「……着いたね」
と、裕生《ひろお》は言った。東桜《とうおう》大学の校門の前に裕生と葉《よう》は立っている。レンガ造りの門柱の上に、古い鉄のアーチがかかっている。アーチのちょうど真ん中あたりに、校章が見えた。今度こそ目的地についたと裕生は思った。
「はい」
葉はほとんど表情を変えていないが、顔色が少し悪い。さんざん道に迷ったせいで、疲れているに違いない。もともと、裕生も葉もめったに都心の方へは来ることはない。東桜大学へ来るのもこれが初めてだった。
駅のすぐそばという話は知っていたのだが、カソリック系の大学であり、教会が併設されていることまでは知らなかった。運悪く駅から見える位置にあるのが、十字架のついた高い鐘楼《しょうろう》で(「あれじゃないかな」「……あれは教会です」)、反対方向へ行ってしまい、近辺をぐるぐる回るはめになった。
もう十二時を少し回っている。午前の講義《こうぎ》を終えた学生たちが続々と校門から出てくる。待ち合わせの場所にも使われているらしく、校門の近くの歩道にも人の姿がある。裕生たちは人ごみを避《さ》けて、案内板の前に立っていた。
「兄さんに電話してみようか」
昼休みだから電話をしても大丈夫だろう。裕生は携帯を出して、雄一にかける——しかし、繋《つな》がらなかった。
後でかけてみよう、と思って携帯を閉じた時、葉が自分の隣《となり》にいないことに気づいた。
「あれ?」
辺《あた》りを見回すと、いつのまにか白いシャツを着た背の高い学生と話している。金色に近い薄《うす》い色の髪と白い肌が奇妙に中性的な印象を与える。細く吊《つ》り上がった目元を除けば、美男子と言ってもさしつかえなかった。
「こんにちは」
裕生《ひろお》が近づいていくと彼の声が聞こえた。
「……」
「高校生かな?」
どう見てもナンパなのだが、葉《よう》はきょとんとした顔で相手を見上げているだけだった。
「雛咲《ひなさき》、どうかした?」
少し大きな声で話しかけると、男は笑顔《えがお》を浮かべながら無言で立ち去った。
「離《はな》れない方がいいよ。話しかけられるから」
「どうしてですか」
本人はまったく理解していないらしい。学生たちがちらちらと二人を見ている。葉の人目を引く容姿のせいもあるが、大学生ではない裕生たちは明らかに浮いていた。
立ち止まっているとかえって目立つ。とにかく、大学の構内に入ってしまおうとした時、裕生は門柱の片側に、何人か職員《しょくいん》が集まって話しこんでいることに気づいた。
(どうしたんだろう)
裕生たちは彼らの背後から門柱を覗《のぞ》きこむ。レンガに白いスプレーで落書きをされていた。描かれているのは、二つの三角形を組み合わせたマークだった。
「これ、なんて言うんだっけ」
と、裕生は言った。とても有名なデザインだった。葉も首をかしげていたが、やがて言った。
「分かりませんけど、ユダヤ人が」
「あ、そうそう。六芒星《ろくぼうせい》……だっけ」
ユダヤ教を象徴《しょうちょう》するデザインとも言われていて、ナチスドイツに迫害されたユダヤ人が、このマークを胸につけさせられていたという。別に珍しい模様ではない。でも、誰《だれ》がこんなところに落書きをしたのかな、と思っていると、
「んんんん————?」
鼻歌と悲鳴の中間のような声が周囲に響《ひび》き渡った。案《あん》の定《じょう》、人ごみをかき分けるようにして現れたのは藤牧《ふじまき》雄一《ゆういち》だった。
「裕生と葉か?」
百メートル先からでも分かりそうな派手《はで》なシャツに、裕生は眩暈《めまい》がした。裕生たち以上に、雄一は周囲の学生から浮いている。
「なにやってんだ、お前ら。学校サボってデートかよ」
「そんなこと」
ふと、裕生は兄に会った時にどう説明するのか、全然考えていなかったことに気づいた。ポケットには例の鉄球が入っているが、そのことを聞くためだけにわざわざ来た、と言うのではあまりにも不自然だった。
「うん……まあ、そう……かな。せっかく近くまで来たから、兄さんの顔見ていこうって話になって」
葉《よう》がはっと裕生《ひろお》の顔を見る。
「ふ————ん」
あまり長話をするとボロが出る。裕生はすかさずポケットを探って、例の鉄球を差し出した。
「そういえばこれ、兄さんの?」
雄一《ゆういら》は首をかしげる。
「あ、なんでお前が持ってんだ?」
「父さんが間違えて持って帰ってきたんだよ。せっかく近くまで来たから、届けようと思って」
父さん、と言ったとたんに雄一の表情がくもった。
「……そうか。昨日なくしたから、どこやったかって思ってたんだ。まあ、俺《おれ》も拾ったんだけどな」
裕生は頷《うなず》いた。そこまでは父から聞いて知っている。知りたいのはそこから先のことだった。特に雄一がカゲヌシの危険にさらされていないかどうかだった。裕生は横目で葉の方を見る。意識《いしき》を集中するように目を閉じている。カゲヌシの気配《けはい》がするかどうか、必死で感じ取ろうとしているらしい。
「拾ったってどこで?」
「いや。あそこの屋上」
雄一は敷地《しきち》の奥の方に見える、コンクリートの校舎を指差した。
「休講《きゅうこう》ん時にあそこでボーっとしてたら、落ちてたんだよな。なんに使うんだろうな、それ」
その時、葉がぎゅっと雄一の手を握った。おそらく、カゲヌシの気配を感じ取ろうとしているに違いない。
「なにやってんだ、葉。俺《おれ》の手になんかついてるか?」
葉は雄一の大きな手をつかんだまま固まっている。
「昨日、父さんとケンカしたって言うからさ。心配してるんだよ」
自分でもよく分からないフォローだと思ったが、雄一の表情がなぜか変わった。
「……お前ら、俺に会いに来たんだろ」
裕生は一瞬《いっしゅん》ぎくりとした。バレたのかな、と思ったが、
「俺と親父《おやじ》のことは心配すんな。っていうか、わざわざ学校サボって様子《ようす》見に来るようなこっちゃねえだろ。俺らで話しゃ済むんだしよ」
どうやら、雄一を心配して会いに来たと思っているらしい。確《たし》かに心配はしているのだが、全く別の用事だった。
「親父、俺のことなんか言ってたか?」
声が微妙に暗い。つい手を出してしまったことを後悔しているに違いない。
「笑ってたよ。親が子供を殴《なぐ》るよりいいって」
「……そうか。お前らには悪いことしたな。話がこじれちまって」
その時、葉《よう》がぱっと手を離《はな》した。裕生《ひろお》の顔をちらりと見上げる——大丈夫です、という風にかすかに頷《うなず》いていた。雄一《ゆういち》にカゲヌシはとりついていないのだ。
「あ、そうだ。俺《おれ》これから西尾《にしお》とメシ食うけどよ、お前らも来るか」
裕生と葉は同時に首を横に振った。この大学のどこかにカゲヌシとの契約者がいるのは間違いない。そんなことをしている場合ではなかった。雄一は意味ありげに笑った。
「まー、そうだよな。お前らデートだしな」
他《ほか》に答えようもなく、裕生はあいまいに頷いた。そもそも兄と夕紀《ゆき》の方こそ、邪魔《じゃま》をしてはいけない気がする。
「なんかあったら電話しろよ」
雄一は去っていった。これで振り出しに戻ったようなものだ——兄はカゲヌシとは無関係であり、この鉄球が誰《だれ》のものなのかは依然として分からない。
「……屋上に行ってみようか」
とりあえず、兄が見つけた場所に行ってみた方がいい。ただ、もしカゲヌシの契約者と出会ったとしても、はっきりと葉に分かるかどうかは疑問だ。
校舎の方へ歩きかけても、葉は立ち止まったままだった。俯《うつむ》いてなにかを真剣に考えこんでいるらしい。
「……デート」
と、ぽつりと呟《つぶや》いた。
「え?」
「なんでもないです」
葉は首を振って歩き出した。どことなく嬉《うれ》しそうに見えた。
と、裕生《ひろお》は言った。東桜《とうおう》大学の校門の前に裕生と葉《よう》は立っている。レンガ造りの門柱の上に、古い鉄のアーチがかかっている。アーチのちょうど真ん中あたりに、校章が見えた。今度こそ目的地についたと裕生は思った。
「はい」
葉はほとんど表情を変えていないが、顔色が少し悪い。さんざん道に迷ったせいで、疲れているに違いない。もともと、裕生も葉もめったに都心の方へは来ることはない。東桜大学へ来るのもこれが初めてだった。
駅のすぐそばという話は知っていたのだが、カソリック系の大学であり、教会が併設されていることまでは知らなかった。運悪く駅から見える位置にあるのが、十字架のついた高い鐘楼《しょうろう》で(「あれじゃないかな」「……あれは教会です」)、反対方向へ行ってしまい、近辺をぐるぐる回るはめになった。
もう十二時を少し回っている。午前の講義《こうぎ》を終えた学生たちが続々と校門から出てくる。待ち合わせの場所にも使われているらしく、校門の近くの歩道にも人の姿がある。裕生たちは人ごみを避《さ》けて、案内板の前に立っていた。
「兄さんに電話してみようか」
昼休みだから電話をしても大丈夫だろう。裕生は携帯を出して、雄一にかける——しかし、繋《つな》がらなかった。
後でかけてみよう、と思って携帯を閉じた時、葉が自分の隣《となり》にいないことに気づいた。
「あれ?」
辺《あた》りを見回すと、いつのまにか白いシャツを着た背の高い学生と話している。金色に近い薄《うす》い色の髪と白い肌が奇妙に中性的な印象を与える。細く吊《つ》り上がった目元を除けば、美男子と言ってもさしつかえなかった。
「こんにちは」
裕生《ひろお》が近づいていくと彼の声が聞こえた。
「……」
「高校生かな?」
どう見てもナンパなのだが、葉《よう》はきょとんとした顔で相手を見上げているだけだった。
「雛咲《ひなさき》、どうかした?」
少し大きな声で話しかけると、男は笑顔《えがお》を浮かべながら無言で立ち去った。
「離《はな》れない方がいいよ。話しかけられるから」
「どうしてですか」
本人はまったく理解していないらしい。学生たちがちらちらと二人を見ている。葉の人目を引く容姿のせいもあるが、大学生ではない裕生たちは明らかに浮いていた。
立ち止まっているとかえって目立つ。とにかく、大学の構内に入ってしまおうとした時、裕生は門柱の片側に、何人か職員《しょくいん》が集まって話しこんでいることに気づいた。
(どうしたんだろう)
裕生たちは彼らの背後から門柱を覗《のぞ》きこむ。レンガに白いスプレーで落書きをされていた。描かれているのは、二つの三角形を組み合わせたマークだった。
「これ、なんて言うんだっけ」
と、裕生は言った。とても有名なデザインだった。葉も首をかしげていたが、やがて言った。
「分かりませんけど、ユダヤ人が」
「あ、そうそう。六芒星《ろくぼうせい》……だっけ」
ユダヤ教を象徴《しょうちょう》するデザインとも言われていて、ナチスドイツに迫害されたユダヤ人が、このマークを胸につけさせられていたという。別に珍しい模様ではない。でも、誰《だれ》がこんなところに落書きをしたのかな、と思っていると、
「んんんん————?」
鼻歌と悲鳴の中間のような声が周囲に響《ひび》き渡った。案《あん》の定《じょう》、人ごみをかき分けるようにして現れたのは藤牧《ふじまき》雄一《ゆういち》だった。
「裕生と葉か?」
百メートル先からでも分かりそうな派手《はで》なシャツに、裕生は眩暈《めまい》がした。裕生たち以上に、雄一は周囲の学生から浮いている。
「なにやってんだ、お前ら。学校サボってデートかよ」
「そんなこと」
ふと、裕生は兄に会った時にどう説明するのか、全然考えていなかったことに気づいた。ポケットには例の鉄球が入っているが、そのことを聞くためだけにわざわざ来た、と言うのではあまりにも不自然だった。
「うん……まあ、そう……かな。せっかく近くまで来たから、兄さんの顔見ていこうって話になって」
葉《よう》がはっと裕生《ひろお》の顔を見る。
「ふ————ん」
あまり長話をするとボロが出る。裕生はすかさずポケットを探って、例の鉄球を差し出した。
「そういえばこれ、兄さんの?」
雄一《ゆういら》は首をかしげる。
「あ、なんでお前が持ってんだ?」
「父さんが間違えて持って帰ってきたんだよ。せっかく近くまで来たから、届けようと思って」
父さん、と言ったとたんに雄一の表情がくもった。
「……そうか。昨日なくしたから、どこやったかって思ってたんだ。まあ、俺《おれ》も拾ったんだけどな」
裕生は頷《うなず》いた。そこまでは父から聞いて知っている。知りたいのはそこから先のことだった。特に雄一がカゲヌシの危険にさらされていないかどうかだった。裕生は横目で葉の方を見る。意識《いしき》を集中するように目を閉じている。カゲヌシの気配《けはい》がするかどうか、必死で感じ取ろうとしているらしい。
「拾ったってどこで?」
「いや。あそこの屋上」
雄一は敷地《しきち》の奥の方に見える、コンクリートの校舎を指差した。
「休講《きゅうこう》ん時にあそこでボーっとしてたら、落ちてたんだよな。なんに使うんだろうな、それ」
その時、葉がぎゅっと雄一の手を握った。おそらく、カゲヌシの気配を感じ取ろうとしているに違いない。
「なにやってんだ、葉。俺《おれ》の手になんかついてるか?」
葉は雄一の大きな手をつかんだまま固まっている。
「昨日、父さんとケンカしたって言うからさ。心配してるんだよ」
自分でもよく分からないフォローだと思ったが、雄一の表情がなぜか変わった。
「……お前ら、俺に会いに来たんだろ」
裕生は一瞬《いっしゅん》ぎくりとした。バレたのかな、と思ったが、
「俺と親父《おやじ》のことは心配すんな。っていうか、わざわざ学校サボって様子《ようす》見に来るようなこっちゃねえだろ。俺らで話しゃ済むんだしよ」
どうやら、雄一を心配して会いに来たと思っているらしい。確《たし》かに心配はしているのだが、全く別の用事だった。
「親父、俺のことなんか言ってたか?」
声が微妙に暗い。つい手を出してしまったことを後悔しているに違いない。
「笑ってたよ。親が子供を殴《なぐ》るよりいいって」
「……そうか。お前らには悪いことしたな。話がこじれちまって」
その時、葉《よう》がぱっと手を離《はな》した。裕生《ひろお》の顔をちらりと見上げる——大丈夫です、という風にかすかに頷《うなず》いていた。雄一《ゆういち》にカゲヌシはとりついていないのだ。
「あ、そうだ。俺《おれ》これから西尾《にしお》とメシ食うけどよ、お前らも来るか」
裕生と葉は同時に首を横に振った。この大学のどこかにカゲヌシとの契約者がいるのは間違いない。そんなことをしている場合ではなかった。雄一は意味ありげに笑った。
「まー、そうだよな。お前らデートだしな」
他《ほか》に答えようもなく、裕生はあいまいに頷いた。そもそも兄と夕紀《ゆき》の方こそ、邪魔《じゃま》をしてはいけない気がする。
「なんかあったら電話しろよ」
雄一は去っていった。これで振り出しに戻ったようなものだ——兄はカゲヌシとは無関係であり、この鉄球が誰《だれ》のものなのかは依然として分からない。
「……屋上に行ってみようか」
とりあえず、兄が見つけた場所に行ってみた方がいい。ただ、もしカゲヌシの契約者と出会ったとしても、はっきりと葉に分かるかどうかは疑問だ。
校舎の方へ歩きかけても、葉は立ち止まったままだった。俯《うつむ》いてなにかを真剣に考えこんでいるらしい。
「……デート」
と、ぽつりと呟《つぶや》いた。
「え?」
「なんでもないです」
葉は首を振って歩き出した。どことなく嬉《うれ》しそうに見えた。