みちるが目を開けると、ベッドの脇《わき》に座っている佐貫《さぬき》の姿が見えた。右腕のギプスを重そうに首から吊《つ》っている。あまり顔色がよくないところを見ると、無理をしてここにいるのかもしれない。
「ここ、病院?」
声が自分のものではないようにざらざらしている。佐貫はうなずいた。
(あたし、生きてるんだ)
手足を動かそうとした途端《とたん》、きりきりと関節が痛んだ。それに息をすると胸のあたりも焼けつくように痛む。胸の痛みは「黒曜《こくよう》」の後遺症《こういしょう》に違いない。
カーテンが閉まっているせいか、窓の外を見ることはできないが、光の色を見る限りでは夕方に近い時間ではないかと思う。
それにしても、先月も入院して、今月もまた病院に逆戻りとは。さぞ両親も心配して——。
「あっ」
みちるはがばとはね起きた。そのままベッドから出ようとする彼女を、佐貫《さぬき》が慌てて止めた。
「なにやってんだ、バカ」
「お父さんやお母さんは?」
「ちゃんと病院に運ばれたよ。気を失ってるだけで、命に別状はねえって」
みちるはほっと息をついた——深く息をしたせいか咳《せ》きこんでしまう。佐貫がナースコールに手を伸ばしたが、みちるは首を振った。
「ううん。大丈夫。ねえ、藤牧《ふじまき》たちは?」
「今、ロビーで警察《けいさつ》と話してる。その間、俺《おれ》が付き添ってんだ」
みちるはそこで言葉を切って、ちょっとためらった。
「リグルはどうなったの?」
「逃げられたらしいぞ」
「…………そう」
みちるは昨晩からあの千晶《ちあき》にされたことを思い返した。みちるの体にリグルを仕込んで、意のままに操《あやつ》っていた。いや、なにかの目的のためにただ操っていたのではない。
千晶は明らかに楽しんでいた。
「……あれ?」
不意にみちるの瞳《ひとみ》から大粒の涙がこぼれ始めた。
「どうしたんだお前? どっか痛むのか?」
佐貫は心配そうにみちるの顔を覗《のぞ》きこむ。
「わ、分かんない。あれ?」
涙は後から後からわき出して、一向《いっこう》に止まらなかった。
(どうして泣いてるんだろう)
緊張《きんちょう》がほどけたせいかもしれないし、今になって恐怖がぶり返したのかもしれない。
あの千晶にされたことは本当になにからなにまで嫌《いや》なことばかりだった。あの虫は今思い出しても寒気がするし、あの痛みは気が狂いそうだったし、キスをされたのも気持ちが悪かった。
しかし、それだけではまだこの涙には足りない気がする。
(あたし、藤牧のことが好きなの)
「あっ」
みちるは悲鳴に似た声を上げた。
「藤牧……」
一瞬《いっしゅん》、わずかに佐貫《さぬき》の表情が引《ひ》き締《し》まった気がした。普段《ふだん》のみちるだったら、こんな風《ふう》に裕生《ひろお》の名前を口にすることはなかったはずだ。しかし、今のみちるは自分を抑えることができない。
「ふ、藤牧《ふじまき》……あたし、藤牧に……」
一度名前を呼び始めると止まらなかった。繰《く》り返しみちるは裕生を呼んだ。
みちるはぎゅっと唇を噛《か》んだ。そしてすぐに鼻をすすり上げる。大きく息を吸ったせいで、胸がまた痛んだ。
(あんなことを言わされた)
とても大事な言葉だった。昔、言わないままになっていた言葉。いつか言うかもしれなかった言葉。
それを汚《けが》されたのがたまらなく悔しくて悲しかった。
「裕生、呼んできた方がいいか?」
佐貫はいつになく優《やさ》しい声で話しかけてきた。
みちるは子供がいやいやをするように大きく首を振った。
「ぜ、絶対、呼ばないで」
みちるは泣きじゃくりながら言った。
「あ、あたしが泣いたこと、藤牧には秘密にして。お、お願《ねが》いだから」
<img src="img/wriggle-wriggle_175.jpg">
ここにもし裕生《ひろお》がいて、どうしたの、と言われたらなにもかも打ち明けてしまいそうだった。
「なんだか分かんねえけど、言わねえよ。心配すんな」
佐貫《さぬき》はギプスをしていない方の手で、苦労してティッシュを一枚抜くと、みちるの涙を拭《ふ》き始めた。力の加減がうまくいかないせいか、みちるの頬《ほお》がひりひりした。
「だから早く泣きやめ。裕生の奴《やつ》、そろそろ帰ってくるかもしれねえから」
うん、とみちるはうなずきながら、声を殺して泣き続けた。
「ここ、病院?」
声が自分のものではないようにざらざらしている。佐貫はうなずいた。
(あたし、生きてるんだ)
手足を動かそうとした途端《とたん》、きりきりと関節が痛んだ。それに息をすると胸のあたりも焼けつくように痛む。胸の痛みは「黒曜《こくよう》」の後遺症《こういしょう》に違いない。
カーテンが閉まっているせいか、窓の外を見ることはできないが、光の色を見る限りでは夕方に近い時間ではないかと思う。
それにしても、先月も入院して、今月もまた病院に逆戻りとは。さぞ両親も心配して——。
「あっ」
みちるはがばとはね起きた。そのままベッドから出ようとする彼女を、佐貫《さぬき》が慌てて止めた。
「なにやってんだ、バカ」
「お父さんやお母さんは?」
「ちゃんと病院に運ばれたよ。気を失ってるだけで、命に別状はねえって」
みちるはほっと息をついた——深く息をしたせいか咳《せ》きこんでしまう。佐貫がナースコールに手を伸ばしたが、みちるは首を振った。
「ううん。大丈夫。ねえ、藤牧《ふじまき》たちは?」
「今、ロビーで警察《けいさつ》と話してる。その間、俺《おれ》が付き添ってんだ」
みちるはそこで言葉を切って、ちょっとためらった。
「リグルはどうなったの?」
「逃げられたらしいぞ」
「…………そう」
みちるは昨晩からあの千晶《ちあき》にされたことを思い返した。みちるの体にリグルを仕込んで、意のままに操《あやつ》っていた。いや、なにかの目的のためにただ操っていたのではない。
千晶は明らかに楽しんでいた。
「……あれ?」
不意にみちるの瞳《ひとみ》から大粒の涙がこぼれ始めた。
「どうしたんだお前? どっか痛むのか?」
佐貫は心配そうにみちるの顔を覗《のぞ》きこむ。
「わ、分かんない。あれ?」
涙は後から後からわき出して、一向《いっこう》に止まらなかった。
(どうして泣いてるんだろう)
緊張《きんちょう》がほどけたせいかもしれないし、今になって恐怖がぶり返したのかもしれない。
あの千晶にされたことは本当になにからなにまで嫌《いや》なことばかりだった。あの虫は今思い出しても寒気がするし、あの痛みは気が狂いそうだったし、キスをされたのも気持ちが悪かった。
しかし、それだけではまだこの涙には足りない気がする。
(あたし、藤牧のことが好きなの)
「あっ」
みちるは悲鳴に似た声を上げた。
「藤牧……」
一瞬《いっしゅん》、わずかに佐貫《さぬき》の表情が引《ひ》き締《し》まった気がした。普段《ふだん》のみちるだったら、こんな風《ふう》に裕生《ひろお》の名前を口にすることはなかったはずだ。しかし、今のみちるは自分を抑えることができない。
「ふ、藤牧《ふじまき》……あたし、藤牧に……」
一度名前を呼び始めると止まらなかった。繰《く》り返しみちるは裕生を呼んだ。
みちるはぎゅっと唇を噛《か》んだ。そしてすぐに鼻をすすり上げる。大きく息を吸ったせいで、胸がまた痛んだ。
(あんなことを言わされた)
とても大事な言葉だった。昔、言わないままになっていた言葉。いつか言うかもしれなかった言葉。
それを汚《けが》されたのがたまらなく悔しくて悲しかった。
「裕生、呼んできた方がいいか?」
佐貫はいつになく優《やさ》しい声で話しかけてきた。
みちるは子供がいやいやをするように大きく首を振った。
「ぜ、絶対、呼ばないで」
みちるは泣きじゃくりながら言った。
「あ、あたしが泣いたこと、藤牧には秘密にして。お、お願《ねが》いだから」
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ここにもし裕生《ひろお》がいて、どうしたの、と言われたらなにもかも打ち明けてしまいそうだった。
「なんだか分かんねえけど、言わねえよ。心配すんな」
佐貫《さぬき》はギプスをしていない方の手で、苦労してティッシュを一枚抜くと、みちるの涙を拭《ふ》き始めた。力の加減がうまくいかないせいか、みちるの頬《ほお》がひりひりした。
「だから早く泣きやめ。裕生の奴《やつ》、そろそろ帰ってくるかもしれねえから」
うん、とみちるはうなずきながら、声を殺して泣き続けた。