その日の「皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》ショー」は休みだった。
「本日はお休みいたします」という張り紙が看板の上に貼《は》られ、ビルのドアは閉ざされている。
受付のカウンターの奥に座った二十四、五の女が、小さな鏡《かがみ》を覗《のぞ》きこんで唇《くちびる》を見ている。巫女装束《みこしょうぞく》姿《すがた》に濃《こ》いメイクはいかにも似合っていないが、本人はまったく気にしていない。
「八尋《やひろ》さん、どうしたらいいですか」
受付に座っていた彼女に、生気のない顔つきをした男がおずおずと声をかけて来た。八尋、というのは皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》と同様、彼女の本名ではない。しかし、彼女自身はその名前が好きだった。
「今日は撤収《てっしゅう》して。あたし一人残して、みんなホテルに帰っていいわよ」
男の方を見もせずに彼女は言う。心の中では馬鹿《ばか》どもが、と付け加えていた——本人がいないのだから「ショー」は休みに決まっている。皇輝山天明は彼女の他《ほか》に数人のボランティアのスタッフを抱えているが、真に腹心と言えるのは彼女だけだった。彼女以外には言われたことを従順にこなす「兵隊」しかいない。
「ねえ、なんか今日はスタッフが足《た》んないけど、どっかにいってんの?」
「天明先生のお言いつけで、四、五人出かけたようです」
八尋はため息をついた。最近、彼女の知らないところで「兵隊」を動かしてなにかを準備しているようだった。
「……なにやってんだか、あのオヤジは」
と、彼女はつぶやいた。天明は午後から鶴亀《つるき》神社にいく予定になっていたが、その前に「ショー」を一つこなすことになっていた。影《かげ》による一連の「透視」術で、興味《きょうみ》を持って訪れる人はますます増えている。「ビジネス」のことを考えれば、なるべく「ショー」を継続《けいぞく》していった方がいい。それは天明にも分かっている——はずだった。
八尋は鏡《かがみ》を少し動かして、思案げな自分の目元をしげしげと見た。
天明と知り合ったのは四年前、ホステスとして田舎《いなか》のスナックで働いていた頃《ころ》だ。頭が切れる上に冷徹《れいてつ》な彼女は、単に人をもてなすだけではなく人を騙《だま》すのにも向いていた。彼女の資質を一目で見抜いたのが他ならぬ天明で、それ以来彼女は天明の「ビジネス」のマネージメントを実質的に取り仕切って来た。
「ビジネス」の内容は、要するに方々の町を回って天明が「神の力による透視」を見せることで相手を信用させ、次に「神の力によるヒーリング」で多額の治療費《ちりょうひ》を得ることだった。一通り稼《かせ》いだら、潮時《しおどき》を察知してまた別の町へ移るという繰《く》り返しで今までやって来た。
パートナーとしては最近までうまくいっていたと思う。特に三ヶ月前、難病《なんびょう》の孫《まご》と億《おく》単位の財産を同時に抱えていた老婦人に目をつけたのは八尋である。孫が息を引き取るまでに彼女が差し出した金は、天明たちが道徳にも法律にも抵触する「ビジネス」から足を洗うには十分だったのだが、彼はそうしなかった。故郷の町に凱旋《がいせん》すると言い張った。
思えば、天明の様子《ようす》がおかしくなり始めたのはその少年の治療を始めた頃だった気がする。
八尋はタバコをくわえると、白衣の袂《たもと》から小さなオイルライターを取り出した。楕円形《だえんけい》のボディに瀟洒《しょうしゃ》な浮き彫《ぼ》りがあり、彼女のお気に入りだった。苛々《いらいら》している時は、それで火を点《つ》けて一服するのが彼女の癖《くせ》だった——が。
火を点《つ》ける直前に、八尋《やひろ》はふと顔を上げた。いつのまにかドアが開いていて、高校生ぐらいの太めの男の子がロビーを覗《のぞ》きこんでいた。八尋は慌《あわ》ててタバコとライターをカウンターの下に隠した。
「どうかなさいましたかー?」
少年は建物の中へ入って来る。さりげなくメモとペンを手にしていた。見た目のわりに動作はきびきびしていて隙《すき》がない。
警察《けいさつ》とマスコミ。細心の注意を払わなければならない二つの可能性をまず彼女は除外した。年が若すぎる。まだ十七、八|歳《さい》というところだろう。ふと、彼女はこの相手に見覚えがあることに気づいた。昨日もこの会場に現れた顔だった。
「どちらさまでしょうかー?」
「サヌキタカシっていいます。どうも」
どこのサヌキよ、と思いながら、彼女はカウンターの下にあるノートパソコンのファイルを開いた。この鶴亀《つるき》近辺の資産家のデータがほぼ網羅《もうら》されている。鶴亀町の古くからの大地主の姓に「佐貫《さぬき》」があった。長男の名前は峻《たかし》。
「君、昨日も来てたでしょ? 駅のすぐ近くに住んでるの?」
突然、八尋は敬語を使うのをやめて、馴《な》れ馴《な》れしく微笑《ほほえ》みかけた。
「まあ歩いて五分ぐらいすかね。この商店街抜けたとこっすよ」
ビンゴ、と彼女は心の中でつぶやいた。今、彼女のパソコンの画面には佐貫家の場所を示す地図が出ているのだが、その説明とぴたりと一致している。
「今日はないんすか。皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》ショー」
「ごめんね。今日は中止になってしまったの……天明先生は急用で外出中なのよ」
「ちょっとお聞きしたいことがあったんですけど」
「どうぞ。なんでも聞いてちょうだい」
今日もまた訪れたということは、なにか相談事《そうだんごと》があるのかもしれない。八尋の目にはこの少年が大金という「敵陣」への道を開く突破口に見えていた。彼の両親に顔をつなぐまでは愛想《あいそう》を振りまいた方がいいだろう。ここで家族内のゴタゴタでも打ち明けてくれればバッチリだけど、と思った瞬間《しゅんかん》、
「『皇輝山文書』ってなんすか」
と、佐貫が言った。彼女は笑顔《えがお》のままでかすかに目を細める。その質問に下手《へた》な返答は許されない。
「それはね、天明先生がこの町の鶴亀神社に勤《つと》めてらした頃《ころ》、偶然発見なさった古文書よ。この世界の真実について記《しる》されている本なの」
佐貫は彼女の言ったことをメモに書きこんでいるらしい。彼女の懸念《けねん》がさらに強くなった。一体この少年は何をしているのだろう。
「見たことありますか?」
「もちろんあるわ。でも、とても大切な宝物だから、わたしたち信者もなかなか見せていただく機会がなくて」
「発見したって騒《さわ》ぎになった時も、結局ほとんど中身を見せなかったらしいっすね」
「太陽と同じでね。素晴《すば》らしい力を持つものは、使い方によってはとても危険なのよ。先生はそう判断なさったんでしょう」
今度こそ佐貫《さぬき》が警戒《けいかい》の必要な相手だと感じた。わざわざ『皇輝山《おうきざん》文書』について下調《したしら》べまでして、こちらの話を聞きに来た——一体、なんのために。
「本当の歴史を認めたくない人たちや、それに唆《そそのか》された人たちが先生を迫害なさったけれど、先生はゆるぎない信念をお持ちだったの。本当に立派なお姿だったわ」
天明《てんめい》に出会ったのはもっと後なので、その時のことなど知りはしないのだが、八尋《やひろ》はしれっとした顔で嘘《うそ》をついた。どうせ分かりはしない。
「具体的にどういうことが書いてあるんすか」
初めて彼女は返事に詰まった。正直に言えば読んだことなどない。ぱらぱらとページをめくった程度である。天明は『皇輝山文書』について語ることを好むが、他人《ひと》には滅多《めった》に見せようとしないからだ。
「この世界の歴史と、神様の話よ。失われた古代史についての重要な資料なの」
「読みたいんすけど、どうすれば読めるんすか」
このガキ、と言いそうになるのをこらえて、笑顔《えがお》を崩《くず》さずに答えた。
「それは先生のおそばについて、何年も徳を積《つ》まなければ難《むずか》しいでしょうね」
その『皇輝山文書』の扱いをめぐっては、天明と八尋の間で意見が分かれていた。単なるデッチ上げなのは明らかなのに、天明は彼女にすらはっきり認めようとはしない。人間なにか一つは妙なこだわりを持つものだと八尋も感心していたが、『皇輝山文書』は「ビジネス」に不要なリスクをもたらすという主張を彼女は堅持《けんじ》していた。神の力を有していることを示せばよいのだから『皇輝山文書』など無理に必要ない。
天明もその考えにはひとまず納得《なっとく》し、『皇輝山文書』について言及するのを控《ひか》えて来た。それが、三ヶ月ほど前からたびたび信者の前で口にするようになっていた。物好きが見せろってツッコんで来たらどうすんのよ、とそのたびに彼女は思って来た。
ちょうどこんな風に。
「ふーん。そっすか」
佐貫はまたメモをとっている。八尋は迷っていた。なんのつもりなの、と質問したかったが、後ろ暗いところがあると取られはしないかと心配でもあった。しかし、こちらの内情を探っているのだとしたら、こんなにあからさまに尋《たず》ねには来ないはずだ。
「じゃ、あの『カゲヌシは負の力の塊《かたまり》』ってのはなんなんすか? その古文書に書いてあるってのはほんとですかね?」
彼女は今度こそ自分が渋い顔をしないように努力しなければならなかった。あれを口にするようになったのも最近の天明《てんめい》の変化の一つだ。天明にとって「カゲヌシ」がなんなのかは知らないが、おかしなことを言われるとこちらがフォローに困ってしまう。
「そうね。先生は人間の影《かげ》に潜《ひそ》む負のエネルギーと戦ってこられたわ。『皇輝山《おうきざん》文書』の中の『カゲヌシ』の書かれた部分の解読はとても難《むずか》しくて、ずいぶん迷ってらしたようだけれど、長年の研究の成果でようやくそれが人間の負のエネルギーの塊《かたまり》だとお気づきになったそうなの。とても深遠《しんえん》なお考えだから、わたしたちにもまだ完全には理解できていないのだけど」
佐貫《きぬき》はふとペンを止めて顔を上げた。
「じゃ、そのへんはお姉さんは読んでないんすね?」
危うく彼女は舌打ちをするところだった——ヘンなところで鋭《するど》いじゃないのよこのガキは。
「いいえ。文章はもちろん見たことがあるわよ。でも、意味までは分からなかったわ」
実はその記述を目にしたことがあるわけではない。しかし、教祖があると言ったものを知らないと言うわけにもいかなかった。
「なるほど……じゃ、見てないのと大して変わらないっすね」
「……」
いい加減、八尋《やひろ》は内心この少年に向かってごまかし続けるのが面倒《めんどう》になっていた。そもそも、天明が余計なことを口走った挙《あ》げ句《く》、この場にいないのが原因なのだから。
「ねえ、なんでこのことを調《しら》べてるの?」
ついに彼女は自分に禁じていた質問をした。
「えー、だってすげえ面白《おもしろ》そうじゃないすか。ものすごく偽物《にせもの》っぽい古文書とか、ほんとに書いてあるのか分からない『カゲヌシ』の話とか!」
言っていることは皮肉そのものだが、顔には満面《まんめん》の笑《え》みが浮かんでいる。
「それだけ? 他《ほか》に理由は?」
「え? 他に理由? なんで?」
佐貫はけげんそうに聞きかえしてくる。ようやく八尋にも相手の意図が分かって来た——というより、意図などないのだ。調べているのもただの好奇心からなのだろう。彼女の目の前にいるのは、他人《ひと》が興味《きょうみ》を持たないようなことを細々《こまごま》と調べるのが好きな単なる変人なのだ。
「先生に直接会って話したいんすけど、ダメっすか」
(もういいや! あのオヤジに全部任せちゃおう)
ただの変人にこれ以上付き合っていても仕方がない。
「分からないわ。でも、今日は午後から鶴亀《つるき》神社にいくとおっしゃってたけど」
「ありがとうございます。じゃ、いってみます」
佐貫はドアを開けて出ていきかけたが、ふとなにかを思い出したように振りかえった。
八尋《やひろ》の背中に緊張《きんちょう》が走る。なんだろう——と思った時、佐貫《さぬき》は嬉《うれ》しそうに言った。
「そういや、俺《おれ》の友達もあそこでバイトしてるんすよ」
「あら、そうなの」
知るかそんなこと、と彼女は心の中でつぶやいた。
「本日はお休みいたします」という張り紙が看板の上に貼《は》られ、ビルのドアは閉ざされている。
受付のカウンターの奥に座った二十四、五の女が、小さな鏡《かがみ》を覗《のぞ》きこんで唇《くちびる》を見ている。巫女装束《みこしょうぞく》姿《すがた》に濃《こ》いメイクはいかにも似合っていないが、本人はまったく気にしていない。
「八尋《やひろ》さん、どうしたらいいですか」
受付に座っていた彼女に、生気のない顔つきをした男がおずおずと声をかけて来た。八尋、というのは皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》と同様、彼女の本名ではない。しかし、彼女自身はその名前が好きだった。
「今日は撤収《てっしゅう》して。あたし一人残して、みんなホテルに帰っていいわよ」
男の方を見もせずに彼女は言う。心の中では馬鹿《ばか》どもが、と付け加えていた——本人がいないのだから「ショー」は休みに決まっている。皇輝山天明は彼女の他《ほか》に数人のボランティアのスタッフを抱えているが、真に腹心と言えるのは彼女だけだった。彼女以外には言われたことを従順にこなす「兵隊」しかいない。
「ねえ、なんか今日はスタッフが足《た》んないけど、どっかにいってんの?」
「天明先生のお言いつけで、四、五人出かけたようです」
八尋はため息をついた。最近、彼女の知らないところで「兵隊」を動かしてなにかを準備しているようだった。
「……なにやってんだか、あのオヤジは」
と、彼女はつぶやいた。天明は午後から鶴亀《つるき》神社にいく予定になっていたが、その前に「ショー」を一つこなすことになっていた。影《かげ》による一連の「透視」術で、興味《きょうみ》を持って訪れる人はますます増えている。「ビジネス」のことを考えれば、なるべく「ショー」を継続《けいぞく》していった方がいい。それは天明にも分かっている——はずだった。
八尋は鏡《かがみ》を少し動かして、思案げな自分の目元をしげしげと見た。
天明と知り合ったのは四年前、ホステスとして田舎《いなか》のスナックで働いていた頃《ころ》だ。頭が切れる上に冷徹《れいてつ》な彼女は、単に人をもてなすだけではなく人を騙《だま》すのにも向いていた。彼女の資質を一目で見抜いたのが他ならぬ天明で、それ以来彼女は天明の「ビジネス」のマネージメントを実質的に取り仕切って来た。
「ビジネス」の内容は、要するに方々の町を回って天明が「神の力による透視」を見せることで相手を信用させ、次に「神の力によるヒーリング」で多額の治療費《ちりょうひ》を得ることだった。一通り稼《かせ》いだら、潮時《しおどき》を察知してまた別の町へ移るという繰《く》り返しで今までやって来た。
パートナーとしては最近までうまくいっていたと思う。特に三ヶ月前、難病《なんびょう》の孫《まご》と億《おく》単位の財産を同時に抱えていた老婦人に目をつけたのは八尋である。孫が息を引き取るまでに彼女が差し出した金は、天明たちが道徳にも法律にも抵触する「ビジネス」から足を洗うには十分だったのだが、彼はそうしなかった。故郷の町に凱旋《がいせん》すると言い張った。
思えば、天明の様子《ようす》がおかしくなり始めたのはその少年の治療を始めた頃だった気がする。
八尋はタバコをくわえると、白衣の袂《たもと》から小さなオイルライターを取り出した。楕円形《だえんけい》のボディに瀟洒《しょうしゃ》な浮き彫《ぼ》りがあり、彼女のお気に入りだった。苛々《いらいら》している時は、それで火を点《つ》けて一服するのが彼女の癖《くせ》だった——が。
火を点《つ》ける直前に、八尋《やひろ》はふと顔を上げた。いつのまにかドアが開いていて、高校生ぐらいの太めの男の子がロビーを覗《のぞ》きこんでいた。八尋は慌《あわ》ててタバコとライターをカウンターの下に隠した。
「どうかなさいましたかー?」
少年は建物の中へ入って来る。さりげなくメモとペンを手にしていた。見た目のわりに動作はきびきびしていて隙《すき》がない。
警察《けいさつ》とマスコミ。細心の注意を払わなければならない二つの可能性をまず彼女は除外した。年が若すぎる。まだ十七、八|歳《さい》というところだろう。ふと、彼女はこの相手に見覚えがあることに気づいた。昨日もこの会場に現れた顔だった。
「どちらさまでしょうかー?」
「サヌキタカシっていいます。どうも」
どこのサヌキよ、と思いながら、彼女はカウンターの下にあるノートパソコンのファイルを開いた。この鶴亀《つるき》近辺の資産家のデータがほぼ網羅《もうら》されている。鶴亀町の古くからの大地主の姓に「佐貫《さぬき》」があった。長男の名前は峻《たかし》。
「君、昨日も来てたでしょ? 駅のすぐ近くに住んでるの?」
突然、八尋は敬語を使うのをやめて、馴《な》れ馴《な》れしく微笑《ほほえ》みかけた。
「まあ歩いて五分ぐらいすかね。この商店街抜けたとこっすよ」
ビンゴ、と彼女は心の中でつぶやいた。今、彼女のパソコンの画面には佐貫家の場所を示す地図が出ているのだが、その説明とぴたりと一致している。
「今日はないんすか。皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》ショー」
「ごめんね。今日は中止になってしまったの……天明先生は急用で外出中なのよ」
「ちょっとお聞きしたいことがあったんですけど」
「どうぞ。なんでも聞いてちょうだい」
今日もまた訪れたということは、なにか相談事《そうだんごと》があるのかもしれない。八尋の目にはこの少年が大金という「敵陣」への道を開く突破口に見えていた。彼の両親に顔をつなぐまでは愛想《あいそう》を振りまいた方がいいだろう。ここで家族内のゴタゴタでも打ち明けてくれればバッチリだけど、と思った瞬間《しゅんかん》、
「『皇輝山文書』ってなんすか」
と、佐貫が言った。彼女は笑顔《えがお》のままでかすかに目を細める。その質問に下手《へた》な返答は許されない。
「それはね、天明先生がこの町の鶴亀神社に勤《つと》めてらした頃《ころ》、偶然発見なさった古文書よ。この世界の真実について記《しる》されている本なの」
佐貫は彼女の言ったことをメモに書きこんでいるらしい。彼女の懸念《けねん》がさらに強くなった。一体この少年は何をしているのだろう。
「見たことありますか?」
「もちろんあるわ。でも、とても大切な宝物だから、わたしたち信者もなかなか見せていただく機会がなくて」
「発見したって騒《さわ》ぎになった時も、結局ほとんど中身を見せなかったらしいっすね」
「太陽と同じでね。素晴《すば》らしい力を持つものは、使い方によってはとても危険なのよ。先生はそう判断なさったんでしょう」
今度こそ佐貫《さぬき》が警戒《けいかい》の必要な相手だと感じた。わざわざ『皇輝山《おうきざん》文書』について下調《したしら》べまでして、こちらの話を聞きに来た——一体、なんのために。
「本当の歴史を認めたくない人たちや、それに唆《そそのか》された人たちが先生を迫害なさったけれど、先生はゆるぎない信念をお持ちだったの。本当に立派なお姿だったわ」
天明《てんめい》に出会ったのはもっと後なので、その時のことなど知りはしないのだが、八尋《やひろ》はしれっとした顔で嘘《うそ》をついた。どうせ分かりはしない。
「具体的にどういうことが書いてあるんすか」
初めて彼女は返事に詰まった。正直に言えば読んだことなどない。ぱらぱらとページをめくった程度である。天明は『皇輝山文書』について語ることを好むが、他人《ひと》には滅多《めった》に見せようとしないからだ。
「この世界の歴史と、神様の話よ。失われた古代史についての重要な資料なの」
「読みたいんすけど、どうすれば読めるんすか」
このガキ、と言いそうになるのをこらえて、笑顔《えがお》を崩《くず》さずに答えた。
「それは先生のおそばについて、何年も徳を積《つ》まなければ難《むずか》しいでしょうね」
その『皇輝山文書』の扱いをめぐっては、天明と八尋の間で意見が分かれていた。単なるデッチ上げなのは明らかなのに、天明は彼女にすらはっきり認めようとはしない。人間なにか一つは妙なこだわりを持つものだと八尋も感心していたが、『皇輝山文書』は「ビジネス」に不要なリスクをもたらすという主張を彼女は堅持《けんじ》していた。神の力を有していることを示せばよいのだから『皇輝山文書』など無理に必要ない。
天明もその考えにはひとまず納得《なっとく》し、『皇輝山文書』について言及するのを控《ひか》えて来た。それが、三ヶ月ほど前からたびたび信者の前で口にするようになっていた。物好きが見せろってツッコんで来たらどうすんのよ、とそのたびに彼女は思って来た。
ちょうどこんな風に。
「ふーん。そっすか」
佐貫はまたメモをとっている。八尋は迷っていた。なんのつもりなの、と質問したかったが、後ろ暗いところがあると取られはしないかと心配でもあった。しかし、こちらの内情を探っているのだとしたら、こんなにあからさまに尋《たず》ねには来ないはずだ。
「じゃ、あの『カゲヌシは負の力の塊《かたまり》』ってのはなんなんすか? その古文書に書いてあるってのはほんとですかね?」
彼女は今度こそ自分が渋い顔をしないように努力しなければならなかった。あれを口にするようになったのも最近の天明《てんめい》の変化の一つだ。天明にとって「カゲヌシ」がなんなのかは知らないが、おかしなことを言われるとこちらがフォローに困ってしまう。
「そうね。先生は人間の影《かげ》に潜《ひそ》む負のエネルギーと戦ってこられたわ。『皇輝山《おうきざん》文書』の中の『カゲヌシ』の書かれた部分の解読はとても難《むずか》しくて、ずいぶん迷ってらしたようだけれど、長年の研究の成果でようやくそれが人間の負のエネルギーの塊《かたまり》だとお気づきになったそうなの。とても深遠《しんえん》なお考えだから、わたしたちにもまだ完全には理解できていないのだけど」
佐貫《きぬき》はふとペンを止めて顔を上げた。
「じゃ、そのへんはお姉さんは読んでないんすね?」
危うく彼女は舌打ちをするところだった——ヘンなところで鋭《するど》いじゃないのよこのガキは。
「いいえ。文章はもちろん見たことがあるわよ。でも、意味までは分からなかったわ」
実はその記述を目にしたことがあるわけではない。しかし、教祖があると言ったものを知らないと言うわけにもいかなかった。
「なるほど……じゃ、見てないのと大して変わらないっすね」
「……」
いい加減、八尋《やひろ》は内心この少年に向かってごまかし続けるのが面倒《めんどう》になっていた。そもそも、天明が余計なことを口走った挙《あ》げ句《く》、この場にいないのが原因なのだから。
「ねえ、なんでこのことを調《しら》べてるの?」
ついに彼女は自分に禁じていた質問をした。
「えー、だってすげえ面白《おもしろ》そうじゃないすか。ものすごく偽物《にせもの》っぽい古文書とか、ほんとに書いてあるのか分からない『カゲヌシ』の話とか!」
言っていることは皮肉そのものだが、顔には満面《まんめん》の笑《え》みが浮かんでいる。
「それだけ? 他《ほか》に理由は?」
「え? 他に理由? なんで?」
佐貫はけげんそうに聞きかえしてくる。ようやく八尋にも相手の意図が分かって来た——というより、意図などないのだ。調べているのもただの好奇心からなのだろう。彼女の目の前にいるのは、他人《ひと》が興味《きょうみ》を持たないようなことを細々《こまごま》と調べるのが好きな単なる変人なのだ。
「先生に直接会って話したいんすけど、ダメっすか」
(もういいや! あのオヤジに全部任せちゃおう)
ただの変人にこれ以上付き合っていても仕方がない。
「分からないわ。でも、今日は午後から鶴亀《つるき》神社にいくとおっしゃってたけど」
「ありがとうございます。じゃ、いってみます」
佐貫はドアを開けて出ていきかけたが、ふとなにかを思い出したように振りかえった。
八尋《やひろ》の背中に緊張《きんちょう》が走る。なんだろう——と思った時、佐貫《さぬき》は嬉《うれ》しそうに言った。
「そういや、俺《おれ》の友達もあそこでバイトしてるんすよ」
「あら、そうなの」
知るかそんなこと、と彼女は心の中でつぶやいた。