その日の夜。
裕生《ひろお》は自分の部屋の机に向かって、真剣な顔つきで考えこんでいる。机の上には小さな古いノートが広げられており、ちまちました彼の字が並んでいた。
裕生《ひろお》は自分の部屋の机に向かって、真剣な顔つきで考えこんでいる。机の上には小さな古いノートが広げられており、ちまちました彼の字が並んでいた。
黒い海へ出ていった二人は、
それからなん日も波のあいだをさまよいました。
空には雲ひとつなく、海には魚のかげひとつ見えません。
けれど朝日ののぼるほうへ吹きつづける、つよい風が二人の味方でした。
ぴんとはった帆《ほ》が風を受けて、ぐいぐいと舟は進んでいきました。
やがて二人ののった舟は、大きな国の港にたどりつきました。
それからなん日も波のあいだをさまよいました。
空には雲ひとつなく、海には魚のかげひとつ見えません。
けれど朝日ののぼるほうへ吹きつづける、つよい風が二人の味方でした。
ぴんとはった帆《ほ》が風を受けて、ぐいぐいと舟は進んでいきました。
やがて二人ののった舟は、大きな国の港にたどりつきました。
そこは一人の王さまがおさめる国でした。
石づくりの大きな建物があり、たくさんの人がいました。
おまえたちはどこからきたのだ。
人びとは二人にそうたずねました。
黒い海をこえてきたの。
女の子がおそるおそるこたえると、二人は王さまのすむお城へつれていかれました。
石づくりの大きな建物があり、たくさんの人がいました。
おまえたちはどこからきたのだ。
人びとは二人にそうたずねました。
黒い海をこえてきたの。
女の子がおそるおそるこたえると、二人は王さまのすむお城へつれていかれました。
「……ダメだ」
裕生《ひろお》はペンを放り出した。どうしてもこの先を書くことができない。
彼が取り組んでいるのは、かつて入院中に書いていた物語「くろのかなた」の続きだった。孤島《ことう》に住んでいた女の子は、海の向こうからやってきた男の子と一緒《いっしょ》に島を出る。
葉《よう》との約束でその続きを書くことになっている。しかし、一ヶ月かかって書いたのはこれだけだった。
一ヶ月前、裕生たちは皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》の契約した龍子主《たつこぬし》と「黒の彼方《かなた》」を戦わせて共倒れを狙《ねら》う作戦を取った。結局その作戦は失敗し、龍子主を食った「黒の彼方」はさらに力を増した。食欲が満たされているせいか、葉に話しかけることもほとんどなくなっているが、また餌《えさ》を欲すれば、葉を責め立てるようになるはずだ。
(きっとまた他《ほか》のカゲヌシをぶつける機会《きかい》がある)
次の機会を待つ以外に、今の裕生にはすることがない。
葉には続きを書いて欲しいと頼まれている。少しでも彼女の支えになればと思って、書こうとしてきたものの思うように進まなかった。
「……あの」
葉の声が聞こえた。ノートを閉じながら廊下の方を見ると、ふすまのところにパジャマを着た彼女が立っていた。
「どうしたの?」
「声が聞こえたから」
「ごめん。なんでもないよ……ちょっと独り言いっただけ」
沈黙《ちんもく》。葉はそこに立ったままだった。なにか他に言いたいことがあるらしい。
「もう寝るの?」
「はい、あの……ここ、開けておいていいですか」
裕生は黙《だま》ってうなずいた。葉の部屋は廊下をはさんで反対側にあるのだが、先月あたりからふすまを開けっぱなしで寝るようになった。さらに裕生の部屋のふすまも開けてくれるよう毎晩頼みに来る。
葉の不安はよく分かるし、彼女の頼みを断るつもりはまったくなかったが、別の意味で裕生は困っていた。夜中にちょっと身を乗り出すと葉の寝姿が目に入ってしまう。たまに寝返りを打っているのを見たりすると、さすがの裕生も落ち着かなくなった。
(そのうち、一緒の部屋に寝てって言われるかも)
なんとなく葉の望みはそういうことではないかと思う——しかし、そうなった場合、いくらなんでも普通に眠れる自信はなかった。
「おやすみなさい」
と、葉が言った。
「おやすみ」
彼女が自分の部屋に戻るのを見送ってから、裕生《ひろお》はさっき閉じた「くろのかなた」のノートを開く。
主人公たちが島から出たとたんに、どう続けたらいいのか分からなくなった。もともと次の展開などまったく考えていなかった。たまに見る奇妙な夢をもとに書きなぐっただけのものだった——黒い島で、顔の見えない誰《だれ》かと出会うあの夢。
(そういえば、あの夢にもなにかあるのかもしれない)
佐貫《さぬき》の話では、皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》もよく似た夢を見ると話していたという。ただの偶然かもしれないが、ずっとそれが気になっていた。
その時、机の上に置いてあった携帯《けいたい》からメールの着信音が聞こえた。送ってきたのは佐貫で、開いてみると画像ファイルだけだった。
「……誰これ」
画像を見た裕生は、思わずつぶやいていた。真正面を向いた男性の肩から上が写っている。スナップ写真の一部を取りこんだものらしい。年は三十代後半、髪は地肌が見えるほど短く、精悍《せいかん》な顔つきだった——しかし、全然見覚えのない人物だった。
裕生が首をひねっていると、今度は携帯の着メロが鳴り始める。やはり相手は佐貫だった。ちらっと葉《よう》の部屋の方を見ると、すっかり電気も消えていた。
裕生は携帯をつかんだまま立ち上がると、急いで部屋から出た。そして、玄関でサンダルを突っかけてドアを開ける。
「今、送った画像見たか?」
外に出ると同時に通話ボタンを押すと、興奮《こうふん》気味の佐貫の声が聞こえてきた。
「見たよ。なにあれ」
裕生はコンクリートの階段を降り、途中の踊《おど》り場《ば》の手すりにもたれた。
「明日《あした》のことになにか関係あるの?」
裕生たちは一年生のクラスに編入《へんにゅう》したという船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》の住所を調《しら》べた。かなり手こずるだろうと思っていたが、結局あっさりと知ることができた。昼休み、千晶はいくつかの部室を見学しており、そのうちのひとつ——佐貫が所属しているカーリング同好会に連絡先を残していた。
明日の土曜日《どようび》に、裕生たちは船瀬家に行って「船瀬|智和《ともかず》」が葉の父親かどうかを確《たし》かめるつもりだった。もちろん、葉には内緒《ないしょ》である。
「まあな。あれ、雛咲《ひなさき》さんに似てないか?」
「はあ?」
思わず裕生は声を上げた。
「全然違うよ。もっと痩《や》せてたし、メガネかけてたし」
「角度によって似てるように見えたりとか、そういう可能性は?」
「まさか。そんなのありっこないよ。それがどうかしたの?」
「やっぱりな」
と、佐貫《さぬき》は言った。
「あれが本物の『船瀬《ふなせ》智和《ともかず》』なんだ」
「……え?」
「五年ぐらい前の写真だけどな。それを顔んとこだけ取りこんだんだ」
裕生《ひろお》は頭が混乱してきた。
「どういうこと?」
「今朝《けさ》、話聞いた時に思ったんだ。この親子が加賀見《かがみ》に『戻ってきた』んだとしたら、昔はこっちに住んでたってことだろ。だったら、昔のことを調《しら》べてたらなにか分かるんじゃないかって。で、調べたんだけど、うちの親父《おやじ》と顔見知りだったよ。何回か顔合わせたことがあるって言ってた」
佐貫の家は鶴亀町《つるきちょう》の有数の地主だった。裕生もよくは知らないのだが、佐貫の父親や祖父は地元の名士で通っているらしく、このあたりでは顔も広い。
「加賀見で何代か続いてた病院の跡取りだったんだってよ。何年か前に病院はなくなって、その後は市民病院に勤めてたらしいけど」
「……それがこの画像の人?」
「そう。だから、藤牧《ふじまき》先輩《せんぱい》が昨日《きのう》会った『雛咲《ひなさき》さんのお父さんにそっくりな人』っていうのは、すくなくとも『船瀬智和』じゃないってことだよ。誰《だれ》なのかはともかくとして、偽名《ぎめい》使ってるのは間違いない」
裕生は携帯《けいたい》を握りしめたまま考えこんだ——少なくとも、雄一《ゆういち》がこの画像の男性と葉《よう》の父親を見間違えるはずがない。葉の父親である可能性がより高くなったということだった。
「あれ、そうするとこの写真の『船瀬智和』は今どこにいるんだろ?」
「さあな。そのへんは誰にも分からないかもな」
「どういうこと?」
「『船瀬智和』は四年前の春に行方不明《ゆくえふめい》になってる。家に残ってたのは千晶《ちあき》って娘一人で、奥さんはずっと昔に亡くなってた。その子を親戚《しんせき》が引き取るかどうかモメてるうちに、今度は娘もいなくなったんだ。父親がこっそり迎えに来たんだろうって言われてた」
(葉に似てる)
と、裕生は思う。四年前の春に両親が失踪《しっそう》し、一人取り残された女の子。年齢《ねんれい》まで同じだった。もっとも、葉とは違って迎えが来たわけだが。
「でも、もし父親が迎えに来たんだったら、どうしてその船瀬千晶は葉のお父さんと一緒《いっしょ》にいるんだろう?」
「俺《おれ》もそれは変だと思ってるんだ。第一、そうなると船瀬千晶はまるっきり他人のおっさんと一緒に住んでるってことになるだろ? なんか普通じゃねえよな」
電話を切った後で、裕生《ひろお》は踊《おど》り場《ば》の手すりにもたれたまま考えこんだ。
葉《よう》の父親にそっくりな男だけではなく、その娘のことも気になっていた。むしろ彼女の方になにか重大な秘密があるように思えてならなかった。
(とにかく、明日《あした》だよな)
そう思って部屋に帰ろうとした時、ふと道路に誰《だれ》かが立っていることに気づいた。
厚手の黄色《きいろ》いレインコートを着た男が、裕生の方を見上げている。顔はマスクとゴーグルで覆《おお》われ、髪の毛はコートのフードで完全に隠れていた。
「……レインメイカー」
と、裕生はつぶやいた。
カゲヌシの住居の入り口に「サイン」を書いて回っている奇妙な男だった。龍子主《たつこぬし》と戦った時、対カゲヌシ用の毒である「黒曜《こくよう》」をくれたのもこの男で——いや、本当に男性なのかどうかも、それ以前に人間なのかどうかもよく分からない。言葉を喋《しゃべ》ることすらほとんどできないようだった。
(近頃《ちかごろ》、よく来るな)
「黒曜」を裕生に託して以来、夜になると窓の外に立っているのを見かけることがある。特に裕生と会おうというわけではないらしく、しばらくするといつのまにかいなくなっている。最初は不気味だったが、最近では慣《な》れて気にならなくなっていた。
ただ奇妙なことに、藤牧家《ふじまきけ》でレインメイカーを見たことがあるのは裕生だけだった。彼一人の時でなければ、決して現れないのだった。葉ですら目にしたことはない。
時々、自分の生み出した幻覚ではないかという気がするほどだった。
(……まあ、いいか)
レインメイカーに手を振る——もちろん相手はただ突っ立っているだけだった。
裕生は向きを変えて、階段を上がっていった。
裕生《ひろお》はペンを放り出した。どうしてもこの先を書くことができない。
彼が取り組んでいるのは、かつて入院中に書いていた物語「くろのかなた」の続きだった。孤島《ことう》に住んでいた女の子は、海の向こうからやってきた男の子と一緒《いっしょ》に島を出る。
葉《よう》との約束でその続きを書くことになっている。しかし、一ヶ月かかって書いたのはこれだけだった。
一ヶ月前、裕生たちは皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》の契約した龍子主《たつこぬし》と「黒の彼方《かなた》」を戦わせて共倒れを狙《ねら》う作戦を取った。結局その作戦は失敗し、龍子主を食った「黒の彼方」はさらに力を増した。食欲が満たされているせいか、葉に話しかけることもほとんどなくなっているが、また餌《えさ》を欲すれば、葉を責め立てるようになるはずだ。
(きっとまた他《ほか》のカゲヌシをぶつける機会《きかい》がある)
次の機会を待つ以外に、今の裕生にはすることがない。
葉には続きを書いて欲しいと頼まれている。少しでも彼女の支えになればと思って、書こうとしてきたものの思うように進まなかった。
「……あの」
葉の声が聞こえた。ノートを閉じながら廊下の方を見ると、ふすまのところにパジャマを着た彼女が立っていた。
「どうしたの?」
「声が聞こえたから」
「ごめん。なんでもないよ……ちょっと独り言いっただけ」
沈黙《ちんもく》。葉はそこに立ったままだった。なにか他に言いたいことがあるらしい。
「もう寝るの?」
「はい、あの……ここ、開けておいていいですか」
裕生は黙《だま》ってうなずいた。葉の部屋は廊下をはさんで反対側にあるのだが、先月あたりからふすまを開けっぱなしで寝るようになった。さらに裕生の部屋のふすまも開けてくれるよう毎晩頼みに来る。
葉の不安はよく分かるし、彼女の頼みを断るつもりはまったくなかったが、別の意味で裕生は困っていた。夜中にちょっと身を乗り出すと葉の寝姿が目に入ってしまう。たまに寝返りを打っているのを見たりすると、さすがの裕生も落ち着かなくなった。
(そのうち、一緒の部屋に寝てって言われるかも)
なんとなく葉の望みはそういうことではないかと思う——しかし、そうなった場合、いくらなんでも普通に眠れる自信はなかった。
「おやすみなさい」
と、葉が言った。
「おやすみ」
彼女が自分の部屋に戻るのを見送ってから、裕生《ひろお》はさっき閉じた「くろのかなた」のノートを開く。
主人公たちが島から出たとたんに、どう続けたらいいのか分からなくなった。もともと次の展開などまったく考えていなかった。たまに見る奇妙な夢をもとに書きなぐっただけのものだった——黒い島で、顔の見えない誰《だれ》かと出会うあの夢。
(そういえば、あの夢にもなにかあるのかもしれない)
佐貫《さぬき》の話では、皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》もよく似た夢を見ると話していたという。ただの偶然かもしれないが、ずっとそれが気になっていた。
その時、机の上に置いてあった携帯《けいたい》からメールの着信音が聞こえた。送ってきたのは佐貫で、開いてみると画像ファイルだけだった。
「……誰これ」
画像を見た裕生は、思わずつぶやいていた。真正面を向いた男性の肩から上が写っている。スナップ写真の一部を取りこんだものらしい。年は三十代後半、髪は地肌が見えるほど短く、精悍《せいかん》な顔つきだった——しかし、全然見覚えのない人物だった。
裕生が首をひねっていると、今度は携帯の着メロが鳴り始める。やはり相手は佐貫だった。ちらっと葉《よう》の部屋の方を見ると、すっかり電気も消えていた。
裕生は携帯をつかんだまま立ち上がると、急いで部屋から出た。そして、玄関でサンダルを突っかけてドアを開ける。
「今、送った画像見たか?」
外に出ると同時に通話ボタンを押すと、興奮《こうふん》気味の佐貫の声が聞こえてきた。
「見たよ。なにあれ」
裕生はコンクリートの階段を降り、途中の踊《おど》り場《ば》の手すりにもたれた。
「明日《あした》のことになにか関係あるの?」
裕生たちは一年生のクラスに編入《へんにゅう》したという船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》の住所を調《しら》べた。かなり手こずるだろうと思っていたが、結局あっさりと知ることができた。昼休み、千晶はいくつかの部室を見学しており、そのうちのひとつ——佐貫が所属しているカーリング同好会に連絡先を残していた。
明日の土曜日《どようび》に、裕生たちは船瀬家に行って「船瀬|智和《ともかず》」が葉の父親かどうかを確《たし》かめるつもりだった。もちろん、葉には内緒《ないしょ》である。
「まあな。あれ、雛咲《ひなさき》さんに似てないか?」
「はあ?」
思わず裕生は声を上げた。
「全然違うよ。もっと痩《や》せてたし、メガネかけてたし」
「角度によって似てるように見えたりとか、そういう可能性は?」
「まさか。そんなのありっこないよ。それがどうかしたの?」
「やっぱりな」
と、佐貫《さぬき》は言った。
「あれが本物の『船瀬《ふなせ》智和《ともかず》』なんだ」
「……え?」
「五年ぐらい前の写真だけどな。それを顔んとこだけ取りこんだんだ」
裕生《ひろお》は頭が混乱してきた。
「どういうこと?」
「今朝《けさ》、話聞いた時に思ったんだ。この親子が加賀見《かがみ》に『戻ってきた』んだとしたら、昔はこっちに住んでたってことだろ。だったら、昔のことを調《しら》べてたらなにか分かるんじゃないかって。で、調べたんだけど、うちの親父《おやじ》と顔見知りだったよ。何回か顔合わせたことがあるって言ってた」
佐貫の家は鶴亀町《つるきちょう》の有数の地主だった。裕生もよくは知らないのだが、佐貫の父親や祖父は地元の名士で通っているらしく、このあたりでは顔も広い。
「加賀見で何代か続いてた病院の跡取りだったんだってよ。何年か前に病院はなくなって、その後は市民病院に勤めてたらしいけど」
「……それがこの画像の人?」
「そう。だから、藤牧《ふじまき》先輩《せんぱい》が昨日《きのう》会った『雛咲《ひなさき》さんのお父さんにそっくりな人』っていうのは、すくなくとも『船瀬智和』じゃないってことだよ。誰《だれ》なのかはともかくとして、偽名《ぎめい》使ってるのは間違いない」
裕生は携帯《けいたい》を握りしめたまま考えこんだ——少なくとも、雄一《ゆういち》がこの画像の男性と葉《よう》の父親を見間違えるはずがない。葉の父親である可能性がより高くなったということだった。
「あれ、そうするとこの写真の『船瀬智和』は今どこにいるんだろ?」
「さあな。そのへんは誰にも分からないかもな」
「どういうこと?」
「『船瀬智和』は四年前の春に行方不明《ゆくえふめい》になってる。家に残ってたのは千晶《ちあき》って娘一人で、奥さんはずっと昔に亡くなってた。その子を親戚《しんせき》が引き取るかどうかモメてるうちに、今度は娘もいなくなったんだ。父親がこっそり迎えに来たんだろうって言われてた」
(葉に似てる)
と、裕生は思う。四年前の春に両親が失踪《しっそう》し、一人取り残された女の子。年齢《ねんれい》まで同じだった。もっとも、葉とは違って迎えが来たわけだが。
「でも、もし父親が迎えに来たんだったら、どうしてその船瀬千晶は葉のお父さんと一緒《いっしょ》にいるんだろう?」
「俺《おれ》もそれは変だと思ってるんだ。第一、そうなると船瀬千晶はまるっきり他人のおっさんと一緒に住んでるってことになるだろ? なんか普通じゃねえよな」
電話を切った後で、裕生《ひろお》は踊《おど》り場《ば》の手すりにもたれたまま考えこんだ。
葉《よう》の父親にそっくりな男だけではなく、その娘のことも気になっていた。むしろ彼女の方になにか重大な秘密があるように思えてならなかった。
(とにかく、明日《あした》だよな)
そう思って部屋に帰ろうとした時、ふと道路に誰《だれ》かが立っていることに気づいた。
厚手の黄色《きいろ》いレインコートを着た男が、裕生の方を見上げている。顔はマスクとゴーグルで覆《おお》われ、髪の毛はコートのフードで完全に隠れていた。
「……レインメイカー」
と、裕生はつぶやいた。
カゲヌシの住居の入り口に「サイン」を書いて回っている奇妙な男だった。龍子主《たつこぬし》と戦った時、対カゲヌシ用の毒である「黒曜《こくよう》」をくれたのもこの男で——いや、本当に男性なのかどうかも、それ以前に人間なのかどうかもよく分からない。言葉を喋《しゃべ》ることすらほとんどできないようだった。
(近頃《ちかごろ》、よく来るな)
「黒曜」を裕生に託して以来、夜になると窓の外に立っているのを見かけることがある。特に裕生と会おうというわけではないらしく、しばらくするといつのまにかいなくなっている。最初は不気味だったが、最近では慣《な》れて気にならなくなっていた。
ただ奇妙なことに、藤牧家《ふじまきけ》でレインメイカーを見たことがあるのは裕生だけだった。彼一人の時でなければ、決して現れないのだった。葉ですら目にしたことはない。
時々、自分の生み出した幻覚ではないかという気がするほどだった。
(……まあ、いいか)
レインメイカーに手を振る——もちろん相手はただ突っ立っているだけだった。
裕生は向きを変えて、階段を上がっていった。