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若い警官《けいかん》が派出所《はしゅつじょ》の前に自転車を停《と》める。
彼は加賀見《かがみ》団地《だんち》の巡回を終わらせたところだった。派出所を出た時はまだ日は沈んでいなかったのだが、戻ってきた今はすっかり夜も更《ふ》けている。いつもより巡回に長い時間をかけたのは、この近辺で事件が立て続けに起こっているからだった。
昨日《きのう》から今日《きょう》にかけても、駅に近い住宅地で一家三人が監禁《かんきん》される事件が起こっている。捜査本部は重要参考人として松葉杖《まつばづえ》をついた少女を捜《さが》しており、彼女は加賀見市のどこかに潜伏《せんぷく》中という話だった。派出所勤務の警官にも拳銃《けんじゅう》の携帯《けいたい》の許可が下りていることを考えると、警戒の必要な相手ということらしい。
もっとも、彼自身は拳銃の必要をあまり感じていなかった。大学時代には柔道の選手として、オリンピック代表の最終候補にも残ったことがある。一対一なら、たいていの人間を取り押さえる自信はあった。
「今、戻りました」
彼は派出所《はしゅつじょ》のドアを開けて、背を縮《ちぢ》めてくぐるように中へ入った。しかし、一緒《いっしょ》に勤務していたはずの同僚《どうりょう》はそこにいなかった。
「あれ?」
同僚の机の上には、書きかけの日報が置きっぱなしになっている。
「菊地《きくち》さん?」
彼は奥に向かって同僚の名を呼んだ。
返事はなかった。
トイレかな、と思った時、彼はふと見慣《みな》れないものが同僚の机に立てかけてあることに気づいた。
「なんだ、これ」
腕支えのついたスチール製の杖《つえ》だった。彼は杖を手にとって確《たし》かめる。長さから言って、背の低い人間の持ち物らしい——女性か、子供か。
(落とし物かな)
彼が考えこんでいると、二階の仮眠室からみしっという足音が聞こえた。思わず彼は天井《てんじょう》を見上げる。
気になったのは足音が聞こえたからではなかった。
足音は二人分聞こえた気がした。彼は階段の下まで歩いていって、
「菊地さん!」
と、上に向かって呼びかけた。すると同僚が二階から身を乗り出すようにして顔を見せた。
「なにやってるんですか、そんなところで」
「ちょっと手を貸してくれ」
と、彼は言った。
「はあ?」
「いいから、ちょっと」
返事を待たずに彼は引っこんでしまった。
若い警官《けいかん》は首をひねった。どこか具合でも悪いのかもしれない。目の錯覚《さっかく》かもしれなかったが、同僚の右手はぶるぶる痙攣《けいれん》しているように見えた。
彼は階段を上がっていった。
彼は加賀見《かがみ》団地《だんち》の巡回を終わらせたところだった。派出所を出た時はまだ日は沈んでいなかったのだが、戻ってきた今はすっかり夜も更《ふ》けている。いつもより巡回に長い時間をかけたのは、この近辺で事件が立て続けに起こっているからだった。
昨日《きのう》から今日《きょう》にかけても、駅に近い住宅地で一家三人が監禁《かんきん》される事件が起こっている。捜査本部は重要参考人として松葉杖《まつばづえ》をついた少女を捜《さが》しており、彼女は加賀見市のどこかに潜伏《せんぷく》中という話だった。派出所勤務の警官にも拳銃《けんじゅう》の携帯《けいたい》の許可が下りていることを考えると、警戒の必要な相手ということらしい。
もっとも、彼自身は拳銃の必要をあまり感じていなかった。大学時代には柔道の選手として、オリンピック代表の最終候補にも残ったことがある。一対一なら、たいていの人間を取り押さえる自信はあった。
「今、戻りました」
彼は派出所《はしゅつじょ》のドアを開けて、背を縮《ちぢ》めてくぐるように中へ入った。しかし、一緒《いっしょ》に勤務していたはずの同僚《どうりょう》はそこにいなかった。
「あれ?」
同僚の机の上には、書きかけの日報が置きっぱなしになっている。
「菊地《きくち》さん?」
彼は奥に向かって同僚の名を呼んだ。
返事はなかった。
トイレかな、と思った時、彼はふと見慣《みな》れないものが同僚の机に立てかけてあることに気づいた。
「なんだ、これ」
腕支えのついたスチール製の杖《つえ》だった。彼は杖を手にとって確《たし》かめる。長さから言って、背の低い人間の持ち物らしい——女性か、子供か。
(落とし物かな)
彼が考えこんでいると、二階の仮眠室からみしっという足音が聞こえた。思わず彼は天井《てんじょう》を見上げる。
気になったのは足音が聞こえたからではなかった。
足音は二人分聞こえた気がした。彼は階段の下まで歩いていって、
「菊地さん!」
と、上に向かって呼びかけた。すると同僚が二階から身を乗り出すようにして顔を見せた。
「なにやってるんですか、そんなところで」
「ちょっと手を貸してくれ」
と、彼は言った。
「はあ?」
「いいから、ちょっと」
返事を待たずに彼は引っこんでしまった。
若い警官《けいかん》は首をひねった。どこか具合でも悪いのかもしれない。目の錯覚《さっかく》かもしれなかったが、同僚の右手はぶるぶる痙攣《けいれん》しているように見えた。
彼は階段を上がっていった。