昼休みになると、葉はこっそりと教室を出ようとした。
「あれ、雛咲《ひなさき》さん。どっか行くの?」
ドアの前で声をかけられて、葉はびくっと体を震《ふる》わせた。
「……ちょっと、部室に」
振り向くと、ショートカットとメガネの背の高い女の子が立っていた。しかし、誰《だれ》なのかはっきり思い出せない。
「あ、そう。ひょっとして西尾《にしお》先輩《せんぱい》も来たりする? たまに茶道部《さどうぶ》の部室にいるよね?」
一瞬《いっしゅん》、葉は目を閉じた——西尾さん。裕生ちゃんの友達。
彼女のことははっきりと思い出すことができる。
「来ないと思う」
「そう。でも、もし会ったら神崎《かんざき》が捜してたって言っといて欲しいんだけど」
神崎、という名字《みょうじ》を葉は口の中で繰《く》り返した。それを聞いた途端《とたん》、断片的に彼女についての記憶《きおく》が蘇《よみがえ》った。確か演劇部《えんげきぶ》に所属していたはずだ。みちるの後輩にあたる。
「……分かった」
葉《よう》はあいまいにうなずいて、逃げるようにその場を立ち去った。
新学期になってから、葉は教室に居《い》づらくなった。半数近くのクラスメートの名前を思い出せない。何人かは顔すらも分からなかった。
旧校舎へ通じる渡り廊下に来たところで、葉は立ち止まった。彼女はスカートのポケットから手帳と短いボールペンを出した。ぎっしりと細かい字が書きこまれたページをめくって、新しいページに「神崎《かんざき》さん。クラスの人。演劇部《えんげきぶ》。ショートカット。背が高い」と書きこんだ。こぼれ落ちていく記憶《きおく》の代わりがこの手帳だった。
その日起こった忘れてはいけないことや、もともと知っていたはずのことを手当たり次第に書きこんでいる。機会《きかい》があるとこれを開いて、なにを憶《おぼ》えておかなければならないかを確認《かくにん》しているのだった。
葉は元通りに手帳をしまって、新校舎と旧校舎の間にある中庭を窓越しに見下ろした。植木や藤棚《ふじだな》やベンチが並んでいる光景を、初めて見るような気がした。学校を歩いていると、しょっちゅう見覚えのない場所に出くわす。
記憶を失うにつれて、世界は葉の知らない場所になっていく。「黒の彼方《かなた》」が龍子主《たつこぬし》を取りこんでから、記憶の欠落は速度を増した。授業を受けても後からうまく内容を思い出せない。こうして学校に通うことができるのも、あとわずかな間だけの気がする。
本当は今も学校を休んだ方がいいと病院の医師に言われている。しかし、それだけは断固《だんこ》として拒否していた。学校を休めばそれだけ裕生《ひろお》と離《はな》れることになる。
葉が一番恐れているのは裕生にまつわる記憶を失うことだった。離れている時間が増えれば、それだけ忘れていくことが多い気がする。わずかでも一緒《いっしょ》にいる時間を減らしたくなかった。
「……にちは」
どこかから声が聞こえた。
顔を上げると、旧校舎の方から歩いてくる女子生徒が見えた。足を進めるたびに右の肩がぐっと下がる。長く伸ばした髪はなぜか銀色《ぎんいろ》で、腕の支えがついた杖《つえ》を握りしめている。
「こんにちは」
葉のすぐ目の前まで来てから、もう一度彼女は声をかけてきた。口元には柔らかな笑みを浮かべている。まるで人形のように目鼻立ちの整《ととの》った美人だった。
「……こんにちは」
戸惑《とまど》いながら葉も答える。見覚えのない相手だった。しかし、挨拶《あいさつ》をしてきたということは、彼女とも知り合いなのかもしれない。
「どこに行くの?」
「部室」
上履《うわば》きの色を見ると彼女も葉と同じ一年生らしい。
「どこの部?」
「茶道部《さどうぶ》」
「ふうん」
彼女は関心のない調子《ちょうし》で言った。答えを知っているのに、尋《たず》ねてきた気がした。
目の前にいるとどうしても髪の色を意識《いしき》してしまう。窓から射《さ》しこむ光を浴びて、まるで雪のように輝《かがや》いていた。
「染めたんじゃないの。自然にこうなったのよ」
彼女は顔を寄せてささやくように言った。葉《よう》はすぐ近くにある彼女の顔を凝視《ぎょうし》する。銀色《ぎんいろ》の髪の毛に黒い瞳《ひとみ》がくっきりとしたコントラストを作っていた。
「わたし、船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》」
なにがおかしいのか、彼女はくすくす笑いながら杖《つえ》を持っていない方の手で葉の肩に触れる。葉は体を硬くしたまま立ちつくしていた。名乗ったということは、今まで面識《めんしき》があったわけではないらしい。
「編入《へんにゅう》してきたばっかりなの。今、部活の見学してたとこ」
と、千晶は言った。葉の肩に置かれた手は、いつのまにかうなじの近くに移動し、葉の髪を柔らかく撫《な》でている。
「つい声かけちゃったんだけど、迷惑だった?」
葉は首を振った。しかし、本音《ほんね》では早く立ち去りたかった。もう裕生《ひろお》は部室で待っているかもしれない。
「茶道部に藤牧《ふじまき》先輩《せんぱい》っているでしょう?」
葉ははっと息を呑《の》んだ。
「どうして知ってるの?」
「どうしてって……茶道部もちょっと見学したかったから、クラスの子に誰《だれ》が部長なのか聞いたの。茶道部の部長ってその藤牧先輩なんでしょう?」
葉の頬《ほお》がかっと熱《あつ》くなった。裕生の名前に過剰《かじょう》に反応した自分が恥ずかしかった。
「あなたと付き合ってるの?」
千晶はからかうような口調で言った。葉は慌てて首を振り、
「……ちがう」
と、消え入りそうな声で答えた。葉にとってはあってはならない誤解だった。自分はともかく、裕生に迷惑がかかる。
「ね、その藤牧先輩ってどんな人?」
千晶は葉の肩に手を置いたままで話を続けている。
「男の人で茶道部って珍しいでしょ?」
葉は黙《だま》っていた。相手への警戒心《けいかいしん》はさっきよりも強まっている。妙《みょう》に裕生のことを聞きたがっている気がした。
「そこまで警戒《けいかい》しなくてもいいと思うけど?」
千晶《ちあき》は葉《よう》の考えを見透《みす》かすように言った。この相手にはどこか信用できないものを感じる。ただ、それが千晶自身のせいなのか、彼女が裕生《ひろお》のことを口にしているせいなのか、どちらなのか葉にもよく分からなかった。
「藤牧《ふじまき》先輩《せんぱい》のことそんなに好きなの? 雛咲《ひなさき》さん」
「……え?」
顔を上げた瞬間《しゅんかん》、葉のうなじのあたりを撫《な》でていた千晶の指先が、ブラウスの襟《えり》の中にするりと潜《もぐ》りこんだ。ぞくっと葉の体に震《ふる》えが走る。
「いやっ」
突き飛ばすように葉は千晶から距離《きょり》を置いた。よろけた千晶はガラスの窓にどしんと肩をついた。
「あ……」
一瞬、葉は罪悪感にとらわれた。千晶の足が悪いことを忘れていた。手をさしのべようか迷っていると、彼女の唇がかすかに動いた。
「冗談《じょうだん》よ。ごめんね、驚《おどろ》かして」
笑顔《えがお》で千晶は言った。それから、蹴《け》るように杖《つえ》を床《ゆか》について、元通りにまっすぐ立った。
「ちょっとからかっただけ。あまり気にしないで」
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葉《よう》の心臓《しんぞう》はどきどき脈打っている。しかし、それは今|千晶《ちあき》にされたことのせいではなかった。
「どうしてわたしの名前を知ってるの?」
と、葉は言う。
一瞬《いっしゅん》、千晶の笑顔《えがお》がこわばった気がした——しかし、ほんの一瞬だった。
「さっきクラスの子に聞いたって言ったでしょ? その時にあなたの名前も聞いたの。藤牧《ふじまき》先輩《せんぱい》がいなかったら、あなたに話を聞けばいいって」
こともなげに彼女は言った。
葉は体からわずかに力を抜いた。聞いてみれば別に不思議《ふしぎ》な話でもなかった。
「じゃあ、そろそろ行くね。雛咲《ひなさき》さんも急いでるみたいだし」
そう言って、千晶は杖《つえ》をついて歩き出した。数歩進んでから、葉を振り返る。
「また今度ね」
葉の答えを待たずに、彼女はまた歩き出した。葉はぼんやりとその背中を見送った。