こいつはうそつきだ、と少年は心の中でつぶやいた。
しかし、その言葉を誰《だれ》にも伝えることはできない。自分の意志で唇《くちびる》や舌を動かすことはおろか、最近は目を開けていることすら難《むずか》しくなって来ていた。
膝《ひざ》や腰をできるだけ曲げないように設計された、特注の車椅子《くるまいす》に彼は乗せられている。携帯用の人工呼吸器のマスクが鼻のあたりを覆《おお》っていた。数ヶ月前から人工呼吸器の助けを借りなければ、息をすることもできない状態《じょうたい》だった。
「あなた方を心から歓迎しますよ」
と、「うそつき」は言った。車椅子の隣《となり》のソファに座っている彼の祖母《そぼ》は、その言葉にうっと声を上げてハンカチを目に押し当てた。少年は祖母に連れられて、その男の滞在するホテルの一室を訪れていた。
「世の中には真理に近い人間と、そうでない人間がいます。それがいつの時代でも人の世の本質です」
「うそつき」は細身の黒いスーツを身につけ、長髪を後ろで縛《しば》った四十代前半の男で、少年たちの向かい側にあるソファから身を乗り出すようにしていた。よく日焼けした顔には深い皺《しわ》が刻まれている。彼の傍《かたわ》らにはスーツと同じ色のマントとステッキが置いてある。見た目はまるで手品師だった。
(こいつはうそをつくのをたのしんでる)
と、少年は思う。時々、男の頬《ほお》がかすかにゆるむのが分かった。
(騙《だま》されている人を見るのがほんとに嬉《うれ》しいんだ)
「あなたはお孫《まご》さんを治療《ちりょう》するために、最善の努力を尽くされて来た。私にはそれが分かります。どんなに長く、苦しい旅路だったことか、それを本当の意味で理解できるのは私、この皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》だけです」
芝居《しばい》がかった男の言葉に、彼の祖母はぐすっと鼻をすすり上げた。天明と名乗った男は、少年ではなく彼の祖母だけに話しかけている。
「そして、真理の導《みちび》きにより、今お二人とも私の目の前におられる。全《すべ》ての苦しみが取り除かれんことを求めて、わたしの前に来たのでしょう? さあ、お孫さんの病状について、なにもかも教えていただけますか」
彼の祖母はハンカチを口元から離《はな》した。一瞬《いっしゅん》、天明が祖母の手を目で追ったのを少年は見|逃《のが》さなかった。皺だらけの祖母の指には、大きな宝石のついた指輪《ゆびわ》がいくつも嵌《は》められている——こいつは、ずっと指輪を見てたんだ、と彼は思った。
「ここにいるのがわたしの孫です。私のたった一人の家族です。ごらんの通り、重い病気を抱えて……」
「待って下さい」
天明は祖母の話を遮《さえぎ》った。
「あなたがご自分で説明なさる必要はありません。お孫《まご》さんの『影《かげ》』から知ることができますので」
天明《てんめい》はすっとソファから離《はな》れて、カーペットの上に片膝《かたひざ》をついた。背後《はいご》の窓から射《さ》しこんでいる太陽の光が、床《ゆか》の上に濃《こ》い影を作っている。天明はまるで熱《あつ》いものに触れるように、おそるおそる少年の影に指を近づけた。
「あの……?」
不安げな声で彼の祖母《そば》が話しかけようとすると、天明は目を閉じて話し始めた。
「生まれた時はごく普通のかわいらしい子供だった。二、三|歳《さい》までは走ることも喋《しゃべ》ることもできたはずだ。しかし、成長するにつれて、体の自由が徐々に奪われて来た……最初は足が、次に腕が。やがて指一本動かすのも難《むずか》しくなり、今は呼吸をするのも機械の力を借りなければならない。病院の診断《しんだん》ではせいぜい余命は後一ヶ月、というところですか。現代|医療《いりょう》の限界を感じたあなたは、病院の制止を振り切って退院させた」
少年は下腹のあたりにひやりとしたものを感じた。周囲の人がそれに近いことを話していたので、そのことはもう知っている——たぶん、ぼくはもうすぐしぬ。
以前に比べるとそのことにあまりショックを受けなくなっていた。病状が進むにつれて死について怯《おび》えるのにも疲れて来ていたからだ。死ぬ前にしたいことや、望みも特に思いつかなかった。
ただ一つだけ、気がかりなのは祖母のことだった。
彼女は天明の言葉に息を呑《の》んでいる。
「そうです! そうです! どうしてそんなことまで分かるんですか?」
「『影』がそう語っています。そして、今となっては、あなたの顔も見分けることができない」
再び彼の祖母は顔を覆《おお》ってわっと泣《な》き崩《くず》れた。
少年の瞼《まぶた》がかすかに震《ふる》える——ちがう、ちゃんとわかるよ、みんなのはなしだってぜんぶきこえてるってば、と叫びたかったが、彼にはなにもできなかった。
「ええ、ええ、もうわたしを呼んでくれることもありません!」
取り乱した祖母の手を、天明がしっかりと握っている。横目で見ているだけで、胸のむかつく眺めだった。
(ああ、これでおばあちゃんはこいつをしんじた)
「あなたのお孫さんは非常に濃い『影』の力に冒《おか》されています」
天明は悲しげに目を伏せて言った。
「かげのちから?」
祖母は子供のように天明の言葉を繰り返した。
「人間の体は生まれながらにして、生命エネルギー、つまりプラスの波動を持っています。同時にマイナスの方へ引き戻す力も働いている。その象徴が人間の影です。わたしは人間の影に触れることで、その人間が持っている病《やまい》を知ることができる」
「はあ……」
祖母《そぼ》は首をかしげつつもうなずいた。うそだよ、と少年は内心つぶやいた。
「時折、人間の生命力を食い尽くしてしまうような悪い影《かげ》が存在します。そのような強い『影』、負の波動を『カゲヌシ』と呼んでいます。『カゲヌシ』については、ご存じのように最近世間でも噂《うわさ》にもなっていますが、しょせん世間の人々はその真の意味を知りません」
天明《てんめい》の声がかすかに緊張《きんちょう》を帯《お》びたことに少年は気づいた。嘘《うそ》なりに核心に迫った話をしているのかもしれない。
「残念ながら、この子にとりついた『カゲヌシ』の力はおそろしく強い……わたしは嘘を申しません。完全な病の根絶はおそらく難《むずか》しいでしょう。ただ、私が天から与えられた力を使って治療《ちりょう》を施《ほどこ》せば、この子の余命が二倍以上に伸びることは保証いたします。ただ、そのためには私の側にも特別な準備が必要ですし、あなたにはさまざまなサポートをお願《ねが》いしなければならないが……」
少年は目を閉じた。どうしよう、と思った時、天明の意外な言葉が聞こえた。
「とりあえず、お孫《まご》さんと私を二人切りにしていただけますか?」
しかし、その言葉を誰《だれ》にも伝えることはできない。自分の意志で唇《くちびる》や舌を動かすことはおろか、最近は目を開けていることすら難《むずか》しくなって来ていた。
膝《ひざ》や腰をできるだけ曲げないように設計された、特注の車椅子《くるまいす》に彼は乗せられている。携帯用の人工呼吸器のマスクが鼻のあたりを覆《おお》っていた。数ヶ月前から人工呼吸器の助けを借りなければ、息をすることもできない状態《じょうたい》だった。
「あなた方を心から歓迎しますよ」
と、「うそつき」は言った。車椅子の隣《となり》のソファに座っている彼の祖母《そぼ》は、その言葉にうっと声を上げてハンカチを目に押し当てた。少年は祖母に連れられて、その男の滞在するホテルの一室を訪れていた。
「世の中には真理に近い人間と、そうでない人間がいます。それがいつの時代でも人の世の本質です」
「うそつき」は細身の黒いスーツを身につけ、長髪を後ろで縛《しば》った四十代前半の男で、少年たちの向かい側にあるソファから身を乗り出すようにしていた。よく日焼けした顔には深い皺《しわ》が刻まれている。彼の傍《かたわ》らにはスーツと同じ色のマントとステッキが置いてある。見た目はまるで手品師だった。
(こいつはうそをつくのをたのしんでる)
と、少年は思う。時々、男の頬《ほお》がかすかにゆるむのが分かった。
(騙《だま》されている人を見るのがほんとに嬉《うれ》しいんだ)
「あなたはお孫《まご》さんを治療《ちりょう》するために、最善の努力を尽くされて来た。私にはそれが分かります。どんなに長く、苦しい旅路だったことか、それを本当の意味で理解できるのは私、この皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》だけです」
芝居《しばい》がかった男の言葉に、彼の祖母はぐすっと鼻をすすり上げた。天明と名乗った男は、少年ではなく彼の祖母だけに話しかけている。
「そして、真理の導《みちび》きにより、今お二人とも私の目の前におられる。全《すべ》ての苦しみが取り除かれんことを求めて、わたしの前に来たのでしょう? さあ、お孫さんの病状について、なにもかも教えていただけますか」
彼の祖母はハンカチを口元から離《はな》した。一瞬《いっしゅん》、天明が祖母の手を目で追ったのを少年は見|逃《のが》さなかった。皺だらけの祖母の指には、大きな宝石のついた指輪《ゆびわ》がいくつも嵌《は》められている——こいつは、ずっと指輪を見てたんだ、と彼は思った。
「ここにいるのがわたしの孫です。私のたった一人の家族です。ごらんの通り、重い病気を抱えて……」
「待って下さい」
天明は祖母の話を遮《さえぎ》った。
「あなたがご自分で説明なさる必要はありません。お孫《まご》さんの『影《かげ》』から知ることができますので」
天明《てんめい》はすっとソファから離《はな》れて、カーペットの上に片膝《かたひざ》をついた。背後《はいご》の窓から射《さ》しこんでいる太陽の光が、床《ゆか》の上に濃《こ》い影を作っている。天明はまるで熱《あつ》いものに触れるように、おそるおそる少年の影に指を近づけた。
「あの……?」
不安げな声で彼の祖母《そば》が話しかけようとすると、天明は目を閉じて話し始めた。
「生まれた時はごく普通のかわいらしい子供だった。二、三|歳《さい》までは走ることも喋《しゃべ》ることもできたはずだ。しかし、成長するにつれて、体の自由が徐々に奪われて来た……最初は足が、次に腕が。やがて指一本動かすのも難《むずか》しくなり、今は呼吸をするのも機械の力を借りなければならない。病院の診断《しんだん》ではせいぜい余命は後一ヶ月、というところですか。現代|医療《いりょう》の限界を感じたあなたは、病院の制止を振り切って退院させた」
少年は下腹のあたりにひやりとしたものを感じた。周囲の人がそれに近いことを話していたので、そのことはもう知っている——たぶん、ぼくはもうすぐしぬ。
以前に比べるとそのことにあまりショックを受けなくなっていた。病状が進むにつれて死について怯《おび》えるのにも疲れて来ていたからだ。死ぬ前にしたいことや、望みも特に思いつかなかった。
ただ一つだけ、気がかりなのは祖母のことだった。
彼女は天明の言葉に息を呑《の》んでいる。
「そうです! そうです! どうしてそんなことまで分かるんですか?」
「『影』がそう語っています。そして、今となっては、あなたの顔も見分けることができない」
再び彼の祖母は顔を覆《おお》ってわっと泣《な》き崩《くず》れた。
少年の瞼《まぶた》がかすかに震《ふる》える——ちがう、ちゃんとわかるよ、みんなのはなしだってぜんぶきこえてるってば、と叫びたかったが、彼にはなにもできなかった。
「ええ、ええ、もうわたしを呼んでくれることもありません!」
取り乱した祖母の手を、天明がしっかりと握っている。横目で見ているだけで、胸のむかつく眺めだった。
(ああ、これでおばあちゃんはこいつをしんじた)
「あなたのお孫さんは非常に濃い『影』の力に冒《おか》されています」
天明は悲しげに目を伏せて言った。
「かげのちから?」
祖母は子供のように天明の言葉を繰り返した。
「人間の体は生まれながらにして、生命エネルギー、つまりプラスの波動を持っています。同時にマイナスの方へ引き戻す力も働いている。その象徴が人間の影です。わたしは人間の影に触れることで、その人間が持っている病《やまい》を知ることができる」
「はあ……」
祖母《そぼ》は首をかしげつつもうなずいた。うそだよ、と少年は内心つぶやいた。
「時折、人間の生命力を食い尽くしてしまうような悪い影《かげ》が存在します。そのような強い『影』、負の波動を『カゲヌシ』と呼んでいます。『カゲヌシ』については、ご存じのように最近世間でも噂《うわさ》にもなっていますが、しょせん世間の人々はその真の意味を知りません」
天明《てんめい》の声がかすかに緊張《きんちょう》を帯《お》びたことに少年は気づいた。嘘《うそ》なりに核心に迫った話をしているのかもしれない。
「残念ながら、この子にとりついた『カゲヌシ』の力はおそろしく強い……わたしは嘘を申しません。完全な病の根絶はおそらく難《むずか》しいでしょう。ただ、私が天から与えられた力を使って治療《ちりょう》を施《ほどこ》せば、この子の余命が二倍以上に伸びることは保証いたします。ただ、そのためには私の側にも特別な準備が必要ですし、あなたにはさまざまなサポートをお願《ねが》いしなければならないが……」
少年は目を閉じた。どうしよう、と思った時、天明の意外な言葉が聞こえた。
「とりあえず、お孫《まご》さんと私を二人切りにしていただけますか?」
「さてと」
祖母を部屋から送り出して、ドアを閉めた瞬間《しゅんかん》に天明の顔つきが変わった。底光りのする目。口元には薄笑《うすわら》いを浮かべている。
「お前は俺《おれ》の話が分かってるんだろ?」
口調《くちょう》も今までとはまるで違う——こいつのほんとのすがたなんだ、と少年は思った。
天明は後ろで手を組んで、軽やかな足取りで部屋の中を歩き始めた。それでいて、少年からは決して目を離《はな》さない。
「俺はお前が入院していた病院へ事情を聞きにいった。医者の診断では脳には問題はなかったらしい。しかし、お前のばあさんはそれを分かっちゃいない。医者の話を信じられなくなって、孫が自分の顔も分からないって思いこんでるわけだ。本物の馬鹿《ばか》だぜ。お前もそう思ってるんじゃないか?」
少年はかっとなった。確《たし》かに祖母は彼がどういう状態《じょうたい》にあるのか分かっていない。しかし、彼には祖母の気持ちが分かる。彼は祖母に残された最後の肉親であり、彼の死をなによりも恐れていて——少しだけ思いこみが強くなっている。それだけのことなのだ。どうして悪く思うことができるだろう。
「ってことで、さっきの俺の話は全部嘘だ。お前の影なんか見たってなにも分からん」
唇《くちびる》の端の皺《しわ》が深くなって、天明の顔にさらに大きな笑《え》みが浮かんだ。
「はっきり分かってることは、お前のばあさんがこれから俺にばんばんカネを吐き出すってことぐらいだな。一ヶ月後か、二ヶ月後か、お前が死ぬ頃《ころ》にはカネもたまってるだろう。俺《おれ》は故郷の町に戻る。ちょっとした目的があって、その金を使って色々準備をするつもりだ……ちなみにその目的ってのは」
こらえ切れなくなったように男はぷっと噴《ふ》き出した。そして、その笑顔《えがお》のままで言った。
「皆殺しだ」
おしえなくちゃ、と少年は思った。こいつはあたまがおかしいんだ。おばあちゃんにぜったいにおしえなくちゃいけない。
「もちろん、お前はあのばあさんにそのことを伝えられない。いや、絶対にそうしない。……その理由を今から見せてやるよ」
天明《てんめい》はちょうど少年の向かい側、さっきまで座っていたソファのそばで立ち止まる。少年の影《かげ》と天明の影が、真正面からぶつかり合うようにカーペットの上に落ちて——。
(……え?)
少年は窓を背にしている。だから影がカーペットの上にある。しかし、なぜかこの男の影は少年の反対側から伸びていた——光を背にしていないにもかかわらず。
「出て来い……『龍子主《たつこぬし》』」
天明の影がまるで息を吹きこまれた風船のようにふくらんでいく。そして、四つ足の大きな生き物へと姿を変えていった。少年は唯一《ゆいいつ》自由になる目を大きく見開いた。
うそだ、と彼は思った。こんなの、うそだ。いるわけない。こんなもの。
「いいか、もしお前がばあさんになにか言おうとしたら、こいつをけしかける。お前のばあさんは丸かじりにされる。こいつは人間を食うんだからな……こんな風に」
天明は歯をむき出して、かちかちかちかち、とカスタネットのように顎《あご》を動かした。
「それが嫌《いや》なら、黙《だま》って見てな。まあ、お前にとっちゃそう難《むずか》しいことじゃないが」
そして、背筋をそらせて哄笑《こうしょう》した。
祖母を部屋から送り出して、ドアを閉めた瞬間《しゅんかん》に天明の顔つきが変わった。底光りのする目。口元には薄笑《うすわら》いを浮かべている。
「お前は俺《おれ》の話が分かってるんだろ?」
口調《くちょう》も今までとはまるで違う——こいつのほんとのすがたなんだ、と少年は思った。
天明は後ろで手を組んで、軽やかな足取りで部屋の中を歩き始めた。それでいて、少年からは決して目を離《はな》さない。
「俺はお前が入院していた病院へ事情を聞きにいった。医者の診断では脳には問題はなかったらしい。しかし、お前のばあさんはそれを分かっちゃいない。医者の話を信じられなくなって、孫が自分の顔も分からないって思いこんでるわけだ。本物の馬鹿《ばか》だぜ。お前もそう思ってるんじゃないか?」
少年はかっとなった。確《たし》かに祖母は彼がどういう状態《じょうたい》にあるのか分かっていない。しかし、彼には祖母の気持ちが分かる。彼は祖母に残された最後の肉親であり、彼の死をなによりも恐れていて——少しだけ思いこみが強くなっている。それだけのことなのだ。どうして悪く思うことができるだろう。
「ってことで、さっきの俺の話は全部嘘だ。お前の影なんか見たってなにも分からん」
唇《くちびる》の端の皺《しわ》が深くなって、天明の顔にさらに大きな笑《え》みが浮かんだ。
「はっきり分かってることは、お前のばあさんがこれから俺にばんばんカネを吐き出すってことぐらいだな。一ヶ月後か、二ヶ月後か、お前が死ぬ頃《ころ》にはカネもたまってるだろう。俺《おれ》は故郷の町に戻る。ちょっとした目的があって、その金を使って色々準備をするつもりだ……ちなみにその目的ってのは」
こらえ切れなくなったように男はぷっと噴《ふ》き出した。そして、その笑顔《えがお》のままで言った。
「皆殺しだ」
おしえなくちゃ、と少年は思った。こいつはあたまがおかしいんだ。おばあちゃんにぜったいにおしえなくちゃいけない。
「もちろん、お前はあのばあさんにそのことを伝えられない。いや、絶対にそうしない。……その理由を今から見せてやるよ」
天明《てんめい》はちょうど少年の向かい側、さっきまで座っていたソファのそばで立ち止まる。少年の影《かげ》と天明の影が、真正面からぶつかり合うようにカーペットの上に落ちて——。
(……え?)
少年は窓を背にしている。だから影がカーペットの上にある。しかし、なぜかこの男の影は少年の反対側から伸びていた——光を背にしていないにもかかわらず。
「出て来い……『龍子主《たつこぬし》』」
天明の影がまるで息を吹きこまれた風船のようにふくらんでいく。そして、四つ足の大きな生き物へと姿を変えていった。少年は唯一《ゆいいつ》自由になる目を大きく見開いた。
うそだ、と彼は思った。こんなの、うそだ。いるわけない。こんなもの。
「いいか、もしお前がばあさんになにか言おうとしたら、こいつをけしかける。お前のばあさんは丸かじりにされる。こいつは人間を食うんだからな……こんな風に」
天明は歯をむき出して、かちかちかちかち、とカスタネットのように顎《あご》を動かした。
「それが嫌《いや》なら、黙《だま》って見てな。まあ、お前にとっちゃそう難《むずか》しいことじゃないが」
そして、背筋をそらせて哄笑《こうしょう》した。
少年の祖母《そぼ》が戻って来たのはそれからすぐ後だった。
「ああ!」
孫《まご》を一目見て彼女は叫んだ。
「この子、泣いていますわ! もう何年もこんなことはなかったのに!」
「今、わたしの生命エネルギーを少し彼に分け与えました」
天明は落ち着き払って言った。部屋の中に現れた怪物はきれいに姿を消し、男の態度《たいど》もすっかり元に戻っている。
「そのせいで、ほんのわずかな間ですが、外部を認識《にんしき》することができたようです。あなたがそばにいないことに気づいて、寂《さび》しくなったんでしょう」
少年の祖母は涙で濡《ぬ》れた彼の頬《ほお》に手を添《そ》える。彼女もまた涙を流していた。
「ああ、ごめんなさい。おばあちゃんはここにいますよ!」
ちがうんだよ、と少年は思った。こわくてくやしくてはらがたってるだけなんだ。ぼくはおばあちゃんのためになんにもできないから。
「あなたのおかげです! ありがとうございます! あなたは本当に神様のような、いいえ、神様そのものです!」
ほとんど泣き出さんばかりの祖母《そぼ》が、天明《てんめい》の手に額《ひたい》をこすりつけている。
「いいえ……私の治療《ちりょう》はこれからですよ」
天明の頬《ほお》に浮かぶ笑《え》みを見ながら、彼は心の中で祈りを捧《ささ》げた。
どうか、かみさま。
ううん、かみさまじゃなくてもいい。どうかこの「うそつき」をたおしてください。おばあちゃんがもっとウソをきかされるまえに。おばあちゃんがこいつにぜんぶおかねをとられてしまうまえに。ぼくがしんでしまうまえに。どうかどうかおねがいします。どうかどうかどうかどうかどうか……
「ああ!」
孫《まご》を一目見て彼女は叫んだ。
「この子、泣いていますわ! もう何年もこんなことはなかったのに!」
「今、わたしの生命エネルギーを少し彼に分け与えました」
天明は落ち着き払って言った。部屋の中に現れた怪物はきれいに姿を消し、男の態度《たいど》もすっかり元に戻っている。
「そのせいで、ほんのわずかな間ですが、外部を認識《にんしき》することができたようです。あなたがそばにいないことに気づいて、寂《さび》しくなったんでしょう」
少年の祖母は涙で濡《ぬ》れた彼の頬《ほお》に手を添《そ》える。彼女もまた涙を流していた。
「ああ、ごめんなさい。おばあちゃんはここにいますよ!」
ちがうんだよ、と少年は思った。こわくてくやしくてはらがたってるだけなんだ。ぼくはおばあちゃんのためになんにもできないから。
「あなたのおかげです! ありがとうございます! あなたは本当に神様のような、いいえ、神様そのものです!」
ほとんど泣き出さんばかりの祖母《そぼ》が、天明《てんめい》の手に額《ひたい》をこすりつけている。
「いいえ……私の治療《ちりょう》はこれからですよ」
天明の頬《ほお》に浮かぶ笑《え》みを見ながら、彼は心の中で祈りを捧《ささ》げた。
どうか、かみさま。
ううん、かみさまじゃなくてもいい。どうかこの「うそつき」をたおしてください。おばあちゃんがもっとウソをきかされるまえに。おばあちゃんがこいつにぜんぶおかねをとられてしまうまえに。ぼくがしんでしまうまえに。どうかどうかおねがいします。どうかどうかどうかどうかどうか……
*
二ヶ月後、夏を迎える前に少年は死んだ。
皇輝山《おうきざん》天明は、罰《ばつ》の代わりに多額の報酬を受け取った。
皇輝山《おうきざん》天明は、罰《ばつ》の代わりに多額の報酬を受け取った。