佐貫は別として、みちるが裕生の家に上がるのは初めてだった。
藤牧家《ふじまきけ》の居間に通された彼女は、きょろきょろと室内を見回している。佐貫は彼女の隣《となり》でバッグから課題のプリントを取り出している。裕生はノートや辞書を取りに自分の部屋へいったままだ。
大きな座卓がさして広くもない部屋の中央に置かれていて、後は目を引くような家具はない。ただ、部屋の中はきちんと隅々まで片づいており、そのことにみちるは驚《おどろ》いていた。裕生の様子《ようす》では自分たちが来ると思っていなかったらしい。男しかいない家のはずなのに、普段《ふだん》からきちんと片づけているのだ。家事をやっているのは裕生だというから、まじめな裕生の性格のたまものだろう。
(昔のあたしだったらドキドキなんだろうなあ)
と、みちるはぼんやり思った。もちろん彼女の心の秘密だったが、中学一年の頃《ころ》の西尾《にしお》みちるにとって、藤牧裕生は「初恋の人」だった。今となっては「ちょっとトロいけど仲のいい友達」なのだが、時々昔の記憶《きおく》がフラッシュバックして戸惑《とまど》うことがある。
「そう言えば今日の藤牧、普段となんか違わない?」
みちるは佐貫に言った。
「そうだったか?」
自分のノートをめくりながら佐貫が言った。そう言われるとみちるも自信がない。しかし、公園のブランコのそばに立っていた裕生《ひろお》は、少し哀《かな》しげな目をしていたような気がする。
ちょうど初めて裕生に会った頃《ころ》のように。あの中学一年の春。病室に入っていくと、ベッドの中で色の白い少年がうつむいて——。
「あ、うーん……はいストップ!」
みちるは声に出して、強引に「あの日の思い出」の再生を止めた。
「どうかしたのか?」
怪訝《けげん》そうに佐貫《さぬき》がみちるを見ている。みちるはふるふると首を振った。
「なんでもない」
その時、ドアの開く音が聞こえた。こんな時間に誰《だれ》が帰ってきたんだろう、と思っていると、スーパーの買い物袋を両手にぶら提げた雛咲《ひなさき》葉《よう》が現れた。
みちるたちを見て、彼女は凍《こお》りついたように立ちすくんだ。同じようにみちるも心底驚《しんそこおどろ》いていた。買い物袋を持ち、チャイムも鳴らさず、声もかけずに家に入って来る——どう見ても葉はここに住んでいた。
「お、こんにちは。夕飯の買い物?」
唯一《ゆいいつ》、いつも通りの佐貫が声をかけた。
「はい……こんにちは」
「あ、あたしたち課題《かだい》やりに来たの。こないだの登校日にそういう約束してて」
みちるは慌《あわ》てて言った。なぜか妙に後ろめたい気持ちだった。
「……あの、ごゆっくり」
消え入りそうな声で言って、彼女はキッチンの方へ立ち去った。その途端《とたん》、みちるは佐貫の肩をぐいとつかんだ。
「ねえ、あのさ。どうなってるの?」
と、小声で佐貫に話しかける。
「なにが?」
「あの子、なんでここにいるわけ?」
ああ、と佐貫はこともなげに言った。
「ここに住んでるんだってよ。聞いてなかったのか?」
「聞いてないよ!」
夏に入る前にそういう話があったことは知っているが、その話はなくなったと思っていた。まさか本当に一緒《いっしょ》に住み始めたとは。
「あたしたちこんなところに来ていいの?」
「なんかまずいのか?」
「え、だって……」
と、言いかけてみちるは口をつぐんだ。うまく説明できない。なんとなくいたたまれない気持ちだった。
「意識《いしき》しすぎだろ。大丈夫だよ」
「……」
まあ、ここに住んでても住んでなくてもどっちでもいいんだけどさ、と、みちるは自分に言い聞かせた——あたしには関係ないし。
その時、裕生《ひろお》の部屋のふすまが開く音が聞こえた。
「あ、お帰り。早かったね」
裕生の声だった。葉《よう》に話しかけているらしい。
「言い忘れてて悪かったけど、あっちの居間で勉強するから」
「はい……あの、野菜が安かったからたくさん買っちゃったんですけど」
「別にいいよ。なに買うかは葉に任せてあるし」
ぴくっとみちるの耳が反応した。いつから名前を呼び捨てにするようになったのだろう。無意識のうちに彼女は耳を傾けていた。
一瞬《いっしゅん》の間。
「なんともない?」
と、裕生が言った。
「……昨日と変わらないと思います」
どういう意味、とみちるは思った。前にも思ったことがあるけど、ひょっとしてなにか病気にかかっているのかも——。
はっと彼女は我に返った。これではただの盗み聞きである。自分が恥《は》ずかしくなった。
(あたしには関係ないこと)
と、もう一度自分に言い聞かせた。
藤牧家《ふじまきけ》の居間に通された彼女は、きょろきょろと室内を見回している。佐貫は彼女の隣《となり》でバッグから課題のプリントを取り出している。裕生はノートや辞書を取りに自分の部屋へいったままだ。
大きな座卓がさして広くもない部屋の中央に置かれていて、後は目を引くような家具はない。ただ、部屋の中はきちんと隅々まで片づいており、そのことにみちるは驚《おどろ》いていた。裕生の様子《ようす》では自分たちが来ると思っていなかったらしい。男しかいない家のはずなのに、普段《ふだん》からきちんと片づけているのだ。家事をやっているのは裕生だというから、まじめな裕生の性格のたまものだろう。
(昔のあたしだったらドキドキなんだろうなあ)
と、みちるはぼんやり思った。もちろん彼女の心の秘密だったが、中学一年の頃《ころ》の西尾《にしお》みちるにとって、藤牧裕生は「初恋の人」だった。今となっては「ちょっとトロいけど仲のいい友達」なのだが、時々昔の記憶《きおく》がフラッシュバックして戸惑《とまど》うことがある。
「そう言えば今日の藤牧、普段となんか違わない?」
みちるは佐貫に言った。
「そうだったか?」
自分のノートをめくりながら佐貫が言った。そう言われるとみちるも自信がない。しかし、公園のブランコのそばに立っていた裕生《ひろお》は、少し哀《かな》しげな目をしていたような気がする。
ちょうど初めて裕生に会った頃《ころ》のように。あの中学一年の春。病室に入っていくと、ベッドの中で色の白い少年がうつむいて——。
「あ、うーん……はいストップ!」
みちるは声に出して、強引に「あの日の思い出」の再生を止めた。
「どうかしたのか?」
怪訝《けげん》そうに佐貫《さぬき》がみちるを見ている。みちるはふるふると首を振った。
「なんでもない」
その時、ドアの開く音が聞こえた。こんな時間に誰《だれ》が帰ってきたんだろう、と思っていると、スーパーの買い物袋を両手にぶら提げた雛咲《ひなさき》葉《よう》が現れた。
みちるたちを見て、彼女は凍《こお》りついたように立ちすくんだ。同じようにみちるも心底驚《しんそこおどろ》いていた。買い物袋を持ち、チャイムも鳴らさず、声もかけずに家に入って来る——どう見ても葉はここに住んでいた。
「お、こんにちは。夕飯の買い物?」
唯一《ゆいいつ》、いつも通りの佐貫が声をかけた。
「はい……こんにちは」
「あ、あたしたち課題《かだい》やりに来たの。こないだの登校日にそういう約束してて」
みちるは慌《あわ》てて言った。なぜか妙に後ろめたい気持ちだった。
「……あの、ごゆっくり」
消え入りそうな声で言って、彼女はキッチンの方へ立ち去った。その途端《とたん》、みちるは佐貫の肩をぐいとつかんだ。
「ねえ、あのさ。どうなってるの?」
と、小声で佐貫に話しかける。
「なにが?」
「あの子、なんでここにいるわけ?」
ああ、と佐貫はこともなげに言った。
「ここに住んでるんだってよ。聞いてなかったのか?」
「聞いてないよ!」
夏に入る前にそういう話があったことは知っているが、その話はなくなったと思っていた。まさか本当に一緒《いっしょ》に住み始めたとは。
「あたしたちこんなところに来ていいの?」
「なんかまずいのか?」
「え、だって……」
と、言いかけてみちるは口をつぐんだ。うまく説明できない。なんとなくいたたまれない気持ちだった。
「意識《いしき》しすぎだろ。大丈夫だよ」
「……」
まあ、ここに住んでても住んでなくてもどっちでもいいんだけどさ、と、みちるは自分に言い聞かせた——あたしには関係ないし。
その時、裕生《ひろお》の部屋のふすまが開く音が聞こえた。
「あ、お帰り。早かったね」
裕生の声だった。葉《よう》に話しかけているらしい。
「言い忘れてて悪かったけど、あっちの居間で勉強するから」
「はい……あの、野菜が安かったからたくさん買っちゃったんですけど」
「別にいいよ。なに買うかは葉に任せてあるし」
ぴくっとみちるの耳が反応した。いつから名前を呼び捨てにするようになったのだろう。無意識のうちに彼女は耳を傾けていた。
一瞬《いっしゅん》の間。
「なんともない?」
と、裕生が言った。
「……昨日と変わらないと思います」
どういう意味、とみちるは思った。前にも思ったことがあるけど、ひょっとしてなにか病気にかかっているのかも——。
はっと彼女は我に返った。これではただの盗み聞きである。自分が恥《は》ずかしくなった。
(あたしには関係ないこと)
と、もう一度自分に言い聞かせた。
三人の「勉強会」は大して時間をかけずに終わった。それぞれの得意科目を参考にしつつ、課題《かだい》の分担を割り振っていって、全員が苦手《にがて》な教科だけは次に集まった時に皆でやる、ということに決まった。
座卓の上に広げられていたプリントやノートはすっかり片づけられて、今は三人とも葉の持って来てくれたアールグレイのアイスティーを飲みながらおしゃべりをしている。よくよく考えれば計画を立てただけで課題はなに一つ終わっていないのだが、なんとなく大きな山を乗り越えたような気持ちになっていた。
先ほどから佐貫《さぬき》はずっと自分が見た「皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》ショー」の話をしている。みちると裕生はその聞き役に回っているのだが、みちるは少し裕生の様子《ようす》が気になっていた。
(やっぱり元気ない……みたい)
裕生の様子はおかしいと思う。しかし、経験上《けいけんじょう》彼女は自分の注意力にあまり自信を持っていなかった。
「そう言えば、藤牧《ふじまき》先輩《せんぱい》って今も『カゲヌシ』の噂《うわさ》、調《しら》べてんだろ」
ふと、佐貫《さぬき》が話題を変えた。彼は裕生《ひろお》の様子《ようす》に気づいていないらしい。
「どういう調査《ちょうさ》してんのか、聞いてるか?」
「あ……さあ、よく分からないけど。それがどうかしたの?」
少しためらいがちに裕生は言った。
「その『皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》ショー』の中で、『カゲヌシ』のことをわけの分かんない説明してたんだよ。ひょっとしたら結構有名なのかと思ってさ」
へえ、と裕生は生返事をする。佐貫の説明はあまり頭に入っていないように見えた。
「兄さんの部屋に書きかけのレポートがあるから、よかったら読みなよ」
「いいのか?」
「他《ほか》の人に見せても構わないって言ってたから。持って来ようか」
立ち上がりかけた裕生を佐貫が押しとどめた。
「いいっていいって。自分で探して読むから」
佐貫はうきうきと立ち上がり、部屋から出ていった。
みちると裕生は無言でその背中を見送った。
妙な沈黙《ちんもく》が落ちて来た。この部屋に二人っ切りだと思うと、みちるはなんとなく落ち着かなかった。学校ではいくら二人でいてもなんとも思わないのだが。
うろうろと視線《しせん》をさまよわせた末、みちるは口を開いた。
「そう言えば、もうちょっとで鶴亀《つるき》神社のお祭りだよね」
去年も佐貫を含めて三人で遊びにいった。みちるは神社でバイトしているが、後数日で終わると聞いている。お祭りが始まる頃《ころ》には暇《ひま》になるはずだ。
「今年も一緒《いっしょ》にいく?」
裕生の表情がわずかにくもる。とたんにみちるは動揺《どうよう》した。
「あ、佐貫も一緒だよ」
そう付け加えてから、みちるは自分がつくづく嫌《いや》になった。佐貫が一緒なのは当たり前だ。二人っ切りでお祭りにいくはずがないのだから。
(なに言ってんだろうあたし)
沈黙。裕生は空になった自分のコップをじっと見ている。さっき公園で見た時のような、少し陰《かげ》のある表情だった。
「……藤牧?」
そう呼びかけると、裕生ははっと顔を上げた。
「あ、うん。いけたらいきたいんだけど。ここんとこちょっと忙《いそが》しくて」
「……」
公園でたたずんでいた裕生《ひろお》をみちるは思い出す——あまり忙《いそが》しそうには見えなかったが、そのことを直接|尋《たず》ねてはいけない気がした。
「藤牧《ふじまき》、最近なにやってんの」
しかし、間接的には尋ねていた。
「……家にいるよ」
だから家でなにやってんのよ、とみちるは思ったが、苛立《いらだ》つよりも裕生の様子《ようす》が気になった。今、この瞬間《しゅんかん》にもなにか別のことを考えているようだった。
「……本当は外に出てもらわないといけないんだけど」
ふと、独《ひと》り言《ごと》のように彼はつぶやいた。
「え?」
今、なんか変なことを言わなかった?
今度こそきちんと聞き出そうとした時、裕生は急にみちるに笑顔《えがお》を向けた。
「西尾《にしお》はなにしてるの? 夏の間どこかでバイトするって言ってなかったっけ」
みちるは戸惑《とまど》ったが、結局問いただすのはやめることにした。
「……神社でやってるよ。まあただの雑用だし、後何日かで終わるんだけどさ」
実は今日あたりで終わるはずだったのだが、思ったより仕事が長引いていた。
「宮司《ぐうじ》さんは後一人ぐらい手伝ってくれる子が欲しいって言ってたけどね。でも、急に何日かだけ働いてもらうのって難《むずか》しいし、バイト代もそんなに」
みちるは言葉を切った。裕生が大きく目を見開いて彼女の顔を見つめている。
「え……なに?」
「……それだ」
裕生は急にみちるの肩に手をかけて、ぐっと顔を寄せて来た。
(え、な、なに?)
唇《くちびる》が目の前に近づいてくる。いきなりのことで、みちるは完全に気が動転していた。でも、さすがにこれは張り倒さなければならないと思い直した。みちるが腕を上げかけた瞬間《しゅんかん》、裕生の口が開く。
「……それ、葉《よう》でも大丈夫かな」
ただの内緒話《ないしょばなし》らしい。ほっとみちるは息をついた。
「え?……うん。大丈夫だと思うけど」
裕生につられて、彼女も小声で答えた。
「ちょっと誘《さそ》ってみてくれない?」
「……」
どうして内緒で相談《そうだん》する必要があるのかよく分からなかったが、断る理由も思いつかない。神社が人手《ひとで》を欲しがっているのは本当だった。
「いいよ。でも……」
なんでそんなことあたしに頼むの、と質問しようとした瞬間《しゅんかん》、キッチンから足音が聞こえた。みちるは慌《あわ》てて裕生《ひろお》から体を離《はな》す。お盆を持った葉《よう》が現れた。
「コップ、片づけていいですか」
「うん。いいよ」
裕生とみちるは同時に答えた。妙な雰囲気を察したのか、彼女はちょっと不思議《ふしぎ》そうな顔をした。彼女が無言でコップをお盆に載《の》せている間、裕生はちらちらとみちるの方を見ていた。
言ってくれ、ということなのだと思う。以前にも裕生の話を聞いて、変なことを引き受けてしまったことがある。今回も気は進まないが、一度|誘《さそ》うと言ったからには誘わなければと思った——責任感が強いのは彼女の性分《しょうぶん》だった。
みちるは咳払《せきばら》いした。
「あのね、雛咲《ひなさき》さん」
少し緊張《きんちょう》しているせいか、我ながらよそゆきの声になっていた。葉は手を止めてみちるを振りかえった。
「あたし、鶴亀《つるき》神社で臨時《りんじ》のバイトしてるんだけど、人手《ひとで》が足《た》りないの」
「……」
「お祭り前の何日かでいいんだけど、手伝ってくれない?」
葉は凍《こお》りついたように動かない。重い沈黙《ちんもく》が流れ、みちるは不安にかられた——あたしなんか変なこと言ったかな。
やがて、彼女は重い口を開いた。
「……できないです」
「あ、そう」
みちるは半分ほっとしていた。これでとにかく義理は果たした。
分かった、じゃあ他《ほか》の人を捜《さが》すから、と言いかけた時、
「どうして? 別に予定があるわけじゃないだろ」
と、裕生が口を挟《はさ》んだ。
「夏休みの間、全然家から出ないじゃないか。よくないよ、そういうの」
葉は頬《ほお》を叩《たた》かれたように呆然《ぼうぜん》としていた。かわいそうなぐらい顔が青ざめている。
「……わたし、一人でいくんですか?」
やっとのことで葉がつぶやいた。いやだから、あたしもいるんですけど、とみちるが言おうとした時、葉が裕生に向かって言った。
「先輩《せんぱい》は?」
(はあ?)
みちるはその問いにぎょっとして、二人の顔を交互に見た。今の葉の発言はどう考えても、わたしと先輩《せんぱい》はいつも一緒《いっしょ》にいるのが当たり前なのに、という前提に立っている。そこから導《みちび》き出される結論は、
(この二人、付き合ってるんだ)
という以外にはありえない。みちるは力が抜ける気分だった。それならそうと早く言ってよ、と言いたくなった。
「ぼくはいかないよ。別にいくことないだろ」
少し冷めた声で裕生《ひろお》が言った。
「とにかく、少しは外に出なよ。その方がいいって」
さすがにみちるも状況が少し呑《の》みこめてきた。要するに裕生はなにかの都合《つごう》で、葉《よう》を外出させたがっているのだ。おそらくこの団地でなにかあるのだろう。例えば、葉に見られたくない相手に会うとか。
とたんにむかむかと腹が立ってきた。馬鹿《ばか》にするんじゃないわよ、とみちるは思った——ただ、「あたしを」なのか「この子を」なのか、自分でもよく分からなかった。
「藤牧《ふじまき》、ちょっといい?」
みちるは裕生の腕をつかんで立たせると、窓の方へ引きずっていった。二人でベランダへ出ると、葉を部屋に残したまま後ろ手に窓を閉めた。
「どうしたの?」
裕生はびっくりしているらしい。みちるは腰に手を当てて、じろりと裕生を見た。
「あのね、藤牧とあの子がどうなってるのか、あたしにはどうでも……」
ほんの一瞬《いっしゅん》だけみちるはためらった。
ずっと以前に味わった甘さと苦《にが》さが胸の奥でじわりと広がる——だが、すぐにそれを振り捨てた。
「どうでもいいんだけど、あたしを利用したりするのはやめてくれる? 痴話《ちわ》ゲンカはあたしの知らないとこでやって下さい」
痴話ゲンカ、というところで裕生の顔がぱっと赤くなった。
「ち、痴話ゲンカ? なに言ってるの」
「じゃあなんなの? あの子と付き合ってるんでしょ?」
「付き合ってないよ!」
声が大きくなっていることに気づいて、二人は慌《あわ》てて声を低くした。
「事情は言えないけど、葉がここにいるとまずいんだ。西尾《にしお》とか佐貫《さぬき》じゃないと、こういうこと頼めないと思って」
「なにそれ。ちょっとぐらい説明してくれないと——」
その時、かつかつと窓を叩《たた》く音が聞こえた。二人が振り向くと、ガラスの向こうに葉が立っていた。裕生は窓を開けて、
「どうしたの?」
と、声をかけた。葉《よう》は胸の前で組んだ手をもじもじと動かしていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「あの……」
葉が見ているのはみちるだった。
(え、あたし?)
「わたし、やります」
葉は細い声で言った。みちるははあ、とため息をつく。理由は尋《たず》ねなくても分かった。
「……ほんとにいいの?」
みちるが言うとと、葉はこくりとうなずいた。
「じゃあ、明日の朝九時に鶴亀《つるき》駅に来てくれる?」
葉はもう一度うなずいた。そして、コップの載《の》ったお盆を手に取って居間を出ていった。
「よかったね。いってくれるって」
みちるは皮肉っぽい声で言った。
「……でもどうしたんだろ、急に」
裕生《ひろお》はけげんそうな顔をしている。
「自分で考えたら」
みちるは彼を残して、部屋の中に戻った。
ほんとに藤牧《ふじまき》はどこまで鈍《にぶ》いんだろう、と彼女は思った。
あんたがいけって言ったからに決まってるじゃない。
座卓の上に広げられていたプリントやノートはすっかり片づけられて、今は三人とも葉の持って来てくれたアールグレイのアイスティーを飲みながらおしゃべりをしている。よくよく考えれば計画を立てただけで課題はなに一つ終わっていないのだが、なんとなく大きな山を乗り越えたような気持ちになっていた。
先ほどから佐貫《さぬき》はずっと自分が見た「皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》ショー」の話をしている。みちると裕生はその聞き役に回っているのだが、みちるは少し裕生の様子《ようす》が気になっていた。
(やっぱり元気ない……みたい)
裕生の様子はおかしいと思う。しかし、経験上《けいけんじょう》彼女は自分の注意力にあまり自信を持っていなかった。
「そう言えば、藤牧《ふじまき》先輩《せんぱい》って今も『カゲヌシ』の噂《うわさ》、調《しら》べてんだろ」
ふと、佐貫《さぬき》が話題を変えた。彼は裕生《ひろお》の様子《ようす》に気づいていないらしい。
「どういう調査《ちょうさ》してんのか、聞いてるか?」
「あ……さあ、よく分からないけど。それがどうかしたの?」
少しためらいがちに裕生は言った。
「その『皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》ショー』の中で、『カゲヌシ』のことをわけの分かんない説明してたんだよ。ひょっとしたら結構有名なのかと思ってさ」
へえ、と裕生は生返事をする。佐貫の説明はあまり頭に入っていないように見えた。
「兄さんの部屋に書きかけのレポートがあるから、よかったら読みなよ」
「いいのか?」
「他《ほか》の人に見せても構わないって言ってたから。持って来ようか」
立ち上がりかけた裕生を佐貫が押しとどめた。
「いいっていいって。自分で探して読むから」
佐貫はうきうきと立ち上がり、部屋から出ていった。
みちると裕生は無言でその背中を見送った。
妙な沈黙《ちんもく》が落ちて来た。この部屋に二人っ切りだと思うと、みちるはなんとなく落ち着かなかった。学校ではいくら二人でいてもなんとも思わないのだが。
うろうろと視線《しせん》をさまよわせた末、みちるは口を開いた。
「そう言えば、もうちょっとで鶴亀《つるき》神社のお祭りだよね」
去年も佐貫を含めて三人で遊びにいった。みちるは神社でバイトしているが、後数日で終わると聞いている。お祭りが始まる頃《ころ》には暇《ひま》になるはずだ。
「今年も一緒《いっしょ》にいく?」
裕生の表情がわずかにくもる。とたんにみちるは動揺《どうよう》した。
「あ、佐貫も一緒だよ」
そう付け加えてから、みちるは自分がつくづく嫌《いや》になった。佐貫が一緒なのは当たり前だ。二人っ切りでお祭りにいくはずがないのだから。
(なに言ってんだろうあたし)
沈黙。裕生は空になった自分のコップをじっと見ている。さっき公園で見た時のような、少し陰《かげ》のある表情だった。
「……藤牧?」
そう呼びかけると、裕生ははっと顔を上げた。
「あ、うん。いけたらいきたいんだけど。ここんとこちょっと忙《いそが》しくて」
「……」
公園でたたずんでいた裕生《ひろお》をみちるは思い出す——あまり忙《いそが》しそうには見えなかったが、そのことを直接|尋《たず》ねてはいけない気がした。
「藤牧《ふじまき》、最近なにやってんの」
しかし、間接的には尋ねていた。
「……家にいるよ」
だから家でなにやってんのよ、とみちるは思ったが、苛立《いらだ》つよりも裕生の様子《ようす》が気になった。今、この瞬間《しゅんかん》にもなにか別のことを考えているようだった。
「……本当は外に出てもらわないといけないんだけど」
ふと、独《ひと》り言《ごと》のように彼はつぶやいた。
「え?」
今、なんか変なことを言わなかった?
今度こそきちんと聞き出そうとした時、裕生は急にみちるに笑顔《えがお》を向けた。
「西尾《にしお》はなにしてるの? 夏の間どこかでバイトするって言ってなかったっけ」
みちるは戸惑《とまど》ったが、結局問いただすのはやめることにした。
「……神社でやってるよ。まあただの雑用だし、後何日かで終わるんだけどさ」
実は今日あたりで終わるはずだったのだが、思ったより仕事が長引いていた。
「宮司《ぐうじ》さんは後一人ぐらい手伝ってくれる子が欲しいって言ってたけどね。でも、急に何日かだけ働いてもらうのって難《むずか》しいし、バイト代もそんなに」
みちるは言葉を切った。裕生が大きく目を見開いて彼女の顔を見つめている。
「え……なに?」
「……それだ」
裕生は急にみちるの肩に手をかけて、ぐっと顔を寄せて来た。
(え、な、なに?)
唇《くちびる》が目の前に近づいてくる。いきなりのことで、みちるは完全に気が動転していた。でも、さすがにこれは張り倒さなければならないと思い直した。みちるが腕を上げかけた瞬間《しゅんかん》、裕生の口が開く。
「……それ、葉《よう》でも大丈夫かな」
ただの内緒話《ないしょばなし》らしい。ほっとみちるは息をついた。
「え?……うん。大丈夫だと思うけど」
裕生につられて、彼女も小声で答えた。
「ちょっと誘《さそ》ってみてくれない?」
「……」
どうして内緒で相談《そうだん》する必要があるのかよく分からなかったが、断る理由も思いつかない。神社が人手《ひとで》を欲しがっているのは本当だった。
「いいよ。でも……」
なんでそんなことあたしに頼むの、と質問しようとした瞬間《しゅんかん》、キッチンから足音が聞こえた。みちるは慌《あわ》てて裕生《ひろお》から体を離《はな》す。お盆を持った葉《よう》が現れた。
「コップ、片づけていいですか」
「うん。いいよ」
裕生とみちるは同時に答えた。妙な雰囲気を察したのか、彼女はちょっと不思議《ふしぎ》そうな顔をした。彼女が無言でコップをお盆に載《の》せている間、裕生はちらちらとみちるの方を見ていた。
言ってくれ、ということなのだと思う。以前にも裕生の話を聞いて、変なことを引き受けてしまったことがある。今回も気は進まないが、一度|誘《さそ》うと言ったからには誘わなければと思った——責任感が強いのは彼女の性分《しょうぶん》だった。
みちるは咳払《せきばら》いした。
「あのね、雛咲《ひなさき》さん」
少し緊張《きんちょう》しているせいか、我ながらよそゆきの声になっていた。葉は手を止めてみちるを振りかえった。
「あたし、鶴亀《つるき》神社で臨時《りんじ》のバイトしてるんだけど、人手《ひとで》が足《た》りないの」
「……」
「お祭り前の何日かでいいんだけど、手伝ってくれない?」
葉は凍《こお》りついたように動かない。重い沈黙《ちんもく》が流れ、みちるは不安にかられた——あたしなんか変なこと言ったかな。
やがて、彼女は重い口を開いた。
「……できないです」
「あ、そう」
みちるは半分ほっとしていた。これでとにかく義理は果たした。
分かった、じゃあ他《ほか》の人を捜《さが》すから、と言いかけた時、
「どうして? 別に予定があるわけじゃないだろ」
と、裕生が口を挟《はさ》んだ。
「夏休みの間、全然家から出ないじゃないか。よくないよ、そういうの」
葉は頬《ほお》を叩《たた》かれたように呆然《ぼうぜん》としていた。かわいそうなぐらい顔が青ざめている。
「……わたし、一人でいくんですか?」
やっとのことで葉がつぶやいた。いやだから、あたしもいるんですけど、とみちるが言おうとした時、葉が裕生に向かって言った。
「先輩《せんぱい》は?」
(はあ?)
みちるはその問いにぎょっとして、二人の顔を交互に見た。今の葉の発言はどう考えても、わたしと先輩《せんぱい》はいつも一緒《いっしょ》にいるのが当たり前なのに、という前提に立っている。そこから導《みちび》き出される結論は、
(この二人、付き合ってるんだ)
という以外にはありえない。みちるは力が抜ける気分だった。それならそうと早く言ってよ、と言いたくなった。
「ぼくはいかないよ。別にいくことないだろ」
少し冷めた声で裕生《ひろお》が言った。
「とにかく、少しは外に出なよ。その方がいいって」
さすがにみちるも状況が少し呑《の》みこめてきた。要するに裕生はなにかの都合《つごう》で、葉《よう》を外出させたがっているのだ。おそらくこの団地でなにかあるのだろう。例えば、葉に見られたくない相手に会うとか。
とたんにむかむかと腹が立ってきた。馬鹿《ばか》にするんじゃないわよ、とみちるは思った——ただ、「あたしを」なのか「この子を」なのか、自分でもよく分からなかった。
「藤牧《ふじまき》、ちょっといい?」
みちるは裕生の腕をつかんで立たせると、窓の方へ引きずっていった。二人でベランダへ出ると、葉を部屋に残したまま後ろ手に窓を閉めた。
「どうしたの?」
裕生はびっくりしているらしい。みちるは腰に手を当てて、じろりと裕生を見た。
「あのね、藤牧とあの子がどうなってるのか、あたしにはどうでも……」
ほんの一瞬《いっしゅん》だけみちるはためらった。
ずっと以前に味わった甘さと苦《にが》さが胸の奥でじわりと広がる——だが、すぐにそれを振り捨てた。
「どうでもいいんだけど、あたしを利用したりするのはやめてくれる? 痴話《ちわ》ゲンカはあたしの知らないとこでやって下さい」
痴話ゲンカ、というところで裕生の顔がぱっと赤くなった。
「ち、痴話ゲンカ? なに言ってるの」
「じゃあなんなの? あの子と付き合ってるんでしょ?」
「付き合ってないよ!」
声が大きくなっていることに気づいて、二人は慌《あわ》てて声を低くした。
「事情は言えないけど、葉がここにいるとまずいんだ。西尾《にしお》とか佐貫《さぬき》じゃないと、こういうこと頼めないと思って」
「なにそれ。ちょっとぐらい説明してくれないと——」
その時、かつかつと窓を叩《たた》く音が聞こえた。二人が振り向くと、ガラスの向こうに葉が立っていた。裕生は窓を開けて、
「どうしたの?」
と、声をかけた。葉《よう》は胸の前で組んだ手をもじもじと動かしていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「あの……」
葉が見ているのはみちるだった。
(え、あたし?)
「わたし、やります」
葉は細い声で言った。みちるははあ、とため息をつく。理由は尋《たず》ねなくても分かった。
「……ほんとにいいの?」
みちるが言うとと、葉はこくりとうなずいた。
「じゃあ、明日の朝九時に鶴亀《つるき》駅に来てくれる?」
葉はもう一度うなずいた。そして、コップの載《の》ったお盆を手に取って居間を出ていった。
「よかったね。いってくれるって」
みちるは皮肉っぽい声で言った。
「……でもどうしたんだろ、急に」
裕生《ひろお》はけげんそうな顔をしている。
「自分で考えたら」
みちるは彼を残して、部屋の中に戻った。
ほんとに藤牧《ふじまき》はどこまで鈍《にぶ》いんだろう、と彼女は思った。
あんたがいけって言ったからに決まってるじゃない。