裕生以外の誰《だれ》もが凍りついていた。
彼にとってはさほど驚《おどろ》くような相手ではない。この時間になるとよく出没するし、つい数日前もちょうどこの場所で見かけている。ただ、裕生以外の者がいる時に現れたのはこれが初めてだった。
「レインメイカー? あれが?」
葉《よう》——「黒の彼方《かなた》」が不審げに目を細めている。
「レインメイカーを知ってるのか?」
裕生は「黒の彼方」に問いかけた。
「わたしは知っています……しかし、あれは奇妙だ」
「奇妙?」
相手は答えなかった。ふと、裕生はレインメイカーについて千晶《ちあき》と話した時のことを思い出した。千晶が知っているレインメイカーと、裕生の知っているあの男は、全く異なっているようだった。
「『黒曜《こくよう》』を手に入れたのはレインメイカーからですか?」
と、「黒の彼方」が尋《たず》ねる。今度は裕生が沈黙《ちんもく》する番だった。
「人間に『黒曜』を与えることは、今までにはなかった」
千晶も同じことを言っている。どうやら本当のことらしいと裕生は思った。こんな風《ふう》に困惑《こんわく》している「黒の彼方」を見るのはこれが初めてだった。
しかし、裕生たちよりも大きく反応したのは千晶だった。振り返った彼女は相手を認めると、裕生たちを忘れたように杖《つえ》を突いて近づいていった。
びくっとレインメイカーが立ち止まる。千晶の接近に戸惑《とまど》っているようだった。きょろきょろと落ち着きなくあたりを見回している。結局、逃げることに決めたらしい。くるりと向きを変えて走り出そうとした。
その瞬間《しゅんかん》、千晶が叫んだ——。
「お父さん!」
レインメイカーはびくっと足を止めた。
「お父さんでしょう?」
ゆっくりと男は振り返る。
千晶はレインメイカーの前で立ち止まった。そして、杖を持っていない方の左手を伸ばし、フードの中に手を入れる。男は落ち着きなく体を揺らしているが、その場を動こうとはしなかった。彼女はマスクを外《はず》し、そしてゴーグルを首まで下ろした。
「あっ……」
裕生《ひろお》は思わず声を上げた。髪も髭《ひげ》も長く伸びて痩《や》せていたが、その顔には裕生も見覚えがあった。佐貫《さぬき》が持っていたあの写真の男。
船瀬《ふなせ》智和《ともかず》だった。
(レインメイカーの契約者が、本物の船瀬だったんだ)
四年前の船瀬の失踪《しっそう》も、レインメイカーに取《と》り憑《つ》かれたからに違いない。千晶《ちあき》は「父との静かな生活」が望みだと言っていた。加賀見《かがみ》へ来たのも、おそらく父親を捜《さが》し出すためだったのかもしれない。
「お父さんを捜すために、ずいぶん苦労したのよ……まさか、自分から来てくれるなんて」
彼女は低く笑いながら何故《なぜ》か一歩下がった。
「……手間が省《はぶ》けたわ」
不意に銃声が轟《とどろ》く。右の太ももを押さえながら船瀬が地面にごろりと転がった。拳銃《けんじゅう》を構えているのは千晶だった。裕生は呆然《ぼうぜん》と目の前の光景を見守っていた。
(父親を……撃《う》った)
「ううううあああああ!」
レインメイカーが子供のような悲鳴を上げる。青のリグルに操《あやつ》られている警官《けいかん》が、いつのまにか千晶たちのそばに立っていた。
「まずい!」
黒犬が突然レインメイカーへと一直線《いっちょくせん》に走り出す。その時にはレインメイカーの体に馬乗りになった警官が、口から青のリグルを吐き出しているところだった。それは黄色《きいろ》いフードに囲まれた顔に落ちて、するりと男の体内へと侵入していく。
黒犬があと一歩まで迫った時には、すでに幼虫はレインメイカーの体の中へ姿を消していた。急停止した「黒の彼方《かなた》」はレインメイカーの体から飛びのいた。
やがて、レインメイカーは自分の上に乗っていた警官の体を払い落とした。そして、ゆっくりと体を起こしていく。目つきも体の動きも今までとはまるで違う——そして、やはり右手が震《ふる》えている。操っているのは青のリグルだった。
「藤牧《ふじまき》裕生」
と、葉《よう》がかすれた声で言った。
「あのリグルの契約者を殺しなさい」
「え?」
「殺すべきです、今すぐ」
「そんなことできるわけないだろ!」
「人類が滅ぶかもしれませんよ」
裕生《ひろお》は絶句した。
「あの娘の目的はレインメイカーの契約者の体に、自分のカゲヌシを潜《もぐ》りこませて支配すること。そうすれば、階位から外《はず》れた特殊なカゲヌシを手に入れることができます」
裕生は黙《だま》って話を聞いていた——確《たし》かに契約者を押さえられたら、カゲヌシは言うことを聞かざるを得ない。
「このままでは『最初と最後のカゲヌシ』があの娘のものになってしまいます。わたしは契約で人間を殺せない」
その呼び名は昼間もリグルから耳にしていた。しかし——。
「なんで人間が滅ぶんだよ?」
「レインメイカーはどの世界にも最初に現れるカゲヌシです。他《ほか》のカゲヌシが餌《えさ》となる人間を絶滅させることなく、きちんと管理しているか監視《かんし》しています。そして、そのバランスがカゲヌシの側に崩《くず》れた時、『同族食い』がレインメイカーの判断でこの世界に呼ばれる。そして、カゲヌシを『間引き』します」
「な……」
それが本当なら、レインメイカーは単なる人間の味方というわけではない。「バランス」が取れていれば人間が死んでも放っておくということになる。
「レインメイカーによる適切な管理がなければ、カゲヌシたちは本能のままに人間を食い殺すでしょう。階位の中にいるカゲヌシの大半は生態系など配慮《はいりょ》しません。絶滅はしなくとも、確実《かくじつ》に人間社会は崩壊《ほうかい》するでしょうね」
裕生は並んで立っている船瀬《ふなせ》親子を見た——それぞれがカゲヌシに取《と》り憑《つ》かれている親子だった。人間がいなくなればなるほど、確かに「父との静かな生活」が送れるはずだ。
(そんな……)
それでも千晶《ちあき》を殺すわけにはいかない。どうにかしてリグルを引きずり出して、「黒の彼方《かなた》」をぶつける以外に方法はない。しかし、目的だったレインメイカーを手に入れた今、少なくとも青のリグルは船瀬の中から出てこないだろう。
「レインメイカーはどんな能力を持ってるんだ?」
「それは……」
「黒の彼方」は言いよどんだ。
「なんの相談《そうだん》をしているの、お前たちは」
勝ち誇った声で千晶が言い、裕生に向かって銃口を向けた。
「もうお前は要《い》らないわ、藤牧《ふじまき》裕生……レインメイカーが手に入ったから」
不意に裕生はこのままでは撃《う》たれると悟った。彼はなんの遮蔽物《しゃへいぶつ》もない道の真ん中にいる。契約で人間を守るはずの「黒の彼方」は離《はな》れた位置にいた。葉《よう》が裕生の前に立とうとしたが、彼はそれを押しのけた。これ以上|葉《よう》に庇《かば》われるわけにはいかない。
黒犬のカゲヌシが全速力で裕生《ひろお》たちの方へ戻ってくる。
(間に合わないな)
と、ぼんやりと思った瞬間《しゅんかん》、
「銃を捨てろ!」
誰《だれ》かの大声が聞こえた。思わず裕生があたりを見回すと、さっきまで青のリグルに操《あやつ》られていた警官《けいかん》——菊地《きくち》が片膝《かたひざ》を立てて銃を千晶《ちあき》に向けていた。
雄一《ゆういち》の言うとおり、立派《りっぱ》な警察官だと裕生は思った。
操られている時の記憶《きおく》があるのかないのか分からないが、この異常な状況で解放されてすぐに職務《しょくむ》を全《まっと》うしようとしている。
千晶は舌打ちすると、銃口の向きを警官の方へ変えた。
「黙《だま》ったら?」
「捨てるんだ!」
と、菊地は叫んだ。千晶の顔がゆがんだ。
「うるさい」
千晶は発砲した——それにつられるように、菊地も二度引き金を引いた。何発もの銃声が交差するように響《ひび》き渡った。
静寂《せいじゃく》が訪れる。
裕生は息を詰めて二人を見守った。
——やがて、ゆっくりと千晶が仰向《あおむ》けに倒れていった。
彼にとってはさほど驚《おどろ》くような相手ではない。この時間になるとよく出没するし、つい数日前もちょうどこの場所で見かけている。ただ、裕生以外の者がいる時に現れたのはこれが初めてだった。
「レインメイカー? あれが?」
葉《よう》——「黒の彼方《かなた》」が不審げに目を細めている。
「レインメイカーを知ってるのか?」
裕生は「黒の彼方」に問いかけた。
「わたしは知っています……しかし、あれは奇妙だ」
「奇妙?」
相手は答えなかった。ふと、裕生はレインメイカーについて千晶《ちあき》と話した時のことを思い出した。千晶が知っているレインメイカーと、裕生の知っているあの男は、全く異なっているようだった。
「『黒曜《こくよう》』を手に入れたのはレインメイカーからですか?」
と、「黒の彼方」が尋《たず》ねる。今度は裕生が沈黙《ちんもく》する番だった。
「人間に『黒曜』を与えることは、今までにはなかった」
千晶も同じことを言っている。どうやら本当のことらしいと裕生は思った。こんな風《ふう》に困惑《こんわく》している「黒の彼方」を見るのはこれが初めてだった。
しかし、裕生たちよりも大きく反応したのは千晶だった。振り返った彼女は相手を認めると、裕生たちを忘れたように杖《つえ》を突いて近づいていった。
びくっとレインメイカーが立ち止まる。千晶の接近に戸惑《とまど》っているようだった。きょろきょろと落ち着きなくあたりを見回している。結局、逃げることに決めたらしい。くるりと向きを変えて走り出そうとした。
その瞬間《しゅんかん》、千晶が叫んだ——。
「お父さん!」
レインメイカーはびくっと足を止めた。
「お父さんでしょう?」
ゆっくりと男は振り返る。
千晶はレインメイカーの前で立ち止まった。そして、杖を持っていない方の左手を伸ばし、フードの中に手を入れる。男は落ち着きなく体を揺らしているが、その場を動こうとはしなかった。彼女はマスクを外《はず》し、そしてゴーグルを首まで下ろした。
「あっ……」
裕生《ひろお》は思わず声を上げた。髪も髭《ひげ》も長く伸びて痩《や》せていたが、その顔には裕生も見覚えがあった。佐貫《さぬき》が持っていたあの写真の男。
船瀬《ふなせ》智和《ともかず》だった。
(レインメイカーの契約者が、本物の船瀬だったんだ)
四年前の船瀬の失踪《しっそう》も、レインメイカーに取《と》り憑《つ》かれたからに違いない。千晶《ちあき》は「父との静かな生活」が望みだと言っていた。加賀見《かがみ》へ来たのも、おそらく父親を捜《さが》し出すためだったのかもしれない。
「お父さんを捜すために、ずいぶん苦労したのよ……まさか、自分から来てくれるなんて」
彼女は低く笑いながら何故《なぜ》か一歩下がった。
「……手間が省《はぶ》けたわ」
不意に銃声が轟《とどろ》く。右の太ももを押さえながら船瀬が地面にごろりと転がった。拳銃《けんじゅう》を構えているのは千晶だった。裕生は呆然《ぼうぜん》と目の前の光景を見守っていた。
(父親を……撃《う》った)
「ううううあああああ!」
レインメイカーが子供のような悲鳴を上げる。青のリグルに操《あやつ》られている警官《けいかん》が、いつのまにか千晶たちのそばに立っていた。
「まずい!」
黒犬が突然レインメイカーへと一直線《いっちょくせん》に走り出す。その時にはレインメイカーの体に馬乗りになった警官が、口から青のリグルを吐き出しているところだった。それは黄色《きいろ》いフードに囲まれた顔に落ちて、するりと男の体内へと侵入していく。
黒犬があと一歩まで迫った時には、すでに幼虫はレインメイカーの体の中へ姿を消していた。急停止した「黒の彼方《かなた》」はレインメイカーの体から飛びのいた。
やがて、レインメイカーは自分の上に乗っていた警官の体を払い落とした。そして、ゆっくりと体を起こしていく。目つきも体の動きも今までとはまるで違う——そして、やはり右手が震《ふる》えている。操っているのは青のリグルだった。
「藤牧《ふじまき》裕生」
と、葉《よう》がかすれた声で言った。
「あのリグルの契約者を殺しなさい」
「え?」
「殺すべきです、今すぐ」
「そんなことできるわけないだろ!」
「人類が滅ぶかもしれませんよ」
裕生《ひろお》は絶句した。
「あの娘の目的はレインメイカーの契約者の体に、自分のカゲヌシを潜《もぐ》りこませて支配すること。そうすれば、階位から外《はず》れた特殊なカゲヌシを手に入れることができます」
裕生は黙《だま》って話を聞いていた——確《たし》かに契約者を押さえられたら、カゲヌシは言うことを聞かざるを得ない。
「このままでは『最初と最後のカゲヌシ』があの娘のものになってしまいます。わたしは契約で人間を殺せない」
その呼び名は昼間もリグルから耳にしていた。しかし——。
「なんで人間が滅ぶんだよ?」
「レインメイカーはどの世界にも最初に現れるカゲヌシです。他《ほか》のカゲヌシが餌《えさ》となる人間を絶滅させることなく、きちんと管理しているか監視《かんし》しています。そして、そのバランスがカゲヌシの側に崩《くず》れた時、『同族食い』がレインメイカーの判断でこの世界に呼ばれる。そして、カゲヌシを『間引き』します」
「な……」
それが本当なら、レインメイカーは単なる人間の味方というわけではない。「バランス」が取れていれば人間が死んでも放っておくということになる。
「レインメイカーによる適切な管理がなければ、カゲヌシたちは本能のままに人間を食い殺すでしょう。階位の中にいるカゲヌシの大半は生態系など配慮《はいりょ》しません。絶滅はしなくとも、確実《かくじつ》に人間社会は崩壊《ほうかい》するでしょうね」
裕生は並んで立っている船瀬《ふなせ》親子を見た——それぞれがカゲヌシに取《と》り憑《つ》かれている親子だった。人間がいなくなればなるほど、確かに「父との静かな生活」が送れるはずだ。
(そんな……)
それでも千晶《ちあき》を殺すわけにはいかない。どうにかしてリグルを引きずり出して、「黒の彼方《かなた》」をぶつける以外に方法はない。しかし、目的だったレインメイカーを手に入れた今、少なくとも青のリグルは船瀬の中から出てこないだろう。
「レインメイカーはどんな能力を持ってるんだ?」
「それは……」
「黒の彼方」は言いよどんだ。
「なんの相談《そうだん》をしているの、お前たちは」
勝ち誇った声で千晶が言い、裕生に向かって銃口を向けた。
「もうお前は要《い》らないわ、藤牧《ふじまき》裕生……レインメイカーが手に入ったから」
不意に裕生はこのままでは撃《う》たれると悟った。彼はなんの遮蔽物《しゃへいぶつ》もない道の真ん中にいる。契約で人間を守るはずの「黒の彼方」は離《はな》れた位置にいた。葉《よう》が裕生の前に立とうとしたが、彼はそれを押しのけた。これ以上|葉《よう》に庇《かば》われるわけにはいかない。
黒犬のカゲヌシが全速力で裕生《ひろお》たちの方へ戻ってくる。
(間に合わないな)
と、ぼんやりと思った瞬間《しゅんかん》、
「銃を捨てろ!」
誰《だれ》かの大声が聞こえた。思わず裕生があたりを見回すと、さっきまで青のリグルに操《あやつ》られていた警官《けいかん》——菊地《きくち》が片膝《かたひざ》を立てて銃を千晶《ちあき》に向けていた。
雄一《ゆういち》の言うとおり、立派《りっぱ》な警察官だと裕生は思った。
操られている時の記憶《きおく》があるのかないのか分からないが、この異常な状況で解放されてすぐに職務《しょくむ》を全《まっと》うしようとしている。
千晶は舌打ちすると、銃口の向きを警官の方へ変えた。
「黙《だま》ったら?」
「捨てるんだ!」
と、菊地は叫んだ。千晶の顔がゆがんだ。
「うるさい」
千晶は発砲した——それにつられるように、菊地も二度引き金を引いた。何発もの銃声が交差するように響《ひび》き渡った。
静寂《せいじゃく》が訪れる。
裕生は息を詰めて二人を見守った。
——やがて、ゆっくりと千晶が仰向《あおむ》けに倒れていった。