裕生たちは玄関ホールへ出た。
一刻でも早くこの家を出なければならない。裕生は裸足《はだし》のままで土間に降りると、ドアを開けようとする——カギがかかっていた。
慌ててサムターンを回そうとして、裕生はぎょっとした。針金が何重にも巻き付けられ、動かないようにしっかりと固定されていた。
(いつのまにこんな……)
リビングを出ていく千晶の後ろ姿が頭をよぎった。父親を呼びに行った時に、鍵《かぎ》を閉めてこんな細工《さいく》を施《ほどこ》したのだろう。
(最初から閉じこめるつもりだったんだ)
裕生は玄関ホールを見回した。ホールは一階の他《ほか》の部屋だけではなく、二階への階段とも直接|繋《つな》がっている。彼の右手には今出てきたリビングへ通じるドアがあり、左手にはまだ開けていない別のドアがあった。おそらくキッチンやバスルームに続いているのだろうが、玄関にこのような細工がしてある以上、外に出るための出口はすでに閉ざされているはずだ。
(二階だ)
裕生《ひろお》は正面の階段を見る。外に逃げ出すのは難《むずか》しくなるが、一階よりは身を潜《ひそ》める場所はあるはずだ。彼は無事な方の佐貫《さぬき》の腕を取って、足音を忍ばせながら階段を上がっていった。
彼らが二階に足を踏み入れたとたん、階下でリビングのドアが開く音が聞こえた。直接二階へやってこられたらどうしようもないと思ったが、幸い他《ほか》のドアを次々と開けているらしい。
ふらりと佐貫がよろけて壁《かべ》に手をついた。
「大丈夫?」
「平気だ」
佐貫は苦しげに言った。
「それより、さっき西尾《にしお》の携帯《けいたい》にはコールしたから」
裕生は少し安堵《あんど》した。時間を稼《かせ》いでいれば、助けがここへ来てくれるはずだ。裕生は階段から一番遠い部屋を目指した。追っ手がしらみつぶしに二人を捜《さが》しているとしたら、家の奥であるほど見つかるのは遅れるはずだった。
中腰になって二人は廊下を進んでいった。左側にはいくつかドアが並んでいるが、右側の手すりの向こうには床《ゆか》がなく、一階のリビングと空間が繋《つな》がっている。裕生が手すりからこっそり顔を出すと、吹き抜けを通じてリビングを見下ろすことができた。
裕生たちは一番奥のドアを開けて中へ入り、鍵《かぎ》を閉めた。そこはクローゼットとロフトのついたフローリングの部屋だった。まったく使われていないらしく、室内にはなにも置かれていない。
裕生はドアの反対側にある窓に飛びつく。玄関と同じように、錠《じょう》のレバーには針金を巻き付けてある。しかし、外《はず》せないことはなさそうだった。
ガラスに顔をくっつけて外を見ると、窓の真下の地面はコンクリートに覆《おお》われている。外へ逃げるとしたら飛び降りるしかなさそうだった。
佐貫の方を振り返ると、彼はロフトへ上がるはしごの一段目にぐったりと腰を下ろしていた。もし窓を開けることができたとしても、怪我《けが》を負っている佐貫に二階から飛び降りることは難しいだろう。
裕生はふとロフトにかかっているはしごを見上げた。どうやら取り外しができるようだった。
「佐貫、ロフトに上がれる?」
と、裕生は言った。自分たちが上がった後で、はしごをロフトに引き上げてしまえば、たとえ見つかったとしてもそう簡単《かんたん》に上がってこられないはずだ。
その時、階段の方から足音が聞こえた。千晶《ちあき》の「母親」が上がってきたらしい。
佐貫はうなずきながら立ち上がった。顔色は真《ま》っ青《さお》で、折れた腕は紫色《むらさきいろ》に腫《は》れ上がっていた。
「……なんであいつが俺《おれ》を殺さなかったのか、分かるか」
と、佐貫は言った。
「え?」
「さっきから考えてたけど、腕じゃなくて頭を殴りつけた方が簡単《かんたん》だったはずなんだ」
腕の痛みに耐えているのか、彼は歯を食いしばるようにしている。額《ひたい》には脂汗《あぶらあせ》が浮かんでいた。
「とにかく、ここを上がろうよ」
と、裕生《ひろお》は言った。ぐずぐずしている時間はない。
「いや、ここを上がるのは俺《おれ》だけだ。裕生はその窓からなんとか逃げてくれ」
「なに言ってんだよ」
怪我《けが》をした佐貫《さぬき》を置いていけるはずがなかった。万が一、捕まった場合、なにをされるか分からない。カゲヌシの餌《えさ》は人間なのだ。
「聞けよ。あいつの目的はお前なんだ。さっき言ってたじゃないか」
佐貫は無事な方の手で、裕生の肩をつかんだ。
「もし俺が殺されてたら、お前も一人で逃げ出したかもしれない。でも、俺に怪我を負わせるだけだったから、お前は俺を連れて逃げるしかなかった。そうだろ?」
どこかの部屋のドアが開く音が聞こえた。確実《かくじつ》に裕生たちのいる部屋に近づいてきていた。
「とにかく、お前はここにいちゃいけない。俺はどうせここに隠れるしかないけど、お前はそうじゃない。窓から外に出ろ」
佐貫はそう言って、右腕をだらりと垂らしたままロフトのはしごを上がっていった。
裕生はロフトと窓を交互に見比べる——一人で逃げ出すのは嫌《いや》だったが、佐貫の言う通りにした方がいい気がした。それに、もし千晶《ちあき》の目的が裕生だとしたら、二手に分かれた方が佐貫の危険も減るかもしれない。
「早く行け」
上から顔を覗《のぞ》かせた佐貫が裕生を急《せ》かした。
「……分かった。佐貫も気をつけて」
佐貫はロフトのはしごを片手で持ち上げようとする。裕生は下からそれを手伝った。
「そんなのいいって。早くしろよ」
と、佐貫は言った。しかし、裕生ははしごが上がるのを見届けてから、窓へと走り寄った。必死に針金をほどきながら耳を澄《す》ませると、千晶の「母親」はまだ別の部屋を捜《さが》しているらしかった。
もう少しで針金がほどける、と思った瞬間《しゅんかん》、
「藤牧《ふじまき》!」
窓の向こうからくぐもった声がかすかに聞こえた。裕生はぎょっとして立ちすくんだ。外を見ると、塀《へい》の向こうにある道路にみちるが立っていた。
彼女は不安そうに裕生のいる窓を見上げている。
「……しまった」
と、裕生《ひろお》はつぶやいた。今の声は千晶《ちあき》の「母親」にも聞こえたはずだ。外を見れば、みちるがどの窓を見ているのか分かってしまう。
どこかの部屋のドアが開く音が聞こえた。裕生たちのいる部屋に向かって、ばたばたと足音が近づいてくる。
(気づかれた)
「早くしろ! 裕生!」
佐貫《さぬき》が叫ぶ。裕生は慌てて針金をほどきにかかった。その途端《とたん》、裕生たちのいるドアのノブががちゃがちゃと動く。一瞬《いっしゅん》の沈黙《ちんもく》の後、今度はドアがずしんと音を立てて震《ふる》えた。
(体当たりしてるんだ)
外からの衝撃《しょうげき》を受けてドアが軋《きし》んだ音を立てる。もう時間はない。裕生は手元の作葉に集中する。針金が外《はず》れるのと同時に、ドアが跳《は》ねるように大きく開いた。
思わず振り向くと、千晶の「母親」がドアの向こうに立っていた。左右の目が違う方向を見ているが、顔だけは裕生の方に向いている。
裕生は慌てて窓を開けようと手をかけた——が、針金を取っただけで錠《じょう》のレバーを下ろすのを忘れていた。
慌てて錠を下ろした時には、すでに千晶の「母親」は裕生に向かってきていた。
「うわあっ」
裕生の口が勝手に開いて、かすれた悲鳴を上げた。裕生に向かって長い両手が迫ってくる。その瞬間、彼女の頭上に金属のはしごが落ちてきた。ロフトから佐貫が落としたのだった。縦棒《たてぼう》の部分が鈍《にぶ》い音を立てて頭にぶつかり、女はその場に膝《ひざ》をついた。
すでに窓は開いており、飛び降りる余裕も十分にある。しかし、裕生は凍りついたように立ちすくんだままだった。
「なにしてんだ! バカ!」
佐貫がロフトから叫んだ。しかし、その声は裕生の耳にほとんど入っていなかった。
動けないのは恐怖のためではない。彼は床《ゆか》に落ちたはしごを見ていた。
(佐貫がはしごを落とした)
裕生を助けるために佐貫ははしごを手放してしまった。はしごを使われたら、簡単《かんたん》にロフトへ上がられてしまう。
(ぼくが逃げたら、佐貫が危ない)
千晶の「母親」は頭を振りながら立ち上がる。そして、不審《ふしん》げにはしごの落ちてきたロフトを振り返った。
(戦うしかない)
裕生はごくりと唾《つば》を呑《の》みこんだ。彼のポケットには「黒曜《こくよう》」が入っている。さっきいくらか使ってしまったが、まだ半分は残っているはずだ。しかし、このカゲヌシ用の「毒」は、直接相手に使用しなければ効果がなかった。さっきのように「リグル」が顔を出してくれれば——。
(あなたは抵抗しないでもらえる?)
千晶《ちあき》の言葉がふと蘇《よみがえ》った。
(……ひょっとして)
裕生《ひろお》はポケットから黒曜《こくよう》を取り出した。
一刻でも早くこの家を出なければならない。裕生は裸足《はだし》のままで土間に降りると、ドアを開けようとする——カギがかかっていた。
慌ててサムターンを回そうとして、裕生はぎょっとした。針金が何重にも巻き付けられ、動かないようにしっかりと固定されていた。
(いつのまにこんな……)
リビングを出ていく千晶の後ろ姿が頭をよぎった。父親を呼びに行った時に、鍵《かぎ》を閉めてこんな細工《さいく》を施《ほどこ》したのだろう。
(最初から閉じこめるつもりだったんだ)
裕生は玄関ホールを見回した。ホールは一階の他《ほか》の部屋だけではなく、二階への階段とも直接|繋《つな》がっている。彼の右手には今出てきたリビングへ通じるドアがあり、左手にはまだ開けていない別のドアがあった。おそらくキッチンやバスルームに続いているのだろうが、玄関にこのような細工がしてある以上、外に出るための出口はすでに閉ざされているはずだ。
(二階だ)
裕生《ひろお》は正面の階段を見る。外に逃げ出すのは難《むずか》しくなるが、一階よりは身を潜《ひそ》める場所はあるはずだ。彼は無事な方の佐貫《さぬき》の腕を取って、足音を忍ばせながら階段を上がっていった。
彼らが二階に足を踏み入れたとたん、階下でリビングのドアが開く音が聞こえた。直接二階へやってこられたらどうしようもないと思ったが、幸い他《ほか》のドアを次々と開けているらしい。
ふらりと佐貫がよろけて壁《かべ》に手をついた。
「大丈夫?」
「平気だ」
佐貫は苦しげに言った。
「それより、さっき西尾《にしお》の携帯《けいたい》にはコールしたから」
裕生は少し安堵《あんど》した。時間を稼《かせ》いでいれば、助けがここへ来てくれるはずだ。裕生は階段から一番遠い部屋を目指した。追っ手がしらみつぶしに二人を捜《さが》しているとしたら、家の奥であるほど見つかるのは遅れるはずだった。
中腰になって二人は廊下を進んでいった。左側にはいくつかドアが並んでいるが、右側の手すりの向こうには床《ゆか》がなく、一階のリビングと空間が繋《つな》がっている。裕生が手すりからこっそり顔を出すと、吹き抜けを通じてリビングを見下ろすことができた。
裕生たちは一番奥のドアを開けて中へ入り、鍵《かぎ》を閉めた。そこはクローゼットとロフトのついたフローリングの部屋だった。まったく使われていないらしく、室内にはなにも置かれていない。
裕生はドアの反対側にある窓に飛びつく。玄関と同じように、錠《じょう》のレバーには針金を巻き付けてある。しかし、外《はず》せないことはなさそうだった。
ガラスに顔をくっつけて外を見ると、窓の真下の地面はコンクリートに覆《おお》われている。外へ逃げるとしたら飛び降りるしかなさそうだった。
佐貫の方を振り返ると、彼はロフトへ上がるはしごの一段目にぐったりと腰を下ろしていた。もし窓を開けることができたとしても、怪我《けが》を負っている佐貫に二階から飛び降りることは難しいだろう。
裕生はふとロフトにかかっているはしごを見上げた。どうやら取り外しができるようだった。
「佐貫、ロフトに上がれる?」
と、裕生は言った。自分たちが上がった後で、はしごをロフトに引き上げてしまえば、たとえ見つかったとしてもそう簡単《かんたん》に上がってこられないはずだ。
その時、階段の方から足音が聞こえた。千晶《ちあき》の「母親」が上がってきたらしい。
佐貫はうなずきながら立ち上がった。顔色は真《ま》っ青《さお》で、折れた腕は紫色《むらさきいろ》に腫《は》れ上がっていた。
「……なんであいつが俺《おれ》を殺さなかったのか、分かるか」
と、佐貫は言った。
「え?」
「さっきから考えてたけど、腕じゃなくて頭を殴りつけた方が簡単《かんたん》だったはずなんだ」
腕の痛みに耐えているのか、彼は歯を食いしばるようにしている。額《ひたい》には脂汗《あぶらあせ》が浮かんでいた。
「とにかく、ここを上がろうよ」
と、裕生《ひろお》は言った。ぐずぐずしている時間はない。
「いや、ここを上がるのは俺《おれ》だけだ。裕生はその窓からなんとか逃げてくれ」
「なに言ってんだよ」
怪我《けが》をした佐貫《さぬき》を置いていけるはずがなかった。万が一、捕まった場合、なにをされるか分からない。カゲヌシの餌《えさ》は人間なのだ。
「聞けよ。あいつの目的はお前なんだ。さっき言ってたじゃないか」
佐貫は無事な方の手で、裕生の肩をつかんだ。
「もし俺が殺されてたら、お前も一人で逃げ出したかもしれない。でも、俺に怪我を負わせるだけだったから、お前は俺を連れて逃げるしかなかった。そうだろ?」
どこかの部屋のドアが開く音が聞こえた。確実《かくじつ》に裕生たちのいる部屋に近づいてきていた。
「とにかく、お前はここにいちゃいけない。俺はどうせここに隠れるしかないけど、お前はそうじゃない。窓から外に出ろ」
佐貫はそう言って、右腕をだらりと垂らしたままロフトのはしごを上がっていった。
裕生はロフトと窓を交互に見比べる——一人で逃げ出すのは嫌《いや》だったが、佐貫の言う通りにした方がいい気がした。それに、もし千晶《ちあき》の目的が裕生だとしたら、二手に分かれた方が佐貫の危険も減るかもしれない。
「早く行け」
上から顔を覗《のぞ》かせた佐貫が裕生を急《せ》かした。
「……分かった。佐貫も気をつけて」
佐貫はロフトのはしごを片手で持ち上げようとする。裕生は下からそれを手伝った。
「そんなのいいって。早くしろよ」
と、佐貫は言った。しかし、裕生ははしごが上がるのを見届けてから、窓へと走り寄った。必死に針金をほどきながら耳を澄《す》ませると、千晶の「母親」はまだ別の部屋を捜《さが》しているらしかった。
もう少しで針金がほどける、と思った瞬間《しゅんかん》、
「藤牧《ふじまき》!」
窓の向こうからくぐもった声がかすかに聞こえた。裕生はぎょっとして立ちすくんだ。外を見ると、塀《へい》の向こうにある道路にみちるが立っていた。
彼女は不安そうに裕生のいる窓を見上げている。
「……しまった」
と、裕生《ひろお》はつぶやいた。今の声は千晶《ちあき》の「母親」にも聞こえたはずだ。外を見れば、みちるがどの窓を見ているのか分かってしまう。
どこかの部屋のドアが開く音が聞こえた。裕生たちのいる部屋に向かって、ばたばたと足音が近づいてくる。
(気づかれた)
「早くしろ! 裕生!」
佐貫《さぬき》が叫ぶ。裕生は慌てて針金をほどきにかかった。その途端《とたん》、裕生たちのいるドアのノブががちゃがちゃと動く。一瞬《いっしゅん》の沈黙《ちんもく》の後、今度はドアがずしんと音を立てて震《ふる》えた。
(体当たりしてるんだ)
外からの衝撃《しょうげき》を受けてドアが軋《きし》んだ音を立てる。もう時間はない。裕生は手元の作葉に集中する。針金が外《はず》れるのと同時に、ドアが跳《は》ねるように大きく開いた。
思わず振り向くと、千晶の「母親」がドアの向こうに立っていた。左右の目が違う方向を見ているが、顔だけは裕生の方に向いている。
裕生は慌てて窓を開けようと手をかけた——が、針金を取っただけで錠《じょう》のレバーを下ろすのを忘れていた。
慌てて錠を下ろした時には、すでに千晶の「母親」は裕生に向かってきていた。
「うわあっ」
裕生の口が勝手に開いて、かすれた悲鳴を上げた。裕生に向かって長い両手が迫ってくる。その瞬間、彼女の頭上に金属のはしごが落ちてきた。ロフトから佐貫が落としたのだった。縦棒《たてぼう》の部分が鈍《にぶ》い音を立てて頭にぶつかり、女はその場に膝《ひざ》をついた。
すでに窓は開いており、飛び降りる余裕も十分にある。しかし、裕生は凍りついたように立ちすくんだままだった。
「なにしてんだ! バカ!」
佐貫がロフトから叫んだ。しかし、その声は裕生の耳にほとんど入っていなかった。
動けないのは恐怖のためではない。彼は床《ゆか》に落ちたはしごを見ていた。
(佐貫がはしごを落とした)
裕生を助けるために佐貫ははしごを手放してしまった。はしごを使われたら、簡単《かんたん》にロフトへ上がられてしまう。
(ぼくが逃げたら、佐貫が危ない)
千晶の「母親」は頭を振りながら立ち上がる。そして、不審《ふしん》げにはしごの落ちてきたロフトを振り返った。
(戦うしかない)
裕生はごくりと唾《つば》を呑《の》みこんだ。彼のポケットには「黒曜《こくよう》」が入っている。さっきいくらか使ってしまったが、まだ半分は残っているはずだ。しかし、このカゲヌシ用の「毒」は、直接相手に使用しなければ効果がなかった。さっきのように「リグル」が顔を出してくれれば——。
(あなたは抵抗しないでもらえる?)
千晶《ちあき》の言葉がふと蘇《よみがえ》った。
(……ひょっとして)
裕生《ひろお》はポケットから黒曜《こくよう》を取り出した。
佐貫《さぬき》は裕生がなにをしているのかよく見ていなかった。
自分を見上げている千晶の「母親」から目を離《はな》すことができなくなっていた。彼女は明らかに怒りの表情を浮かべている。あの「父親」とは違って、彼女を操《あやつ》っているあの虫はさほど知能が高いわけではないようだ。関心の向いた方が彼女の「今の獲物《えもの》」ということらしかった。
今、彼女の関心は裕生ではなく佐貫の方にあった。
(……ヤバい)
殺される、と佐貫は思った。
その時、裕生がなにかを「母親」めがけて投げつけた。それは彼女の肩にこつんと跳《は》ね返って床《ゆか》の上に落ちた。
空《から》になった「黒曜」の瓶だった。彼女はぐるりと首を回して、窓際《まどぎわ》にいる裕生を見る。再び彼女の関心は裕生に戻ったらしい——裕生の方へじりじりと迫っていった。
(あのバカ。なんで逃げねえんだよ)
ためらっている余裕はなかった。佐貫はロフトから身を乗り出すと、覚悟を決めて飛び降りた。床まではせいぜい二メートルほどで、柔らかく膝《ひざ》を使って衝撃《しょうげき》を殺したつもりだったが、着地した瞬間《しゅんかん》に電撃《でんげき》のような激痛《げきつう》が脳天を貫いた。一瞬、視界が暗転する。
はっと我に返った時には女はすでに裕生を捕らえており、両耳をふさぐように頭を抱えこんでいた。彼女の口が大きく開き、赤い幼虫が巨大な舌のように裕生の眼前に迫っていた。裕生は硬直したように立ちすくんでいる。
佐貫はあっと声を上げそうになった。
(裕生の体を乗っ取るつもりなんだ)
だから傷をつけたくなかったのだろう。
佐貫は腕が折れていることも忘れて、夢中で立ち上がる。女に体当たりするつもりだった。「リグル」の牙《きば》の下から二本の触覚が伸びて、裕生の唇の中に差しこまれる。耐えきれなくなったように彼の口が開いた。
間に合わない、と思った瞬間、裕生の口から黒い液体が吐き出された。
(……え?)
もはや接するばかりになっていた赤のリグルは、その液体をまともにかぶった。途端《とたん》に幼虫の表皮から煙が立ちのぼる。彼女は裕生から手を放して激《はげ》しく身もだえした。
(『黒曜《こくよう》』だ)
あらかじめ口に含んでおいたに違いない。口から赤のリグルをぶら下げたまま、女はよろよろと後ずさりをする。体のあちこちを壁《かべ》にぶつけながら、廊下にまで出ていってしまった。
裕生《ひろお》は苦《にが》い顔をしながらさかんに口元をぬぐっている。
「大丈夫かよ、あんなの口に入れて」
「知らないけど、他《ほか》に方法がなくて」
突然、女の体がくるりと一回転するように、手すりの向こうへ消えた。吹き抜けから一階のリビングへ落ちたのだった。
「あっ」
裕生と佐貫《さぬき》は同時に声を上げた。部屋を出て、おそるおそる手すりの下を覗《のぞ》きこむ——ちょうど落ちた先にリビングテーブルがあったらしく、女はテーブルの残骸《ざんがい》の中に横たわっていた。周囲には割れたガラスの天板《てんぱん》が四散している。
「父親」は相変わらずぐったりとソファに身を沈めたままだった。彼もまた意識《いしき》を失っているらしい。
動いているのは黒い服を着た銀髪の少女だけだった。彼女は母親の傍《かたわ》らにうずくまって、赤い幼虫を口から引きずり出しているところだった。もう片方の手には、別の青い幼虫が握りしめられている。
両手の中で、二匹の幼虫——リグルは激《はげ》しく動いていた。
「もうこの二人は用なしね」
千晶《ちあき》はそうつぶやくと、杖《つえ》なしで不器用に立ち上がった。
そして、二階にいる裕生たちを見上げる。
「レインメイカーに会ったことがあるわよね?」
突然、その名前が出てきたことに裕生は驚《おどろ》いた。レインメイカーを知っているカゲヌシに会うのはこれが初めてだった。
「わたしたちはレインメイカーを手に入れたいの」
「それがぼくになんの関係があるんだよ?」
千晶は答えなかった——ふと、その顔に冷ややかな笑みが浮かんだ。
「今日《きょう》はここまでにしましょう」
なに言ってんだ、と佐貫が言い返そうとした時、彼女はまるで絶叫するように大きく口を開いた。そして、両手にぶら下げたリグルを次々と飲みこんでいった。白い喉《のど》が波打つように大きく二度ふくらんだ。
「また、会いましょう」
彼女は杖を拾い上げて、その場から立ち去った。
自分を見上げている千晶の「母親」から目を離《はな》すことができなくなっていた。彼女は明らかに怒りの表情を浮かべている。あの「父親」とは違って、彼女を操《あやつ》っているあの虫はさほど知能が高いわけではないようだ。関心の向いた方が彼女の「今の獲物《えもの》」ということらしかった。
今、彼女の関心は裕生ではなく佐貫の方にあった。
(……ヤバい)
殺される、と佐貫は思った。
その時、裕生がなにかを「母親」めがけて投げつけた。それは彼女の肩にこつんと跳《は》ね返って床《ゆか》の上に落ちた。
空《から》になった「黒曜」の瓶だった。彼女はぐるりと首を回して、窓際《まどぎわ》にいる裕生を見る。再び彼女の関心は裕生に戻ったらしい——裕生の方へじりじりと迫っていった。
(あのバカ。なんで逃げねえんだよ)
ためらっている余裕はなかった。佐貫はロフトから身を乗り出すと、覚悟を決めて飛び降りた。床まではせいぜい二メートルほどで、柔らかく膝《ひざ》を使って衝撃《しょうげき》を殺したつもりだったが、着地した瞬間《しゅんかん》に電撃《でんげき》のような激痛《げきつう》が脳天を貫いた。一瞬、視界が暗転する。
はっと我に返った時には女はすでに裕生を捕らえており、両耳をふさぐように頭を抱えこんでいた。彼女の口が大きく開き、赤い幼虫が巨大な舌のように裕生の眼前に迫っていた。裕生は硬直したように立ちすくんでいる。
佐貫はあっと声を上げそうになった。
(裕生の体を乗っ取るつもりなんだ)
だから傷をつけたくなかったのだろう。
佐貫は腕が折れていることも忘れて、夢中で立ち上がる。女に体当たりするつもりだった。「リグル」の牙《きば》の下から二本の触覚が伸びて、裕生の唇の中に差しこまれる。耐えきれなくなったように彼の口が開いた。
間に合わない、と思った瞬間、裕生の口から黒い液体が吐き出された。
(……え?)
もはや接するばかりになっていた赤のリグルは、その液体をまともにかぶった。途端《とたん》に幼虫の表皮から煙が立ちのぼる。彼女は裕生から手を放して激《はげ》しく身もだえした。
(『黒曜《こくよう》』だ)
あらかじめ口に含んでおいたに違いない。口から赤のリグルをぶら下げたまま、女はよろよろと後ずさりをする。体のあちこちを壁《かべ》にぶつけながら、廊下にまで出ていってしまった。
裕生《ひろお》は苦《にが》い顔をしながらさかんに口元をぬぐっている。
「大丈夫かよ、あんなの口に入れて」
「知らないけど、他《ほか》に方法がなくて」
突然、女の体がくるりと一回転するように、手すりの向こうへ消えた。吹き抜けから一階のリビングへ落ちたのだった。
「あっ」
裕生と佐貫《さぬき》は同時に声を上げた。部屋を出て、おそるおそる手すりの下を覗《のぞ》きこむ——ちょうど落ちた先にリビングテーブルがあったらしく、女はテーブルの残骸《ざんがい》の中に横たわっていた。周囲には割れたガラスの天板《てんぱん》が四散している。
「父親」は相変わらずぐったりとソファに身を沈めたままだった。彼もまた意識《いしき》を失っているらしい。
動いているのは黒い服を着た銀髪の少女だけだった。彼女は母親の傍《かたわ》らにうずくまって、赤い幼虫を口から引きずり出しているところだった。もう片方の手には、別の青い幼虫が握りしめられている。
両手の中で、二匹の幼虫——リグルは激《はげ》しく動いていた。
「もうこの二人は用なしね」
千晶《ちあき》はそうつぶやくと、杖《つえ》なしで不器用に立ち上がった。
そして、二階にいる裕生たちを見上げる。
「レインメイカーに会ったことがあるわよね?」
突然、その名前が出てきたことに裕生は驚《おどろ》いた。レインメイカーを知っているカゲヌシに会うのはこれが初めてだった。
「わたしたちはレインメイカーを手に入れたいの」
「それがぼくになんの関係があるんだよ?」
千晶は答えなかった——ふと、その顔に冷ややかな笑みが浮かんだ。
「今日《きょう》はここまでにしましょう」
なに言ってんだ、と佐貫が言い返そうとした時、彼女はまるで絶叫するように大きく口を開いた。そして、両手にぶら下げたリグルを次々と飲みこんでいった。白い喉《のど》が波打つように大きく二度ふくらんだ。
「また、会いましょう」
彼女は杖を拾い上げて、その場から立ち去った。