裕生たちを居間から出した後、雄一はまず着ていたシャツを引きちぎるように脱いで投げ捨てた。引《ひ》き締《し》まった筋肉質の上半身があらわになる。もちろん、カンフー映画を気取ったわけではなく、もっと実戦的な理由があった。
(あの体はどう見ても柔道家だよな)
ドアチェーンを引きちぎろうとしている男を見ながら、雄一は考える。それに警察官として習得する体術は、打撃技よりも相手の動きを奪う投げ技や関節技などの方が中心のはずである。だとしたら、少しでも掴《つか》まれる部分を体から減らしておきたかった。
そもそも、この狭い建物の中で戦うこと自体が雄一には不利だった。十代半ばの頃《ころ》に何人と殴り合ったのかよく憶《おぼ》えていないが、雄一の技は基本的に「殴る」と「蹴《け》る」の二種類だけだった。彼自身は格闘技《かくとうぎ》を習ったことは一度もない。
恵まれた肉体と動体視力と反射神経、そしてほとんど動物的な勝負カンだけを頼りに危機《きき》をくぐり抜けてきた。今度もそうするつもりだった。相手が人間だろうとそうでなかろうと関係はない。
強敵なのは分かりきっていたが、むしろ雄一《ゆういち》はさっぱりした気分だった。
(お前の強さに頼ろうとする人間はいない)
先月、雄一は皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》にそう指摘された。裏表のない雄一のような人間の強さは、かえって他人を遠ざける結果になると。数日は雄一も悩んだが、そのうちあれこれ考えるのをやめた。
(そういう問題じゃねえんだ)
誰《だれ》かに頼られることが目的なのではない。たとえ誰にも頼られなくとも、自分の強さは他人のためのものだと決めている。それ以上|思《おも》い煩《わずら》う必要はない。
必要なのは自分の強さを振るうべき時を見極めることだけだ。
そして、今がその時だった。
雄一は指の関節をぽきぽき鳴らしながら、大男に向かって言った。
「……まったく、『探す・見つける・ボコる』の予定だったのによ」
どちらかというと、探されて見つけられたのは自分たちの方である。
警官《けいかん》が雄一の言葉を聞いている様子《ようす》はない。渾身《こんしん》の力をこめてドアを引いている。ぴんと伸びきったドアチェーンが軋《きし》んだ音を立てている。
「俺《おれ》の仕事が二つ減っちまったじゃねえかよ!」
突然、雄一はドアに向かって走り出した。次の瞬間《しゅんかん》、ドアチェーンが弾《はじ》けるようにぷつんと切れた。ドアの開く勢いに便乗《びんじょう》して、雄一は思いきり体重を乗せた前蹴《まえげ》りをドアに放った。
加速された鉄のドアに跳《は》ね飛ばされて、大男は背後に大きくのけぞった。藤牧家《ふじまきけ》の向かいにあるドアに、後頭部をこすりつけながらずるずると大の字に倒れた。帽子が飛んで階段を転がっていく。
(よっしゃ!)
体格に勝《まさ》る敵を倒すには、先手を打つことと守勢に回らないことが重要だ。雄一が相手の体にのしかかってとどめを刺そうとした瞬間、思いがけない身軽さで警官の上半身が跳ね起きた。
「お……」
反応する間もなく、雄一は顎《あご》のすぐ真下をがっちりと掴《つか》まれた。そのまま男は雄一を掲げるように持ち上げ、立ち上がる勢いを利用して砲丸投げのように雄一の頭を体ごとドアの奥に向かって投げ飛ばした。
雄一は短い廊下をごろごろと後ろ向きに回転し、居間にまで戻ってきた。そして、壁際《かべぎわ》に置かれたサイドボードに激突《げきとつ》しながら停止する。
警官は玄関をくぐって雄一に突進し、体を起こした雄一の髪の毛を掴もうとする。
雄一《ゆういち》はその右腕をくぐるようにすり抜けて、低い姿勢から相手の右|脇腹《わきばら》に渾身《こんしん》の力をこめてストレートを見舞《みま》った。大男は苦しげに背中を丸める。
その時、雄一の視界の端で、廊下にある裕生《ひろお》の部屋のふすまが静かに開くのが見えた。裕生が葉《よう》の手を引いて、足音を忍ばせながら外へ出ていく。
(気ィつけて行けよ)
と、雄一は思った。一瞬《いっしゅん》だけ注意の途切《とぎ》れたその瞬間、いつのまにか体勢を立て直した大男の拳《こぶし》が顔にぶち当たっていた。雄一はふすまを突き破って、居間から父の吾郎《ごろう》の部屋に転がりこんだ。
(柔道もクソもねえじゃねえかよ)
雄一は自分の見込み違いを悟った。相手の攻撃《こうげき》は一方的に腕力に頼ったものだった。口から血の混じった唾《つば》を吐きながら、雄一は膝《ひざ》を立てる。
(マジでゴリラかなんか相手にしてるようなもんだな)
その「リグル」とやらは、警官《けいかん》の体を使ってはいるが、この警官の技術や経験《けいけん》を取りこむことはできないらしい。そもそも人間並みにものを考えることもできないようだった。
ただ、そのおかげで生まれる利点もある。ここに現れてから、この男は一度も拳銃《けんじゅう》を抜いていない。ドアを破る時にも使おうとしなかった。つまり、道具を使いこなすだけの知能はないということで——。
一瞬のうちにそこまで考えた時、警官が敷居《しきい》を越えて雄一のいる和室へ入ってきた。
(おいおいおい)
雄一は立ち上がりながら、二度目の見込み違いを悟った。
男は伸縮式《しんしゅくしき》の警棒を握りしめている——その程度の武器を使う知能はあるようだった。
(あの体はどう見ても柔道家だよな)
ドアチェーンを引きちぎろうとしている男を見ながら、雄一は考える。それに警察官として習得する体術は、打撃技よりも相手の動きを奪う投げ技や関節技などの方が中心のはずである。だとしたら、少しでも掴《つか》まれる部分を体から減らしておきたかった。
そもそも、この狭い建物の中で戦うこと自体が雄一には不利だった。十代半ばの頃《ころ》に何人と殴り合ったのかよく憶《おぼ》えていないが、雄一の技は基本的に「殴る」と「蹴《け》る」の二種類だけだった。彼自身は格闘技《かくとうぎ》を習ったことは一度もない。
恵まれた肉体と動体視力と反射神経、そしてほとんど動物的な勝負カンだけを頼りに危機《きき》をくぐり抜けてきた。今度もそうするつもりだった。相手が人間だろうとそうでなかろうと関係はない。
強敵なのは分かりきっていたが、むしろ雄一《ゆういち》はさっぱりした気分だった。
(お前の強さに頼ろうとする人間はいない)
先月、雄一は皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》にそう指摘された。裏表のない雄一のような人間の強さは、かえって他人を遠ざける結果になると。数日は雄一も悩んだが、そのうちあれこれ考えるのをやめた。
(そういう問題じゃねえんだ)
誰《だれ》かに頼られることが目的なのではない。たとえ誰にも頼られなくとも、自分の強さは他人のためのものだと決めている。それ以上|思《おも》い煩《わずら》う必要はない。
必要なのは自分の強さを振るうべき時を見極めることだけだ。
そして、今がその時だった。
雄一は指の関節をぽきぽき鳴らしながら、大男に向かって言った。
「……まったく、『探す・見つける・ボコる』の予定だったのによ」
どちらかというと、探されて見つけられたのは自分たちの方である。
警官《けいかん》が雄一の言葉を聞いている様子《ようす》はない。渾身《こんしん》の力をこめてドアを引いている。ぴんと伸びきったドアチェーンが軋《きし》んだ音を立てている。
「俺《おれ》の仕事が二つ減っちまったじゃねえかよ!」
突然、雄一はドアに向かって走り出した。次の瞬間《しゅんかん》、ドアチェーンが弾《はじ》けるようにぷつんと切れた。ドアの開く勢いに便乗《びんじょう》して、雄一は思いきり体重を乗せた前蹴《まえげ》りをドアに放った。
加速された鉄のドアに跳《は》ね飛ばされて、大男は背後に大きくのけぞった。藤牧家《ふじまきけ》の向かいにあるドアに、後頭部をこすりつけながらずるずると大の字に倒れた。帽子が飛んで階段を転がっていく。
(よっしゃ!)
体格に勝《まさ》る敵を倒すには、先手を打つことと守勢に回らないことが重要だ。雄一が相手の体にのしかかってとどめを刺そうとした瞬間、思いがけない身軽さで警官の上半身が跳ね起きた。
「お……」
反応する間もなく、雄一は顎《あご》のすぐ真下をがっちりと掴《つか》まれた。そのまま男は雄一を掲げるように持ち上げ、立ち上がる勢いを利用して砲丸投げのように雄一の頭を体ごとドアの奥に向かって投げ飛ばした。
雄一は短い廊下をごろごろと後ろ向きに回転し、居間にまで戻ってきた。そして、壁際《かべぎわ》に置かれたサイドボードに激突《げきとつ》しながら停止する。
警官は玄関をくぐって雄一に突進し、体を起こした雄一の髪の毛を掴もうとする。
雄一《ゆういち》はその右腕をくぐるようにすり抜けて、低い姿勢から相手の右|脇腹《わきばら》に渾身《こんしん》の力をこめてストレートを見舞《みま》った。大男は苦しげに背中を丸める。
その時、雄一の視界の端で、廊下にある裕生《ひろお》の部屋のふすまが静かに開くのが見えた。裕生が葉《よう》の手を引いて、足音を忍ばせながら外へ出ていく。
(気ィつけて行けよ)
と、雄一は思った。一瞬《いっしゅん》だけ注意の途切《とぎ》れたその瞬間、いつのまにか体勢を立て直した大男の拳《こぶし》が顔にぶち当たっていた。雄一はふすまを突き破って、居間から父の吾郎《ごろう》の部屋に転がりこんだ。
(柔道もクソもねえじゃねえかよ)
雄一は自分の見込み違いを悟った。相手の攻撃《こうげき》は一方的に腕力に頼ったものだった。口から血の混じった唾《つば》を吐きながら、雄一は膝《ひざ》を立てる。
(マジでゴリラかなんか相手にしてるようなもんだな)
その「リグル」とやらは、警官《けいかん》の体を使ってはいるが、この警官の技術や経験《けいけん》を取りこむことはできないらしい。そもそも人間並みにものを考えることもできないようだった。
ただ、そのおかげで生まれる利点もある。ここに現れてから、この男は一度も拳銃《けんじゅう》を抜いていない。ドアを破る時にも使おうとしなかった。つまり、道具を使いこなすだけの知能はないということで——。
一瞬のうちにそこまで考えた時、警官が敷居《しきい》を越えて雄一のいる和室へ入ってきた。
(おいおいおい)
雄一は立ち上がりながら、二度目の見込み違いを悟った。
男は伸縮式《しんしゅくしき》の警棒を握りしめている——その程度の武器を使う知能はあるようだった。
葉は裕生と手を繋《つな》いだまま階段を駆け下りていた。通りすぎるどのドアもぴたりと閉ざされて、階段の踊《おど》り場《ば》から見える他《ほか》の棟《むね》もほとんど明かりが消えていた。さっきの拡声器での呼びかけはかなり効果を発揮しているようだった。
『リグルに追いつめられたら、わたしを呼びなさい』
と、「黒の彼方《かなた》」が葉に話しかけてくる。
(……いやよ)
と、葉は答えた。今度の敵は「黒の彼方」では直接攻撃することができない。呼び出したところで、カゲヌシと戦えるわけではなかった。
『自分たちの命を助けるためですよ。藤牧《ふじまき》裕生が死んでもいいのですか?』
葉は自分の手を引いて走っている裕生を見上げる。
(裕生ちゃん……)
彼女にとっては裕生が最大の弱点だった。
「なにか言った?」
と、裕生《ひろお》が問いかける。葉《よう》は首を振った。
何度か階段の踊《おど》り場《ば》を回って、一階のドアの前を通りすぎようとした時、突然銃声が鳴《な》り響《ひび》いた。
「……動くな」
誰《だれ》かが暗闇《くらやみ》から声をかけてきた。
反射的に裕生は葉を自分の後ろに隠す。
団地の前にある道路に、あの菊地《きくち》という名前の小柄《こがら》な警官《けいかん》が立っていた。左手に拳銃《けんじゅう》をぶら下げている。
「昼間はずいぶんと世話になったな」
と、警官が言った。
銃を持っていない右手がかすかに震《ふる》えていた。やはり、青のリグルに支配されている。昼間のみちるとはまったく口調《くちょう》が違う。操《あやつ》っている相手の性別や年齢《ねんれい》が違っても、自在にその人間のふりをすることができるようだった。
ふと、裕生は葉と繋《つな》いでいた手を放した。葉がちらりと彼の手を見下ろすと、警官から見えないようにかたわらのドアを指さしていた。
葉は横目でそのドアを見る——一階の雛咲家《ひなさきけ》のドアの前だった。
この中へ逃げこもう、と裕生は言いたいらしい。彼女はゆっくりとスカートのポケットから鍵《かぎ》を取り出した。
「……お前らの好きにはさせないからな」
「お前たちがなにをしても無駄《むだ》だ」
警官は一歩ずつ近づいてきている。葉は音を立てないようにゆっくりと鍵穴に鍵を差しこんだ。しかし、鍵を開ければ音が聞こえてしまう。彼女がためらっていると、警官は銃口を持ち上げて二人に向けた。
「とりあえず、お前たちのうちどちらかの動きを奪う」
もう一刻の猶予《ゆうよ》もならない。相手に気づかれるのを覚悟で、葉は鍵とドアノブを同時に回す。そして、裕生が後ろへ飛びのいた瞬間《しゅんかん》に大きくドアを開いた。そこへ再び銃声が轟《とどろ》く。ドアがぶるっと震《ふる》えた。どうやら弾丸はドアが受け止めたらしかった。
葉は裕生の手を引いて真っ暗な玄関へ飛びこんだ。後から中へ入った裕生が鍵を閉め、同時にチェーンをかけた。
「あいつが団地の反対側に回ってくる前に、窓から出よう」
裕生は手探りで廊下を歩いて、しんと静まり返った雛咲家の居間へ向かう。
葉はなんとなく不吉な予感がした。
彼を先に行かせてはいけないような——。
(あ……)
居間の方から濃厚《のうこう》なカゲヌシの気配《けはい》がした。
「裕生《ひろお》ちゃん!」
思わず葉《よう》、は叫んでいた。それと同時に居間の明かりが点《つ》いた。一瞬《いっしゅん》、まぶしい光に目をつぶりそうになるのを葉は耐えた。
居間には杖《つえ》をついた千晶《ちあき》が立っていた。彼女は拳銃《けんじゅう》を構えている。銃口はまっすぐに裕生に向けられている。裕生はまだ目を閉じていた。
「だめ!」
葉は裕生に抱きついて、自分の体で銃口から彼を隠そうとする。次の瞬間、銃声とともに熱《あつ》い矢のようなものが背中のどこかに突き刺さった。
『リグルに追いつめられたら、わたしを呼びなさい』
と、「黒の彼方《かなた》」が葉に話しかけてくる。
(……いやよ)
と、葉は答えた。今度の敵は「黒の彼方」では直接攻撃することができない。呼び出したところで、カゲヌシと戦えるわけではなかった。
『自分たちの命を助けるためですよ。藤牧《ふじまき》裕生が死んでもいいのですか?』
葉は自分の手を引いて走っている裕生を見上げる。
(裕生ちゃん……)
彼女にとっては裕生が最大の弱点だった。
「なにか言った?」
と、裕生《ひろお》が問いかける。葉《よう》は首を振った。
何度か階段の踊《おど》り場《ば》を回って、一階のドアの前を通りすぎようとした時、突然銃声が鳴《な》り響《ひび》いた。
「……動くな」
誰《だれ》かが暗闇《くらやみ》から声をかけてきた。
反射的に裕生は葉を自分の後ろに隠す。
団地の前にある道路に、あの菊地《きくち》という名前の小柄《こがら》な警官《けいかん》が立っていた。左手に拳銃《けんじゅう》をぶら下げている。
「昼間はずいぶんと世話になったな」
と、警官が言った。
銃を持っていない右手がかすかに震《ふる》えていた。やはり、青のリグルに支配されている。昼間のみちるとはまったく口調《くちょう》が違う。操《あやつ》っている相手の性別や年齢《ねんれい》が違っても、自在にその人間のふりをすることができるようだった。
ふと、裕生は葉と繋《つな》いでいた手を放した。葉がちらりと彼の手を見下ろすと、警官から見えないようにかたわらのドアを指さしていた。
葉は横目でそのドアを見る——一階の雛咲家《ひなさきけ》のドアの前だった。
この中へ逃げこもう、と裕生は言いたいらしい。彼女はゆっくりとスカートのポケットから鍵《かぎ》を取り出した。
「……お前らの好きにはさせないからな」
「お前たちがなにをしても無駄《むだ》だ」
警官は一歩ずつ近づいてきている。葉は音を立てないようにゆっくりと鍵穴に鍵を差しこんだ。しかし、鍵を開ければ音が聞こえてしまう。彼女がためらっていると、警官は銃口を持ち上げて二人に向けた。
「とりあえず、お前たちのうちどちらかの動きを奪う」
もう一刻の猶予《ゆうよ》もならない。相手に気づかれるのを覚悟で、葉は鍵とドアノブを同時に回す。そして、裕生が後ろへ飛びのいた瞬間《しゅんかん》に大きくドアを開いた。そこへ再び銃声が轟《とどろ》く。ドアがぶるっと震《ふる》えた。どうやら弾丸はドアが受け止めたらしかった。
葉は裕生の手を引いて真っ暗な玄関へ飛びこんだ。後から中へ入った裕生が鍵を閉め、同時にチェーンをかけた。
「あいつが団地の反対側に回ってくる前に、窓から出よう」
裕生は手探りで廊下を歩いて、しんと静まり返った雛咲家の居間へ向かう。
葉はなんとなく不吉な予感がした。
彼を先に行かせてはいけないような——。
(あ……)
居間の方から濃厚《のうこう》なカゲヌシの気配《けはい》がした。
「裕生《ひろお》ちゃん!」
思わず葉《よう》、は叫んでいた。それと同時に居間の明かりが点《つ》いた。一瞬《いっしゅん》、まぶしい光に目をつぶりそうになるのを葉は耐えた。
居間には杖《つえ》をついた千晶《ちあき》が立っていた。彼女は拳銃《けんじゅう》を構えている。銃口はまっすぐに裕生に向けられている。裕生はまだ目を閉じていた。
「だめ!」
葉は裕生に抱きついて、自分の体で銃口から彼を隠そうとする。次の瞬間、銃声とともに熱《あつ》い矢のようなものが背中のどこかに突き刺さった。
ひゅん、とうなりを上げて合金製の警棒《けいぼう》が雄一《ゆういち》の肩をかすっていった。
「う……」
それだけでも肩の骨が軋《きし》む。雄一は体を横に開いて警官から飛びのいた。
リグルに操《あやつ》られた大男は、居間の中で合金製の警棒を振り回している。雄一は攻撃《こうげき》を避けながら家中を移動し、最終的に居間へと戻った。さっきから何度か銃声が聞こえている。早く裕生たちのもとへ行きたかったが、この男を倒すのが先決だった。
武器を手にしてからの警官の攻撃は、警棒で突くか振り下ろすかの二種類だけで、素手《すで》の時よりもむしろ単調《たんちょう》になっている。その分攻撃を読みやすくなっているが、リーチが長くなった分よけるのが難《むずか》しい。
雄一の上半身には紫色《むらさきいろ》の打ち身が無数に生まれている。それでも、奇跡的に動けなくなるような重傷はまだ負っていない。居間の中央に置かれた大きな座卓が警官の動きを制限していて、それでどうにか逃げ回ることができていた。
(あの武器をなんとかしねーとな)
大男の繰り出した突きを、敵の右側に飛びのいて避ける——この戦いで雄一はあることに気付いていた。この敵は右側に回りこまれると、なぜか反応が鈍《にぶ》くなる。どうやら両目がばらばらに動いているように見えるのは、右目がきちんと機能《きのう》していないせいらしい。
大男の突きでテレビのブラウン管が粉砕《ふんさい》された。もはや藤牧家《ふじまきけ》の居間には、原型をとどめている家具はほとんど残っていない。カーテンまで引きずり下ろされていた。
テレビに警棒の先端が突き刺さっている間に、雄一は相手の右|脇腹《わきばら》に拳《こぶし》を叩《たた》きこんだ。一瞬、男が動きを止める——もう一つ戦っているうちに分かったことは、こちらの攻撃で相手にダメージを与えられるのはボディへの攻撃だけだということだった。
雄一が両手を組んで大男の警棒を叩き落とそうとした時、大男は武器から手を離《はな》して、雄一の胸板に裏拳をぶちこんだ。
「かっ!」
妙な声を出しながら雄一《ゆういち》は居間の壁《かべ》へ飛んでいき、背中を叩《たた》きつけられた。ずるりと床《ゆか》に滑《すべ》り落ちた雄一の手に、柔らかいものが触れた。
さっき脱ぎ捨てたシャツだった。
(……これだ)
テレビから警棒《けいぼう》を引っこ抜いた警官は、雄一に駆け寄りながら彼の脳天に向かってそれを振り下ろしてくる。雄一は男の右側をすり抜けながら立ち上がった。と、同時にシャツを下から振り上げて警棒に巻きつける。さらにシャツの袖《そで》を握ったまま、相手の右側から脇腹に再びパンチを食いこませた。
相手がひるんだ隙《すき》に思いきり袖を引っ張ると、手から武器が離れた。雄一は開いたままの窓に向かって、警棒の巻きついたシャツを投げつけた。雄一のシャツは大男の武器と一緒《いっしょ》に、ベランダを飛び越えて闇《やみ》の中へ消えていった。
「……」
大男は呆然《ぼうぜん》とたたずんだ。雄一は覚悟を決める——この男が新しい武器を見つける前に、全力でこの男を殴り倒すしかない。彼は敵のふところに飛びこむように、鳩尾《みぞおち》に渾身《こんしん》の突きを叩きこんだ。大男が壁際《かべぎわ》に後退する。雄一はさらに間合いを詰めると、相手の体を壁に釘付《くぎづ》けるように幾度となく大男の腹部を殴りつけた。
<img src="img/wriggle-wriggle_203.jpg">
「ウオオオオオオ!」
警官の口からすさまじい咆哮《ほうこう》が飛び出す。彼は雄一《ゆういち》の頭をがっちりと両手ではさみこんだ。そして、途方《とほう》もない力で締《し》めつけてきた。
「うっ」
雄一の頭蓋骨《ずがいこつ》がみりみりと音を立てる。いったん殴るのをやめて、大男の手を指から引きはがしにかかろうとした——が、ぴくりとも動かない。逆に締めつける力が増した。
ぐらりと天地が傾き、意識《いしき》が遠のいた。
(倒れなかったらどうするの)
突然、奇妙にくっきりと裕生《ひろお》の声が聞こえた。
(……そうしたらまたボコる・ボコる・ボコる)
雄一はかっと大きく目を見開いた。そして、前に倍する速さで男の腹部に突きを叩きこみ始めた。一瞬《いっしゅん》、大男の力が緩《ゆる》んだが、すぐに前よりも強く雄一の頭を圧迫し始める。
「オオオオオオオ!」
雄一の口からも絶叫が洩《も》れた。耳鳴りが聞こえ、世界がぐにゃりとゆがんだが、なおも拳《こぶし》の回転を上げる。やがて周囲からゆっくりと視界そのものが閉じていった。視界が空白の中に浮かぶ小さな穴にまで縮《ちぢ》んだ時、ふっと頭を締めつけていたものが消えた。
ふと我に返ると、雄一は肩で息をしながら、壁にもたれるように倒れている大男を見下ろしていた。まだ目を開けたままで、口元はだらしなく開いている。
「……勝ったのか」
しばらくは信じられなかった。
今すぐこの場に倒れこみたいところだったが、まだやるべきことが山ほどある。
雄一は傷の痛みに顔をしかめながら、警官《けいかん》の持ち物を探った。この際、なにか使えるものがあったら持っていってしまおうと思った。まず雄一は手錠《てじょう》と手錠の鍵《かぎ》をズボンのポケットに入れ、次に拳銃《けんじゅう》のホルスターに触れた。銃は使えないし使いたくもないが、一応没収しておくに越したことはないと思った。
「……ん?」
腰についたホルスターは空《から》だった。と、いうことは他《ほか》の誰《だれ》かが中身を持っていることになる。
雄一は立ち上がった。今さらながらさっきの銃声が気になっていた。弟たちが無事に逃げることができたのか、今すぐ確《たし》かめなければならない。
彼が踵《きびす》を返そうとした時、倒れている警官の震《ふる》えが大きくなった。
さんざん雄一が殴りつけた胃のあたりが激《はげ》しく蠕動《ぜんどう》しているように見える。不意にばたりと彼は横向きに倒れて、胃の中のものを全《すべ》て吐き出し始めた。
それと同時に、ぷくりと男の喉《のど》が膨《ふく》れた。
「……なんだ?」
その膨らみの部分は徐々《じょじょ》に男の口の方へせり上がってくる。胃の中にあった大きな塊《かたまり》が、ゆっくりと食道を通って吐き出されようとしているらしい。
やがて、男の口が大きく開いて、巨大な赤い物体がぬるりと外へ滑《すべ》り出てきた。
「うおっ」
さすがの雄一《ゆういち》も飛び上がりそうになった。それはぐったりとして動かない赤い幼虫だった。
(こいつがカゲヌシ、か)
明らかにこの世界の生き物ではない。今、目の前にあるものは常識《じょうしき》を超えた存在であり、本来は人が触れるべきではないもののはずだ。
(もう後戻りはできねえな)
知らなかった頃《ころ》には戻れない。しかし、恐ろしくはなかった。裕生《ひろお》たちはすでに自分より先にここに足を踏み入れている。むしろ、知るのが遅すぎたぐらいだと思った。
「……よろしくな、バケモン」
雄一は赤のリグルを無造作につかむと、ゆっくりと立ち上がった。
「う……」
それだけでも肩の骨が軋《きし》む。雄一は体を横に開いて警官から飛びのいた。
リグルに操《あやつ》られた大男は、居間の中で合金製の警棒を振り回している。雄一は攻撃《こうげき》を避けながら家中を移動し、最終的に居間へと戻った。さっきから何度か銃声が聞こえている。早く裕生たちのもとへ行きたかったが、この男を倒すのが先決だった。
武器を手にしてからの警官の攻撃は、警棒で突くか振り下ろすかの二種類だけで、素手《すで》の時よりもむしろ単調《たんちょう》になっている。その分攻撃を読みやすくなっているが、リーチが長くなった分よけるのが難《むずか》しい。
雄一の上半身には紫色《むらさきいろ》の打ち身が無数に生まれている。それでも、奇跡的に動けなくなるような重傷はまだ負っていない。居間の中央に置かれた大きな座卓が警官の動きを制限していて、それでどうにか逃げ回ることができていた。
(あの武器をなんとかしねーとな)
大男の繰り出した突きを、敵の右側に飛びのいて避ける——この戦いで雄一はあることに気付いていた。この敵は右側に回りこまれると、なぜか反応が鈍《にぶ》くなる。どうやら両目がばらばらに動いているように見えるのは、右目がきちんと機能《きのう》していないせいらしい。
大男の突きでテレビのブラウン管が粉砕《ふんさい》された。もはや藤牧家《ふじまきけ》の居間には、原型をとどめている家具はほとんど残っていない。カーテンまで引きずり下ろされていた。
テレビに警棒の先端が突き刺さっている間に、雄一は相手の右|脇腹《わきばら》に拳《こぶし》を叩《たた》きこんだ。一瞬、男が動きを止める——もう一つ戦っているうちに分かったことは、こちらの攻撃で相手にダメージを与えられるのはボディへの攻撃だけだということだった。
雄一が両手を組んで大男の警棒を叩き落とそうとした時、大男は武器から手を離《はな》して、雄一の胸板に裏拳をぶちこんだ。
「かっ!」
妙な声を出しながら雄一《ゆういち》は居間の壁《かべ》へ飛んでいき、背中を叩《たた》きつけられた。ずるりと床《ゆか》に滑《すべ》り落ちた雄一の手に、柔らかいものが触れた。
さっき脱ぎ捨てたシャツだった。
(……これだ)
テレビから警棒《けいぼう》を引っこ抜いた警官は、雄一に駆け寄りながら彼の脳天に向かってそれを振り下ろしてくる。雄一は男の右側をすり抜けながら立ち上がった。と、同時にシャツを下から振り上げて警棒に巻きつける。さらにシャツの袖《そで》を握ったまま、相手の右側から脇腹に再びパンチを食いこませた。
相手がひるんだ隙《すき》に思いきり袖を引っ張ると、手から武器が離れた。雄一は開いたままの窓に向かって、警棒の巻きついたシャツを投げつけた。雄一のシャツは大男の武器と一緒《いっしょ》に、ベランダを飛び越えて闇《やみ》の中へ消えていった。
「……」
大男は呆然《ぼうぜん》とたたずんだ。雄一は覚悟を決める——この男が新しい武器を見つける前に、全力でこの男を殴り倒すしかない。彼は敵のふところに飛びこむように、鳩尾《みぞおち》に渾身《こんしん》の突きを叩きこんだ。大男が壁際《かべぎわ》に後退する。雄一はさらに間合いを詰めると、相手の体を壁に釘付《くぎづ》けるように幾度となく大男の腹部を殴りつけた。
<img src="img/wriggle-wriggle_203.jpg">
「ウオオオオオオ!」
警官の口からすさまじい咆哮《ほうこう》が飛び出す。彼は雄一《ゆういち》の頭をがっちりと両手ではさみこんだ。そして、途方《とほう》もない力で締《し》めつけてきた。
「うっ」
雄一の頭蓋骨《ずがいこつ》がみりみりと音を立てる。いったん殴るのをやめて、大男の手を指から引きはがしにかかろうとした——が、ぴくりとも動かない。逆に締めつける力が増した。
ぐらりと天地が傾き、意識《いしき》が遠のいた。
(倒れなかったらどうするの)
突然、奇妙にくっきりと裕生《ひろお》の声が聞こえた。
(……そうしたらまたボコる・ボコる・ボコる)
雄一はかっと大きく目を見開いた。そして、前に倍する速さで男の腹部に突きを叩きこみ始めた。一瞬《いっしゅん》、大男の力が緩《ゆる》んだが、すぐに前よりも強く雄一の頭を圧迫し始める。
「オオオオオオオ!」
雄一の口からも絶叫が洩《も》れた。耳鳴りが聞こえ、世界がぐにゃりとゆがんだが、なおも拳《こぶし》の回転を上げる。やがて周囲からゆっくりと視界そのものが閉じていった。視界が空白の中に浮かぶ小さな穴にまで縮《ちぢ》んだ時、ふっと頭を締めつけていたものが消えた。
ふと我に返ると、雄一は肩で息をしながら、壁にもたれるように倒れている大男を見下ろしていた。まだ目を開けたままで、口元はだらしなく開いている。
「……勝ったのか」
しばらくは信じられなかった。
今すぐこの場に倒れこみたいところだったが、まだやるべきことが山ほどある。
雄一は傷の痛みに顔をしかめながら、警官《けいかん》の持ち物を探った。この際、なにか使えるものがあったら持っていってしまおうと思った。まず雄一は手錠《てじょう》と手錠の鍵《かぎ》をズボンのポケットに入れ、次に拳銃《けんじゅう》のホルスターに触れた。銃は使えないし使いたくもないが、一応没収しておくに越したことはないと思った。
「……ん?」
腰についたホルスターは空《から》だった。と、いうことは他《ほか》の誰《だれ》かが中身を持っていることになる。
雄一は立ち上がった。今さらながらさっきの銃声が気になっていた。弟たちが無事に逃げることができたのか、今すぐ確《たし》かめなければならない。
彼が踵《きびす》を返そうとした時、倒れている警官の震《ふる》えが大きくなった。
さんざん雄一が殴りつけた胃のあたりが激《はげ》しく蠕動《ぜんどう》しているように見える。不意にばたりと彼は横向きに倒れて、胃の中のものを全《すべ》て吐き出し始めた。
それと同時に、ぷくりと男の喉《のど》が膨《ふく》れた。
「……なんだ?」
その膨らみの部分は徐々《じょじょ》に男の口の方へせり上がってくる。胃の中にあった大きな塊《かたまり》が、ゆっくりと食道を通って吐き出されようとしているらしい。
やがて、男の口が大きく開いて、巨大な赤い物体がぬるりと外へ滑《すべ》り出てきた。
「うおっ」
さすがの雄一《ゆういち》も飛び上がりそうになった。それはぐったりとして動かない赤い幼虫だった。
(こいつがカゲヌシ、か)
明らかにこの世界の生き物ではない。今、目の前にあるものは常識《じょうしき》を超えた存在であり、本来は人が触れるべきではないもののはずだ。
(もう後戻りはできねえな)
知らなかった頃《ころ》には戻れない。しかし、恐ろしくはなかった。裕生《ひろお》たちはすでに自分より先にここに足を踏み入れている。むしろ、知るのが遅すぎたぐらいだと思った。
「……よろしくな、バケモン」
雄一は赤のリグルを無造作につかむと、ゆっくりと立ち上がった。