夕紀《ゆき》に呼び出された雄一《ゆういち》は、駅前のオープンカフェで向かい合っていた。少し早い時間だったが、開店したばかりの時間で客はほとんどいなかった。静かで雰囲気もよく、いかにも打ち明け話にふさわしい雰囲気だった。
この前と同じように、世間話が続いていた。雄一は話を切り出さない夕紀に苛立《いらだ》ってはいなかったが、不審《ふしん》に思っていた。そもそも、お互い大学は都心の方で、そちらに住んでいるのだから、わざわざ加賀見《かがみ》でしなくてもいい気がした。
ふと、会話が途切《とぎ》れる。夕紀は俯《うつむ》いてもじもじと手元をいじっていた。そろそろ言う気になったかな、と彼は思った。夕紀がぱっと顔を上げる。
「……あの、実はわたし、ずっと前から藤牧《ふじまき》先輩《せんぱい》に」
雄一の携帯の着メロが盛大に鳴った。いかにもこの場の雰囲気にそぐわない、クラシックの派手《はで》な行進曲だった。
「悪《わり》ィ。ちょっと待った」
電話は裕生《ひろお》からだった。雄一はあたりを見回す。他《ほか》に客はいなかったので、別に構わないかと思って通話ボタンを押した。
「おお、裕生。なんだ?」
『聞きたいことがあるんだけど』
「お前、今学校じゃねえのかよ」
『兄さんが集めてる噂《うわさ》の中に、カゲヌシから逃《のが》れる方法ってなかった?』
前触れもなく裕生は言った。最近、裕生はあまりこちらの質問には答えない。なにかを尋《たず》ねることはあっても、以前のように起こったことを丸ごと雄一に頼《たよ》るようなことはしなくなった。多少、寂しくもあったが、今までが軟弱すぎると思っていたので、それぐらいがちょうどいいのかもしれない。
「『カゲヌシ』から逃れる方法……?」
この種類の噂が長い時間流通すると、必ずといっていいほど「どうやって出あった怪物から逃れることができるか」の情報も、噂に付記されるようになる。危機に対する心理的な防衛《ぼうえい》機能《きのう》のようなものだと雄一は解釈している。それにしても、弟はどうしてそんなことを知りたがっているのだろう。
「なんでそんなこと知りてえんだ?」
予想通り答えはない。まあそうだよな、と雄一は口元に笑みを浮かべた。大事なことをしようとしていれば、他人に言えないに決まっている。そういうものなのだ。
「まあ、いくつかは聞いてんぞ。犬《いぬ》を連れてけばいいとか、それもただの犬じゃなくて黒犬じゃねえとダメだとか、その数も二匹がいいとか三匹がいいとか」
『なに、それ』
がっかりしたように裕生《ひろお》は言った。
「俺《おれ》に言うなよ。俺が広めた噂《うわさ》じゃねえんだから。用ってそれか?」
ためらうような気配《けはい》の後で、裕生の声が聞こえた。
『雛咲《ひなさき》は誰《だれ》かを傷つけたりすると思う?』
「なに言ってんだ。葉《よう》がそんなことするはずねえだろ」
沈黙《ちんもく》が流れた。ただでさえ大きな雄一《ゆういち》の手の中に携帯《けいたい》が沈む。壊《こわ》れそうなほどの力で握り締《し》めていた。
(なんで『そうだね』とか言わねんだ)
「裕生よ」
ドスの効いた声で雄一は言った。実は雄一が弟に腹を立てたことはほとんどない。しかし、この場合は別だった。
「まさか自信がねえんじゃねえだろうな」
やはり答えはない。次の瞬間《しゅんかん》、雄一は叫んだ。
「葉がどんな人間か、一番知ってんのはテメエだろ! フザけたことぬかしてっと埋めんぞこのクソガキが!」
ぷつっと雄一は通話を打ち切って、ふう、と深呼吸した。なにがあったのか知らないが、あれぐらい言っておけば目も醒《さ》めるだろう。
(なんだか知らねえけど、がんばれよ)
と、雄一は思った。
「……あの、なにかあったんですか?」
「いや、こっちのこと。なんの話だっけ」
「……いえ」
夕紀《ゆき》はため息をついた。