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病院の待合室の椅子《いす》に裕生《ひろお》は腰かけている。
夜の十一時近くになっていた。照明はほとんど消えていて、緑色《みどりいろ》の非常口の明かりだけが床《ゆか》に反射している。
船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》は即死だった。菊地《きくち》の撃《う》った弾丸は彼女の胸と喉《のど》を貫通していた。裕生たちは彼女を介抱しながら救急車を待ったが、すでに意識《いしき》はなかった。救急車が到着した時には心臓《しんぞう》も止まっていた。
菊地の方も千晶の撃った弾丸で肩を射抜《いぬ》かれていた。菊地と藤牧家《ふじまきけ》で倒れている警官《けいかん》が最初の救急車に乗ったところで、初めて裕生たちはレインメイカーがいないことに気づいた。足に重傷を負っているはずだが、いつのまにか姿を消してしまったらしい。
(……これで終わり、だよな)
あまりに呆気《あっけ》ない幕切れのせいかまだ実感はないが、契約者である千晶が死んだ今、カゲヌシも消失したはずだ。レインメイカーの体内にいた青のリグルも消えているだろう。もう一匹いたという白のリグルは、ついに目にすることなく終わってしまった。
裕生は葉《よう》や雄一《ゆういち》と一緒《いっしょ》に救急車に乗って、市民病院までやってきた。葉はすぐに弾丸の摘出手術を受け、居間は病室で眠っている。雄一は傷の手当《てあて》のついでに一晩|様子《ようす》見で入院することになった。
終わってみれば今までになく皆が傷ついた事件だった。葉も雄一も佐貫《さぬき》もみちるも、入院することになってしまった。無事なのは裕生一人だった。
(……みんながぼくの代わりになってくれたんだ)
どれもこれも裕生が負っていたかもしれない怪我《けが》ばかりだった。
「……まだ帰ってなかったんだ。なにしてるの?」
顔を上げると、青いパジャマ姿のみちるが立っていた。
「あ、うん。父さんが今このへんで泊まれるホテルを探してるとこ。見つかったら迎えに来るって」
加賀見《かがみ》団地《だんち》の裕生たちの部屋はめちゃめちゃに壊《こわ》れていて、泊まることはできなくなっていた。仕方なく父の吾郎《ごろう》は外に泊まることを決めたのだった。
「歩き回って大丈夫?」
と、裕生《ひろお》は尋《たず》ねた。
「もう全然。ちょっと寝たら元気になったよ。『黒曜《こくよう》』も人間には猛毒ってわけじゃないみたいだね。すごくまずかったけど」
ふと、みちるは言葉を切った。
「隣《となり》、座っていい?」
「え、あ、うん。どうぞ」
別に聞くことないのに、と裕生は思った。彼女は裕生の隣の椅子《いす》にすとんと腰を下ろす。ストレートの長い髪がふわっと揺れて、かすかにいい香りがした。
「なにしてたの。こんな夜中に」
と、裕生は尋ねた。
「眠れなかったから、ちょっと考えごとしてたの」
沈黙《ちんもく》が流れた。どこか別の階から、かすかに誰《だれ》かの足音が聞こえる。看護師《かんごし》が巡回しているらしい。
「あの千晶《ちあき》って子、ほんとに死んだんだよね?」
不意にみちるは尋ねた。裕生は無言でうなずいた。
「結局、あの子はなにがしたかったんだろうね。レインメイカーが自分のお父さんだったんでしょ?」
「うん……でも、父親に会うのが目的じゃなくて、多分《たぶん》レインメイカーそのものを支配したかったんだと思う。でも、それがなんのためだったのか、そのへんがよく分からないんだよ。船瀬《ふなせ》から話が聞けるわけじゃないし」
レインメイカーがどこへ行ったのかは分かっていない。かなりの深手《ふかで》を負っていたはずで、そのことを考えると少し気がかりだった。
「もしあの子が生きてたら、あたしもちょっと聞きたいことがあったかも……あたしの考えてることとか、色々|見透《みす》かされてる気がして」
「……え?」
裕生が聞き返すと、みちるは慌てたように首を振った。
「なんでもない。まあ、でももうしょうがないよね」
その時、裕生はみちるの長い髪の中に、なにか奇妙なものが混じっていることに気づいた。
「ん? ごめん。ちょっといい?」
返事を待たずに手を伸ばして、彼女の髪をかき分けた——みちるは体を固くしている。
「……これなに?」
裕生は一房《ひとふさ》の髪の毛をつまみながら言う。
その細い一房だけが真っ白になってしまっていた。
「あ、これ? なんかよく分かんないんだけど、ストレスが原因みたい。多分、すごく痛かったせいだと思うんだけど」
裕生《ひろお》は心底|驚《おどろ》いた。強い恐怖を味わった人が一晩で髪が真っ白になった、というようなものかもしれない。そんな風《ふう》になってしまうのは、よほど恐ろしい経験《けいけん》だったはずだ。
彼は黙《だま》ってその髪の毛を撫《な》で始めた。色が違うだけで、他《ほか》のところと手触りはなにも変わらない。
「退院したら染めようかなって思ってるんだけどね。なんかヘンなアクセントになっちゃってるし……放っとけばどうせまた元通りになると思うんだけど……でも……」
なおも撫で続けていると、みちるの言葉がだんだん重くなっていった。顔もうつむきかげんになっている。
「藤牧《ふじまき》……あの、あんまり触らないで。なんか照れくさい」
「あ、ご、ごめん」
裕生は慌てて手を放した。考えこんでいるうちに触っていることをつい忘れてしまっていた。お互いに話題を探しているような間が空《あ》いた。
「雛咲《ひなさき》さんの手術、大丈夫だった?」
不意にみちるが言った。
「うん……命には全然別状ないって。出血がちょっと多かっただけで」
「よかった」
みちるはにっこり笑った。
その時、玄関前のロータリーに、一台のタクシーが入ってくるのが見えた。
「あ、多分《たぶん》父さんだ……そろそろ行くね」
立ち上がりながら裕生は言った。この時間に外へ出るには、廊下を少し行ったところにある夜間出入り口を使わなければならない。
「うん……おやすみなさい」
と、みちるは言った。
夜の十一時近くになっていた。照明はほとんど消えていて、緑色《みどりいろ》の非常口の明かりだけが床《ゆか》に反射している。
船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》は即死だった。菊地《きくち》の撃《う》った弾丸は彼女の胸と喉《のど》を貫通していた。裕生たちは彼女を介抱しながら救急車を待ったが、すでに意識《いしき》はなかった。救急車が到着した時には心臓《しんぞう》も止まっていた。
菊地の方も千晶の撃った弾丸で肩を射抜《いぬ》かれていた。菊地と藤牧家《ふじまきけ》で倒れている警官《けいかん》が最初の救急車に乗ったところで、初めて裕生たちはレインメイカーがいないことに気づいた。足に重傷を負っているはずだが、いつのまにか姿を消してしまったらしい。
(……これで終わり、だよな)
あまりに呆気《あっけ》ない幕切れのせいかまだ実感はないが、契約者である千晶が死んだ今、カゲヌシも消失したはずだ。レインメイカーの体内にいた青のリグルも消えているだろう。もう一匹いたという白のリグルは、ついに目にすることなく終わってしまった。
裕生は葉《よう》や雄一《ゆういち》と一緒《いっしょ》に救急車に乗って、市民病院までやってきた。葉はすぐに弾丸の摘出手術を受け、居間は病室で眠っている。雄一は傷の手当《てあて》のついでに一晩|様子《ようす》見で入院することになった。
終わってみれば今までになく皆が傷ついた事件だった。葉も雄一も佐貫《さぬき》もみちるも、入院することになってしまった。無事なのは裕生一人だった。
(……みんながぼくの代わりになってくれたんだ)
どれもこれも裕生が負っていたかもしれない怪我《けが》ばかりだった。
「……まだ帰ってなかったんだ。なにしてるの?」
顔を上げると、青いパジャマ姿のみちるが立っていた。
「あ、うん。父さんが今このへんで泊まれるホテルを探してるとこ。見つかったら迎えに来るって」
加賀見《かがみ》団地《だんち》の裕生たちの部屋はめちゃめちゃに壊《こわ》れていて、泊まることはできなくなっていた。仕方なく父の吾郎《ごろう》は外に泊まることを決めたのだった。
「歩き回って大丈夫?」
と、裕生《ひろお》は尋《たず》ねた。
「もう全然。ちょっと寝たら元気になったよ。『黒曜《こくよう》』も人間には猛毒ってわけじゃないみたいだね。すごくまずかったけど」
ふと、みちるは言葉を切った。
「隣《となり》、座っていい?」
「え、あ、うん。どうぞ」
別に聞くことないのに、と裕生は思った。彼女は裕生の隣の椅子《いす》にすとんと腰を下ろす。ストレートの長い髪がふわっと揺れて、かすかにいい香りがした。
「なにしてたの。こんな夜中に」
と、裕生は尋ねた。
「眠れなかったから、ちょっと考えごとしてたの」
沈黙《ちんもく》が流れた。どこか別の階から、かすかに誰《だれ》かの足音が聞こえる。看護師《かんごし》が巡回しているらしい。
「あの千晶《ちあき》って子、ほんとに死んだんだよね?」
不意にみちるは尋ねた。裕生は無言でうなずいた。
「結局、あの子はなにがしたかったんだろうね。レインメイカーが自分のお父さんだったんでしょ?」
「うん……でも、父親に会うのが目的じゃなくて、多分《たぶん》レインメイカーそのものを支配したかったんだと思う。でも、それがなんのためだったのか、そのへんがよく分からないんだよ。船瀬《ふなせ》から話が聞けるわけじゃないし」
レインメイカーがどこへ行ったのかは分かっていない。かなりの深手《ふかで》を負っていたはずで、そのことを考えると少し気がかりだった。
「もしあの子が生きてたら、あたしもちょっと聞きたいことがあったかも……あたしの考えてることとか、色々|見透《みす》かされてる気がして」
「……え?」
裕生が聞き返すと、みちるは慌てたように首を振った。
「なんでもない。まあ、でももうしょうがないよね」
その時、裕生はみちるの長い髪の中に、なにか奇妙なものが混じっていることに気づいた。
「ん? ごめん。ちょっといい?」
返事を待たずに手を伸ばして、彼女の髪をかき分けた——みちるは体を固くしている。
「……これなに?」
裕生は一房《ひとふさ》の髪の毛をつまみながら言う。
その細い一房だけが真っ白になってしまっていた。
「あ、これ? なんかよく分かんないんだけど、ストレスが原因みたい。多分、すごく痛かったせいだと思うんだけど」
裕生《ひろお》は心底|驚《おどろ》いた。強い恐怖を味わった人が一晩で髪が真っ白になった、というようなものかもしれない。そんな風《ふう》になってしまうのは、よほど恐ろしい経験《けいけん》だったはずだ。
彼は黙《だま》ってその髪の毛を撫《な》で始めた。色が違うだけで、他《ほか》のところと手触りはなにも変わらない。
「退院したら染めようかなって思ってるんだけどね。なんかヘンなアクセントになっちゃってるし……放っとけばどうせまた元通りになると思うんだけど……でも……」
なおも撫で続けていると、みちるの言葉がだんだん重くなっていった。顔もうつむきかげんになっている。
「藤牧《ふじまき》……あの、あんまり触らないで。なんか照れくさい」
「あ、ご、ごめん」
裕生は慌てて手を放した。考えこんでいるうちに触っていることをつい忘れてしまっていた。お互いに話題を探しているような間が空《あ》いた。
「雛咲《ひなさき》さんの手術、大丈夫だった?」
不意にみちるが言った。
「うん……命には全然別状ないって。出血がちょっと多かっただけで」
「よかった」
みちるはにっこり笑った。
その時、玄関前のロータリーに、一台のタクシーが入ってくるのが見えた。
「あ、多分《たぶん》父さんだ……そろそろ行くね」
立ち上がりながら裕生は言った。この時間に外へ出るには、廊下を少し行ったところにある夜間出入り口を使わなければならない。
「うん……おやすみなさい」
と、みちるは言った。
夜間出入り口から外へ出てからも裕生はまだ考えていた。自分でもうまく説明できないが、さっきみちるの髪を見た時、妙に引っかかるものを感じた。
なにか決定的なことを見逃しているような気がする。
閉まった自動ドアの前にタクシーが停《と》まっている。裕生は小走りに近づいていった。
麻《あさ》のスーツ姿の吾郎《ごろう》が、顎《あご》に手を当てながらさかんに首をひねっている。
「どうしたの?」
と、裕生は声をかけた。
「いや、なんでもない。まったく誰《だれ》だか知らんが、美観《びかん》を損《そこ》ねるようなことをしてはいかんな」
言いながらタクシーへと向かった。裕生もその後を追おうとして、ふと足を止めた。
吾郎《ごろう》は考えごとをしていたのではなく、自動ドアのすぐ脇《わき》の壁《かべ》を眺めていたような気がした。
壁を見た裕生《ひろお》は凍りついた。
いつからそれがそこにあったのかは分からない。何度もここを通りすぎていたが、気づいたのは初めてだった。
壁にはどことなく三枚羽のプロペラを思わせる図形が書かれていた。三つの小さな正三角形が、頂点の一つで互いに接している。
カゲヌシのサインだった。
なにか決定的なことを見逃しているような気がする。
閉まった自動ドアの前にタクシーが停《と》まっている。裕生は小走りに近づいていった。
麻《あさ》のスーツ姿の吾郎《ごろう》が、顎《あご》に手を当てながらさかんに首をひねっている。
「どうしたの?」
と、裕生は声をかけた。
「いや、なんでもない。まったく誰《だれ》だか知らんが、美観《びかん》を損《そこ》ねるようなことをしてはいかんな」
言いながらタクシーへと向かった。裕生もその後を追おうとして、ふと足を止めた。
吾郎《ごろう》は考えごとをしていたのではなく、自動ドアのすぐ脇《わき》の壁《かべ》を眺めていたような気がした。
壁を見た裕生《ひろお》は凍りついた。
いつからそれがそこにあったのかは分からない。何度もここを通りすぎていたが、気づいたのは初めてだった。
壁にはどことなく三枚羽のプロペラを思わせる図形が書かれていた。三つの小さな正三角形が、頂点の一つで互いに接している。
カゲヌシのサインだった。