(リグル)
血文字を読んだ裕生《ひろお》はすべてを悟った。この文字はみちるが裕生に送ったメッセージだ。今、自分に抱きついているのはみちるではない。みちるを操《あやつ》っているリグルだった。千晶《ちあき》の両親を演じさせられていたあの二人と同じように、今みちるの中にも幼虫がいるはずだ。
(どうしよう)
みちるの体を受け止めながら、裕生は必死で頭を働かせる。今、裕生のポケットの中には新たに詰め直した「黒曜《こくよう》」の小瓶が入っている。次にリグルが狙うのは自分だと思って、護身用に持ち歩いているものだった。しかし、この毒もカゲヌシに直接与えることができなければ、相手にダメージを与えることはできない。
「どうしたの、藤牧《ふじまき》」
みちるの唇が裕生の頬《ほお》に押しつけられている。吐息《といき》からはかすかに土の匂《にお》いが漂ってきていた。
昨日《きのう》のようにリグルが無防備に姿を現すとは思えなかった。かといって、今のみちるを置いてここから逃げ出すわけにはいかない。リグルの当面の目的は裕生の中に潜《もぐ》りこむことのはずだ。彼女の中にリグルがいると悟ったことが知れたら、みちるは千晶にとって「用済み」になりかねない。最悪の場合、殺されて食われるかもしれなかった。
「西尾《にしお》。実はぼくからも大事な話があるんだ」
と、裕生《ひろお》は言った。今は時間を稼《かせ》いで、その間に次にどうすべきか考えようと思った。とにかく自分に襲《おそ》いかかるのをためらわせなければならない。
「そんなことより、さっきのあたしの聞いたことにちゃんと」
彼女の両手が裕生の背中といい腰といい、至るところを撫《な》で回している。あのみちるにこんなことをさせていると思うと、むかむかと腹が立った。
「……カゲヌシのことなんだ」
案《あん》の定《じょう》、みちるの動きが止まった。そう言えば耳を傾けざるを得ないと踏んだのだが、どうやら正解だったらしい。
「どういうこと?」
みちるの顔からすっと表情が失《う》せた。
「どういうことって……それは……」
裕生は言いよどんだ。その先の言葉を必死に考える。
「ぼくはその……ぼくもカゲヌシと深い関係があるんだ。普通の人間とは違う。佐貫《さぬき》にもまだ話してないんだけど」
我ながらデタラメな嘘《うそ》だと思ったが、みちるを操《あやつ》っているリグルはそう思わなかったようだった。彼女は裕生《ひろお》から体を離《はな》すと、値踏みするような目つきで彼を眺め回した。
「どのカゲヌシ?」
「え?」
「どのカゲヌシと関係があるの?」
そう言われて裕生は詰まった——裕生の知っている「黒の彼方《かなた》」以外のカゲヌシは、ほとんど死んでいる。かといって存在しない名前を挙げるわけにもいかない。迷った末に裕生は答えた。
「……レインメイカー」
今度こそみちるは息を呑《の》んだ。どうやら、相手に衝撃《しょうげき》を与える答えだったらしい。そもそも、裕生はレインメイカーがカゲヌシかどうかも確信《かくしん》がなかったのだが。
その反応の大きさに裕生も驚《おどろ》いた。
「お前は何者だ?」
今やリグルはみちるのふりをする余裕もないようだった。裕生はなるべく心を落ち着かせながら話を続けた。
「ぼくは一応人間だけど、色々あってぼくの意思はレインメイカーと繋《つな》がってる。もし、ぼくに危害が及んだら、レインメイカーの力も発動することになってるんだ」
「そんな馬鹿《ばか》な」
と、みちるはうめくように言った。
「レインメイカーは『最初と最後のカゲヌシ』。人間の意思などとは……」
(『最初と最後のカゲヌシ』?)
裕生はその言葉に内心首をひねった。その瞬間《しゅんかん》、
「そこまでにしておいたら?」
木立《こだち》の向こうから女の声が聞こえた。
杖《つえ》をついた銀髪の少女が現れる——船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》だった。
反射的に裕生は立ち上がった。カゲヌシがいる以上、そばに契約者がいるのは当然だったが、この場面では最も現れて欲しくない相手だった。
「レインメイカーと意思が繋がってるなんて、よくも平気で言えたものだわ。あなたはあのカゲヌシについてろくに知らないでしょう?」
「どうしてそう思うんだよ?」
「そうやっていつも相手に喋《しゃべ》らせようとしているのね」
千晶はせせら笑った。
「あれの力がどんなものかも知らないくせに」
「え……?」
みちるはふらりと立ち上がると、千晶《ちあき》の方へ歩いていった。
「青のリグルは人間の真似《まね》をするのは得意だし、ごく普通の会話をする程度の知能はあるけれど、嘘《うそ》の混じった高度な会話の駆け引きを、わたしの指示もなく行うのは苦手《にがて》なの」
千晶が手を伸ばすと、みちるはその左手を握りしめた。彼女たちは仲のいい姉妹のように並んで立つ。裕生《ひろお》にとっては不快な眺めだった。
「西尾《にしお》をどうする気なんだ」
「どうもしないわ。あなたが大人《おとな》しくしてくれれば、解放するわよ」
千晶はみちると顔を見合わせてにっこり笑った。
「この娘の命をわたしが握っているのは分かるわよね? レインメイカーについて知っていることを話してもらうわ」
「知らない人間からなにを聞くんだよ?」
千晶はかすかに鼻を鳴らして笑った。
「いいことを教えてあげる。レインメイカーが一つの場所にとどまり続けることも、人間に『黒曜《こくよう》』を渡すことも今までになかった。人間とはまず接触しなかったし、カゲヌシにも存在を知られないように移動を繰《く》り返してきた。何かの理由であなたは選ばれたのよ、藤牧《ふじまき》裕生」
「え……」
裕生は驚《おどろ》いた。自分にそんな特別なものがあるとは思えなかった。
「あるいは『同族食い』がこの土地にいることと関係があるのかもしれない。どうやって『黒曜』を手に入れたの? 今みたいな杜撰《ずさん》な嘘が通じる相手ではないはずよ。そもそも、どうやってレインメイカーと接触したの?」
裕生は答えていいものか迷った——しかし、隠すほど大層《たいそう》な秘密があるわけでもない。
「レインメイカーの書いたサインを消して、もう一度書きに来るのを待ったんだ。『黒曜』は向こうが勝手にくれた」
沈黙《ちんもく》が流れる。千晶は戸惑《とまど》ったような表情を浮かべた。
「また嘘をついているようね。そんな方法で知能の高いレインメイカーが現れるわけがないわ」
「知能が高い?」
今度は裕生の方が驚く番だった。彼の知っているレインメイカーは人語を発することもほとんどできない、獣《けもの》のような存在に見えた。まるで別のものの話を聞いている気がした。
「まあいいでしょう。あなたには後からまた聞く機会《きかい》があるでしょうから」
彼女は杖《つえ》を突いて、裕生の方へ足を踏み出した。
「どのリグルがあなたに似合うかしらね」
「どっちだってすぐにバレる。あんなに頭が悪いんじゃ……」
「リグルが青と赤だけだと思わないでね」
「えっ」
「まだ白のリグルがいるのよ……一番強いリグルが」
(まだ別のリグルがいるのか)
「あなたには白のリグルがふさわしいかもしれないわ」
裕生《ひろお》は自分も一歩下がりながら、ポケットの中の「黒曜《こくよう》」を探った。顔を出さなければ裕生の体内へ潜《もぐ》りこむことはできない。その瞬間《しゅんかん》を狙《ねら》って、一体でも倒してしまうつもりだった。
「藤牧《ふじまき》、これを探してるの?」
突然、みちるが明るい声を発して、裕生はぎょっとした。確《たし》かに青のリグルは人間のふりが上手《じょうず》なようだった——その声はみちるそっくりだった。
彼女の手には「黒曜」の小瓶《こびん》が握られている。
(え……?)
裕生は呆然《ぼうぜん》と立ちつくした。
「どうせ持っていると思って、わたしが現れる前に盗《と》るように言っておいたの」
勝ち誇ったように千晶が言った。
(しまった)
裕生は歯ぎしりした。さっき、抱きついて体を撫《な》で回した時に抜き取っていたらしい。みちるがあんな「告白」をしたのも、その後の行為を不自然に見せないためだろう。最初から「黒曜」を取り上げるつもりだったのだ。
彼に向かってゆっくりと千晶が近づいてくる。一瞬、この場から逃げることも考えたが、みちるのことが問題だった。みちるが裕生を捕まえる道具として使えなければ、彼女を生かしておく必要はない。かといって、このカゲヌシと戦う方法は裕生にはない。
「待って!」
突然、遊歩道から声が聞こえた。
葉《よう》がこちらに向かって走ってきていた。