その日の午後、裕生は赤く錆《さ》びた鉄の門をくぐって、敷地《しきち》の中へ入った。
三階建てのコンクリートの建物が目の前にある。ガラスはほとんど割られており、ところどころにスプレーの落書きが見える。
ここは「幽霊《ゆうれい》病院」と言われている廃業した病院である。廃墟《はいきょ》と化したこの場所に、裕生は以前にも来たことがある。ここの屋上で裕生はヒトリムシというカゲヌシに遭遇《そうぐう》していた。
背中のバッグが引っかからないように、玄関の壊《こわ》れかけたドアをくぐって病院のロビーに入る。かつてはあったはずの備品や調度品《ちょうどひん》のたぐいは全《すべ》てなくなっていた。床《ゆか》にはコンクリートやガラスのかけらが散乱している。
裕生はロビーを慎重に通り抜け、薄暗《うすぐら》い廊下へと足を踏み入れた。左右に並んでいる部屋のドアはすべて撤去《てっきょ》されている。天井《てんじょう》のパネルもところどころがはがれ落ちて、配管がむき出しになっていた。
今日《きょう》、裕生は学校を休んでいる。午前中に病院の見舞《みま》いを済ませた後で、本当は行かなければならなかったのだが、それよりも確《たし》かめなければならないことがあった。病院の佐貫《さぬき》たちには、「怪我《けが》をしたレインメイカーが心配だから捜《さが》しにいく」と言ってある。心当たりのある場所と言えばここぐらいで、そのことも佐貫《さぬき》たちには言ってあった。
ふと、廊下の一番端で裕生《ひろお》は立ち止まった。足元の床《ゆか》に赤く丸い染みがいくつか落ちている。天井《てんじょう》近くを見上げると、「手術室」というプレートがはまっていた。
裕生は中を覗《のぞ》きこんだ。タイルに覆《おお》われた壁《かべ》には窓がなく、空っぽの部屋はほとんど暗闇《くらやみ》に近い状態だった。彼は目を凝《こ》らして奥の方を覗きこむ——。
「あっ」
と、裕生はつぶやいた。黄色《きいろ》いレインコートを着た男が、隅の方で仰向《あおむ》けに倒れていた。もっとよく見ると、左足の下に赤い血だまりのようなものができている。
裕生は男に駆け寄ると背中のバッグを下ろした。そして、バッグから透明なビニール袋を取り出す。その中にはガーゼや消毒液や抗生物質などが入っている。注射器まで用意してあった。
もしレインメイカー——船瀬《ふなせ》の怪我がひどく、病院へ行かせるのが難《むずか》しいようなら、せめて簡単《かんたん》な治療《ちりょう》を施《ほどこ》そうと思ったのだった。彼はレインコートの長い裾《すそ》をまくる。ズボンの左足が赤く染まっている。目を近づけると、膝《ひざ》の少し上あたりに小さな穴が開いていた。どうやら、ここに弾丸を撃《う》ちこまれたらしい。
裕生は船瀬|智和《ともかず》の顔を確《たし》かめる。最後に見た時と同じように、フードを深くかぶってはいるが、マスクもゴーグルもしていない。
見たところ呼吸は落ち着いている。とにかく、一度フードを取ろうと手をかけた時、船瀬がかっと目を開いた。
(えっ)
レインメイカーの左手が伸びてきて、裕生の喉笛《のどぶえ》をつかんだ。彼は体を起こしながら、裕生の体をタイルの壁に強くぶつけた。衝撃《しょうげき》で彼の背中に痛みが走る。
「なにを……」
かすれた声で裕生は言った。
「お前はわたしの手で殺したかったんだ」
突然、流暢《りゅうちょう》に船瀬は言う。裕生は大きく目を見開いた。
(レインメイカーじゃない)
声そのものは違っているが、嘲《あざけ》るようなその調子《ちょうし》には聞き覚えがあった。裕生は相手の右手を見下ろす。だらりとぶらさがったまま、右手はかすかに痙攣《けいれん》していた。
「……青のリグル」
と、裕生はつぶやいた。この男の体内には青のリグルが宿《やど》ったままなのだ。船瀬はにやりと笑った。リグルに操《あやつ》られた左手にぐっと力がこもる。ますます裕生の首に指が食いこんだ。裕生は相手の指を引きはがそうとしたが、ぴくりとも動かなかった。
「わたしが生きていて驚《おどろ》いたか?」
と、相手は言った。
「もう邪魔《じゃま》は入らない。お前だけは必ず殺す」
裕生《ひろお》の気が遠くなり始めた。ごうごうと耳鳴りが聞こえ、視界がゆっくりと暗くなりかけている。彼は手探りで医薬品の詰まったビニール袋を開いた。そして、注射器の一本を取り出すと、震《ふる》える手で針のキャップを外す。
リグルが裕生を侮《あなど》っているうちに、急がなければならなかった。
彼は注射器の外筒《そとづつ》を逆手《さかて》でしっかりと握りしめ——相手の肩にぶすりと突き刺した。
「それがどうした?」
なおも力をこめながら船瀬《ふなせ》はせせら笑った。その声はひどく遠くから聞こえる。あとほんの数秒で完全に意識《いしき》を失うに違いない。
「そんな小さな針で……」
裕生は最後の力を振り絞って、親指で注射器のピストンを押しこんだ。
その瞬間《しゅんかん》、相手の動きがぴたりと止まった。左手の戒《いまし》めが外《はず》れ、裕生は喉《のど》を押さえながら相手の脇《わき》の下をくぐるように距離《きょり》を置いた。
レインメイカーの体ががくがくと震えはじめる。
「なにを……した……」
裕生は黙《だま》って相手の様子《ようす》を見守っている。がくりと船瀬は床《ゆか》に両手を突く。その腹部が激《はげ》しく動いているのが、レインコート越しにも分かった。
「『黒曜《こくよう》』をお前の体に流しこんだ」
と、裕生がつぶれた声で答えた。喋《しゃべ》ると喉がひりひり痛んだ。
「レインメイカーの体から出てこい」
「どうして……」
青のリグルが呻《うめ》くように言った。
「お前が生きてるかもしれないってことは、昨日《きのう》の晩から気が付いてた。万が一の時のために、注射器に黒曜を入れておいたんだ」
青のリグルが生きているかどうか、裕生にも確信《かくしん》はなかった。ただ、裕生がレインメイカーを捜《さが》しにこの病院へ現れることを知っていたら、おそらくはここで裕生を殺そうと待ち構えるはずだと考えたのだった。
船瀬の腹の中に入っているカゲヌシが、うねりながら口へと移動し始めた——やがて、吐瀉物《としゃぶつ》にまみれた大きな青い幼虫が、ぴしゃりと床に吐き出された。
その瞬間を裕生は見逃さなかった。バッグから以前使ったカゲヌシ用の武器を取り出す。それは五十センチほどの鉄パイプで、尖《とが》った先端を押しつけると内部のバネの力でカゲヌシの体内に「黒曜」が流しこまれる仕組みになっていた。
裕生はその武器を両手に構えて、しゃがみこみながら青い表皮にずぶりと突き刺した。スプリングが作動して、幼虫の体内に一気に「黒曜《こくよう》」が流し込まれる。青のリグルは悲鳴の代わりに激《はげ》しく身もだえし——やがて、静かになった。
裕生《ひろお》は荒い息をしながら立ち上がる。
(リグルが生きていた)
それは契約者もまだ生きていることを意味している。千晶《ちあき》ではない別の契約者がどこかにいるのだ。
赤と青のリグルはもう死んだが、千晶の言葉が正しければ、最強の「白のリグル」がまだ残っているはずだ。裕生はなにもない室内で、息を詰めて立ちつくしていた。
リグルも契約者もまだ生きている、という裕生の考えが正しければ、ここへ彼らは現れるはずだ——彼を消すために。
その時、ロビーの方から足音が聞こえてきた。裕生は思わず歯を食いしばった。彼にとっては当たって欲しくない予想だった。
裕生はバッグの中の携帯《けいたい》をつかんで、一度だけコールした。それから重い足取りで廊下へ出る。こちらへ向かって歩いてくる人物を見て、裕生は一瞬《いっしゅん》唇を震《ふる》わせた。
そうであって欲しくないと心から願《ねが》っていた人物だった。せめて他《ほか》の誰《だれ》かであって欲しかった。
「罠《わな》を仕掛けたつもりが、おびき出されたようだ」
やってきたのは葉《よう》父親——雛咲《ひなさき》清史《きよし》だった。
三階建てのコンクリートの建物が目の前にある。ガラスはほとんど割られており、ところどころにスプレーの落書きが見える。
ここは「幽霊《ゆうれい》病院」と言われている廃業した病院である。廃墟《はいきょ》と化したこの場所に、裕生は以前にも来たことがある。ここの屋上で裕生はヒトリムシというカゲヌシに遭遇《そうぐう》していた。
背中のバッグが引っかからないように、玄関の壊《こわ》れかけたドアをくぐって病院のロビーに入る。かつてはあったはずの備品や調度品《ちょうどひん》のたぐいは全《すべ》てなくなっていた。床《ゆか》にはコンクリートやガラスのかけらが散乱している。
裕生はロビーを慎重に通り抜け、薄暗《うすぐら》い廊下へと足を踏み入れた。左右に並んでいる部屋のドアはすべて撤去《てっきょ》されている。天井《てんじょう》のパネルもところどころがはがれ落ちて、配管がむき出しになっていた。
今日《きょう》、裕生は学校を休んでいる。午前中に病院の見舞《みま》いを済ませた後で、本当は行かなければならなかったのだが、それよりも確《たし》かめなければならないことがあった。病院の佐貫《さぬき》たちには、「怪我《けが》をしたレインメイカーが心配だから捜《さが》しにいく」と言ってある。心当たりのある場所と言えばここぐらいで、そのことも佐貫《さぬき》たちには言ってあった。
ふと、廊下の一番端で裕生《ひろお》は立ち止まった。足元の床《ゆか》に赤く丸い染みがいくつか落ちている。天井《てんじょう》近くを見上げると、「手術室」というプレートがはまっていた。
裕生は中を覗《のぞ》きこんだ。タイルに覆《おお》われた壁《かべ》には窓がなく、空っぽの部屋はほとんど暗闇《くらやみ》に近い状態だった。彼は目を凝《こ》らして奥の方を覗きこむ——。
「あっ」
と、裕生はつぶやいた。黄色《きいろ》いレインコートを着た男が、隅の方で仰向《あおむ》けに倒れていた。もっとよく見ると、左足の下に赤い血だまりのようなものができている。
裕生は男に駆け寄ると背中のバッグを下ろした。そして、バッグから透明なビニール袋を取り出す。その中にはガーゼや消毒液や抗生物質などが入っている。注射器まで用意してあった。
もしレインメイカー——船瀬《ふなせ》の怪我がひどく、病院へ行かせるのが難《むずか》しいようなら、せめて簡単《かんたん》な治療《ちりょう》を施《ほどこ》そうと思ったのだった。彼はレインコートの長い裾《すそ》をまくる。ズボンの左足が赤く染まっている。目を近づけると、膝《ひざ》の少し上あたりに小さな穴が開いていた。どうやら、ここに弾丸を撃《う》ちこまれたらしい。
裕生は船瀬|智和《ともかず》の顔を確《たし》かめる。最後に見た時と同じように、フードを深くかぶってはいるが、マスクもゴーグルもしていない。
見たところ呼吸は落ち着いている。とにかく、一度フードを取ろうと手をかけた時、船瀬がかっと目を開いた。
(えっ)
レインメイカーの左手が伸びてきて、裕生の喉笛《のどぶえ》をつかんだ。彼は体を起こしながら、裕生の体をタイルの壁に強くぶつけた。衝撃《しょうげき》で彼の背中に痛みが走る。
「なにを……」
かすれた声で裕生は言った。
「お前はわたしの手で殺したかったんだ」
突然、流暢《りゅうちょう》に船瀬は言う。裕生は大きく目を見開いた。
(レインメイカーじゃない)
声そのものは違っているが、嘲《あざけ》るようなその調子《ちょうし》には聞き覚えがあった。裕生は相手の右手を見下ろす。だらりとぶらさがったまま、右手はかすかに痙攣《けいれん》していた。
「……青のリグル」
と、裕生はつぶやいた。この男の体内には青のリグルが宿《やど》ったままなのだ。船瀬はにやりと笑った。リグルに操《あやつ》られた左手にぐっと力がこもる。ますます裕生の首に指が食いこんだ。裕生は相手の指を引きはがそうとしたが、ぴくりとも動かなかった。
「わたしが生きていて驚《おどろ》いたか?」
と、相手は言った。
「もう邪魔《じゃま》は入らない。お前だけは必ず殺す」
裕生《ひろお》の気が遠くなり始めた。ごうごうと耳鳴りが聞こえ、視界がゆっくりと暗くなりかけている。彼は手探りで医薬品の詰まったビニール袋を開いた。そして、注射器の一本を取り出すと、震《ふる》える手で針のキャップを外す。
リグルが裕生を侮《あなど》っているうちに、急がなければならなかった。
彼は注射器の外筒《そとづつ》を逆手《さかて》でしっかりと握りしめ——相手の肩にぶすりと突き刺した。
「それがどうした?」
なおも力をこめながら船瀬《ふなせ》はせせら笑った。その声はひどく遠くから聞こえる。あとほんの数秒で完全に意識《いしき》を失うに違いない。
「そんな小さな針で……」
裕生は最後の力を振り絞って、親指で注射器のピストンを押しこんだ。
その瞬間《しゅんかん》、相手の動きがぴたりと止まった。左手の戒《いまし》めが外《はず》れ、裕生は喉《のど》を押さえながら相手の脇《わき》の下をくぐるように距離《きょり》を置いた。
レインメイカーの体ががくがくと震えはじめる。
「なにを……した……」
裕生は黙《だま》って相手の様子《ようす》を見守っている。がくりと船瀬は床《ゆか》に両手を突く。その腹部が激《はげ》しく動いているのが、レインコート越しにも分かった。
「『黒曜《こくよう》』をお前の体に流しこんだ」
と、裕生がつぶれた声で答えた。喋《しゃべ》ると喉がひりひり痛んだ。
「レインメイカーの体から出てこい」
「どうして……」
青のリグルが呻《うめ》くように言った。
「お前が生きてるかもしれないってことは、昨日《きのう》の晩から気が付いてた。万が一の時のために、注射器に黒曜を入れておいたんだ」
青のリグルが生きているかどうか、裕生にも確信《かくしん》はなかった。ただ、裕生がレインメイカーを捜《さが》しにこの病院へ現れることを知っていたら、おそらくはここで裕生を殺そうと待ち構えるはずだと考えたのだった。
船瀬の腹の中に入っているカゲヌシが、うねりながら口へと移動し始めた——やがて、吐瀉物《としゃぶつ》にまみれた大きな青い幼虫が、ぴしゃりと床に吐き出された。
その瞬間を裕生は見逃さなかった。バッグから以前使ったカゲヌシ用の武器を取り出す。それは五十センチほどの鉄パイプで、尖《とが》った先端を押しつけると内部のバネの力でカゲヌシの体内に「黒曜」が流しこまれる仕組みになっていた。
裕生はその武器を両手に構えて、しゃがみこみながら青い表皮にずぶりと突き刺した。スプリングが作動して、幼虫の体内に一気に「黒曜《こくよう》」が流し込まれる。青のリグルは悲鳴の代わりに激《はげ》しく身もだえし——やがて、静かになった。
裕生《ひろお》は荒い息をしながら立ち上がる。
(リグルが生きていた)
それは契約者もまだ生きていることを意味している。千晶《ちあき》ではない別の契約者がどこかにいるのだ。
赤と青のリグルはもう死んだが、千晶の言葉が正しければ、最強の「白のリグル」がまだ残っているはずだ。裕生はなにもない室内で、息を詰めて立ちつくしていた。
リグルも契約者もまだ生きている、という裕生の考えが正しければ、ここへ彼らは現れるはずだ——彼を消すために。
その時、ロビーの方から足音が聞こえてきた。裕生は思わず歯を食いしばった。彼にとっては当たって欲しくない予想だった。
裕生はバッグの中の携帯《けいたい》をつかんで、一度だけコールした。それから重い足取りで廊下へ出る。こちらへ向かって歩いてくる人物を見て、裕生は一瞬《いっしゅん》唇を震《ふる》わせた。
そうであって欲しくないと心から願《ねが》っていた人物だった。せめて他《ほか》の誰《だれ》かであって欲しかった。
「罠《わな》を仕掛けたつもりが、おびき出されたようだ」
やってきたのは葉《よう》父親——雛咲《ひなさき》清史《きよし》だった。
「まさかこうもあっさりと露見するとはな」
今日《きょう》、病院で会った時とは別人のように清史は冷たい目をしていた。あの船瀬家《ふなせけ》で会った時に戻ったようだった。
「今、喋《しゃべ》っているのはリグルなんだね」
と、裕生は言った。
「むろんだ。今、この男の精神はわたしの支配下にある」
裕生はポケットの中の携帯を意識《いしき》した。
青のリグルを倒した後、コールした相手は葉だった。彼女はここから少し離《はな》れた場所で待機して、万が一の時に来ることになっていたのだ。できれば葉を巻きこみたくなかったが、リグルが本当に現れてしまった以上他に選択肢がなかった。
葉が来るまでもう少し時間がかかるだろう。それまで時間稼ぎをする必要がある。
「今日の午前中、病院でレインメイカーを捜《さが》す話をして回っていたのは、わたしたちに聞かせるためだったんだな」
裕生はうなずいた。最初に清史に世間話をしに行って、意味ありげに他の病室を回ればどこかで立ち聞きをするだろうと思ったのだ。
「いつからこの男を疑い始めた?」
と、清史《きよし》——リグルが言った。
「昨日《きのう》の晩、病院の玄関でサインを見た」
「理由はそれだけか?」
「……あとは、髪の毛」
と、裕生《ひろお》は言った。
「髪の毛?」
「船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》も、赤のリグルに操《あやつ》られていたあの『母親』も、髪の毛が白くなってた。リグルに乗っ取られるとそうなるみたいなのに、葉《よう》のお父さんだけがなんともなかった。それで変に思ったんだ。この人はなにか特別なんじゃないかって」
「当然だ。この男は契約者だ。わざわざわたしたちリグルが入りこんで操る必要はない」
「ぼくたちはずっと船瀬千晶が契約者だと思ってた。でもそうじゃなかった……あの子は白いリグルに操られてるだけだったんだな」
「そう。お前が話していたのはただの人形だ。本当の千晶は大人《おとな》しい娘だった。少しあの雛咲《ひなさき》葉に似ていたな」
清史——リグルは懐かしむような目をした。裕生の体が震《ふる》え始めた。ずっと敵だと思っていたあの少女は、一番の犠牲者だったのだ。
「じゃあ、四年間もずっと白いリグルに操られてたって言うのか?」
「そうだ。四年前、わたしたちは、あの船瀬の娘を連れてこの町を出た。途中で必要な時には他の人間をわたしたちのパーティに加えたが」
裕生は歯を食いしばった。これが本当のことなんだ、と自分に必死に言い聞かせた。残酷《ざんこく》な真実であっても、目を背《そむ》けることはできない。
「どうしてそんなことになったんだよ」
かすれた声で裕生は言った。
「なんで葉のお父さんがカゲヌシなんかに……」
外から見れば、雛咲家にはなんの問題もないように見えた。清史がカゲヌシを呼ぶような「ねがい」を抱いているとは思えなかった。
「妻だよ」
と、リグルは答えた。
「この男の妻はあの家を出ていきたがっていた。この男と別れてね。どうか妻がここから出ていかないように……それが彼の『ねがい』だったんだ」
ふと、裕生の頭をおぞましい考えがよぎった。未《いま》だに葉の母親の消息は分からないままだ。もし、四年前にカゲヌシが清史の「ねがい」に応じたのだとしたら——。
「わたしたちが町を出たのは、レインメイカーを手に入れるためだった」
裕生《ひろお》の思いを中断させるように、清史《きよし》がさらに語りかけてきた。
「船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》を連れ出したのはわたしだ。用心深いレインメイカーをおびき出すために。かつてのレインメイカーはまず人間やカゲヌシに隙《すき》を見せなかった。しかし、カゲヌシの契約を結ぶ前の船瀬は心から娘を愛していた。もし人間の自我がどこかに残っていたら、娘を使えば姿を見せるかもしれないと思ったんだ」
「じゃあ、彼女が死んだのは……」
「レインメイカーが手に入った時点で、千晶が死ぬように仕向けた。もう用済みだからな。この町では彼女に派手《はで》に動いてもらった。そうすれば彼女が全《すべ》ての罪を背負ってくれ、レインメイカーはわたしたちのものになる」
裕生の目の前が一瞬《いっしゅん》真っ暗になった。あの銃撃戦《じゅうげきせん》が頭をよぎった——確《たし》かに、あの時千晶はまるで挑発するように警官《けいかん》に銃を向けていた。
「……利用するだけ利用して、殺したのか」
「どうせ、とっくの昔に千晶の自我は崩壊《ほうかい》している。死んでいるのと変わりはしない」
清史——リグルはあっさり言った。
「リグル、お前は狂ってる」
と、裕生は震《ふる》える声で言った。
「ぼくも葉《よう》も、お前を絶対に許さない」
葉の名前を出した瞬間、相手の顔に初めて困惑《こんわく》の色が浮かんだ——しかし、それはすぐに消えた。
「お前やあの古い娘がなにを考えていようが、わたしには関係がない」
と、リグルが言った。
「古い……娘?」
清史の顔に引きつったように笑みが浮かんだ。目の焦点は定まっていなかった。
「わたし……白いリグルこそこの男の新しい娘……白く、強く、美しい娘」
熱《ねつ》に浮かされたようなその言葉に、裕生はひるんだ。
清史は目を閉じると、やさしく呼びかけるようにその名を唱《とな》えた。
「リグル・リグル」
清史の足元の影《かげ》から、純白の塊《かたまり》がゆっくりと湧《わ》き上がる。あの「赤」と「青」のリグルとは形が異なっていた。
目の前に現れたのは、白い蜘蛛《くも》のようなカゲヌシだった。大きく膨《ふく》れた腹とこぢんまりした胸の部分があり、胸からは何本もの長い脚《あし》が伸びている。そして——。
「うわああああっ!」
裕生は悲鳴を上げた。顔だけが蜘蛛のそれではなかった。そこには人間の顔がついていた。しかも、その顔に彼は見覚えがある。幼い頃《ころ》から何度も目にしてきた顔だった。
それも清史《きよし》の記憶《きおく》に合わせて、今から四年ほど前の顔になっていた。人形のように整《ととの》ったかわいらしい少女。
それは雛咲《ひなさき》葉《よう》の顔を持っていた。
その異様な蜘蛛《くも》——白のリグルは目を開ける。そして、裕生《ひろお》の顔を上目遣《うわめづか》いに見て、嘲《あざけ》るように唇をねじまげた。
「こんにちは、裕生ちゃん」
今日《きょう》、病院で会った時とは別人のように清史は冷たい目をしていた。あの船瀬家《ふなせけ》で会った時に戻ったようだった。
「今、喋《しゃべ》っているのはリグルなんだね」
と、裕生は言った。
「むろんだ。今、この男の精神はわたしの支配下にある」
裕生はポケットの中の携帯を意識《いしき》した。
青のリグルを倒した後、コールした相手は葉だった。彼女はここから少し離《はな》れた場所で待機して、万が一の時に来ることになっていたのだ。できれば葉を巻きこみたくなかったが、リグルが本当に現れてしまった以上他に選択肢がなかった。
葉が来るまでもう少し時間がかかるだろう。それまで時間稼ぎをする必要がある。
「今日の午前中、病院でレインメイカーを捜《さが》す話をして回っていたのは、わたしたちに聞かせるためだったんだな」
裕生はうなずいた。最初に清史に世間話をしに行って、意味ありげに他の病室を回ればどこかで立ち聞きをするだろうと思ったのだ。
「いつからこの男を疑い始めた?」
と、清史《きよし》——リグルが言った。
「昨日《きのう》の晩、病院の玄関でサインを見た」
「理由はそれだけか?」
「……あとは、髪の毛」
と、裕生《ひろお》は言った。
「髪の毛?」
「船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》も、赤のリグルに操《あやつ》られていたあの『母親』も、髪の毛が白くなってた。リグルに乗っ取られるとそうなるみたいなのに、葉《よう》のお父さんだけがなんともなかった。それで変に思ったんだ。この人はなにか特別なんじゃないかって」
「当然だ。この男は契約者だ。わざわざわたしたちリグルが入りこんで操る必要はない」
「ぼくたちはずっと船瀬千晶が契約者だと思ってた。でもそうじゃなかった……あの子は白いリグルに操られてるだけだったんだな」
「そう。お前が話していたのはただの人形だ。本当の千晶は大人《おとな》しい娘だった。少しあの雛咲《ひなさき》葉に似ていたな」
清史——リグルは懐かしむような目をした。裕生の体が震《ふる》え始めた。ずっと敵だと思っていたあの少女は、一番の犠牲者だったのだ。
「じゃあ、四年間もずっと白いリグルに操られてたって言うのか?」
「そうだ。四年前、わたしたちは、あの船瀬の娘を連れてこの町を出た。途中で必要な時には他の人間をわたしたちのパーティに加えたが」
裕生は歯を食いしばった。これが本当のことなんだ、と自分に必死に言い聞かせた。残酷《ざんこく》な真実であっても、目を背《そむ》けることはできない。
「どうしてそんなことになったんだよ」
かすれた声で裕生は言った。
「なんで葉のお父さんがカゲヌシなんかに……」
外から見れば、雛咲家にはなんの問題もないように見えた。清史がカゲヌシを呼ぶような「ねがい」を抱いているとは思えなかった。
「妻だよ」
と、リグルは答えた。
「この男の妻はあの家を出ていきたがっていた。この男と別れてね。どうか妻がここから出ていかないように……それが彼の『ねがい』だったんだ」
ふと、裕生の頭をおぞましい考えがよぎった。未《いま》だに葉の母親の消息は分からないままだ。もし、四年前にカゲヌシが清史の「ねがい」に応じたのだとしたら——。
「わたしたちが町を出たのは、レインメイカーを手に入れるためだった」
裕生《ひろお》の思いを中断させるように、清史《きよし》がさらに語りかけてきた。
「船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》を連れ出したのはわたしだ。用心深いレインメイカーをおびき出すために。かつてのレインメイカーはまず人間やカゲヌシに隙《すき》を見せなかった。しかし、カゲヌシの契約を結ぶ前の船瀬は心から娘を愛していた。もし人間の自我がどこかに残っていたら、娘を使えば姿を見せるかもしれないと思ったんだ」
「じゃあ、彼女が死んだのは……」
「レインメイカーが手に入った時点で、千晶が死ぬように仕向けた。もう用済みだからな。この町では彼女に派手《はで》に動いてもらった。そうすれば彼女が全《すべ》ての罪を背負ってくれ、レインメイカーはわたしたちのものになる」
裕生の目の前が一瞬《いっしゅん》真っ暗になった。あの銃撃戦《じゅうげきせん》が頭をよぎった——確《たし》かに、あの時千晶はまるで挑発するように警官《けいかん》に銃を向けていた。
「……利用するだけ利用して、殺したのか」
「どうせ、とっくの昔に千晶の自我は崩壊《ほうかい》している。死んでいるのと変わりはしない」
清史——リグルはあっさり言った。
「リグル、お前は狂ってる」
と、裕生は震《ふる》える声で言った。
「ぼくも葉《よう》も、お前を絶対に許さない」
葉の名前を出した瞬間、相手の顔に初めて困惑《こんわく》の色が浮かんだ——しかし、それはすぐに消えた。
「お前やあの古い娘がなにを考えていようが、わたしには関係がない」
と、リグルが言った。
「古い……娘?」
清史の顔に引きつったように笑みが浮かんだ。目の焦点は定まっていなかった。
「わたし……白いリグルこそこの男の新しい娘……白く、強く、美しい娘」
熱《ねつ》に浮かされたようなその言葉に、裕生はひるんだ。
清史は目を閉じると、やさしく呼びかけるようにその名を唱《とな》えた。
「リグル・リグル」
清史の足元の影《かげ》から、純白の塊《かたまり》がゆっくりと湧《わ》き上がる。あの「赤」と「青」のリグルとは形が異なっていた。
目の前に現れたのは、白い蜘蛛《くも》のようなカゲヌシだった。大きく膨《ふく》れた腹とこぢんまりした胸の部分があり、胸からは何本もの長い脚《あし》が伸びている。そして——。
「うわああああっ!」
裕生は悲鳴を上げた。顔だけが蜘蛛のそれではなかった。そこには人間の顔がついていた。しかも、その顔に彼は見覚えがある。幼い頃《ころ》から何度も目にしてきた顔だった。
それも清史《きよし》の記憶《きおく》に合わせて、今から四年ほど前の顔になっていた。人形のように整《ととの》ったかわいらしい少女。
それは雛咲《ひなさき》葉《よう》の顔を持っていた。
その異様な蜘蛛《くも》——白のリグルは目を開ける。そして、裕生《ひろお》の顔を上目遣《うわめづか》いに見て、嘲《あざけ》るように唇をねじまげた。
「こんにちは、裕生ちゃん」