ったに違いない。裕生は慌てて階段を降りてロビーに出る。そして、入ってきたガラス戸から再び外へ出た。やはり葉《よう》の姿は見えない。
(どうしよう)
と、思った瞬間《しゅんかん》、誰《だれ》かの声が空から降ってきた。裕生は振り返って建物を見上げる——屋上から白い煙《けむり》が上がっていた。嗅《か》いだことのない異臭《いしゅう》がかすかにする。
裕生は煙をよく見ようと少し横へ移動する。建物の端《はし》に古い鉄製の非常階段が見える。もう一度、さっきよりも小さな声が聞こえた。
女の悲鳴だった。裕生は非常階段に向かって走り出す。ひょっとすると葉の声だったかもしれない。錆《さ》びの浮いた階段を裕生は駆《か》け上がっていった。踏《ふ》みしめるたびに階段全体がかすかに揺れ、握った手すりからぱらぱらと赤い粉が落ちる。それでも裕生は足取りを緩《ゆる》めなかった。
屋上全体を白い煙が覆《おお》っていて、視界がほとんど遮《さえぎ》られている。裕生は思わず鼻を覆う。肉の焦《こ》げる匂《にお》いのようなものが漂《ただよ》っていた。彼はひび割れたコンクリートの上を慎重《しんちょう》に進んでいく——スニーカーのつま先に、かつんと固いものがぶつかった。
(あれ?)
裕生が屈《かが》みこむと、誰かの携帯《けいたい》だった。女の子のものらしく、ストラップになにかのキャラクターの人形が揺れている。表示されているのはメールの文面らしかった。
「英語のテストのことをおぼえてますか。田島《たじま》さんと川相《かわい》さんのことで」
文章の意味は分からない。しかし、ここに誰かがいることは間違いないようだった。声をかけようとした時、不意に足元でかさかさという音がすることに気づいた。白い煙が薄《うす》れかけて、あたりの景色が元に戻りかけている。
裕生から二、三メートルほど離れた場所に、ぼんやりと黒い小山が見える。この屋上に充満していた煙は、そこから発していたようだった。
その小山に近づこうとすると、乾いた音を立てながら、山の一角がずるりと崩《くず》れた。中から焼けただれた赤黒い塊《かたまり》が現れる。
裕生の手から、拾ったばかりの携帯が滑り落ちた。体が震《ふる》え始める。今もなお燃えているその塊から、四本の手足と頭が伸びている。
人間の形をしていた。
「……あ」
これが人間のはずはないと裕生は思う。服は皮膚《ひふ》ごと焼け落ちて、頭の部分にはわずかに燃え残った頭髪がへばりついているだけだった。さっきは確かに女の悲鳴を聞いたが、今目の前にある肉塊が一体男女どちらであるのか、裕生には分からなかった。再び、黒いものがその死体を覆《おお》い尽くす——その時になって初めて、それが虫の群れだということに気づいた。虫に覆われた死体は、まるで氷が溶けるように小さくなっていった。
(食べてる)
裕生《ひろお》はよろよろと後ずさりをする。逃げなければ、と頭の隅《すみ》で考えていたが、両足に力が入らない。立っているのがやっとだった。彼の目の前で、死体は食い尽くされ、大きな黒い染《し》みのように、虫の群れが広がっているだけになった。白い煙はほとんど晴れていた。
それはゆっくりと裕生の足元に向かってにじり寄ってくる。裕生はその虫が、さっき火事の現場で見た抜け殻《がら》とそっくりだということに気づいた。
コンクリートの上には、裕生がさっき落とした携帯《けいたい》があった。おそらく、あの犠牲《ぎせい》者のものだったのだろう。虫の群れが携帯を呑《の》みこんだ瞬間《しゅんかん》、ぱちっとプラスチックのボディが爆《は》ぜた。
そして、めらめらと青い光を上げ始める。
裕生の全身が総毛立《そうけだ》った。
(虫が火を点《つ》けた)
あの火事もこの虫が起こしたのだ。今、目の前にいるのは、この世に存在するはずのない生き物だった。それでも彼は動くことができなかった。もう少しで彼のつま先に達しようとした時、虫の群れがぴたりと止まった。
裕生の頬《ほお》を、冷たいしずくがぽつりと叩《たた》いた。屋上のコンクリートの上に、転々と小さな黒い点が広がりつつあった。
雨だった。
突然、虫たちは波が引くように一斉《いつせい》に退き、建物の中へ通じているドアの中へと入っていった。その向こうの暗がりに、裕生は目を凝《こ》らす。姿は見えないが、確かに誰《だれ》かが立っていた。
「お前は秘密を知らない」
ドアの向こうで誰かが囁《ささや》き声で言った。
「脆《もろ》き者のねがいに含まれない」
どくんと心臓《しんぞう》が高鳴った。無理矢理《むりやり》声色《こわいろ》を使っているように聞こえる。しかし、その声には聞き覚えがある気がした——それも、裕生がよく知っている人間のような。
「……誰だ」
震《ふる》える声で裕生は言った。相手の返事はなかった。相手の遠ざかる気配《けはい》がする。聞き覚えがある、ということしか裕生には分からなかった。いや、考えるのが怖《こわ》いのかもしれない。
「お前が『カゲヌシ』なのか」
ドアの向こうで、そのなにかの動きが止まった。
「我らに眷属《けんぞく》としての総称はない」
「お前は誰だ」
もう一度同じ質問を口にする。ためらうような間《ま》があった。
「ヒトリムシ」
そして、すべての気配《けはい》が消えた。