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シャドウテイカー アブサロム37

时间: 2020-03-27    进入日语论坛
核心提示:10 黒い獣《けもの》が下の階から駆け上がってきた。葉《よう》の肉体を守るように「黒の彼方《かなた》」が前に立った。右前足
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10
 黒い獣《けもの》が下の階から駆け上がってきた。
葉《よう》の肉体を守るように「黒の彼方《かなた》」が前に立った。右前足と背中と、眠っている首の一部が、まだらのように鈍いグレーに染まっている。おそらく、下の階で金属に触れてしまったに違いない。
「惜しかった。案外、人間の勘も侮《あなど》れないものだね」
「黒の彼方」が身じろぎした瞬間《しゅんかん》、男は座っている裕生《ひろお》の髪の毛をぐっとつかむ。一歩でも動けば殺す、という宣言なのは誰《だれ》の目にも明らかだった。その途端《とたん》、黒犬《くろいぬ》は動きを止めた。
「人質《ひとじち》を取ると向かってこないね」
と、男は言った。
「どうして人間を守ろうとしているんだ?『契約者』は眠っているんだろう」
それは先ほどからの裕生の疑問でもあった。葉の表情にためらいが浮かぶ。なにか答えを選んでいるような間があった。
「人間はわたしの餌《えさ》ではない。人が死ぬのを見るのも、わたしは好まない」
と、「黒の彼方」は答える。裕生は首をひねる——カゲヌシと戦う時は契約者を襲《おそ》おうとしているし、裕生自身も邪魔《じゃま》をすれば殺す、とはっきり言われたことがある。しかし確《たし》かに、裕生の知る限りで「黒の彼方」が人を殺したことはない。
「カゲヌシがそんな感情移入の能力を持つとは信じられないな」
疑わしげに男は「黒の彼方」たちを見ている。葉の顔にやれやれ、という表情が浮かんだ。
「あなたは『同族食い』の生態を知らないようだ。わたしは他《ほか》のカゲヌシとは違う」
男は沈黙《ちんもく》する。ふと、裕生は黒い犬がじっと自分の方を見ていることに気づいた。なにかを言いたげな様子《ようす》に彼ははっとする。
裕生は頭を無理に上げて、自分の髪をつかんでいる男を見つめた。男の左手はおそろしく冷たかった。
「この手にあるマークが、さっき言ってた『サイン』だよな?」
裕生は今の両者の会話で確信《かくしん》を深めていた——いや、もっと前から気づくべきだったのだ。
「カゲヌシに取りつかれてるんじゃなくて」
と、裕生はきっぱりと言った。
「お前自身がカゲヌシなんだ」
男は裕生の頭から手を離《はな》す。そして、ようやく気づいたのか、と言いたげな顔つきをした。外見はどう見ても人間だった——形態を変化させることが可能とはいえ、人間型のカゲヌシがいるとは思ってもみなかった。
「この『サイン』を見て、彼はぼくに『アブサロム』という名前をつけたんだ。ぼくには個体|認識《にんしき》のためのものでしかないが、彼にとっては意味があったんだ。あるいは彼の許《もと》にぼくが現れたのも、この『サイン』のせいかもしれない」
「……『彼』って誰《だれ》なんだよ」
アブサロムは微笑《ほほえ》んだだけだった。言うはずがない。裕生《ひろお》たちはこのアブサロムの「契約者」が東桜《とうおう》大学にいる、ということ以外はなにも知らない。名前も、年齢《ねんれい》も、性別すらも分からない。今のこの外見も「契約者」とはまったく違っているのだろう。
そもそも、あの「サイン」を描《か》いたアブサロムの「敵《てき》」の話、というのもどこまで信用していいものか分からない。すべてがこのカゲヌシの策略の一部なのかもしれなかった。
「天内《あまうち》さんを刺した奴《やつ》が『契約者』だったんだ」
カゲヌシを遠くに置いていたからこそ、茜《あかね》は契約者が近づいてくるのを察知できなかったのだ。最初から人間の協力者などいるはずもない。この殺人鬼はいかなる係累《けいるい》も持たないのだから。
彼は裕生の方を完全に向いて話している。なるべく自分に注意を引きつけるのが、裕生の狙《ねら》いだった。彼はじりじりしながら待っていたが、双頭の犬《いぬ》はさっきの場所から一歩も動かなかった。
動いたのは葉《よう》の方だった。
 動いた、というよりはほとんど消えたようにしか見えなかった。次の瞬間《しゅんかん》、アブサロムの背後にある柱の影《かげ》から彼女が現れた。まさか葉一人がカゲヌシに襲《おそ》いかかるとは思ってもみなかった。おそらくは、アブサロムも同様だったに違いない。
体重の乗った葉の蹴りが男の腰のあたりにくり出される。太ももあたりまでスカートがまくれ上がった。あ、と裕生が思った時には、アブサロムはバランスを崩《くず》してよろめいていた。葉はその隣《となり》をすり抜けて、座りこんでいる裕生の脇《わき》の下に手を差しこむ。
そして、彼の体を持ち上げながらアブサロムから離《はな》れようとする。しかし、すぐに体勢を立て直したアブサロムは、葉の右の手首をつかまえた。一瞬にして二の腕まで金属に変わる。葉は残った左手で、彼の手首に鋭《するど》い手刀《しゅとう》を振り下ろす。アブサロムは手を離し、彼女も裕生の体から離れて、「黒の彼方《かなた》」の許に走り戻った。
四者の位置関係はほとんど元に戻ったが、一つだけさっきとは違っていることがある。アブサロムの右手に触れた葉の両腕は、肘《ひじ》の近くまで鉄の塊《かたまり》と化してだらんとぶら下がっていた。
「……なぜ必死に人間を取り戻そうとする?」
その声に潜《ひそ》んだかすかな怒りを裕生は聞き逃さなかった。たかが人間に不覚を取ったのが腹立たしいに違いない。
「その人間はこちらにとっても大事な存在なのでね」
どういう意味だろう、と裕生《ひろお》は思った。さっきから、自分に手を出させまいとする発言ばかりだった。今の攻撃《こうげき》も奇襲《きしゅう》としては悪くなかったが、詰めが甘すぎる。まるで、裕生が捕まっていることで動揺しているかのような——いくらなんでも、そんなはずはない。
思いに耽《ふけ》っていた裕生は、再びアブサロムの左手が髪の毛をつかんだことにも大して驚《おどろ》かなかった。さっきより強い力ではあったが、それがなにを意味しているかは深く考えなかったのだ。かすかな痛みとともに視覚と聴覚《ちょうかく》が失われて、初めてことの重大さに気づいた。つかまれていたはずの髪の毛の感覚もない。まるで自分の首から上が切り落とされたような気がした。
自分の口が悲鳴を上げたのは分かるが、それを聴《き》くことはできなかった。そしてすぐに、震《ふる》えていた喉《のど》もどこかへ消えた。全身からゆっくりと触覚が失われていき、最後に両足が接していたはずの床もなくなった。裕生は光も音も匂《にお》いもない空間にぽっかりと浮かんでいるだけだった。
 人質《ひとじち》の全身はくまなく金属に変わった。
「もう一度おかしな動きを見せたら、この人間は本当に死ぬ」
「……では、死んではいないのか」
と、「黒の彼方《かなた》」の契約者が言った。
「心臓《しんぞう》は動いている。すぐに止めることも可能だがな」
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「それは良かった」
契約者の顔に、酷薄《こくはく》な笑みが浮かんだ。奇妙な反応に思えたが、アブサロムはそれを無視した。どうやら、このカゲヌシはこの人間を死なせたくはないらしい。これからは伝説の『黒の彼方《かなた》』を自分の自由に動かすことができる。
「さて、改めて話をしようか。わたしを追っているものが」
「私はその人間に危害を加えることができない」
葉《よう》の口から流れる「黒の彼方」の言葉が、アブサロムの声を遮《さえぎ》った。今までとは微妙に口調《くちょう》が違っている。契約者を背後に残したまま、黒犬《くろいぬ》はじりじりと前に進んでくる。
「だから、助けるそぶりをしなければならなかった。そこの人間の『材質』を変えてもらうために」
「……材質?」
アブサロムは思わず聞き返した。しかし、それに対する返事はなかった。
「あなたはわたしの能力を知らなかったようだな」
憐《あわ》れむような声の響《ひび》きが気に入らなかった。しかし、アブサロムには相手の意図《いと》が分からなかった。
「わたしの武器は『振動』だ。カゲヌシの能力がそうであるように、この世界の物理法則に正確に則《のつと》った現象ではない。しかし、わたしの能力で空気を振動させることもできるし、電磁放射に近い現象によって、生体の内部にある水分子を振動させることができる……ただし、鉄やコンクリートはその波を遮断《しゃだん》するが」
突然、部屋の隅《すみ》にいた契約者の少女が消えた。階段から下の階に飛び降りたのだ。次の瞬間《しゅんかん》、「黒の彼方」の眠っていた方の頭が目覚めた。そして、大きく口を開ける。
音は聞こえなかった。唐突《とうとつ》にアブサロムの体温が耐え難《がた》いほど上昇し、全身の細胞がぐつぐつと泡立つのを感じた。五感が閉ざされ、力を失って倒れかかる。しかし、アブサロムは「黒の彼方」の言葉を忘れてはいなかった。
金属の体なら、その波を遮断できる——最後の力を振り絞って、体の前面を金属の鎧《よろい》で覆《おお》っていく。それはたちまち効果を発揮し、体内温度が下がりはじめる。
しかし次の瞬間、「黒の彼方」がアブサロムに向かって突進してきた。
アブサロムは避《よ》けようとする。しかし、ただでさえ熱によって自由を失い、関節まで金属化した体はぴくりとも動かなかった。
おのれのものか、それとも敵《てき》のものか、どこかから雄叫《おたけ》びが聞こえる。最後にアブサロムが見たものは、自分の頭部に迫るむき出しの獣《けもの》の牙《きば》だった。
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