一夜明けた次の日。
まどろみの中で、葉《よう》は両親がいなくなった日の夢を見ていた。それが夢だと自分でも分かっている。前に見た映画をもう一度見ているような感覚だった。
まだ小学生の頃《ころ》の自分が団地の中を走っていく。公園のそばを通って、階段を上がって、部屋の中に飛びこむ。そしてそこからまた出ていく寸前に父に出会う。
「実は父さんたち、ちょっと出かけなきゃいけなくなった」
その話を上《うわ》の空《そら》で聞きながら、ちらちらと時計を盗み見ている。他《ほか》に気がかりなことがあるからだ。
「一人でここで父さんたちの帰りを待てるか?」
その言葉の意味も深く考えようとしない。きちんと聞いていれば、少なくともそれがどれぐらい大事な言葉かぐらいは分かったはずなのに。彼女はなにも分からずに部屋を飛び出していく。頭の中にあるのは——。
(裕生ちゃん)
目を開けると葉は病院のベッドの中にいた。枕元《まくらもと》の時計を見ると、もう昼近い時間だった。ちゃんと朝目が覚めたのだが、朝食の後にまた眠ってしまったらしい。
病室の窓の前に患者衣《かんじゃい》を着た父が立っていた。カーテンの隙間《すきま》からぼんやりと外を見ている。
「……お父さん」
葉の呼びかけに清史《きよし》は振り向いた。
「怪我《けが》をしたって聞いたからね。ちょっと無理をして見舞《みま》いに来たんだ」
清史は足を引きずるようにベッドに近づくと、椅子《いす》に腰かけた。そして、葉に笑いかける。
「裕生くんの夢を見ていたのか?」
「え……」
「寝言で名前を呼んでいたよ」
葉の顔が恥ずかしさで赤くなる。それから、首を横に振った。
「お父さんたちがいなくなった日の夢を見てた」
わずかに清史《きよし》の表情が動く——しかし、なにも言わなかった。
「わたし、秘密にしてたことがあるの」
と、葉《よう》は言った。
「秘密?」
清史は訝《いぶか》しげに目を瞬《しばたた》く。葉はこくりとうなずいた。
「一人でずっと待ってたのは、お父さんに言われたからだけじゃない」
葉は深く息を吸って、固い扉を開けるようにつぶやいた。
「罰《ばつ》だったの」
「罰?」
清史は驚《おどろ》いた様子《ようす》だった。
「あの日、わたしは裕生《ひろお》ちゃんのお見舞《みま》いに行くつもりだった。そのことしか考えてなかった。だから、お父さんの話もちゃんと聞いてなかったの。少しでも早く裕生ちゃんのところに行きたかったから」
体の奥から涙がこみ上げてきた。自分を見守っている父の顔がゆがんでいく。
「だから、お父さんたちが帰ってこないのは、神様がわたしに罰を与えたからって思ってた。お父さんたちよりも裕生ちゃんを選んだから。罰だったから、ずっとあの部屋に一人でいたの。わたしはずっと一人だって思うようにしてた。でも」
突然、葉はこらえきれなくなって両手で顔を覆《おお》った。もうそんな頃《ころ》の自分に戻ることはできない。一人ではない自分がどういうものか、思い出してしまったから。今はもう少しでも裕生と長く一緒《いっしょ》にいることを望んでいる。もうその気持ちを抑えることはできなかった。
「葉は裕生くんが好きなんだね。昔からそうだったが」
静かな声で清史は言った。
「さっき父さんの病室に裕生くんが来たよ。あとでここにも来ると思うが……コーヒーを飲みながら少し話したんだが、彼は葉をあの部屋に一人で住まわせていたことをとても悔やんでいる。自分のせいでお前を一人にしてしまったって」
葉は顔を隠したまま首を振った——今思えば、裕生を遠ざけたのは葉の方だった。それも罰のひとつと考えていた気がする。
清史の大きな手が葉の頭に触れ、いとおしむようにゆっくりと撫《な》で始めた。ふと、同じようなことが昔にもあったことを思い出した。父と二人で母が帰ってくるのを団地の居間で待ったことがある。テーブルに顔を伏せて眠りかけていた葉の頭を、父がこんな風《ふう》に撫でてくれた。
あれも両親がいなくなる直前だった気がする。
「秘密なら父さんにもある」
顔を上げると、父は葉を静かに見ていた。涙を拭《ぬぐ》いながら葉は父の言葉を待った。
何度もためらってから、ようやく沈んだ声で清史《きよし》は言った。
「父さんと母さんはうまくいっていなかった」
「え……」
(どうしてお母さんは一緒《いっしょ》じゃないんだろう)
奇妙にくっきりとその思いが蘇《よみがえ》った。やっぱり、と葉《よう》は心の中でつぶやいた。
「はっきりした理由があるわけじゃない。ただ、父さんたちが姿を消したあの頃《ころ》、母さんはもうあの部屋に住みたがっていなかった。母さんは父さんと一緒にいるだけで苦痛になっていたんだ。もし今、母さんが見つかったとしても、団地に戻りたがるとは限らないと思う」
葉は黙《だま》っていた。どう言えばいいのか彼女には分からなかった。
「退院したら、あの団地でまた父さんと二人で暮らすか?」
葉は顔を上げた。父と二人で暮らす——それがどういうことなのか、彼女にはうまく想像できなかった。まっさきに考えたのは裕生《ひろお》のことだった。まだ二ヶ月しか暮らしていないのに、退院した後に自分が帰るのは裕生のいるあの部屋しかない気がした。
「藤牧《ふじまき》さんのところに住みたいか?」
自分の心を言い当てられたようで、葉ははっと胸を衝《つ》かれた。
沈黙《ちんもく》が流れた。
「……もう少し父さんも考えよう。今、無理に結論を出すこともない」
清史は手を伸ばして、もう一度娘の頭を撫《な》でた。
まどろみの中で、葉《よう》は両親がいなくなった日の夢を見ていた。それが夢だと自分でも分かっている。前に見た映画をもう一度見ているような感覚だった。
まだ小学生の頃《ころ》の自分が団地の中を走っていく。公園のそばを通って、階段を上がって、部屋の中に飛びこむ。そしてそこからまた出ていく寸前に父に出会う。
「実は父さんたち、ちょっと出かけなきゃいけなくなった」
その話を上《うわ》の空《そら》で聞きながら、ちらちらと時計を盗み見ている。他《ほか》に気がかりなことがあるからだ。
「一人でここで父さんたちの帰りを待てるか?」
その言葉の意味も深く考えようとしない。きちんと聞いていれば、少なくともそれがどれぐらい大事な言葉かぐらいは分かったはずなのに。彼女はなにも分からずに部屋を飛び出していく。頭の中にあるのは——。
(裕生ちゃん)
目を開けると葉は病院のベッドの中にいた。枕元《まくらもと》の時計を見ると、もう昼近い時間だった。ちゃんと朝目が覚めたのだが、朝食の後にまた眠ってしまったらしい。
病室の窓の前に患者衣《かんじゃい》を着た父が立っていた。カーテンの隙間《すきま》からぼんやりと外を見ている。
「……お父さん」
葉の呼びかけに清史《きよし》は振り向いた。
「怪我《けが》をしたって聞いたからね。ちょっと無理をして見舞《みま》いに来たんだ」
清史は足を引きずるようにベッドに近づくと、椅子《いす》に腰かけた。そして、葉に笑いかける。
「裕生くんの夢を見ていたのか?」
「え……」
「寝言で名前を呼んでいたよ」
葉の顔が恥ずかしさで赤くなる。それから、首を横に振った。
「お父さんたちがいなくなった日の夢を見てた」
わずかに清史《きよし》の表情が動く——しかし、なにも言わなかった。
「わたし、秘密にしてたことがあるの」
と、葉《よう》は言った。
「秘密?」
清史は訝《いぶか》しげに目を瞬《しばたた》く。葉はこくりとうなずいた。
「一人でずっと待ってたのは、お父さんに言われたからだけじゃない」
葉は深く息を吸って、固い扉を開けるようにつぶやいた。
「罰《ばつ》だったの」
「罰?」
清史は驚《おどろ》いた様子《ようす》だった。
「あの日、わたしは裕生《ひろお》ちゃんのお見舞《みま》いに行くつもりだった。そのことしか考えてなかった。だから、お父さんの話もちゃんと聞いてなかったの。少しでも早く裕生ちゃんのところに行きたかったから」
体の奥から涙がこみ上げてきた。自分を見守っている父の顔がゆがんでいく。
「だから、お父さんたちが帰ってこないのは、神様がわたしに罰を与えたからって思ってた。お父さんたちよりも裕生ちゃんを選んだから。罰だったから、ずっとあの部屋に一人でいたの。わたしはずっと一人だって思うようにしてた。でも」
突然、葉はこらえきれなくなって両手で顔を覆《おお》った。もうそんな頃《ころ》の自分に戻ることはできない。一人ではない自分がどういうものか、思い出してしまったから。今はもう少しでも裕生と長く一緒《いっしょ》にいることを望んでいる。もうその気持ちを抑えることはできなかった。
「葉は裕生くんが好きなんだね。昔からそうだったが」
静かな声で清史は言った。
「さっき父さんの病室に裕生くんが来たよ。あとでここにも来ると思うが……コーヒーを飲みながら少し話したんだが、彼は葉をあの部屋に一人で住まわせていたことをとても悔やんでいる。自分のせいでお前を一人にしてしまったって」
葉は顔を隠したまま首を振った——今思えば、裕生を遠ざけたのは葉の方だった。それも罰のひとつと考えていた気がする。
清史の大きな手が葉の頭に触れ、いとおしむようにゆっくりと撫《な》で始めた。ふと、同じようなことが昔にもあったことを思い出した。父と二人で母が帰ってくるのを団地の居間で待ったことがある。テーブルに顔を伏せて眠りかけていた葉の頭を、父がこんな風《ふう》に撫でてくれた。
あれも両親がいなくなる直前だった気がする。
「秘密なら父さんにもある」
顔を上げると、父は葉を静かに見ていた。涙を拭《ぬぐ》いながら葉は父の言葉を待った。
何度もためらってから、ようやく沈んだ声で清史《きよし》は言った。
「父さんと母さんはうまくいっていなかった」
「え……」
(どうしてお母さんは一緒《いっしょ》じゃないんだろう)
奇妙にくっきりとその思いが蘇《よみがえ》った。やっぱり、と葉《よう》は心の中でつぶやいた。
「はっきりした理由があるわけじゃない。ただ、父さんたちが姿を消したあの頃《ころ》、母さんはもうあの部屋に住みたがっていなかった。母さんは父さんと一緒にいるだけで苦痛になっていたんだ。もし今、母さんが見つかったとしても、団地に戻りたがるとは限らないと思う」
葉は黙《だま》っていた。どう言えばいいのか彼女には分からなかった。
「退院したら、あの団地でまた父さんと二人で暮らすか?」
葉は顔を上げた。父と二人で暮らす——それがどういうことなのか、彼女にはうまく想像できなかった。まっさきに考えたのは裕生《ひろお》のことだった。まだ二ヶ月しか暮らしていないのに、退院した後に自分が帰るのは裕生のいるあの部屋しかない気がした。
「藤牧《ふじまき》さんのところに住みたいか?」
自分の心を言い当てられたようで、葉ははっと胸を衝《つ》かれた。
沈黙《ちんもく》が流れた。
「……もう少し父さんも考えよう。今、無理に結論を出すこともない」
清史は手を伸ばして、もう一度娘の頭を撫《な》でた。