西尾《にしお》夕紀《ゆき》と藤牧《ふじまき》雄一《ゆういち》は池の柵《さく》にもたれて、光る水面をぼんやりと眺めている。二人は加賀見《かがみ》公園のボート池の前にいた。公園の中は人もまばらで、彼らのまわりには誰の姿も見えなかった。
「わたし、去年の今頃《いまごろ》、先輩に相談《そうだん》したいことがあったんです」
と、西尾夕紀は言った。
「言や良かったじゃねえか」
雄一はタバコに火を点《つ》けながら言った。
「でも、先輩はもう卒業してたし、忙しいだろうし、迷惑かなって」
「バカかお前。関係ねえだろ。いつでも言え」
夕紀は雄一の顔を見る。不思議《ふしぎ》な人だと思った。見た目は怖いし、言葉はいつも乱暴だけれど、本当は誰に対しても優《やさ》しい。
「まあ、俺《おれ》みたいなバカ相手じゃ話しづらいかもしんねーけどな。お前の相談だったら、いくらでも乗ろうってヤツはいるんじゃねえのか」
「わたしがそういうこと話せるの、先輩《せんぱい》だけなんです」
沈黙《ちんもく》が流れた。雄一《ゆういち》は珍しく慌てたように視線を逸《そ》らす。少し頬《ほお》が赤くなっていた。
「でも、もし話をして、聞いてもらえなかったらって思ったらそれが怖くて」
「聞くっつってんだろ。なに言ってんだお前は」
夕紀《ゆき》は自殺した志乃《しの》のことを考えていた。加賀見《かがみ》に帰ってきたのは、志乃がなにをしているかを聞き出して、誰《だれ》かにそれを話すためだった。しかし、どうやって志乃が秘密を知る人間を「消して」いたのかは、分からないままだ。
自分が気絶した後、旧校舎でなにがあったのかも夕紀は知らない。裕生《ひろお》に聞いても、自分は逃げ出しただけだと繰り返すだけだった。
結局、夕紀はなにもできなかった。
「私は勇気がないんです。大事な時に言わなくちゃいけないこととか、しなくちゃいけないこともずっとそのままになってて」
一年前のあの時、自分が勇気を出して誰かに話していれば、こんなことにはならなかったと思う。志乃は学校の先生に、自分がカンニングを見た、と告白して死んだ。夕紀の話は最後まで出していない。秘密は保たれたままだった。
「先輩みたいに、わたしは勇気がないんです。その時誰かに話してれば、どうってことなかったかもしれないのに、秘密にしたせいで……」
夕紀は先を言うことができなかった。涙をこらえるのがやっとだった。雄一は池の柵《さく》にタバコを押しつけて火を消すと、近くの灰皿に放り投げた。
「……なにがあったのか知らねえけど」
と、雄一が言った。
「俺《オレ》ァ言えねえことまで話せなんて言わねえぞ。話す気になったら話しゃいいだろうけど、度胸がなくて絶対言えねえことって、誰でもあんじゃねえのか」
「でも、先輩にはそういうことないでしょう」
そう言ってから、夕紀は驚《おどろ》いた。雄一は今まで見たことがないような、思いつめた目をしている。
「俺にだって秘密ぐらいあるぞ」
と、彼は恥じるように呟《つぶや》いた。
「俺には一番大事な度胸がねえ。秘密を知られんのが怖《こえ》えんだ」
「あの……」
夕紀は言いよどんだ。それがどういうものなのか知りたかったが、言えないから秘密なのだろう。雄一は体の向きを変えて、正面から夕紀を見た。
「ひょっとして聞きてえか?」
夕紀《ゆき》はこくりと頷《うなず》いた。
「わたしが聞いていいことだったら、ですけど」
雄一《ゆういち》がどういう秘密を持っているか知りたかったし、彼の話を聞けば、ひょっとしたら自分もそういう勇気を持てるかもしれない。
彼はまじまじと夕紀の顔を見ていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「そっか。じゃあ、話すかな」
かすかに声が震《ふる》えていることに夕紀は気づいた。雄一が緊張《きんちょう》しているところを見るのはこれが初めてだった。
「あのな」
彼は大きく息を吸いこんで、ふうっと吐《は》いた。それから先は、普段《ふだん》と同じ声で話し始めた。
「昔、一人のバカがいた」
「え?」
「ほんとにそいつはバカだった。しょっちゅうケンカばっかりしてた」
どうやら、雄一のことらしい。夕紀は黙《だま》って先を促した。
「そいつには弟がいた。そのバカがバイクを盗んだ時、そいつの弟は病院で死にかけてた。生きるか死ぬかって手術ん時に、そのバカは警察《けいさつ》にいた。そいつの親父《おやじ》は息子の一人が死にかけてる時に、もう一人のバカな息子を迎えに警察へ行かなきゃなんなかった。どうにか病院に着いた時には、もう手術は終わってた。手術は成功した。でも、そいつは思った。もし、手術が失敗したら、もう弟に会えなかったかもしれねえって」
「……」
「そのバカは自分が強いと思ってた。周《まわ》りの奴《やつ》になんかあったら、自分はなんだってできると思ってた。でも、バカじゃしょうがねえんだ。だから、人間はバカじゃいけねえ。そいつは学校に通うようになった——ただ、『バカじゃねえ奴』ってのは具体的になにをするもんなのか、よく分かってなかった」
そこで言葉を切って、雄一は夕紀の顔から目をそらした。
「そのバカには中学の頃《ころ》から好きな女の子がいた。ほとんど話したことなかったけど、頭がよくて性格がよくて誰《だれ》からも好かれてた。ちょっとだけ話した時、そのバカはその子から茶道《さどう》に興味《きょうみ》があるって話を、聞いたことがあった。だからそのバカは自分も茶道をやろうと思った。まあ、ちっと高級なもんに憧《あこが》れてたワケだな」
二本目のタバコを出そうとする手が、かたかたと震えていた。
「女の子が茶道部に入ってきた時、そいつはマジで驚《おどろ》いた。考えもしてなかったからな。でも、ずっと自分の気持ちは打ち明けらんなかった。自分はふさわしくねえって思ってたんだ。だから、せめていつでもその子の力になるつもりだった。何年もずっとそう思ってきた。今日、この時まではな」
「……これからは?」
夕紀《ゆき》はようやくそれだけ言った。それ以上なにか言うと、涙がこぼれそうだった。雄一《ゆういち》はまっすぐに彼女の目を見つめた。
「これからは俺《おれ》と付き合ってほしい……俺はお前がずっと好きだった。それが俺の秘密だ」
「わたし、去年の今頃《いまごろ》、先輩に相談《そうだん》したいことがあったんです」
と、西尾夕紀は言った。
「言や良かったじゃねえか」
雄一はタバコに火を点《つ》けながら言った。
「でも、先輩はもう卒業してたし、忙しいだろうし、迷惑かなって」
「バカかお前。関係ねえだろ。いつでも言え」
夕紀は雄一の顔を見る。不思議《ふしぎ》な人だと思った。見た目は怖いし、言葉はいつも乱暴だけれど、本当は誰に対しても優《やさ》しい。
「まあ、俺《おれ》みたいなバカ相手じゃ話しづらいかもしんねーけどな。お前の相談だったら、いくらでも乗ろうってヤツはいるんじゃねえのか」
「わたしがそういうこと話せるの、先輩《せんぱい》だけなんです」
沈黙《ちんもく》が流れた。雄一《ゆういち》は珍しく慌てたように視線を逸《そ》らす。少し頬《ほお》が赤くなっていた。
「でも、もし話をして、聞いてもらえなかったらって思ったらそれが怖くて」
「聞くっつってんだろ。なに言ってんだお前は」
夕紀《ゆき》は自殺した志乃《しの》のことを考えていた。加賀見《かがみ》に帰ってきたのは、志乃がなにをしているかを聞き出して、誰《だれ》かにそれを話すためだった。しかし、どうやって志乃が秘密を知る人間を「消して」いたのかは、分からないままだ。
自分が気絶した後、旧校舎でなにがあったのかも夕紀は知らない。裕生《ひろお》に聞いても、自分は逃げ出しただけだと繰り返すだけだった。
結局、夕紀はなにもできなかった。
「私は勇気がないんです。大事な時に言わなくちゃいけないこととか、しなくちゃいけないこともずっとそのままになってて」
一年前のあの時、自分が勇気を出して誰かに話していれば、こんなことにはならなかったと思う。志乃は学校の先生に、自分がカンニングを見た、と告白して死んだ。夕紀の話は最後まで出していない。秘密は保たれたままだった。
「先輩みたいに、わたしは勇気がないんです。その時誰かに話してれば、どうってことなかったかもしれないのに、秘密にしたせいで……」
夕紀は先を言うことができなかった。涙をこらえるのがやっとだった。雄一は池の柵《さく》にタバコを押しつけて火を消すと、近くの灰皿に放り投げた。
「……なにがあったのか知らねえけど」
と、雄一が言った。
「俺《オレ》ァ言えねえことまで話せなんて言わねえぞ。話す気になったら話しゃいいだろうけど、度胸がなくて絶対言えねえことって、誰でもあんじゃねえのか」
「でも、先輩にはそういうことないでしょう」
そう言ってから、夕紀は驚《おどろ》いた。雄一は今まで見たことがないような、思いつめた目をしている。
「俺にだって秘密ぐらいあるぞ」
と、彼は恥じるように呟《つぶや》いた。
「俺には一番大事な度胸がねえ。秘密を知られんのが怖《こえ》えんだ」
「あの……」
夕紀は言いよどんだ。それがどういうものなのか知りたかったが、言えないから秘密なのだろう。雄一は体の向きを変えて、正面から夕紀を見た。
「ひょっとして聞きてえか?」
夕紀《ゆき》はこくりと頷《うなず》いた。
「わたしが聞いていいことだったら、ですけど」
雄一《ゆういち》がどういう秘密を持っているか知りたかったし、彼の話を聞けば、ひょっとしたら自分もそういう勇気を持てるかもしれない。
彼はまじまじと夕紀の顔を見ていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「そっか。じゃあ、話すかな」
かすかに声が震《ふる》えていることに夕紀は気づいた。雄一が緊張《きんちょう》しているところを見るのはこれが初めてだった。
「あのな」
彼は大きく息を吸いこんで、ふうっと吐《は》いた。それから先は、普段《ふだん》と同じ声で話し始めた。
「昔、一人のバカがいた」
「え?」
「ほんとにそいつはバカだった。しょっちゅうケンカばっかりしてた」
どうやら、雄一のことらしい。夕紀は黙《だま》って先を促した。
「そいつには弟がいた。そのバカがバイクを盗んだ時、そいつの弟は病院で死にかけてた。生きるか死ぬかって手術ん時に、そのバカは警察《けいさつ》にいた。そいつの親父《おやじ》は息子の一人が死にかけてる時に、もう一人のバカな息子を迎えに警察へ行かなきゃなんなかった。どうにか病院に着いた時には、もう手術は終わってた。手術は成功した。でも、そいつは思った。もし、手術が失敗したら、もう弟に会えなかったかもしれねえって」
「……」
「そのバカは自分が強いと思ってた。周《まわ》りの奴《やつ》になんかあったら、自分はなんだってできると思ってた。でも、バカじゃしょうがねえんだ。だから、人間はバカじゃいけねえ。そいつは学校に通うようになった——ただ、『バカじゃねえ奴』ってのは具体的になにをするもんなのか、よく分かってなかった」
そこで言葉を切って、雄一は夕紀の顔から目をそらした。
「そのバカには中学の頃《ころ》から好きな女の子がいた。ほとんど話したことなかったけど、頭がよくて性格がよくて誰《だれ》からも好かれてた。ちょっとだけ話した時、そのバカはその子から茶道《さどう》に興味《きょうみ》があるって話を、聞いたことがあった。だからそのバカは自分も茶道をやろうと思った。まあ、ちっと高級なもんに憧《あこが》れてたワケだな」
二本目のタバコを出そうとする手が、かたかたと震えていた。
「女の子が茶道部に入ってきた時、そいつはマジで驚《おどろ》いた。考えもしてなかったからな。でも、ずっと自分の気持ちは打ち明けらんなかった。自分はふさわしくねえって思ってたんだ。だから、せめていつでもその子の力になるつもりだった。何年もずっとそう思ってきた。今日、この時まではな」
「……これからは?」
夕紀《ゆき》はようやくそれだけ言った。それ以上なにか言うと、涙がこぼれそうだった。雄一《ゆういち》はまっすぐに彼女の目を見つめた。
「これからは俺《おれ》と付き合ってほしい……俺はお前がずっと好きだった。それが俺の秘密だ」
*
「わたしたちが茶道《さどう》部の部室を出た時は、夕方の四時を回っていたと思います。一学期の中間テストが近づいていて、旧校舎にほとんど人は残っていませんでした」
夕日の差しこむ団地の四畳半で、雄一はノートパソコンのモニタをにらみつけている。さっき夕紀から届いたメールを黙々《もくもく》と読んでいた。長いメールだった。雄一が公園で告白してから、数時間が経《た》っている。
夕紀の答えは奇妙なものだった。どうしても雄一に知っておいてほしいことがある。うまく口で説明できる自信がないので、メールに書いて送る——というものだった。
(これがあいつの秘密だったのか)
と、雄一は思う。どうやら去年のカンニングに関《かか》わった時のことらしい。名前を伏せているが、「後輩《こうはい》」というのは自殺した志乃《しの》に違いなかった。
(飯倉《いいくら》が死んだこととも、関係があんだな)
このメールだけでは分からなかった。おそらく、見た目よりも複雑な事情が絡《から》んでいる気がした。はっきりしているのは、彼女の秘密を知ったとしても変わらない自分の気持ちだけだった。彼は夕紀の告白の最後に添えられた文章に目を止めた。
夕紀の答えは奇妙なものだった。どうしても雄一に知っておいてほしいことがある。うまく口で説明できる自信がないので、メールに書いて送る——というものだった。
(これがあいつの秘密だったのか)
と、雄一は思う。どうやら去年のカンニングに関《かか》わった時のことらしい。名前を伏せているが、「後輩《こうはい》」というのは自殺した志乃《しの》に違いなかった。
(飯倉《いいくら》が死んだこととも、関係があんだな)
このメールだけでは分からなかった。おそらく、見た目よりも複雑な事情が絡《から》んでいる気がした。はっきりしているのは、彼女の秘密を知ったとしても変わらない自分の気持ちだけだった。彼は夕紀の告白の最後に添えられた文章に目を止めた。
「先輩が言ってくれたこと、すごくうれしかった」