夕食の後で、裕生《ひろお》は一人ベランダに出た。
雄一《ゆういち》と葉《よう》は居間でテレビを見ている。父の吾郎《ごろう》はツネコを無理矢理《むりやり》誘《さそ》ってレストランに出かけたまま、まだ帰ってきていない。
裕生《ひろお》は手すりにもたれた。
見慣《みな》れた団地の夜の風景が広がっている。さっき巡回中の警官《けいかん》が通りすぎた程度で、棟《むね》と棟のあいだの道路にはほとんど人通りはない。ベランダから見える隣《となり》の棟には、いくつもの明かりが灯《とも》っている。きっとどの部屋でも、平和なひとときを過ごしているはずだ。
(父親との静かな生活、か)
病院でみちるに聞いた話では、船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》はそれを望んでいるらしい。それが一体なにを示すのかはよく分からないが、千晶の父、ということは例の失踪《しっそう》した船瀬|智和《ともかず》ということになる。
(父親を捜《さが》してるってことなのかな)
赤の他人にリグルを仕込んで、家族のように暮らしていたのもそれとなにか関係があるのかもしれなかった。
しかし、裕生たちやレインメイカーに固執することと、その目的はどう結びつくのだろう。裕生たちが船瀬となにか関係があったわけではない。
はっきりしているのは、今まで以上に自分たちが危険だということだった。もう無傷で手に入れようとは思わない、とまで裕生と葉に言っていた。
裕生はポケットのから「黒曜《こくよう》」の小瓶《こびん》を取り出した。同じものを佐貫《さぬき》やみちるや葉にも渡してある。今まで以上に手段を選ばないとなると、本当になにをしてくるか想像もつかなかった。
できれば雄一にも渡しておきたいが、事情を詳しく聞かない限り受け取ろうとはしないだろう。裕生はため息をついた。
その時、窓が開いて、雄一が外へ出てきた。手には火の点《つ》いたタバコを持っている。
「よう、なにしてんだ」
「ちょっと考えごと」
「ふうん」
雄一はぶわっと煙を吐き出す。裕生はひそかに気を張りつめた。雄一もみちるとみちるの両親が船瀬千晶に監禁《かんきん》され、病院に運ばれたことを知っている。そのことを聞きに来たのかもしれないと思っていると、
「ぶっちゃけあの白髪娘とやり合ってんだろ、オメーらは」
と、ストレートに聞いてきた。
「……」
裕生は黙《だま》っていた。答えても答えなくても一緒《いっしょ》のような気がした。
「お前、最初にあいつ見た時、なんかヘンな感じしなかったか?」
「ヘンって?」
雄一はがりがりと頭をかいた。
「葉《よう》に似てねーか?」
「は?」
「いや、ツラは全然違うんだけどよ、雰囲気が。一言でいうとイカれた葉みてーな」
「そうかなあ……」
裕生《ひろお》は首をひねった。彼はそういう風《ふう》には感じなかった。ただ、葉と千晶《ちあき》の境遇は驚《おどろ》くほどよく似ている——肉親の失踪《しっそう》で一人っきりになった、同《おな》い年《どし》のカゲヌシの契約者。
「ま、それはどうだっていいんだけどな。あいつが何モンなのか知っちゃいねえ。とにかく、あいつが元凶なんだろ?」
突然、雄一《ゆういち》はにたっと笑った。裕生は不吉な予感がした。
「あいつを探して・見つけて・ボコれば万事解決か?」
順々に指を三本立てて雄一は言った。裕生の背中にぞっと寒気が走った。
「やめてよ! そんなことしたら……」
「あ? 心配すんじゃねえよ。大丈夫! 半殺しで済ませっから」
「そうじゃなくて、兄さんが危な……」
「だから大丈夫だっつの。俺《おら》ァ人が言うほどアブねー人間じゃねえぞ? 最終的には手加減すっからよ」
(……言った方がいいかも)
兄に隠し続けるのもそろそろ限界のような気がした。はっきり事情を知らない雄一は、千晶にとって絶好の獲物《えもの》になりかねない。きちんと事情を話しさえすれば、どんなに行動が強引だとしても「黒曜《こくよう》」を持たせることぐらいはできるはずだ。
一度|佐貫《さぬき》たちに話を通しておきたかったが、いつ千晶がまた襲《おそ》ってくるか分からない。
裕生は覚悟を決めた。
「兄さん、実はね……」
「ん、オッサンだ」
と、雄一が突然言った。団地の入り口の方から、自転車に乗った警官《けいかん》が裕生たちの棟《むね》へ向かってきていた。三十代半ばの背の低い警官で、帽子を深くかぶってまっすぐ前を向いて走っている。
「知ってるの?」
雄一は嬉《うれ》しそうにうなずいた。
「ああ。スゲー立派《りっぱ》な人だぞ……昔、俺《おれ》を逮捕《たいほ》した人だからな」
うなずきかけていた裕生は思わず固まった。「立派な人」の基準がそれでいいのか、かなり疑問を感じる。
「オッサン!」
雄一は叫んで、ベランダから手を振った。
警官《けいかん》は自転車を止めて裕生《ひろお》たちの方を見上げた。しかし、返事をすることも手を振り返すこともしなかった。
「いや、オッサンじゃなかった……名前あったんだっけ」
裕生は首をかしげる。さっきも警官が巡回に来たばかりだった。
その時、反対側から別の警官が自転車で現れた。「オッサン」と呼ばれた警官よりも年は若いようだが、背が高く胸板もぶ厚い。柔道かなにかの選手のようだった。彼は「オッサン」の前で自転車を止める。二人は無言で自転車を降り、スタンドを立てずに裕生たちのいる棟の方へ歩いてきた。
(え……?)
彼らの背後でゆっくりと自転車が傾き、がしゃん、と大きな音を立てて転がった。それでも、二人の警官は自分たちの自転車に目もくれようとしない。
裕生は二人の態度に不気味《ぶきみ》なものを感じた。
二人は途中で分かれて、「オッサン」は雄一《ゆういち》たちのいるベランダの方に、若い警官は棟の階段へ向かった。
「えーっと、なんつったっけな。菊《きく》……?」
雄一はまだ考えこんでいる。
道路に立っている「オッサン」は、自分の腰のあたりをいじっていた。それから、腰から取り出した黒いものを両手に握りしめて、裕生たちに向けた。
裕生は自分の目を疑った。
なにかの間違いのはずだ——しかし、拳銃《けんじゅう》のように見える。
「おお、思い出した! 菊地《きくち》だ!」
隣《となり》にいた雄一が大声を上げる。
次の瞬間《しゅんかん》、加賀見《かがみ》団地に銃声が轟《とどろ》いた。