二ヶ月前の誕生日《たんじょうび》、天内《あまうち》茜《あかね》がマンションのドアの前に立ったのは夜の八時近くだった。学校帰りの彼女は制服を着ている。
(小夜《さよ》に悪いことしちゃったな)
彼女のために妹の小夜がケーキを作ってくれたはずだ。早く帰ってくるよう言われたのだが、友達とカラオケに寄ったせいで、思ったより帰るのが遅くなってしまった。それでもあまり怒ってはいないだろうと思う。むしろ、姉がどうなったのか心配しているはずだ。かえってその方が罪悪感がある。小夜は三つ年下だったが、茜とは正反対の性格である。お菓子作りが好きなおとなしい女の子だった。
(……謝《あやま》んなきゃ)
覚悟を決めてドアを開けると、中は真っ暗だった。
「ただいま」
答えはなかった。茜《あかね》は首をかしげながらそっと革靴《かわぐつ》を脱ぐ。家族が中にいるのは分かっていた。さっき、道路から見上げた時は、確《たし》かに窓に明かりがついていたからだ。
一瞬《いっしゅん》、自分がリビングに入った瞬間に明かりがついて、すっかりパーティの準備が終わっているところを想像して、
「……そんなはずないか」
すぐにそれを振り払った。妹はともかく、両親がそんなことを茜にするはずがない。
この家で茜の誕生日《たんじょうび》を憶《おぼ》えているのは小夜《さよ》だけだ。両親からは何年も祝ってもらった記憶《きおく》はない。茜の方でも別に祝って欲しいとは思わなかった。
妹にも気を遣《つか》わなくていいと毎年言っているのだが、必ずケーキとプレゼントを用意してくれる。ケーキはなにを作ってくれたのか分からないが、プレゼントは毎年なんとなく予想がつく。今年は多分《たぶん》ぬいぐるみだと思う。妹が好きな昔のアニメのキャラクターで、茜も最近ちょっと気に入りかけていた。
異変に気づいたのは、リビングに足を踏《ふ》み入れた時だった。かすかな血の臭《にお》いが漂《ただよ》っていた。
「え?」
彼女の背筋をさっと冷たいものが撫《な》でる。慌《あわ》てて壁際《かべぎわ》の明かりのスイッチを入れた。光に目が慣れると、最初に飛びこんできたのは赤い色だった。
「……パパ」
リビングの真ん中に父親が仰向《あおむ》けに倒れていた。会社から帰ってきたばかりらしく、まだネクタイもほどいていない。Yシャツの胸あたりから、銀色の細いものがまるで植物のように天井《てんじょう》に向かって生《は》えている——茜はそれに見覚えがあった。普段《ふだん》父が使っているペーパーナイフの柄《え》だ。まだ傷からは新しい血があふれ続けていた。
茜は口を押さえながら、よろよろとダイニングのテーブルに手をついた。彼女ははっとキッチンを振り返る。母親が茜に背を向けて、シンクに額《ひたい》をつけるようにしてマットの上に座りこんでいた。
「ママ」
不吉な予感に苛《さいな》まれながら、茜はキッチンへ入る。震《ふる》える手で肩に触れると、まだ温かかった。しかし、彼女が触れると同時にぐらりと彼女の体は倒れてくる。
「……あ」
母親の体を受け止めながら、茜は小さな悲鳴をもらす。母親の半身はべっとりと血で染まっていた。
茜はキッチンで膝《ひざ》をついたまま呆然《ぼうぜん》としていた。どのぐらいの時間だったのか、彼女にも分からない。数秒のことだったかもしれないし、何分も経《た》っていたかもしれない。我に返ったのは、キッチンカウンターの上にあるものに気づいたからだった。調理《ちょうり》道具と一緒《いっしょ》に、何かが置いてあった。
作りかけのケーキだった。スポンジの生地《きじ》に生クリームを塗っていたところらしい。クリームのついたパレットナイフが無造作に投げ出してあった。
「……小夜《さよ》」
妹はここでケーキを作っていたに違いない——今はどこにいるんだろう。静かに母親の体を横たえてから、壁《かべ》に手をつきながら立ち上がる。不吉な予感が喉元《のどもと》までせり上がっていた。廊下へ戻り、ひとつひとつ部屋を確認《かくにん》していく。両親の寝室にも、洗面所にも妹の姿はない。茜《あかね》は妹の部屋のドアを開ける。
部屋の蛍光灯《けいこうとう》を点《つ》けた瞬間《しゅんかん》、茜の膝《ひざ》がフローリングの上にがくりと落ちる。びしゃっと血飛沫《ちしぶき》が散った。ねばついたぬるい液体の中に、彼女は座りこんでいた。
小夜はドアから一メートルほど離《はな》れたところに倒れていた。体はうつぶせに、青白い顔を横に向けていた。今朝《けさ》、茜が手伝ってあげた細い三《み》つ編《あ》みが血だまりの中に浮いている。小夜の体のそばには、赤く染まった包丁《ほうちょう》が捨てられていた。
違う、と茜は思った。妹がこんなひどいことをされるはずない。きっとなにかの間違いなんだ。これは小夜じゃないんだ。
しばらくの間、茜は妹の枕元《まくらもと》に模様のようなものがあることに気づかなかった。それが血で描かれた文字であると分かり、その文章の意味を理解するのにさらに時間がかかった。
前半のほとんどは血だまりに沈んで、読むことができなかった。しかし、その後《あと》ははっきりと読むことができた。知らない男の字だった。
(小夜《さよ》に悪いことしちゃったな)
彼女のために妹の小夜がケーキを作ってくれたはずだ。早く帰ってくるよう言われたのだが、友達とカラオケに寄ったせいで、思ったより帰るのが遅くなってしまった。それでもあまり怒ってはいないだろうと思う。むしろ、姉がどうなったのか心配しているはずだ。かえってその方が罪悪感がある。小夜は三つ年下だったが、茜とは正反対の性格である。お菓子作りが好きなおとなしい女の子だった。
(……謝《あやま》んなきゃ)
覚悟を決めてドアを開けると、中は真っ暗だった。
「ただいま」
答えはなかった。茜《あかね》は首をかしげながらそっと革靴《かわぐつ》を脱ぐ。家族が中にいるのは分かっていた。さっき、道路から見上げた時は、確《たし》かに窓に明かりがついていたからだ。
一瞬《いっしゅん》、自分がリビングに入った瞬間に明かりがついて、すっかりパーティの準備が終わっているところを想像して、
「……そんなはずないか」
すぐにそれを振り払った。妹はともかく、両親がそんなことを茜にするはずがない。
この家で茜の誕生日《たんじょうび》を憶《おぼ》えているのは小夜《さよ》だけだ。両親からは何年も祝ってもらった記憶《きおく》はない。茜の方でも別に祝って欲しいとは思わなかった。
妹にも気を遣《つか》わなくていいと毎年言っているのだが、必ずケーキとプレゼントを用意してくれる。ケーキはなにを作ってくれたのか分からないが、プレゼントは毎年なんとなく予想がつく。今年は多分《たぶん》ぬいぐるみだと思う。妹が好きな昔のアニメのキャラクターで、茜も最近ちょっと気に入りかけていた。
異変に気づいたのは、リビングに足を踏《ふ》み入れた時だった。かすかな血の臭《にお》いが漂《ただよ》っていた。
「え?」
彼女の背筋をさっと冷たいものが撫《な》でる。慌《あわ》てて壁際《かべぎわ》の明かりのスイッチを入れた。光に目が慣れると、最初に飛びこんできたのは赤い色だった。
「……パパ」
リビングの真ん中に父親が仰向《あおむ》けに倒れていた。会社から帰ってきたばかりらしく、まだネクタイもほどいていない。Yシャツの胸あたりから、銀色の細いものがまるで植物のように天井《てんじょう》に向かって生《は》えている——茜はそれに見覚えがあった。普段《ふだん》父が使っているペーパーナイフの柄《え》だ。まだ傷からは新しい血があふれ続けていた。
茜は口を押さえながら、よろよろとダイニングのテーブルに手をついた。彼女ははっとキッチンを振り返る。母親が茜に背を向けて、シンクに額《ひたい》をつけるようにしてマットの上に座りこんでいた。
「ママ」
不吉な予感に苛《さいな》まれながら、茜はキッチンへ入る。震《ふる》える手で肩に触れると、まだ温かかった。しかし、彼女が触れると同時にぐらりと彼女の体は倒れてくる。
「……あ」
母親の体を受け止めながら、茜は小さな悲鳴をもらす。母親の半身はべっとりと血で染まっていた。
茜はキッチンで膝《ひざ》をついたまま呆然《ぼうぜん》としていた。どのぐらいの時間だったのか、彼女にも分からない。数秒のことだったかもしれないし、何分も経《た》っていたかもしれない。我に返ったのは、キッチンカウンターの上にあるものに気づいたからだった。調理《ちょうり》道具と一緒《いっしょ》に、何かが置いてあった。
作りかけのケーキだった。スポンジの生地《きじ》に生クリームを塗っていたところらしい。クリームのついたパレットナイフが無造作に投げ出してあった。
「……小夜《さよ》」
妹はここでケーキを作っていたに違いない——今はどこにいるんだろう。静かに母親の体を横たえてから、壁《かべ》に手をつきながら立ち上がる。不吉な予感が喉元《のどもと》までせり上がっていた。廊下へ戻り、ひとつひとつ部屋を確認《かくにん》していく。両親の寝室にも、洗面所にも妹の姿はない。茜《あかね》は妹の部屋のドアを開ける。
部屋の蛍光灯《けいこうとう》を点《つ》けた瞬間《しゅんかん》、茜の膝《ひざ》がフローリングの上にがくりと落ちる。びしゃっと血飛沫《ちしぶき》が散った。ねばついたぬるい液体の中に、彼女は座りこんでいた。
小夜はドアから一メートルほど離《はな》れたところに倒れていた。体はうつぶせに、青白い顔を横に向けていた。今朝《けさ》、茜が手伝ってあげた細い三《み》つ編《あ》みが血だまりの中に浮いている。小夜の体のそばには、赤く染まった包丁《ほうちょう》が捨てられていた。
違う、と茜は思った。妹がこんなひどいことをされるはずない。きっとなにかの間違いなんだ。これは小夜じゃないんだ。
しばらくの間、茜は妹の枕元《まくらもと》に模様のようなものがあることに気づかなかった。それが血で描かれた文字であると分かり、その文章の意味を理解するのにさらに時間がかかった。
前半のほとんどは血だまりに沈んで、読むことができなかった。しかし、その後《あと》ははっきりと読むことができた。知らない男の字だった。
……………………よ、わたしがお前に代わって死ねばよかった
血で描《か》かれた文章を口の中で読み上げた瞬間、彼女の胸がきりきりと痛んだ。まるで誰《だれ》かに心臓《しんぞう》をねじられているような気がした。
(なに、これ)
ひとりでに体が震《ふる》え始めた。彼女は両手で自分の胸をおさえる。わたしがお前に代わって死ねばよかった——まるで茜の言うべき言葉を先回りしているようだった。
「……なんなの、これ」
絞《しぼ》り出すような声で茜は呟《つぶや》く。彼女を現実に引き戻したものは、かつて感じたことのない激《はげ》しい憎悪だった。妹の顔には、まだ乾ききっていない涙の跡があった。
背後でドアの軋《きし》む音がする。
彼女は振り向く。廊下の反対側に、細めに開いたドアが見えた。そこは茜自身の部屋だった。そこだけはまだ確認していない。
突然、下からマンションを見上げた時は、この部屋の明かりが点《つ》いていたことを思い出す。あの時まだ犯人はここにいたのだ——あるいは今もどこかにいるのかもしれない。
恐怖と不安で頭の中はごちゃごちゃになっていたが、それでも彼女は血だまりの中から、震《ふる》える手で包丁《ほうちょう》を拾い上げた。もしここに犯人が残っていたら、ただでは済まさないつもりだった。
「……誰《だれ》かいるの?」
自分の部屋のドアの前で、そう呼びかける。隙間《すきま》からは暗闇《くらやみ》が見えるだけだった。しかし、何かがこの部屋の中にいるような気がする。彼女は包丁の柄《え》をしっかりと握りしめた。
それから、彼女はゆっくりとドアを押した。
廊下から射《さ》しこむ光が部屋を照らす——ドアのすぐそばの床に奇妙なものがあった。
それは黒く塗りつぶしたような楕円体《だえんたい》だった。ちょうどサッカーボールほどの大きさで、両端がかすかに尖《とが》っていた。大きすぎることを除けば、形は卵に似ている。
しかも、その「卵」は一つではなかった。床の上には二つの黒い卵が並んでいた。どちらも同じような大きさ、同じ形だったが、右側の方は完全に割れて、中身は空っぽになっている。左側の卵にはまだひびも入っていなかった。
(なに、これ)
しかし、それも一瞬《いっしゅん》のことで、彼女は我に返る。この部屋に潜《ひそ》んでいるかもしれない犯人のことを思い出したのだ。ここから逃がすつもりはない。抵抗しようとすれば、
(ころしてやる)
心の中でそう呟《つぶや》いた瞬間、ぴしりと小さな音が聞こえた。まだ無事な方の卵に、かすかな亀裂《きれつ》が入っていた。
「……え?」
茜《あかね》の目の前で、みるみるうちに亀裂が広がっていく。逃げることも近づくこともできなかった。まるで爆発《ばくはつ》するように卵の一部が弾《はじ》けた。
そして、彼女は気を失った。
(なに、これ)
ひとりでに体が震《ふる》え始めた。彼女は両手で自分の胸をおさえる。わたしがお前に代わって死ねばよかった——まるで茜の言うべき言葉を先回りしているようだった。
「……なんなの、これ」
絞《しぼ》り出すような声で茜は呟《つぶや》く。彼女を現実に引き戻したものは、かつて感じたことのない激《はげ》しい憎悪だった。妹の顔には、まだ乾ききっていない涙の跡があった。
背後でドアの軋《きし》む音がする。
彼女は振り向く。廊下の反対側に、細めに開いたドアが見えた。そこは茜自身の部屋だった。そこだけはまだ確認していない。
突然、下からマンションを見上げた時は、この部屋の明かりが点《つ》いていたことを思い出す。あの時まだ犯人はここにいたのだ——あるいは今もどこかにいるのかもしれない。
恐怖と不安で頭の中はごちゃごちゃになっていたが、それでも彼女は血だまりの中から、震《ふる》える手で包丁《ほうちょう》を拾い上げた。もしここに犯人が残っていたら、ただでは済まさないつもりだった。
「……誰《だれ》かいるの?」
自分の部屋のドアの前で、そう呼びかける。隙間《すきま》からは暗闇《くらやみ》が見えるだけだった。しかし、何かがこの部屋の中にいるような気がする。彼女は包丁の柄《え》をしっかりと握りしめた。
それから、彼女はゆっくりとドアを押した。
廊下から射《さ》しこむ光が部屋を照らす——ドアのすぐそばの床に奇妙なものがあった。
それは黒く塗りつぶしたような楕円体《だえんたい》だった。ちょうどサッカーボールほどの大きさで、両端がかすかに尖《とが》っていた。大きすぎることを除けば、形は卵に似ている。
しかも、その「卵」は一つではなかった。床の上には二つの黒い卵が並んでいた。どちらも同じような大きさ、同じ形だったが、右側の方は完全に割れて、中身は空っぽになっている。左側の卵にはまだひびも入っていなかった。
(なに、これ)
しかし、それも一瞬《いっしゅん》のことで、彼女は我に返る。この部屋に潜《ひそ》んでいるかもしれない犯人のことを思い出したのだ。ここから逃がすつもりはない。抵抗しようとすれば、
(ころしてやる)
心の中でそう呟《つぶや》いた瞬間、ぴしりと小さな音が聞こえた。まだ無事な方の卵に、かすかな亀裂《きれつ》が入っていた。
「……え?」
茜《あかね》の目の前で、みるみるうちに亀裂が広がっていく。逃げることも近づくこともできなかった。まるで爆発《ばくはつ》するように卵の一部が弾《はじ》けた。
そして、彼女は気を失った。
目を開けると廊下に大きな青いものが置いてあった。
「……ボルガ?」
ぬいぐるみだと思った。妹が誕生日《たんじょうび》のプレゼントにくれるはずだったもの。しかし、それにしては大きすぎる。人間の体ほどの大きさがあった。
なによりもその「ボルガ」は動いていた。バランスを取るように青い翼《つばさ》を広げて、よちよちと彼女の方へ進み、彼女の顔のすぐ目の前に止まった。
彼女はゆっくりと体を起こした。腰を下ろした彼女のすぐ目の前に、相手の顔があった。
「ボルガ」
と、彼女は呟いた。青い鳥はまるで頷《うなず》くように前後に揺れる。
(小夜《さよ》が見たら、喜ぶだろうな)
彼女は震《ふる》える手で「ボルガ」の体を撫《な》でた。彼女の手のひらには、死んだ家族の返り血がついていた。柔らかい羽根の先がかすかに赤く染まった。
(これがあたしへのプレゼント)
彼女はボルガを撫で続ける。突然、その唇から嗚咽《おえつ》が洩《も》れた。堰《せき》を切ったように両目から涙が流れ始めた。頬《ほお》から伝った涙がぽたぽたと床に落ちる。
ボルガの見つめる中、彼女はいつまでも泣き続けた。
「……ボルガ?」
ぬいぐるみだと思った。妹が誕生日《たんじょうび》のプレゼントにくれるはずだったもの。しかし、それにしては大きすぎる。人間の体ほどの大きさがあった。
なによりもその「ボルガ」は動いていた。バランスを取るように青い翼《つばさ》を広げて、よちよちと彼女の方へ進み、彼女の顔のすぐ目の前に止まった。
彼女はゆっくりと体を起こした。腰を下ろした彼女のすぐ目の前に、相手の顔があった。
「ボルガ」
と、彼女は呟いた。青い鳥はまるで頷《うなず》くように前後に揺れる。
(小夜《さよ》が見たら、喜ぶだろうな)
彼女は震《ふる》える手で「ボルガ」の体を撫《な》でた。彼女の手のひらには、死んだ家族の返り血がついていた。柔らかい羽根の先がかすかに赤く染まった。
(これがあたしへのプレゼント)
彼女はボルガを撫で続ける。突然、その唇から嗚咽《おえつ》が洩《も》れた。堰《せき》を切ったように両目から涙が流れ始めた。頬《ほお》から伝った涙がぽたぽたと床に落ちる。
ボルガの見つめる中、彼女はいつまでも泣き続けた。