あてもなく車を走らせるうちに、気がつくと海に出ていた。蔵前《くらまえ》はほとんど落ちかけた夕日を横目に見ながら、人気《ひとけ》のない湾岸道路を進んでいく。道路はくねった崖《がけ》の上にはりついており、はるか足元から波音が聞こえる。
開いたウィンドウから潮《しお》の香りのする湿った風が車内に舞《ま》いこんできた。
今日一日でほとんどすべてのものを失ったと言っていい。天内《あまうち》茜《あかね》は警察《けいさつ》へ行くに違いない。カゲヌシの話をしなくとも、蔵前の十年前の事件は彼らの興味《きょうみ》を引くはずだ。
蔵前はこのまま姿を消すつもりだった。そのことがさらに疑いを招き、おそらく近いうちに警察から追われる身になるだろう。逃亡生活を望んでいるわけではないが、果てしない取り調《しら》べや周囲の好奇の視線はさらに彼の望むところではなかった。
(カゲヌシの卵が現れる条件があるはずだ)
ステアリングを握りながら蔵前は考える。カゲヌシの卵はこの世界にまったく同時に現れているわけではない。天内茜と彼の前に現れた時間にも微妙な差があるし、あの「黒の彼方」が現れたのは「先月」だと藤牧《ふじまき》裕生は言っていた。アブサロムとは一ヶ月のズレがある。
だとしたら、まだ現れていない卵もあるに違いない。現れた時の条件さえ分かれば、もう一度カゲヌシを呼ぶことも可能ではないだろうか。一度は呼ぶことができたのだし、彼は「契約者」の資格を備えているはずだ。
車がトンネルへ入った。黄色いランプが次々と背後へ流れていく。彼がすぐさま逃亡したのは、警察《けいさつ》から逃れるだけではない。あの「サイン」を描《か》いて回っている者を警戒したためでもあった。
今の蔵前《くらまえ》はカゲヌシの能力を失った身でありながら、カゲヌシの気配《けはい》を発している。彼に敵《てき》対する者にとっては、これほど追いやすい相手もいない。もうしばらく時間が経《た》てば、アブサロムの左腕も完全に死に絶えるはずだ。それまではなるべく止まることなく逃げるつもりでいた。
さっきから道路にはほとんど他《ほか》の車は見えない。ルームミラー越しに背後を見ても、車は一台も見えない。少なくとも今のところ、彼を追う者はいないようだった。
車がトンネルの外へ出る——蔵前はフロントガラスに視線を戻す。
「な……」
思わず彼は声を上げていた。フロントガラスには、いつのまにか大きな六芒星《ろくぼうせい》が描かれていた。
(一体、どうやって……)
目を離《はな》したのはほんの一瞬《いっしゅん》だ。他に走っている車もない。だとすれば、答えは一つだった。
追跡者はこの車に乗っているのだ。
彼は再びルームミラーを見る。いつのまにか後部座席に誰《だれ》かが座っていた。黄色いレインコートを着て、フードを目深《まぶか》にかぶっている。顔は見えなかった。
「誰だ!」
しかし、その答えを聞くことはできなかった。
いつのまにか目の前から道路が消えていた。突然、車が前輪《ぜんりん》からがくんと傾き、天地がゆっくりと逆転しはじめる。
蔵前の車は崖《がけ》下に向かって落ちていく。灰色の尖《とが》った岩礁《がんしょう》がみるみる迫り——彼の意識《いしき》もそこで途切《とぎ》れた。
開いたウィンドウから潮《しお》の香りのする湿った風が車内に舞《ま》いこんできた。
今日一日でほとんどすべてのものを失ったと言っていい。天内《あまうち》茜《あかね》は警察《けいさつ》へ行くに違いない。カゲヌシの話をしなくとも、蔵前の十年前の事件は彼らの興味《きょうみ》を引くはずだ。
蔵前はこのまま姿を消すつもりだった。そのことがさらに疑いを招き、おそらく近いうちに警察から追われる身になるだろう。逃亡生活を望んでいるわけではないが、果てしない取り調《しら》べや周囲の好奇の視線はさらに彼の望むところではなかった。
(カゲヌシの卵が現れる条件があるはずだ)
ステアリングを握りながら蔵前は考える。カゲヌシの卵はこの世界にまったく同時に現れているわけではない。天内茜と彼の前に現れた時間にも微妙な差があるし、あの「黒の彼方」が現れたのは「先月」だと藤牧《ふじまき》裕生は言っていた。アブサロムとは一ヶ月のズレがある。
だとしたら、まだ現れていない卵もあるに違いない。現れた時の条件さえ分かれば、もう一度カゲヌシを呼ぶことも可能ではないだろうか。一度は呼ぶことができたのだし、彼は「契約者」の資格を備えているはずだ。
車がトンネルへ入った。黄色いランプが次々と背後へ流れていく。彼がすぐさま逃亡したのは、警察《けいさつ》から逃れるだけではない。あの「サイン」を描《か》いて回っている者を警戒したためでもあった。
今の蔵前《くらまえ》はカゲヌシの能力を失った身でありながら、カゲヌシの気配《けはい》を発している。彼に敵《てき》対する者にとっては、これほど追いやすい相手もいない。もうしばらく時間が経《た》てば、アブサロムの左腕も完全に死に絶えるはずだ。それまではなるべく止まることなく逃げるつもりでいた。
さっきから道路にはほとんど他《ほか》の車は見えない。ルームミラー越しに背後を見ても、車は一台も見えない。少なくとも今のところ、彼を追う者はいないようだった。
車がトンネルの外へ出る——蔵前はフロントガラスに視線を戻す。
「な……」
思わず彼は声を上げていた。フロントガラスには、いつのまにか大きな六芒星《ろくぼうせい》が描かれていた。
(一体、どうやって……)
目を離《はな》したのはほんの一瞬《いっしゅん》だ。他に走っている車もない。だとすれば、答えは一つだった。
追跡者はこの車に乗っているのだ。
彼は再びルームミラーを見る。いつのまにか後部座席に誰《だれ》かが座っていた。黄色いレインコートを着て、フードを目深《まぶか》にかぶっている。顔は見えなかった。
「誰だ!」
しかし、その答えを聞くことはできなかった。
いつのまにか目の前から道路が消えていた。突然、車が前輪《ぜんりん》からがくんと傾き、天地がゆっくりと逆転しはじめる。
蔵前の車は崖《がけ》下に向かって落ちていく。灰色の尖《とが》った岩礁《がんしょう》がみるみる迫り——彼の意識《いしき》もそこで途切《とぎ》れた。