鶴亀《つるき》駅近くのビジネスホテルの最上階には、狭《せま》いながらもスイートルームがある。
天明《てんめい》はソファにぐったりと体を沈め、窓の方をぼんやりと眺めていた。とうに日は暮れており、ガラスには外の景色ではなく部屋の中が映っている。天明のタキシードには皺《しわ》が寄り、頬《ほお》には青くひげが伸び始めている。窓の中の彼は普段《ふだん》よりも老《ふ》けて見えた。
彼の隣《となり》には龍子主《たつこぬし》が待っていた。「黒の彼方《かなた》」から受けた全身の傷は、まだ完全には癒《い》えていない。昨日の戦いに司令塔として天明も参加していれば、あのカゲヌシに苦戦することもなかったはずだ。明日は大いに働いてもらわなければならない。そのためにさっきから——。
(……ん?)
天明は首をかしげた。「さっきから」なんなのか、よく分からなかったからだ。
その時、肌身離《はな》さず持っている緊急《きんきゅう》用の携帯が鳴った。通話ボタンを押すと、
『あの、藤牧《ふじまき》です』
「ああ、どうなった?」
ざらざらした龍子主の背中を撫《な》でながら天明は言った。
『大丈夫です。誘《さそ》ったらいくって言いました。明日、ぼくが連れていきます』
なるほど、と天明はぼんやり思った。こいつもこれで死亡確定だ。
「じゃあ明日の晩、鶴亀山公園でやる俺《おれ》のショーを見に来い」
沈黙《ちんもく》が流れた。
『あの、祭りが終わった後にお会いするんじゃないんですか?』
そう言えば、そんな話だったかな。
「いや、直接会うのはもちろん祭りの後だ。あの契約者がどういう状態《じょうたい》なのか、俺の目で確認《かくにん》しておきたいんだ。別に怪《あや》しまれる気遣《きづか》いはない。こっちはステージの上からでもどこにいるかが分かる。お前は公園に自分の彼女を連れて来て、俺のショーを見ていればいい」
『分かりました』
まだまだガキだな、と天明は心の中でつぶやいた。ふと、龍子主の背中を撫でていた手が、丸いくぼみのような傷に触れた。裕生《ひろお》があの黒い液体をかけた跡だった。あの液体の傷だけは治りが遅い。
『それじゃ、また明日』
と、裕生が言った。
「あ、昨日お前が龍子主に使ったあの薬な」
『え?』
裕生が戸惑《とまど》ったように聞きかえして来た。天明はこの少年に親しみを覚えていた——たとえ、自分に嘘《うそ》をついていたとしても。
少しぐらいは役に立つ情報を与えてもいいだろう。
もちろん、明日殺すつもりだが。
「あれは『同族食い』の血だと思うぞ……俺《おれ》の勘《かん》だが」
「……」
彼はなにも言わなかった。おそらく必死に天明《てんめい》の言葉の意図を考えているのだろう。そんなものはありはしないのだが。
「話はそれだけだ。じゃあ」
と言って、天明は一方的に電話を切った。
龍子主《たつこぬし》は天明の隣《となり》でぴくりとも動かない。普段《ふだん》よりもさらに動きが鈍《にぶ》かった。あの傷を負ったせいだと思っていたが、ひょっとするとそれが理由ではないのかもしれない。そのせいで、あんなに——。
天明は眉《まゆ》の間をつまんで考えこんだ。また、思い出せない。一体なにを忘れているのだろう。
その時、ノックの音が聞こえた。龍子主を影《かげ》に戻してからドアを開けると、八尋《やひろ》が立っていた。化粧《けしょう》を完全に落とし、地味なブラウスとロングスカート姿の彼女は、ほとんど昼間とは別人だった。
「あんたにちょっと話があるんだけど」
部屋に入ってくるなり彼女は言った。どうやらかなり腹を立てているらしい。
「どうしたんだ」
後ろ手にドアを閉めながら、天明は尋《たず》ねる。
「どうしたじゃないわよ。あんた、なに考えてんの?」
彼女は天明を睨《にら》みつけた。
「今まで我慢《がまん》してたけど、もう限界。はっきり言わせてもらうわ」
「ほう」
短い答えだったが、無関心な声の調子《ちょうし》に八尋は一瞬《いっしゅん》気圧《けお》されたようだった。そう言えば、天明は彼女に対してこんな態度《たいど》を取ったことはない。「ビジネス」のパートナーとして常に敬意を払い、全幅の信頼を置いて来たからだ。
「あんた、この町でなにをしようとしてるの」
「ビジネスだよ。他《ほか》の土地でやって来たことと同じだ」
「ふざけないでよ!」
八尋はほとんどつかみかからんとする勢いで叫んだ。
「なにがビジネスよ。あんたはこの町に来て以来、今まで稼《かせ》いだ金をせっせとばらまいてるだけじゃない。あんたの個人名義の銀行口座」
八尋はスカートのポケットから通帳を引っ張り出すと、テーブルの上に叩《たた》きつけた。いつのまに、と天明《てんめい》は思った。
「ほとんど残ってないじゃない。一体なにに使ったの?」
「……さすがに仕事が早いな。いつ俺《おれ》のスーツケースから抜いたんだ」
「はぐらかさないでちゃんと答えなさいよ。家一軒買ったってお釣《つ》りが来る金額よ? あんた、前はそろそろこういうヤバい仕事も潮時《しおどき》だって言ってたじゃない。お金もたまって来たから、まともな商売するのにちょうどいい機会だって」
「……」
そんなことを言った記憶《きおく》はなかった。しかし、以前だったらそう言ったかもしれない。少し前から、自分がなにを目的に日々を過ごしてきたのか分からなくなりつつあった。おそらく、龍子主《たつこぬし》に取りつかれてからだろう。
確《たし》かなものは時々やって来る妙にくっきりとした殺意だけだった。誰《だれ》かを殺して龍子主を満足させる——一度そう思い始めると、他《ほか》のことはなにもかもどうでもよくなってしまう。
「この町に来てから、あんたは仕事に興味《きょうみ》を示さなくなった。『ショー』だって機械的に開いてるだけで全然やる気がないじゃない。カモになりそうな『客』は何人もいるのに、あんたは全然手をつけようとしない」
天明は自分の頬《ほお》がゆるむのを感じた——一人は龍子主が「手をつけ」てしまったが。
「最近は『ショー』だってすっぽかすしね。今日の午後は結局どこにいってたの?」
「今日?」
ふと、天明は眉《まゆ》をひそめた。あの藤牧《ふじまき》雄一《ゆういち》のせいで、無惨に終わった午前の『ショー』のことははっきり憶《おぼ》えている。しかし、あの後でどこかへ出かけた記憶など天明にはなかった。
ただ、午後のショーをこなした記憶もなかった。
「後、あたしの方に請求書《せいきゅうしょ》が来てたけど、タンクローリーをドライバーごとレンタルするってどういうこと? 他にもわけの分かんない買い物をたくさんしてるみたいじゃない」
「……」
タンクローリーについてははっきり憶えているが、この女にそれを言うわけにはいかなかった。不意に八尋《やひろ》はタバコをくわえて、瀟洒《しょうしゃ》なデザインのライターで火を点《つ》けた。気持ちを落ち着かせようとする時の彼女の癖《くせ》だった。
「ねえ、本当にあんたはこの町でなにをやってるの?」
再び八尋が問いかけるが、天明は答えない。無意識《むいしき》のうちに、かち、と歯を鳴らしていた。
長い沈黙《ちんもく》が続く——ふっと煙《けむり》を吐き出し、彼女は表情を和らげた。
「ここはあんたにとっての故郷だし、逃げ出すのはすごく辛《つら》かったんでしょう。だからずっと帰ってきたかったのね……それぐらいは分かるわよ」
かちかち、と天明の歯がまた鳴る。彼の思考は霧《きり》がかかったようにぼやけてきていた。
「でも、この町であんたがやってることははっきり言ってメチャクチャよ。だって」
「俺《おれ》はこの町に帰って来たかったんじゃない」
と、天明《てんめい》はうめくように言った。
「この町をメチャクチャにしたかったんだ」
かちかちかち。天明の顎《あご》がまた動いた。八尋《やひろ》の話を聞くのが苦痛でたまらなかった。いっそ、この女も殺して——。
「ねえ天明。この町を出ましょう」
穏《おだ》やかな声で八尋が言った。天明は呆然《ぼうぜん》と彼女を見返した。
「……町を出る?」
生まれて初めてその言葉を聞いたように、天明は口の中で繰り返した。
「使っちゃったお金はもうしょうがないわ。ここを出て、また二人で稼《かせ》ぎましょう。この町にいるのはあんたにとってよくないことよ。なんだか取り返しのつかないことが起こりそうな気がするの」
天明はぎゅっと目を閉じて、まとまらない思考を集中させようと試みた。彼女の勘《かん》や判断は常に間違わない。そう思ったから彼女をパートナーに選《えら》び、そして彼女の提案には常に従って来たのだ。今回もそうするべきではないのだろうか。
「……そうだな」
いつのまにか歯の震《ふる》えは止まっている。そう口に出してみると、どう考えてもそれがいいような気がした。まだやり直しもきくはずだ。人を何人か殺してしまったけれど。
「そうと決まったらすぐに撤収《てっしゅう》の準備よ」
八尋は明るい声で言い、テーブルの上の灰皿にタバコを押しつけた。そして、ベッドルームへ歩いていった。
「荷造りはあたしがしてあげるから。どうせちゃんと片づけてないんでしょう?」
天明は無言でうなずいた。もともと、人を殺したいと思ったことはない。おかしくなったのは全《すべ》て龍子主《たつこぬし》が現れてからだ。八尋を殺してしまう前でよかった、と彼は胸を撫《な》で下ろした。なにしろ、他《ほか》のスタッフは——。
「そう言えば、あたし以外のスタッフはどこにいったの」
ドアを開けかけていた八尋が、天明を振りかえった。
「え?」
それは八尋の言葉と自分の考えの、双方に対する反応だった。
「さっきまで一人ずつ面接してたでしょ。一体、なんだったの。誰《だれ》も自分の部屋へ戻ってないみたいだけど、どこかでなにかさせてるわけ?」
天明はごくりと喉《のど》を鳴らした。かすかに開いたベッドルームのドアの向こうから、濃厚《のうこう》な血の臭《にお》いが漂《ただよ》ってきていた——ようやく、自分がなにをしていたのか、天明は理解した。とうの昔に手遅れになっていたのだ。
彼が八尋《やひろ》の方へ歩き出すのとほとんど同時に、彼女はベッドルームを覗《のぞ》きこんだ。
「八尋」
かすれた声で天明《てんめい》が呼びかけると、彼女はぴくりと体を震《ふる》わせながら振りかえった。顔色は紙のように白くなっていた。
「……どういうこと?」
「龍子主《たつこぬし》の調子《ちょうし》がよくないんだ。それで、みんなを食わせた……お前以外のみんなを」
天明は首を振りながら悲しげにつぶやいた。
「それでも調子が悪い。普段《ふだん》なら丸ごと食うんだが、今日はやけに食い散らかすんだよ」
八尋はへなへなとその場に座りこんだ。天明は覆《おお》い被《かぶ》さるように彼女に自分の顔を近づけ、かちかちかちかち、と歯を鳴らした。
「……あ、あんたがやったの?」
「八尋」
自分がなにをしたいのか、これからなにをしようとしているのか、なにを口にしているのか、もはや天明にははっきり分からなかった。はっきりしているのは、奇妙にくっきりとした何者かの意志——人間を皆殺しにして食い尽くす。彼の中にいる、彼以外のものが持っている欲望だった。
「ここで見たことを、忘れられるか?」
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彼女はかくかくと首を縦《たて》に振った。うなずいているようにも、震《ふる》えているようにも見えた。
「じゃあ、命だけは助ける」
八尋《やひろ》がかすかに息をついた瞬間《しゅんかん》、
「龍子主《たつこぬし》」
天明《てんめい》の背後《はいご》に巨大な蜥蜴《とかげ》が現れる。彼はすっと脇《わき》へどいた。ゆっくりと怪物が八尋に向かって前進し始めた。
「……助けて」
「助けるよ。だから、誰《だれ》にも言うなよ」
天明はうわごとのようにつぶやいた。
「お前は殺さないでおいてやるからな」
八尋はかかとで床《ゆか》を蹴《け》りながら、壁《かべ》に沿って後ずさりをした。すぐに部屋の一隅《いちぐう》に追いつめられる。彼女は丸く目を見開いて、すがるように天明を見上げた。
助けるって言ったじゃない、と言っている気がした。
「安心しろ。俺《おれ》はお前を殺さないから。殺さないから」
彼女の眼前に迫った蜥蜴の舌が、冷や汗と涙に濡《ぬ》れた八尋の頬《ほお》をちろりと舐《な》めた。
「お前を殺さない……殺さない…殺さない殺さない殺さない殺さない殺さない」
血走った目を大きく見開きながら、天明は呪文《じゅもん》のように繰《く》り返す。そして、龍子主がかぱっと顎《あご》を開いた。
「……うそつき」
それが八尋の最期の言葉だった。
天明《てんめい》はソファにぐったりと体を沈め、窓の方をぼんやりと眺めていた。とうに日は暮れており、ガラスには外の景色ではなく部屋の中が映っている。天明のタキシードには皺《しわ》が寄り、頬《ほお》には青くひげが伸び始めている。窓の中の彼は普段《ふだん》よりも老《ふ》けて見えた。
彼の隣《となり》には龍子主《たつこぬし》が待っていた。「黒の彼方《かなた》」から受けた全身の傷は、まだ完全には癒《い》えていない。昨日の戦いに司令塔として天明も参加していれば、あのカゲヌシに苦戦することもなかったはずだ。明日は大いに働いてもらわなければならない。そのためにさっきから——。
(……ん?)
天明は首をかしげた。「さっきから」なんなのか、よく分からなかったからだ。
その時、肌身離《はな》さず持っている緊急《きんきゅう》用の携帯が鳴った。通話ボタンを押すと、
『あの、藤牧《ふじまき》です』
「ああ、どうなった?」
ざらざらした龍子主の背中を撫《な》でながら天明は言った。
『大丈夫です。誘《さそ》ったらいくって言いました。明日、ぼくが連れていきます』
なるほど、と天明はぼんやり思った。こいつもこれで死亡確定だ。
「じゃあ明日の晩、鶴亀山公園でやる俺《おれ》のショーを見に来い」
沈黙《ちんもく》が流れた。
『あの、祭りが終わった後にお会いするんじゃないんですか?』
そう言えば、そんな話だったかな。
「いや、直接会うのはもちろん祭りの後だ。あの契約者がどういう状態《じょうたい》なのか、俺の目で確認《かくにん》しておきたいんだ。別に怪《あや》しまれる気遣《きづか》いはない。こっちはステージの上からでもどこにいるかが分かる。お前は公園に自分の彼女を連れて来て、俺のショーを見ていればいい」
『分かりました』
まだまだガキだな、と天明は心の中でつぶやいた。ふと、龍子主の背中を撫でていた手が、丸いくぼみのような傷に触れた。裕生《ひろお》があの黒い液体をかけた跡だった。あの液体の傷だけは治りが遅い。
『それじゃ、また明日』
と、裕生が言った。
「あ、昨日お前が龍子主に使ったあの薬な」
『え?』
裕生が戸惑《とまど》ったように聞きかえして来た。天明はこの少年に親しみを覚えていた——たとえ、自分に嘘《うそ》をついていたとしても。
少しぐらいは役に立つ情報を与えてもいいだろう。
もちろん、明日殺すつもりだが。
「あれは『同族食い』の血だと思うぞ……俺《おれ》の勘《かん》だが」
「……」
彼はなにも言わなかった。おそらく必死に天明《てんめい》の言葉の意図を考えているのだろう。そんなものはありはしないのだが。
「話はそれだけだ。じゃあ」
と言って、天明は一方的に電話を切った。
龍子主《たつこぬし》は天明の隣《となり》でぴくりとも動かない。普段《ふだん》よりもさらに動きが鈍《にぶ》かった。あの傷を負ったせいだと思っていたが、ひょっとするとそれが理由ではないのかもしれない。そのせいで、あんなに——。
天明は眉《まゆ》の間をつまんで考えこんだ。また、思い出せない。一体なにを忘れているのだろう。
その時、ノックの音が聞こえた。龍子主を影《かげ》に戻してからドアを開けると、八尋《やひろ》が立っていた。化粧《けしょう》を完全に落とし、地味なブラウスとロングスカート姿の彼女は、ほとんど昼間とは別人だった。
「あんたにちょっと話があるんだけど」
部屋に入ってくるなり彼女は言った。どうやらかなり腹を立てているらしい。
「どうしたんだ」
後ろ手にドアを閉めながら、天明は尋《たず》ねる。
「どうしたじゃないわよ。あんた、なに考えてんの?」
彼女は天明を睨《にら》みつけた。
「今まで我慢《がまん》してたけど、もう限界。はっきり言わせてもらうわ」
「ほう」
短い答えだったが、無関心な声の調子《ちょうし》に八尋は一瞬《いっしゅん》気圧《けお》されたようだった。そう言えば、天明は彼女に対してこんな態度《たいど》を取ったことはない。「ビジネス」のパートナーとして常に敬意を払い、全幅の信頼を置いて来たからだ。
「あんた、この町でなにをしようとしてるの」
「ビジネスだよ。他《ほか》の土地でやって来たことと同じだ」
「ふざけないでよ!」
八尋はほとんどつかみかからんとする勢いで叫んだ。
「なにがビジネスよ。あんたはこの町に来て以来、今まで稼《かせ》いだ金をせっせとばらまいてるだけじゃない。あんたの個人名義の銀行口座」
八尋はスカートのポケットから通帳を引っ張り出すと、テーブルの上に叩《たた》きつけた。いつのまに、と天明《てんめい》は思った。
「ほとんど残ってないじゃない。一体なにに使ったの?」
「……さすがに仕事が早いな。いつ俺《おれ》のスーツケースから抜いたんだ」
「はぐらかさないでちゃんと答えなさいよ。家一軒買ったってお釣《つ》りが来る金額よ? あんた、前はそろそろこういうヤバい仕事も潮時《しおどき》だって言ってたじゃない。お金もたまって来たから、まともな商売するのにちょうどいい機会だって」
「……」
そんなことを言った記憶《きおく》はなかった。しかし、以前だったらそう言ったかもしれない。少し前から、自分がなにを目的に日々を過ごしてきたのか分からなくなりつつあった。おそらく、龍子主《たつこぬし》に取りつかれてからだろう。
確《たし》かなものは時々やって来る妙にくっきりとした殺意だけだった。誰《だれ》かを殺して龍子主を満足させる——一度そう思い始めると、他《ほか》のことはなにもかもどうでもよくなってしまう。
「この町に来てから、あんたは仕事に興味《きょうみ》を示さなくなった。『ショー』だって機械的に開いてるだけで全然やる気がないじゃない。カモになりそうな『客』は何人もいるのに、あんたは全然手をつけようとしない」
天明は自分の頬《ほお》がゆるむのを感じた——一人は龍子主が「手をつけ」てしまったが。
「最近は『ショー』だってすっぽかすしね。今日の午後は結局どこにいってたの?」
「今日?」
ふと、天明は眉《まゆ》をひそめた。あの藤牧《ふじまき》雄一《ゆういち》のせいで、無惨に終わった午前の『ショー』のことははっきり憶《おぼ》えている。しかし、あの後でどこかへ出かけた記憶など天明にはなかった。
ただ、午後のショーをこなした記憶もなかった。
「後、あたしの方に請求書《せいきゅうしょ》が来てたけど、タンクローリーをドライバーごとレンタルするってどういうこと? 他にもわけの分かんない買い物をたくさんしてるみたいじゃない」
「……」
タンクローリーについてははっきり憶えているが、この女にそれを言うわけにはいかなかった。不意に八尋《やひろ》はタバコをくわえて、瀟洒《しょうしゃ》なデザインのライターで火を点《つ》けた。気持ちを落ち着かせようとする時の彼女の癖《くせ》だった。
「ねえ、本当にあんたはこの町でなにをやってるの?」
再び八尋が問いかけるが、天明は答えない。無意識《むいしき》のうちに、かち、と歯を鳴らしていた。
長い沈黙《ちんもく》が続く——ふっと煙《けむり》を吐き出し、彼女は表情を和らげた。
「ここはあんたにとっての故郷だし、逃げ出すのはすごく辛《つら》かったんでしょう。だからずっと帰ってきたかったのね……それぐらいは分かるわよ」
かちかち、と天明の歯がまた鳴る。彼の思考は霧《きり》がかかったようにぼやけてきていた。
「でも、この町であんたがやってることははっきり言ってメチャクチャよ。だって」
「俺《おれ》はこの町に帰って来たかったんじゃない」
と、天明《てんめい》はうめくように言った。
「この町をメチャクチャにしたかったんだ」
かちかちかち。天明の顎《あご》がまた動いた。八尋《やひろ》の話を聞くのが苦痛でたまらなかった。いっそ、この女も殺して——。
「ねえ天明。この町を出ましょう」
穏《おだ》やかな声で八尋が言った。天明は呆然《ぼうぜん》と彼女を見返した。
「……町を出る?」
生まれて初めてその言葉を聞いたように、天明は口の中で繰り返した。
「使っちゃったお金はもうしょうがないわ。ここを出て、また二人で稼《かせ》ぎましょう。この町にいるのはあんたにとってよくないことよ。なんだか取り返しのつかないことが起こりそうな気がするの」
天明はぎゅっと目を閉じて、まとまらない思考を集中させようと試みた。彼女の勘《かん》や判断は常に間違わない。そう思ったから彼女をパートナーに選《えら》び、そして彼女の提案には常に従って来たのだ。今回もそうするべきではないのだろうか。
「……そうだな」
いつのまにか歯の震《ふる》えは止まっている。そう口に出してみると、どう考えてもそれがいいような気がした。まだやり直しもきくはずだ。人を何人か殺してしまったけれど。
「そうと決まったらすぐに撤収《てっしゅう》の準備よ」
八尋は明るい声で言い、テーブルの上の灰皿にタバコを押しつけた。そして、ベッドルームへ歩いていった。
「荷造りはあたしがしてあげるから。どうせちゃんと片づけてないんでしょう?」
天明は無言でうなずいた。もともと、人を殺したいと思ったことはない。おかしくなったのは全《すべ》て龍子主《たつこぬし》が現れてからだ。八尋を殺してしまう前でよかった、と彼は胸を撫《な》で下ろした。なにしろ、他《ほか》のスタッフは——。
「そう言えば、あたし以外のスタッフはどこにいったの」
ドアを開けかけていた八尋が、天明を振りかえった。
「え?」
それは八尋の言葉と自分の考えの、双方に対する反応だった。
「さっきまで一人ずつ面接してたでしょ。一体、なんだったの。誰《だれ》も自分の部屋へ戻ってないみたいだけど、どこかでなにかさせてるわけ?」
天明はごくりと喉《のど》を鳴らした。かすかに開いたベッドルームのドアの向こうから、濃厚《のうこう》な血の臭《にお》いが漂《ただよ》ってきていた——ようやく、自分がなにをしていたのか、天明は理解した。とうの昔に手遅れになっていたのだ。
彼が八尋《やひろ》の方へ歩き出すのとほとんど同時に、彼女はベッドルームを覗《のぞ》きこんだ。
「八尋」
かすれた声で天明《てんめい》が呼びかけると、彼女はぴくりと体を震《ふる》わせながら振りかえった。顔色は紙のように白くなっていた。
「……どういうこと?」
「龍子主《たつこぬし》の調子《ちょうし》がよくないんだ。それで、みんなを食わせた……お前以外のみんなを」
天明は首を振りながら悲しげにつぶやいた。
「それでも調子が悪い。普段《ふだん》なら丸ごと食うんだが、今日はやけに食い散らかすんだよ」
八尋はへなへなとその場に座りこんだ。天明は覆《おお》い被《かぶ》さるように彼女に自分の顔を近づけ、かちかちかちかち、と歯を鳴らした。
「……あ、あんたがやったの?」
「八尋」
自分がなにをしたいのか、これからなにをしようとしているのか、なにを口にしているのか、もはや天明にははっきり分からなかった。はっきりしているのは、奇妙にくっきりとした何者かの意志——人間を皆殺しにして食い尽くす。彼の中にいる、彼以外のものが持っている欲望だった。
「ここで見たことを、忘れられるか?」
<img src="img/fake out_205.jpg">
彼女はかくかくと首を縦《たて》に振った。うなずいているようにも、震《ふる》えているようにも見えた。
「じゃあ、命だけは助ける」
八尋《やひろ》がかすかに息をついた瞬間《しゅんかん》、
「龍子主《たつこぬし》」
天明《てんめい》の背後《はいご》に巨大な蜥蜴《とかげ》が現れる。彼はすっと脇《わき》へどいた。ゆっくりと怪物が八尋に向かって前進し始めた。
「……助けて」
「助けるよ。だから、誰《だれ》にも言うなよ」
天明はうわごとのようにつぶやいた。
「お前は殺さないでおいてやるからな」
八尋はかかとで床《ゆか》を蹴《け》りながら、壁《かべ》に沿って後ずさりをした。すぐに部屋の一隅《いちぐう》に追いつめられる。彼女は丸く目を見開いて、すがるように天明を見上げた。
助けるって言ったじゃない、と言っている気がした。
「安心しろ。俺《おれ》はお前を殺さないから。殺さないから」
彼女の眼前に迫った蜥蜴の舌が、冷や汗と涙に濡《ぬ》れた八尋の頬《ほお》をちろりと舐《な》めた。
「お前を殺さない……殺さない…殺さない殺さない殺さない殺さない殺さない」
血走った目を大きく見開きながら、天明は呪文《じゅもん》のように繰《く》り返す。そして、龍子主がかぱっと顎《あご》を開いた。
「……うそつき」
それが八尋の最期の言葉だった。