1
『ごめん。ちょっと両親が具合悪くなっちゃって』
携帯《けいたい》からみちるの声が聞こえる。
「あ、うん。分かった。じゃあ、ぼくが一人で聞いてくるから」
と、裕生《ひろお》は言った。
一夜明けて日曜日《にちょうび》の朝。
裕生たちは病院に行って清史《きよし》と話す予定になっていた。団地の自分の部屋で支度《したく》していると、みちるから電話がかかってきた——今日《きょう》は一緒《いっしょ》に行けないという。
「もし佐貫《さぬき》がベッドから動けそうだったら、一緒に行ってもらうつもりだし。どうなるか分からないけど、色々聞いてくるよ」
『なにを聞くつもり? あの人から』
なぜか咎《とが》めるようにみちるは言う。裕生は戸惑《とまど》った。
「なにって昨日《きのう》話したじゃないか。カゲヌシのこととか、あの船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》のこととか。あと『皇輝山《おうきざん》文書《ぶんしょ》』も持ってくから、そのことも聞いてくる」
「そう……がんばっ……てね」
一瞬《いっしゅん》、みちるの声が苦しげにかすれた気がした。
「どうかした?」
『なんでもない。あとで話が聞きたいんだけど、いい?』
「もちろん。病院出たらすぐに電話するから」
妙《みょう》な沈黙《ちんもく》が空いた。
『ねえ……直接会って話さない?』
と、みちるが言った。鼻にかかったような甘えた口調《くちょう》だった。
「え? でも、家から出られないんだよね?」
『うちの近くの公園まで来て。いいでしょ?』
「別にいいけど……なんでわざわざ?」
『藤牧《ふじまき》に会いたいの。二人っきりで』
裕生は首をかしげる。なんとなく妙な話だったが、電話では話せない相談《そうだん》ごとでもあるのかもしれない。それに直接会って話せるなら、そうした方がいい気もする。
「分かった。病院出たら電話するから」
『うん。待ってる』
「じゃあ、また後」
そこまで言いかけた時、みちるは唐突《とうとつ》に電話を切った。裕生《ひろお》は首をかしげながら、耳から離《はな》した携帯《けいたい》を見つめる。
(ま、いいか)
急がなければならない。裕生はバッグを持って自分の部屋を出た。
藤牧家《ふじまきけ》にいるのは裕生と葉《よう》だけだった。雄一《ゆういち》は朝食を食べてすぐに出かけているし、父の吾郎《ごろう》は一階の雛咲家《ひなさきけ》でツネコと話している。ツネコはしばらく一階の雛咲家に滞在して、病院で清史《きよし》の付き添いをするつもりらしい。
今日《きょう》も午後から病院に行く予定だと聞いている。人目を気にせずに清史から話を聞けるのは、午前中しかなかった。
キッチンを覗《のぞ》きこむと、テーブルの前に座った葉が真剣な顔で手帳をめくっている。彼女が記憶《きおく》のかわりにつけているメモだった。
「ぼく、そろそろ病院に出かけるから」
顔を上げた彼女は、怪訝《けげん》そうな表情を浮かべた。
「わたしたちと一緒《いっしょ》に行かないんですか?」
裕生の胸がかすかにずきりとうずいた。
「ぼくは先に行って、カゲヌシのことを聞くんだよ」
昨日《きのう》の晩、彼女にもさんざん説明したことだった。葉はぱらぱらとページをめくって、悲しげに裕生を見上げた。
「……そうでした。あの……行ってらっしゃい」
消え入りそうな声で葉は言った。手帳を握りしめた手がかすかに震《ふる》えている。裕生はキッチンに入ると、彼女の隣《となり》の椅子《いす》に腰を下ろした。「行ってらっしゃい」と言われても、こんな状態の彼女を置いては行けない。
「別に気にしなくていいよ」
葉はうつむいて、ちがう、というように首を振った。
「先輩《せんぱい》の言ったことを忘れるのが嫌《いや》なんです。他《ほか》のことは忘れるのはもう覚悟ができてるけど、それだけは絶対に嫌」
一瞬《いっしゅん》、裕生は言葉を失った。葉の両手の震えが大きくなる。裕生はその握った手に自分の掌《てのひら》をかぶせた。
「でも、ぼくのことは別に大したことじゃないと思うよ。他にもっと忘れちゃいけないことがあると思うし……」
我ながらなんのフォローにもなっていない。彼女を安心させたかったが、かけるべき言葉を思いつかなかった。もともと、そんな便利な言葉などありはしなかった。
「そんなことないです」
と、葉《よう》は言った。
「先輩《せんぱい》がわたしの名前を呼んでくれたから、わたしは一人じゃなくなった。でも、わたしが裕生《ひろお》ちゃんを忘れたら、きっとまた一人になっちゃう。あの部屋で父さんたちを待ってた時みたいに」
記憶《きおく》のことが分かってから、彼女がこんな風《ふう》に自分の不安を語るのは初めてだった。葉の手の震《ふる》えが大きくなり、全身に広がっていった。まるで寒さに耐えているようだった。
気がつくと裕生は両手を伸ばして、葉の体を抱き寄せていた。葉もごく自然に背中に腕を回してくる。今まで肩に手を回したのがせいぜいで、こんな風にしっかりと抱き合ったことは一度もない。葉の心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》まで感じ取ることができた。
二人はしばらくの間、そのままでじっとしていた。
我に返ったのは葉の方が先だったらしい。裕生のすぐそばにある彼女の顔が、湯気の出そうなほど真《ま》っ赤《か》になっていた。
自分たちがなにをしているのか、裕生もようやく気づいた。
次の瞬間《しゅんかん》、頭に浮かんだのは以前ツネコから託された手紙だった。もし、葉に手を出した場合——。
<img src="img/wriggle-wriggle_127.jpg">
(ちょんぎる)
裕生《ひろお》は引きはがすように葉《よう》した。
二人とも椅子《いす》から立ち上がってさらに距離《きょり》を置いた。お互いの顔を見ることができない。
沈黙《ちんもく》が流れた。こん、と裕生はわざとらしく咳払《せきばら》いをした。
「じゃ、じゃあ、ぼく行くから」
「は、はい……行ってらっしゃい」
裕生はほとんど駆け出すように部屋から飛び出していった。
携帯《けいたい》からみちるの声が聞こえる。
「あ、うん。分かった。じゃあ、ぼくが一人で聞いてくるから」
と、裕生《ひろお》は言った。
一夜明けて日曜日《にちょうび》の朝。
裕生たちは病院に行って清史《きよし》と話す予定になっていた。団地の自分の部屋で支度《したく》していると、みちるから電話がかかってきた——今日《きょう》は一緒《いっしょ》に行けないという。
「もし佐貫《さぬき》がベッドから動けそうだったら、一緒に行ってもらうつもりだし。どうなるか分からないけど、色々聞いてくるよ」
『なにを聞くつもり? あの人から』
なぜか咎《とが》めるようにみちるは言う。裕生は戸惑《とまど》った。
「なにって昨日《きのう》話したじゃないか。カゲヌシのこととか、あの船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》のこととか。あと『皇輝山《おうきざん》文書《ぶんしょ》』も持ってくから、そのことも聞いてくる」
「そう……がんばっ……てね」
一瞬《いっしゅん》、みちるの声が苦しげにかすれた気がした。
「どうかした?」
『なんでもない。あとで話が聞きたいんだけど、いい?』
「もちろん。病院出たらすぐに電話するから」
妙《みょう》な沈黙《ちんもく》が空いた。
『ねえ……直接会って話さない?』
と、みちるが言った。鼻にかかったような甘えた口調《くちょう》だった。
「え? でも、家から出られないんだよね?」
『うちの近くの公園まで来て。いいでしょ?』
「別にいいけど……なんでわざわざ?」
『藤牧《ふじまき》に会いたいの。二人っきりで』
裕生は首をかしげる。なんとなく妙な話だったが、電話では話せない相談《そうだん》ごとでもあるのかもしれない。それに直接会って話せるなら、そうした方がいい気もする。
「分かった。病院出たら電話するから」
『うん。待ってる』
「じゃあ、また後」
そこまで言いかけた時、みちるは唐突《とうとつ》に電話を切った。裕生《ひろお》は首をかしげながら、耳から離《はな》した携帯《けいたい》を見つめる。
(ま、いいか)
急がなければならない。裕生はバッグを持って自分の部屋を出た。
藤牧家《ふじまきけ》にいるのは裕生と葉《よう》だけだった。雄一《ゆういち》は朝食を食べてすぐに出かけているし、父の吾郎《ごろう》は一階の雛咲家《ひなさきけ》でツネコと話している。ツネコはしばらく一階の雛咲家に滞在して、病院で清史《きよし》の付き添いをするつもりらしい。
今日《きょう》も午後から病院に行く予定だと聞いている。人目を気にせずに清史から話を聞けるのは、午前中しかなかった。
キッチンを覗《のぞ》きこむと、テーブルの前に座った葉が真剣な顔で手帳をめくっている。彼女が記憶《きおく》のかわりにつけているメモだった。
「ぼく、そろそろ病院に出かけるから」
顔を上げた彼女は、怪訝《けげん》そうな表情を浮かべた。
「わたしたちと一緒《いっしょ》に行かないんですか?」
裕生の胸がかすかにずきりとうずいた。
「ぼくは先に行って、カゲヌシのことを聞くんだよ」
昨日《きのう》の晩、彼女にもさんざん説明したことだった。葉はぱらぱらとページをめくって、悲しげに裕生を見上げた。
「……そうでした。あの……行ってらっしゃい」
消え入りそうな声で葉は言った。手帳を握りしめた手がかすかに震《ふる》えている。裕生はキッチンに入ると、彼女の隣《となり》の椅子《いす》に腰を下ろした。「行ってらっしゃい」と言われても、こんな状態の彼女を置いては行けない。
「別に気にしなくていいよ」
葉はうつむいて、ちがう、というように首を振った。
「先輩《せんぱい》の言ったことを忘れるのが嫌《いや》なんです。他《ほか》のことは忘れるのはもう覚悟ができてるけど、それだけは絶対に嫌」
一瞬《いっしゅん》、裕生は言葉を失った。葉の両手の震えが大きくなる。裕生はその握った手に自分の掌《てのひら》をかぶせた。
「でも、ぼくのことは別に大したことじゃないと思うよ。他にもっと忘れちゃいけないことがあると思うし……」
我ながらなんのフォローにもなっていない。彼女を安心させたかったが、かけるべき言葉を思いつかなかった。もともと、そんな便利な言葉などありはしなかった。
「そんなことないです」
と、葉《よう》は言った。
「先輩《せんぱい》がわたしの名前を呼んでくれたから、わたしは一人じゃなくなった。でも、わたしが裕生《ひろお》ちゃんを忘れたら、きっとまた一人になっちゃう。あの部屋で父さんたちを待ってた時みたいに」
記憶《きおく》のことが分かってから、彼女がこんな風《ふう》に自分の不安を語るのは初めてだった。葉の手の震《ふる》えが大きくなり、全身に広がっていった。まるで寒さに耐えているようだった。
気がつくと裕生は両手を伸ばして、葉の体を抱き寄せていた。葉もごく自然に背中に腕を回してくる。今まで肩に手を回したのがせいぜいで、こんな風にしっかりと抱き合ったことは一度もない。葉の心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》まで感じ取ることができた。
二人はしばらくの間、そのままでじっとしていた。
我に返ったのは葉の方が先だったらしい。裕生のすぐそばにある彼女の顔が、湯気の出そうなほど真《ま》っ赤《か》になっていた。
自分たちがなにをしているのか、裕生もようやく気づいた。
次の瞬間《しゅんかん》、頭に浮かんだのは以前ツネコから託された手紙だった。もし、葉に手を出した場合——。
<img src="img/wriggle-wriggle_127.jpg">
(ちょんぎる)
裕生《ひろお》は引きはがすように葉《よう》した。
二人とも椅子《いす》から立ち上がってさらに距離《きょり》を置いた。お互いの顔を見ることができない。
沈黙《ちんもく》が流れた。こん、と裕生はわざとらしく咳払《せきばら》いをした。
「じゃ、じゃあ、ぼく行くから」
「は、はい……行ってらっしゃい」
裕生はほとんど駆け出すように部屋から飛び出していった。
白いTシャツとスパッツを着たみちるは、携帯《けいたい》を握りしめたままベッドの上で胎児のように体を丸めている。かすかに右手だけが痙攣《けいれん》しているのを除けば、彼女は硬直したように動かない。壁《かべ》の方に目を向けているが、その目にはなんの感情も浮かんでいない。まるで捨てられた人形のようだった。
「なかなか可愛《かわい》らしかったわ。『藤牧《ふじまき》に会いたいの』って」
ベッドの端に千晶《ちあき》が腰かけて、みちるの頬《ほお》にかすかに触れる。みちるがかけた電話の一部始終を彼女はすぐそばで聞いていた。みちるからはむろんなんの反応も返ってこない。彼女は外部の情報を普段《ふだん》と同じように見聞きすることはできるが、肉体の制御《せいぎょ》はすべてリグルに奪われている。電話で言ったみちるの言葉も、すべて青のリグルの言葉だった。
(藤牧……)
みちるは心の中でつぶやいた。その瞬間《しゅんかん》にまた激痛《げきつう》が波のように広がり、みちるの意識《いしき》が遠のいた。昨晩、青のリグルが体内に潜《もぐ》りこんでから、彼女は苦痛による気絶と覚醒《かくせい》をひたすら繰り返していた。彼女の体内に巣くっているリグルからは、まるで血液のように全身に向かって痛みが運ばれていた。
しかし彼女が意識を失ったところで、リグルにはなんの影響《えいきょう》もない。彼女の意識と肉体は完全に分離させられている。誰《だれ》にも気づかれないまま、拷問《ごうもん》を受け続けているようなものだった。
(藤牧が捕まる)
裕生に電話をかけた時、みちるの意識はかろうじて覚醒していた。何度も裕生に危険を知らせようとしたが、声を上げようとするたびにさらなる苦痛が炸裂《さくれつ》する。どうやら、リグルの意思に反して体を動かそうと考えると、支配された人間はより苦しむようになっているらしい。
「あとは待つばかりね。あなたも楽しみでしょう?」
千晶の声が上から降ってくる。みちるは内心|屈辱《くつじょく》に震《ふる》えていた。さっきの電話では、「みちる」は媚《こ》びた声を出して裕生に甘えていた——あたしは絶対あんなことしない。あたしはあんな人間じゃない。
「藤牧裕生が手に入ったら、あなたを解放してあげる。もしよかったら、お礼に彼をしばらく貸してあげてもいい。あなたのして欲しいことをなんでも彼にさせることができるわよ」
痛みよりも怒りで彼女の目がくらんだ。今すぐ起き上がってこの女の首を絞めてやりたかった。体を動かしたいと思った|瞬間《しゅんかん》、激痛《げきつう》が全身を貫く——同時にびくりと右腕が動いた。
(なんだろう)
意識《いしき》を失いそうになりながら、彼女はそう思った。痛みのせいで今まで意識していなかったが、自由にならない体の中で右手だけが微妙に感覚が違う。
(もしかすると……)
今、みちるの右手は開いている。そこに彼女は意識を集中させた。指をまるごと折られるような鋭《するど》い痛みが走った。意識が落ちないように必死に耐える。
彼女の右手は震《ふる》えながら閉じていった。
(やっぱりそうなんだ)
右手だけは青のリグルの支配が弱い。そういえば、裕生《ひろお》と佐貫《さぬき》が葉《よう》の父親に初めて会った時、彼は右手に包帯を巻いていたと話していた。右手は動かないように固定されていたのではないだろうか。
相変わらず千晶《ちあき》は物言わぬみちるの頬《ほお》を撫《な》で続けている。
右手だけがわずかに動いたところで、なにが出来るのか分からない。しかし——。
(あんたの好きにはさせない)
みちるの胸にはその思いがたぎっていた。
「なかなか可愛《かわい》らしかったわ。『藤牧《ふじまき》に会いたいの』って」
ベッドの端に千晶《ちあき》が腰かけて、みちるの頬《ほお》にかすかに触れる。みちるがかけた電話の一部始終を彼女はすぐそばで聞いていた。みちるからはむろんなんの反応も返ってこない。彼女は外部の情報を普段《ふだん》と同じように見聞きすることはできるが、肉体の制御《せいぎょ》はすべてリグルに奪われている。電話で言ったみちるの言葉も、すべて青のリグルの言葉だった。
(藤牧……)
みちるは心の中でつぶやいた。その瞬間《しゅんかん》にまた激痛《げきつう》が波のように広がり、みちるの意識《いしき》が遠のいた。昨晩、青のリグルが体内に潜《もぐ》りこんでから、彼女は苦痛による気絶と覚醒《かくせい》をひたすら繰り返していた。彼女の体内に巣くっているリグルからは、まるで血液のように全身に向かって痛みが運ばれていた。
しかし彼女が意識を失ったところで、リグルにはなんの影響《えいきょう》もない。彼女の意識と肉体は完全に分離させられている。誰《だれ》にも気づかれないまま、拷問《ごうもん》を受け続けているようなものだった。
(藤牧が捕まる)
裕生に電話をかけた時、みちるの意識はかろうじて覚醒していた。何度も裕生に危険を知らせようとしたが、声を上げようとするたびにさらなる苦痛が炸裂《さくれつ》する。どうやら、リグルの意思に反して体を動かそうと考えると、支配された人間はより苦しむようになっているらしい。
「あとは待つばかりね。あなたも楽しみでしょう?」
千晶の声が上から降ってくる。みちるは内心|屈辱《くつじょく》に震《ふる》えていた。さっきの電話では、「みちる」は媚《こ》びた声を出して裕生に甘えていた——あたしは絶対あんなことしない。あたしはあんな人間じゃない。
「藤牧裕生が手に入ったら、あなたを解放してあげる。もしよかったら、お礼に彼をしばらく貸してあげてもいい。あなたのして欲しいことをなんでも彼にさせることができるわよ」
痛みよりも怒りで彼女の目がくらんだ。今すぐ起き上がってこの女の首を絞めてやりたかった。体を動かしたいと思った|瞬間《しゅんかん》、激痛《げきつう》が全身を貫く——同時にびくりと右腕が動いた。
(なんだろう)
意識《いしき》を失いそうになりながら、彼女はそう思った。痛みのせいで今まで意識していなかったが、自由にならない体の中で右手だけが微妙に感覚が違う。
(もしかすると……)
今、みちるの右手は開いている。そこに彼女は意識を集中させた。指をまるごと折られるような鋭《するど》い痛みが走った。意識が落ちないように必死に耐える。
彼女の右手は震《ふる》えながら閉じていった。
(やっぱりそうなんだ)
右手だけは青のリグルの支配が弱い。そういえば、裕生《ひろお》と佐貫《さぬき》が葉《よう》の父親に初めて会った時、彼は右手に包帯を巻いていたと話していた。右手は動かないように固定されていたのではないだろうか。
相変わらず千晶《ちあき》は物言わぬみちるの頬《ほお》を撫《な》で続けている。
右手だけがわずかに動いたところで、なにが出来るのか分からない。しかし——。
(あんたの好きにはさせない)
みちるの胸にはその思いがたぎっていた。