ジーンズとTシャツを着たみちるが、公園の入り口にある自転車止めに腰かけていた。
一瞬《いっしゅん》、裕生は声をかけるのをためらった——みちるはひどく具合が悪そうに見えた。生気のない顔、つやのない髪、力なく丸めた背は普段《ふだん》の彼女とはほど遠かった。
「西尾《にしお》……?」
おそるおそる声をかけると、みちるが裕生《ひろお》の方を見る。突然、彼女の顔にぱっと笑みが広がった。
「藤牧《ふじまき》!」
みちるは明るく手を振って、裕生《ひろお》の方へ走ってくる。彼女の変化に裕生は戸惑《とまど》った。具合が悪いように見えたのは錯覚《さっかく》だったような気がした。
「ごめん、待った?」
と、裕生は言った。
「ううん。今来たところ」
「じゃあ、そのへんで話そうか」
入り口から見えるところにいくつかベンチがあり、子供を遊ばせている母親の姿が見えた。しかし、みちるは首を振った。
「もっと静かなところに行こ」
鼻にかかったような甘えた声で言って、みちるは裕生の手を握った。
「……え?」
裕生は戸惑いながら繋《つな》いでいる手を見下ろした。みちるは返事も待たずに、彼の手を引いて歩き出した。
「あっちにもベンチがあったよ」
彼女は右手で遊歩道の奥を指さす——その指はかすかに震《ふる》えていた。
一瞬《いっしゅん》、裕生は声をかけるのをためらった——みちるはひどく具合が悪そうに見えた。生気のない顔、つやのない髪、力なく丸めた背は普段《ふだん》の彼女とはほど遠かった。
「西尾《にしお》……?」
おそるおそる声をかけると、みちるが裕生《ひろお》の方を見る。突然、彼女の顔にぱっと笑みが広がった。
「藤牧《ふじまき》!」
みちるは明るく手を振って、裕生《ひろお》の方へ走ってくる。彼女の変化に裕生は戸惑《とまど》った。具合が悪いように見えたのは錯覚《さっかく》だったような気がした。
「ごめん、待った?」
と、裕生は言った。
「ううん。今来たところ」
「じゃあ、そのへんで話そうか」
入り口から見えるところにいくつかベンチがあり、子供を遊ばせている母親の姿が見えた。しかし、みちるは首を振った。
「もっと静かなところに行こ」
鼻にかかったような甘えた声で言って、みちるは裕生の手を握った。
「……え?」
裕生は戸惑いながら繋《つな》いでいる手を見下ろした。みちるは返事も待たずに、彼の手を引いて歩き出した。
「あっちにもベンチがあったよ」
彼女は右手で遊歩道の奥を指さす——その指はかすかに震《ふる》えていた。
みちるが裕生を連れていったのは、公園の一番奥にある木のベンチだった。ペンキはすっかり剥《は》げて、座面はささくれだっている。ここに置かれていることも忘れられているに違いなかった。
「ここに座って」
裕生が腰を下ろすと、みちるもぴったりと寄り添うように座った。裕生はあたりを見回す。裕生たちがいるのは遊歩道から少し離《はな》れた木立《こだち》の中で、人通りはまったくない。
(どうしてこんなところまでわざわざ連れてきたんだろう)
よほど重要な話があるのかと思っていたが、ただ話を聞かれない用心にしては大袈裟《おおげさ》すぎる気がした。そもそも、直接会って話をしようと言い出したのもおかしな話だった。どうも昨日《きのう》からやることなすことがみちるらしくない。
彼女が話をする前に、そのことについて尋《たず》ねた方がいいような気がした。
「あのさ、西尾《にしお》……」
と、裕生が言いかけた時、
「ねえ、藤牧」
みちるが裕生の話を遮《さえぎ》った。
「なに?」
「藤牧はあたしのことどう思ってるの?」
「はあ?」
裕生《ひろお》は間の抜けた声を上げた。みちるは指を絡《から》ませるように裕生の手を握った。いつのまにか吐息がかかるほど近くに彼女の顔があった。
「あたし、藤牧《ふじまき》のことが好きなの」
みちるは裕生に体を預けてくる——肩の少し下あたりに、ほどよい大きさの彼女の胸が当たっている。裕生の動悸《どうき》がとたんに速くなり始めた。
「ちょ……ちょっと待って」
裕生はみちるの肩をつかんで、必死に体を押し戻した。
「なに言ってるんだよ、西尾《にしお》」
みちるは肩に置かれた裕生の手に自分の右手を重ね、小首をかしげながら微笑《ほほえ》んだ。裕生はごくりと唾《つば》を呑《の》みこんだ。みちるが魅力的《みりょくてき》な女の子だということは裕生もよく知っている。今まで意識《いしき》する必要がなかったのは、みちるが異性も同性も同じように付き合う性格だったからだ。
(……変だ)
と、裕生は思った。こんな態度は普段《ふだん》のみちるらしくない。なにかそうせざるを得ない理由があるのではないか——。
その時、裕生はみちるの手が生温かく濡《ぬ》れていることに気づいた。彼女の右手を見た裕生はぎょっとした。人差し指が血の池に浸《ひた》したように真《ま》っ赤《か》に染まっていた。
「どうしたのそれ!」
裕生はみちるの右手をつかむ。人差し指の爪《つめ》が内出血を起こして、指先から半分あたりまでが紫色《むらさきいろ》に染まっていた。よく見ると、爪と指の間に小さな尖《とが》った木片が深く突き刺さっている。どうやら二人がいるベンチの座面の一部で、なにかの拍子にささくれで怪我《けが》をしたらしい。
みちるの右手はぶるぶると細かく震《ふる》えている。痛みも相当なもののはずだった。
「なんで一言もいわなかったの? すごい血が」
裕生はぎょっとして口をつぐんだ。みちるは無表情に右手を見下ろしていた。まるで他人の手でも見るような冷ややかな目つきだった。
「西尾?」
彼女は裕生に笑いかけた。
「大丈夫だよ。ごめんね、心配かけて」
「でも……」
みちるは突然両手を広げて、裕生に抱きついてきた。裕生の頭の中が真っ白になった——しかし、それは一瞬《いっしゅん》のことだった。葉《よう》のことを思い出さなければ、我に返るのはもっと遅れたに違いない。
葉とあんな風《ふう》に抱き合った後で、他《ほか》の誰《だれ》かとこんなことをしてはいけない気がした。裕生はみちるを押し戻そうとしたが、もっと強い力で体を押しつけられた。
「西尾《にしお》、ほんとにちょっと離《はな》れ……」
裕生《ひろお》の全身が凍りついた。
みちるの肩越しにベンチの座面が見えていた。そこには彼女の血がべっとりとついている。血の跡は何本もの線《せん》を形づくっていた。
次の瞬間《しゅんかん》、裕生はそれが単なる線でないことに気づいた。少しずつ方向の違うそれらのゆがんだ線には、明確《めいかく》な意図がこめられている。
それは血文字だった。
「ここに座って」
裕生が腰を下ろすと、みちるもぴったりと寄り添うように座った。裕生はあたりを見回す。裕生たちがいるのは遊歩道から少し離《はな》れた木立《こだち》の中で、人通りはまったくない。
(どうしてこんなところまでわざわざ連れてきたんだろう)
よほど重要な話があるのかと思っていたが、ただ話を聞かれない用心にしては大袈裟《おおげさ》すぎる気がした。そもそも、直接会って話をしようと言い出したのもおかしな話だった。どうも昨日《きのう》からやることなすことがみちるらしくない。
彼女が話をする前に、そのことについて尋《たず》ねた方がいいような気がした。
「あのさ、西尾《にしお》……」
と、裕生が言いかけた時、
「ねえ、藤牧」
みちるが裕生の話を遮《さえぎ》った。
「なに?」
「藤牧はあたしのことどう思ってるの?」
「はあ?」
裕生《ひろお》は間の抜けた声を上げた。みちるは指を絡《から》ませるように裕生の手を握った。いつのまにか吐息がかかるほど近くに彼女の顔があった。
「あたし、藤牧《ふじまき》のことが好きなの」
みちるは裕生に体を預けてくる——肩の少し下あたりに、ほどよい大きさの彼女の胸が当たっている。裕生の動悸《どうき》がとたんに速くなり始めた。
「ちょ……ちょっと待って」
裕生はみちるの肩をつかんで、必死に体を押し戻した。
「なに言ってるんだよ、西尾《にしお》」
みちるは肩に置かれた裕生の手に自分の右手を重ね、小首をかしげながら微笑《ほほえ》んだ。裕生はごくりと唾《つば》を呑《の》みこんだ。みちるが魅力的《みりょくてき》な女の子だということは裕生もよく知っている。今まで意識《いしき》する必要がなかったのは、みちるが異性も同性も同じように付き合う性格だったからだ。
(……変だ)
と、裕生は思った。こんな態度は普段《ふだん》のみちるらしくない。なにかそうせざるを得ない理由があるのではないか——。
その時、裕生はみちるの手が生温かく濡《ぬ》れていることに気づいた。彼女の右手を見た裕生はぎょっとした。人差し指が血の池に浸《ひた》したように真《ま》っ赤《か》に染まっていた。
「どうしたのそれ!」
裕生はみちるの右手をつかむ。人差し指の爪《つめ》が内出血を起こして、指先から半分あたりまでが紫色《むらさきいろ》に染まっていた。よく見ると、爪と指の間に小さな尖《とが》った木片が深く突き刺さっている。どうやら二人がいるベンチの座面の一部で、なにかの拍子にささくれで怪我《けが》をしたらしい。
みちるの右手はぶるぶると細かく震《ふる》えている。痛みも相当なもののはずだった。
「なんで一言もいわなかったの? すごい血が」
裕生はぎょっとして口をつぐんだ。みちるは無表情に右手を見下ろしていた。まるで他人の手でも見るような冷ややかな目つきだった。
「西尾?」
彼女は裕生に笑いかけた。
「大丈夫だよ。ごめんね、心配かけて」
「でも……」
みちるは突然両手を広げて、裕生に抱きついてきた。裕生の頭の中が真っ白になった——しかし、それは一瞬《いっしゅん》のことだった。葉《よう》のことを思い出さなければ、我に返るのはもっと遅れたに違いない。
葉とあんな風《ふう》に抱き合った後で、他《ほか》の誰《だれ》かとこんなことをしてはいけない気がした。裕生はみちるを押し戻そうとしたが、もっと強い力で体を押しつけられた。
「西尾《にしお》、ほんとにちょっと離《はな》れ……」
裕生《ひろお》の全身が凍りついた。
みちるの肩越しにベンチの座面が見えていた。そこには彼女の血がべっとりとついている。血の跡は何本もの線《せん》を形づくっていた。
次の瞬間《しゅんかん》、裕生はそれが単なる線でないことに気づいた。少しずつ方向の違うそれらのゆがんだ線には、明確《めいかく》な意図がこめられている。
それは血文字だった。
リグル
はっきりとそう書かれていた。