佐貫《さぬき》は鶴亀《つるき》神社の鳥居《とりい》をくぐった。さほど暑い日ではないのだが、神社の境内《けいだい》には参拝客の姿はない。彼の他《ほか》には誰もいなかった。
彼は社務所《しゃむしょ》の建物へと近づいていった。少なくとも社務所には人がいるはずだ。境内に面した大きな窓の近くで、佐貫はふと立ち止まった。窓の向こうの和室に、白いタキシード姿の天明《てんめい》と宮司《ぐうじ》が向かい合っているのが見えた。
どうやら話が弾《はず》んでいるらしく、天明はさかんに笑っている。
「お、いた」
と、佐貫はつぶやいた。例の『皇輝山《おうきざん》文書』について色々質問しに来たのだが、あの様子ではいつまで話が続くか分からない。
(西尾《にしお》に聞けば分かるかな)
とりあえず、佐貫《きぬき》はみちるたちを捜《さが》すことに決めた。昨日の彼女の話では、掃除や整理が主な仕事だということだったと思う。
(本殿《ほんでん》の方かな)
佐貫は参道をまっすぐ進んでいった。そう言えばしばらくこの神社の本殿も見ていない。もともと鉱山ということで、古くはそれにちなんだ神が祀《まつ》られていたという話だった。しかし、今の本殿に祀られているのは、雨の恵みをもたらす水神らしい。
「ん?」
本殿へと通じる石段の前まで来た時、佐貫はふと立ち止まった。頭上からかすかに女の悲鳴が聞こえたような気がした。それと同時に、上の方から竹《たけ》ぼうきが滑《すべ》り落ちて来て、石段の途中《とちゅう》で止まった。
(……なんだ、あれ)
佐貫は早足に石段を上がっていった。
彼は社務所《しゃむしょ》の建物へと近づいていった。少なくとも社務所には人がいるはずだ。境内に面した大きな窓の近くで、佐貫はふと立ち止まった。窓の向こうの和室に、白いタキシード姿の天明《てんめい》と宮司《ぐうじ》が向かい合っているのが見えた。
どうやら話が弾《はず》んでいるらしく、天明はさかんに笑っている。
「お、いた」
と、佐貫はつぶやいた。例の『皇輝山《おうきざん》文書』について色々質問しに来たのだが、あの様子ではいつまで話が続くか分からない。
(西尾《にしお》に聞けば分かるかな)
とりあえず、佐貫《きぬき》はみちるたちを捜《さが》すことに決めた。昨日の彼女の話では、掃除や整理が主な仕事だということだったと思う。
(本殿《ほんでん》の方かな)
佐貫は参道をまっすぐ進んでいった。そう言えばしばらくこの神社の本殿も見ていない。もともと鉱山ということで、古くはそれにちなんだ神が祀《まつ》られていたという話だった。しかし、今の本殿に祀られているのは、雨の恵みをもたらす水神らしい。
「ん?」
本殿へと通じる石段の前まで来た時、佐貫はふと立ち止まった。頭上からかすかに女の悲鳴が聞こえたような気がした。それと同時に、上の方から竹《たけ》ぼうきが滑《すべ》り落ちて来て、石段の途中《とちゅう》で止まった。
(……なんだ、あれ)
佐貫は早足に石段を上がっていった。
みちるの悲鳴を聞きながら、葉《よう》は反射的にほうきを投げ捨てていた。どこへ飛んだか確《たし》かめる余裕はなかった。
(カゲヌシ)
みちるの腕をつかんで右手の鐘楼《しょうろう》の方へ走り出した。着慣《きな》れない着物のせいでひどく走りづらい。十メートルほど走ったところで振りかえると、蜥蜴《とかげ》のカゲヌシはようやくのそのそと方向を変えたところだった——どうやらかなり動きが鈍《にぶ》いらしい。
(……逃げられるかも)
一瞬《いっしゅん》、葉はそう考える。みちるの前で「黒の彼方《かなた》」を呼び出すわけにはいかない。それに、この場には裕生《ひろお》もいない。呼び出したら最後、彼女が意識《いしき》を取り戻せる保証はなかった。
「……あれ、なに」
みちるはカゲヌシを見ながら震《ふる》える声でつぶやいた。
「いきましょう」
と、葉はみちるを促《うなが》した。邪魔《じゃま》な草履《ぞうり》を脱ぎ捨てて走り出そうとした時、背中にぺたりと柔らかいものが触れた。葉は思わずびくっと立ちすくんだ。
次の瞬間、葉の腰にみちるの腕が回された。みちるにタックルされるような形で、葉は石畳《いしだたみ》の上に倒れこんだ。ごろごろと転がりながら自分の立っていた場所を見ると、黒い蜥蜴の顎《あご》がばくりと空を咬《か》むところだった。
(……嘘《うそ》)
あの怪物とはもっと距離《きょり》が離《はな》れていたはずだ。一瞬のうちに二人のすぐ後ろまで近づいて来ていた。動きが鈍いと思ったのは間違いだった。こちらを油断《ゆだん》させる罠《わな》に違いない。
獲物《えもの》を逃《のが》したことに気づいたらしい蜥蜴《とかげ》は、ゆっくり首の向きを変えながらちろりと舌を出した。どうやら、葉《よう》の背中に触れたのはあの舌だったようだ。みちるの助けがなければ、今頃《いまごろ》は食い殺されていただろう。
葉は慌《あわ》てて体を起こそうとしたが、緋袴《ひばかま》が足に絡《から》んでうまく立ち上がれなかった。「黒の彼方《かなた》」を呼び出すべきか、彼女はまだ迷っていた。とにかく、どうにかしてみちるにここから逃げてもらわなければと思った時、不意に人影《ひとかげ》が彼女の前に立った。
(え?)
みちるがカゲヌシと葉の間に立ちふさがっていた。どこで拾ったのか、長い木の棒を正眼《せいがん》に構えている。
「早く逃げて!」
と、みちるが声を震《ふる》わせて叫んだ。声だけではなく、全身も小刻みに震えている。
(この人、わたしを助けようとしてる)
葉は唇《くちびる》を噛《か》んだ。悔《くや》しいような情《なさ》けないような、複雑《ふくざつ》な気持ちだった。
なんの力もないみちるが身を挺《てい》して自分を逃がそうとしている——仲がいいわけでもなく、大して知りもしない相手なのに。
「なにしてんの、早く走って!」
緊張《きんちょう》のせいか、彼女は息を詰まらせていた。
(この人を助けなきゃ)
葉はよろけながら立ち上がった。「黒の彼方」は人間を殺さない契約を結んでいる。このカゲヌシを倒せなかったとしても、みちるがここから逃げる時間ぐらいは作れるはずだ。ひょっとすると自分は意識《いしき》を取り戻せないかもしれない、という思いがちらりと頭をよぎったが、もう迷いはなかった。
「『黒の彼方』が戦い始めたら、西尾《にしお》さんはここから逃げて」
「え? なに……」
みちるの言葉はもう葉の耳に入らなかった。大蜥蜴が悠然《ゆうぜん》と葉たちの方へ進んで来ている。彼女は息を大きく吸いこんだ。
「くろのかなた」
その瞬間《しゅんかん》、ぷつりと意識《いしき》が途切《とぎ》れた。
(カゲヌシ)
みちるの腕をつかんで右手の鐘楼《しょうろう》の方へ走り出した。着慣《きな》れない着物のせいでひどく走りづらい。十メートルほど走ったところで振りかえると、蜥蜴《とかげ》のカゲヌシはようやくのそのそと方向を変えたところだった——どうやらかなり動きが鈍《にぶ》いらしい。
(……逃げられるかも)
一瞬《いっしゅん》、葉はそう考える。みちるの前で「黒の彼方《かなた》」を呼び出すわけにはいかない。それに、この場には裕生《ひろお》もいない。呼び出したら最後、彼女が意識《いしき》を取り戻せる保証はなかった。
「……あれ、なに」
みちるはカゲヌシを見ながら震《ふる》える声でつぶやいた。
「いきましょう」
と、葉はみちるを促《うなが》した。邪魔《じゃま》な草履《ぞうり》を脱ぎ捨てて走り出そうとした時、背中にぺたりと柔らかいものが触れた。葉は思わずびくっと立ちすくんだ。
次の瞬間、葉の腰にみちるの腕が回された。みちるにタックルされるような形で、葉は石畳《いしだたみ》の上に倒れこんだ。ごろごろと転がりながら自分の立っていた場所を見ると、黒い蜥蜴の顎《あご》がばくりと空を咬《か》むところだった。
(……嘘《うそ》)
あの怪物とはもっと距離《きょり》が離《はな》れていたはずだ。一瞬のうちに二人のすぐ後ろまで近づいて来ていた。動きが鈍いと思ったのは間違いだった。こちらを油断《ゆだん》させる罠《わな》に違いない。
獲物《えもの》を逃《のが》したことに気づいたらしい蜥蜴《とかげ》は、ゆっくり首の向きを変えながらちろりと舌を出した。どうやら、葉《よう》の背中に触れたのはあの舌だったようだ。みちるの助けがなければ、今頃《いまごろ》は食い殺されていただろう。
葉は慌《あわ》てて体を起こそうとしたが、緋袴《ひばかま》が足に絡《から》んでうまく立ち上がれなかった。「黒の彼方《かなた》」を呼び出すべきか、彼女はまだ迷っていた。とにかく、どうにかしてみちるにここから逃げてもらわなければと思った時、不意に人影《ひとかげ》が彼女の前に立った。
(え?)
みちるがカゲヌシと葉の間に立ちふさがっていた。どこで拾ったのか、長い木の棒を正眼《せいがん》に構えている。
「早く逃げて!」
と、みちるが声を震《ふる》わせて叫んだ。声だけではなく、全身も小刻みに震えている。
(この人、わたしを助けようとしてる)
葉は唇《くちびる》を噛《か》んだ。悔《くや》しいような情《なさ》けないような、複雑《ふくざつ》な気持ちだった。
なんの力もないみちるが身を挺《てい》して自分を逃がそうとしている——仲がいいわけでもなく、大して知りもしない相手なのに。
「なにしてんの、早く走って!」
緊張《きんちょう》のせいか、彼女は息を詰まらせていた。
(この人を助けなきゃ)
葉はよろけながら立ち上がった。「黒の彼方」は人間を殺さない契約を結んでいる。このカゲヌシを倒せなかったとしても、みちるがここから逃げる時間ぐらいは作れるはずだ。ひょっとすると自分は意識《いしき》を取り戻せないかもしれない、という思いがちらりと頭をよぎったが、もう迷いはなかった。
「『黒の彼方』が戦い始めたら、西尾《にしお》さんはここから逃げて」
「え? なに……」
みちるの言葉はもう葉の耳に入らなかった。大蜥蜴が悠然《ゆうぜん》と葉たちの方へ進んで来ている。彼女は息を大きく吸いこんだ。
「くろのかなた」
その瞬間《しゅんかん》、ぷつりと意識《いしき》が途切《とぎ》れた。
葉の足下《あしもと》の影が音もなく広がっていった。黒く染《そ》まった地面からうなり声が聞こえ、それと同時に二つの獣《けもの》の首がにゅっと姿を現した。
(犬?)
みちるが呆然《ぼうぜん》と見守る前で、その獣は完全に姿を現した——双頭《そうとう》の黒い犬だった。片側は起きているが、もう片側は眠っているように目を閉じたままである。
「もう少し離《はな》れましょう。危険ですから」
葉《よう》が低い声で言い、みちるの右の手首をつかんだ。
「いたっ」
とたんに握りしめていた木の棒が地面に落ちた。大して力をこめているようにも見えないのに、おそるべき力だった。そして、そのままみちるを引きずるように鐘楼《しょうろう》の方へ歩き出した。
「あれ、どういうこと?」
葉の顔を見たみちるはぞっとした。口元には薄《うす》笑いを浮かべているが、目にはまったく表情がない。さっき掃除の時に見た天明《てんめい》の目とよく似ていた。
「ねえ、雛咲《ひなさき》さ……」
その呼びかけは途中《とちゅう》で立ち消えになった。
「……誰《だれ》?」
雛咲さんじゃない、とみちるは思った。これは別の誰かだ。
鐘楼のそばまで来てから、葉はみちるの手を放した。強く握られたせいで、指のかたちをしたあざがくっきりと残っていた。
「この娘の周囲には鋭《するど》い人間が多いようですね。この程度の接触で察するとは」
くく、と彼女は喉《のど》を鳴らすように笑った。
「あんた、一体誰なの?」
「わたしは『黒の彼方《かなた》』。この娘《こ》の体は今、あそこにいる私の本体の支配下にあります」
彼女は双頭《そうとう》の黒い犬を指さした。
「『黒の彼方』……?」
どこかで聞いたことのある言葉の気がしたが、はっきりとは思い出せなかった。
「詳しい話は藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》に聞きなさい」
突然、境内《けいだい》に犬の咆哮《ほうこう》が響《ひび》き渡る。あの双頭の黒い犬が石畳《いしだたみ》を蹴《け》って、巨大な蜥蜴《とかげ》に襲《おそ》いかかった——一瞬《いっしゅん》、みちるは目を閉じる。
蜥蜴の怪物とすれ違った双頭の犬は、四肢《しし》をふんばって停止した。蜥蜴の背中に裂け目のような傷口がぱっくりと開いていた。黒犬は瞬時に向きを変え、敵の尻尾《しっぽ》に牙《きば》を突き立てた。勢いに押されて蜥蜴の怪物はわずかによろける。
もう一度黒の彼方が離れた時には、蜥蜴の尾の根本が半《なか》ば食いちぎられて折れ曲がっていた。黒の彼方は接近と回避《かいひ》を繰《く》り返しながら、敵の怪物に次々と傷を負わせていった。
「……おかしい」
と、葉——「黒の彼方」がつぶやいた。
「あのカゲヌシの『サイン』はデルタを越えている。この程度の実力のはずはないが」
「え?」
みちるは聞きかえしたが、答えはかえって来なかった。その代わり、横目でみちるを見ながら、「黒の彼方《かなた》」は言った。
「逃げたらいかがですか。この娘《こ》はあなたの命を守るために、わたしを呼び出したのですよ」
みちるは首を横に振った。なにが起こっているのかは分からないが、もしそうだとしたらかえってこの場を離《はな》れるわけにはいかないと思った。こんな状態《じょうたい》の葉《よう》を放っておけない。
「……逃げるんだったら、一緒《いっしょ》に連れてく」
葉は哀《あわ》れむようにみちるを見た。
「無理だと思いますがね。まあ、勝手になさい」
怪物同士の戦いは一見「黒の彼方」の方が有利に進めているように見えた。体の大きさは蜥蜴《とかげ》の怪物の方がはるかに上だが、敏捷《びんしょう》さにおいて「黒の彼方」が圧倒的に優《すぐ》れている。しかし体が大きすぎるせいか、今までの攻撃《こうげき》では致命傷を与えるには至っていないようだった。
「仕掛けてみるか」
と、葉の口がつぶやいた。
「黒の彼方」が蜥蜴の怪物から距離《きょり》を取った。そして、助走をつけて蜥蜴に向けて一直線《いっちょくせん》に突進していった。みちるの目にも黒犬が敵の胴体を食いちぎろうとしていることが分かる。
むき出しにした獣《けもの》の牙が蜥蜴の手足をくぐりぬけ、無防備な脇腹《わきばら》に届こうとした刹那《せつな》——唐突《とうとつ》に蜥蜴の姿が消えた。
「なに?」
葉の口からかすかなあえぎが洩《も》れた。みちるが境内《けいだい》を見回すと、蜥蜴はいつのまにか十メートルほど離れた石段の近くにうずくまっていた。
「なんで……」
と、みちるは言った。いつ動いたのか、まったく気づかなかった。
「……瞬間《しゅんかん》移動とは。アブサロムどもよりは高位なわけだ」
葉はまるで自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「では『眠り首』を使うべきだな」
その言葉が終わると同時に、「黒の彼方」は石段の方へ走り出し、蜥蜴の正面で静止する。葉が口にしている言葉の意味はよく分からないが、どうやらあの黒犬がなにかを今までとは違う攻撃をしようとしているのはみちるにも理解できた。
今まで頭《こうべ》を垂《た》れていた左の首が、ゆっくりと起き上がろうとする——なにが始まるんだろうとみちるが思ったその時、
「くっ」
葉の口から忌々《いまいま》しげな声が洩れた。彼女の目は黒い蜥蜴を通り越して、石段のそばにある狛犬《こまいぬ》を見据《みす》えている。みちるも同じ方に視線を動かした。狛犬の像の後ろに隠《かく》れて、誰《だれ》かが境内の戦いを見ていた。
しかも、みちるのよく知っている顔だった。
「えっ。佐貫《さぬき》?」
と、みちるは言った。
半《なか》ば起きていた首がまた元のようにがくりと力を失った。ぎりっと葉《よう》の歯ぎしりが聞こえた。
「……『契約』さえなければ」
次の瞬間《しゅんかん》、再び蜥蜴《とかげ》の怪物が消えた。
「えっ」
みちるは声を上げた。「黒の彼方《かなた》」も敵の姿を完全に見失ったらしい。立ち止まったままあたりを見回している。
「上だ!」
と、佐貫が指さしながら叫ぶ。まるで隕石《いんせき》のように黒い蜥蜴が降ってきた。巨大な蜥蜴に激突《げきとつ》した「黒の彼方」は跳《は》ね飛ばされて石畳《いしだたみ》の上を滑《すべ》っていった。
「うっ!」
葉の口から鋭《するど》い悲鳴が洩《も》れ、力を失ったように背後《はいご》から倒れる。みちるは慌《あわ》てて彼女の体を抱きとめた。あざになっている手首がずきりと痛み、みちるは顔をしかめながら葉を地面に横たえた。
そして、葉の呼吸を確《たし》かめ——不意にみちるは既視感《きしかん》に襲《おそ》われた。
(前にもこんなことあった)
学校の中庭の藤棚《ふじだな》。一学期、裕生《ひろお》に頼まれて葉になにがあったのか尋《たず》ねた時だ。葉は突然、頭をぶつけて気絶してしまった。
(あの時のことも、あの犬と関係あるのかも)
「西尾《にしお》、逃げろ!」
佐貫の声が聞こえた。はっと我に返ったみちるが顔を上げると、傷だらけの黒い蜥蜴がのっそりと彼女たちの方へ歩き出したところだった。顎《あご》のあたりがなにかを詰めこんだように大きくふくれている。
みちるは葉を抱き上げて走ろうとしたが、右手に力が入らなかった。
あの犬は、と思ってあたりを見回すと、本殿《ほんでん》の前で倒れたまま黒犬はぴくりとも動かなかった。
(なにがあったの)
この「葉」が悲鳴を上げて倒れたということは、きっと彼女を乗っ取っていた者——あの「黒の彼方」になにかがあったということだ。ふと、みちるは黒犬の様子《ようす》がさっきと違うことに気づいた。なにかが足《た》りないような——。
「……あ」
みちるは押し殺した悲鳴を上げる。足りないのは首だった。黒犬の片方の首が根本からきれいに切り取られていた。
彼女は徐々に近づいて来る蜥蜴《とかげ》を見た。下顎《したあご》のあたりに丸いふくらみがはっきりと残っていた。うろこに覆《おお》われた黒い表皮が、前から後ろに向かって波のように蠕動《ぜんどう》する。一瞬《いっしゅん》だけ両顎を開いた蜥蜴は、ごくりという音とともに胴体へとその塊《かたまり》を送りこんだ。
その瞬間、みちるはようやくなにが起こったのか理解した。
この蜥蜴の怪物が「黒の彼方《かなた》」の首を食いちぎったのだ。
(犬?)
みちるが呆然《ぼうぜん》と見守る前で、その獣は完全に姿を現した——双頭《そうとう》の黒い犬だった。片側は起きているが、もう片側は眠っているように目を閉じたままである。
「もう少し離《はな》れましょう。危険ですから」
葉《よう》が低い声で言い、みちるの右の手首をつかんだ。
「いたっ」
とたんに握りしめていた木の棒が地面に落ちた。大して力をこめているようにも見えないのに、おそるべき力だった。そして、そのままみちるを引きずるように鐘楼《しょうろう》の方へ歩き出した。
「あれ、どういうこと?」
葉の顔を見たみちるはぞっとした。口元には薄《うす》笑いを浮かべているが、目にはまったく表情がない。さっき掃除の時に見た天明《てんめい》の目とよく似ていた。
「ねえ、雛咲《ひなさき》さ……」
その呼びかけは途中《とちゅう》で立ち消えになった。
「……誰《だれ》?」
雛咲さんじゃない、とみちるは思った。これは別の誰かだ。
鐘楼のそばまで来てから、葉はみちるの手を放した。強く握られたせいで、指のかたちをしたあざがくっきりと残っていた。
「この娘の周囲には鋭《するど》い人間が多いようですね。この程度の接触で察するとは」
くく、と彼女は喉《のど》を鳴らすように笑った。
「あんた、一体誰なの?」
「わたしは『黒の彼方《かなた》』。この娘《こ》の体は今、あそこにいる私の本体の支配下にあります」
彼女は双頭《そうとう》の黒い犬を指さした。
「『黒の彼方』……?」
どこかで聞いたことのある言葉の気がしたが、はっきりとは思い出せなかった。
「詳しい話は藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》に聞きなさい」
突然、境内《けいだい》に犬の咆哮《ほうこう》が響《ひび》き渡る。あの双頭の黒い犬が石畳《いしだたみ》を蹴《け》って、巨大な蜥蜴《とかげ》に襲《おそ》いかかった——一瞬《いっしゅん》、みちるは目を閉じる。
蜥蜴の怪物とすれ違った双頭の犬は、四肢《しし》をふんばって停止した。蜥蜴の背中に裂け目のような傷口がぱっくりと開いていた。黒犬は瞬時に向きを変え、敵の尻尾《しっぽ》に牙《きば》を突き立てた。勢いに押されて蜥蜴の怪物はわずかによろける。
もう一度黒の彼方が離れた時には、蜥蜴の尾の根本が半《なか》ば食いちぎられて折れ曲がっていた。黒の彼方は接近と回避《かいひ》を繰《く》り返しながら、敵の怪物に次々と傷を負わせていった。
「……おかしい」
と、葉——「黒の彼方」がつぶやいた。
「あのカゲヌシの『サイン』はデルタを越えている。この程度の実力のはずはないが」
「え?」
みちるは聞きかえしたが、答えはかえって来なかった。その代わり、横目でみちるを見ながら、「黒の彼方《かなた》」は言った。
「逃げたらいかがですか。この娘《こ》はあなたの命を守るために、わたしを呼び出したのですよ」
みちるは首を横に振った。なにが起こっているのかは分からないが、もしそうだとしたらかえってこの場を離《はな》れるわけにはいかないと思った。こんな状態《じょうたい》の葉《よう》を放っておけない。
「……逃げるんだったら、一緒《いっしょ》に連れてく」
葉は哀《あわ》れむようにみちるを見た。
「無理だと思いますがね。まあ、勝手になさい」
怪物同士の戦いは一見「黒の彼方」の方が有利に進めているように見えた。体の大きさは蜥蜴《とかげ》の怪物の方がはるかに上だが、敏捷《びんしょう》さにおいて「黒の彼方」が圧倒的に優《すぐ》れている。しかし体が大きすぎるせいか、今までの攻撃《こうげき》では致命傷を与えるには至っていないようだった。
「仕掛けてみるか」
と、葉の口がつぶやいた。
「黒の彼方」が蜥蜴の怪物から距離《きょり》を取った。そして、助走をつけて蜥蜴に向けて一直線《いっちょくせん》に突進していった。みちるの目にも黒犬が敵の胴体を食いちぎろうとしていることが分かる。
むき出しにした獣《けもの》の牙が蜥蜴の手足をくぐりぬけ、無防備な脇腹《わきばら》に届こうとした刹那《せつな》——唐突《とうとつ》に蜥蜴の姿が消えた。
「なに?」
葉の口からかすかなあえぎが洩《も》れた。みちるが境内《けいだい》を見回すと、蜥蜴はいつのまにか十メートルほど離れた石段の近くにうずくまっていた。
「なんで……」
と、みちるは言った。いつ動いたのか、まったく気づかなかった。
「……瞬間《しゅんかん》移動とは。アブサロムどもよりは高位なわけだ」
葉はまるで自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「では『眠り首』を使うべきだな」
その言葉が終わると同時に、「黒の彼方」は石段の方へ走り出し、蜥蜴の正面で静止する。葉が口にしている言葉の意味はよく分からないが、どうやらあの黒犬がなにかを今までとは違う攻撃をしようとしているのはみちるにも理解できた。
今まで頭《こうべ》を垂《た》れていた左の首が、ゆっくりと起き上がろうとする——なにが始まるんだろうとみちるが思ったその時、
「くっ」
葉の口から忌々《いまいま》しげな声が洩れた。彼女の目は黒い蜥蜴を通り越して、石段のそばにある狛犬《こまいぬ》を見据《みす》えている。みちるも同じ方に視線を動かした。狛犬の像の後ろに隠《かく》れて、誰《だれ》かが境内の戦いを見ていた。
しかも、みちるのよく知っている顔だった。
「えっ。佐貫《さぬき》?」
と、みちるは言った。
半《なか》ば起きていた首がまた元のようにがくりと力を失った。ぎりっと葉《よう》の歯ぎしりが聞こえた。
「……『契約』さえなければ」
次の瞬間《しゅんかん》、再び蜥蜴《とかげ》の怪物が消えた。
「えっ」
みちるは声を上げた。「黒の彼方《かなた》」も敵の姿を完全に見失ったらしい。立ち止まったままあたりを見回している。
「上だ!」
と、佐貫が指さしながら叫ぶ。まるで隕石《いんせき》のように黒い蜥蜴が降ってきた。巨大な蜥蜴に激突《げきとつ》した「黒の彼方」は跳《は》ね飛ばされて石畳《いしだたみ》の上を滑《すべ》っていった。
「うっ!」
葉の口から鋭《するど》い悲鳴が洩《も》れ、力を失ったように背後《はいご》から倒れる。みちるは慌《あわ》てて彼女の体を抱きとめた。あざになっている手首がずきりと痛み、みちるは顔をしかめながら葉を地面に横たえた。
そして、葉の呼吸を確《たし》かめ——不意にみちるは既視感《きしかん》に襲《おそ》われた。
(前にもこんなことあった)
学校の中庭の藤棚《ふじだな》。一学期、裕生《ひろお》に頼まれて葉になにがあったのか尋《たず》ねた時だ。葉は突然、頭をぶつけて気絶してしまった。
(あの時のことも、あの犬と関係あるのかも)
「西尾《にしお》、逃げろ!」
佐貫の声が聞こえた。はっと我に返ったみちるが顔を上げると、傷だらけの黒い蜥蜴がのっそりと彼女たちの方へ歩き出したところだった。顎《あご》のあたりがなにかを詰めこんだように大きくふくれている。
みちるは葉を抱き上げて走ろうとしたが、右手に力が入らなかった。
あの犬は、と思ってあたりを見回すと、本殿《ほんでん》の前で倒れたまま黒犬はぴくりとも動かなかった。
(なにがあったの)
この「葉」が悲鳴を上げて倒れたということは、きっと彼女を乗っ取っていた者——あの「黒の彼方」になにかがあったということだ。ふと、みちるは黒犬の様子《ようす》がさっきと違うことに気づいた。なにかが足《た》りないような——。
「……あ」
みちるは押し殺した悲鳴を上げる。足りないのは首だった。黒犬の片方の首が根本からきれいに切り取られていた。
彼女は徐々に近づいて来る蜥蜴《とかげ》を見た。下顎《したあご》のあたりに丸いふくらみがはっきりと残っていた。うろこに覆《おお》われた黒い表皮が、前から後ろに向かって波のように蠕動《ぜんどう》する。一瞬《いっしゅん》だけ両顎を開いた蜥蜴は、ごくりという音とともに胴体へとその塊《かたまり》を送りこんだ。
その瞬間、みちるはようやくなにが起こったのか理解した。
この蜥蜴の怪物が「黒の彼方《かなた》」の首を食いちぎったのだ。