ふと、白のリグルは病院の門のある方角を見た。
「古い娘が来たようね」
と、リグルが言った。
「呼んだのはお前でしょう?」
白いリグルが裕生に尋《たず》ねる。裕生は答えなかった。
「では、お前を人質に取ることにするわ」
次の瞬間《しゅんかん》、何の助走もなくぱっとリグルが跳躍《ちょうやく》し、裕生の胸に飛びついてきた。裕生はどさりとそこで尻餅《しりもち》をついた。この白のリグルは中型の犬ほどの大きさだった。単体のカゲヌシとしては小柄《こがら》だが、今の跳躍《ちょうやく》を見ても身のこなしが軽い。今まで相手にしてきた赤や青のリグルとは次元の違うカゲヌシだった。
リグルの四本の脚《あし》が伸びて、裕生《ひろお》の口をこじ開ける。必死にこの虫を押し戻そうとしたが、確実《かくじつ》にこのカゲヌシは裕生の口の中へ入ってきた。
目もくらむような苦痛が裕生の意識《いしき》を一瞬《いっしゅん》にして洗い流し、同じ苦痛が彼の意識を回復させた。彼の顎《あご》はおぞましいほど大きく開き、そこへ拳《こぶし》ほどの大きさの少女の形をした頭が侵入しようとしている。このままでは気が狂うかもしれない、と思った時、
「うっ」
彼の口の中でリグルの呻《うめ》き声が聞こえた。そして頭を抜いて外へ出ると、裕生の顔を蹴《け》るように再び飛んだ。
裕生は背中を丸めて激《はげ》しく咳《せき》こんだ。
「お前、あらかじめ『黒曜《こくよう》』を体の中に入れているわね」
リグルは苦々《にがにが》しげに言った。
「あの娘にも『黒曜』を飲ませてあるの?」
と、白い蜘蛛《くも》は裕生に尋ねた。
「だったらなんなんだよ?」
もちろん、葉《よう》にも自分と同じように飲んでもらっている。万が一、リグルに入りこまれないようにする処置だった。
「おそらく効き目はそう長く保《も》たないけれど……その間はわたしと雛咲《ひなさき》葉は一つになれないということね」
「一つに……?」
白いリグルはかさかさと床《ゆか》の上を動き、清史《きよし》のそばへ戻った。
「あの古い娘はね」
と、リグルは言った。
「自分の父親が出ていった日も、そして今日《きょう》も、父親よりもお前と一緒《いっしょ》にいることを選んだの。だからわたしがあの子の体に入って、あの子の心の代わりをするの」
リグルの白い顔にうっとりとした笑みが浮かんだ。
「そうすれば、わたしと父さんは静かな生活を送ることができる」
(わたしと父の静かな生活)
裕生は吐き気とともにその言葉を思い出した。千晶《ちあき》がみちるに言った言葉だった。船瀬《ふなせ》千晶と船瀬|智和《ともかず》のことではなかったのだ。
(リグルとこの人のことだったんだ)
その時、清史たちの後ろから葉が現れた。スカートとブラウスに着替えてはいるが、左肩のあたりが包帯で盛り上がっているのがはっきり分かる。
「ようやく来たのね。わたしの体が」
自分にそっくりの顔を持つカゲヌシを見た瞬間《しゅんかん》、葉《よう》は青い顔で一歩後ずさった。できることなら裕生《ひろお》は彼女の目と耳をふさいでやりたかった。このおぞましいカゲヌシと接触させたくなかった。
「ああ、そうだ。お前が父さんにした質問に、わたしが答えてあげる……母親はどこに行ったのか、って」
白いリグルは葉に向かって言った。
「お前の母親は、四年前にこのわたしが」
「黒の彼方《かなた》!」
裕生が驚《おどろ》くほどの強い声で葉が叫んだ。彼女の影《かげ》の中から、双頭の黒犬が飛び出してきた。「黒の彼方」は廊下を疾駆《しっく》し、リグルに襲《おそ》いかかった。白い昆虫は迫りくる巨大な牙《きば》をジャンプでかわし、「黒の彼方」の二つの首のうちの一つ——目覚めている方の頭にしがみついた。そして、尖《とが》った脚《あし》の先端を敵の体内にずぶりと差しこみながら電撃《でんげき》を放った。
黒犬はふらりとよろけたが、すぐにコンクリートの壁《かべ》にリグルを叩《たた》きつけようとする。その直前、リグルは敵の体から離《はな》れると、今度は壁と天井《てんじょう》をバウンドしながら裕生の方へ向かってきた。
そして、向きを変えて逃げようとする裕生の背中——ちょうどうなじの下あたりにしがみついた。そして、胴体と脚をぴったりと裕生の首筋に密着させる。慌てて虫を振り払おうとした瞬間、彼の体の自由がまったくきかなくなった。声を上げることもできない。
(あっ)
同時に激《はげ》しい痛みが頭からつま先までを貫いていった。
「体に触れてさえいれば、体内に入らなくとも人間の体を制御《せいぎょ》できる」
彼の耳元でリグルがささやいた。
「青と赤のリグルには脚がないから、仕方なく人間の体に入っていただけよ。むしろ脳に近いこの場所からの方が——」
裕生は彼の意思とは無関係に走り出し、すぐそばのドアから室内に飛びこんだ。自分の体とは思えないほど敏捷《びんしょう》な動きだった。わずかに右足を引きずっているが、ほとんど動きには影響《えいきょう》がない。
「——体をうまく制御できる」
リグルを乗せた裕生の体は、なにもない部屋を横切って一気に窓へとジャンプした。
(うわっ)
彼は目を閉じることもできずに迫り来る割れた窓を見つめた。必死に体をよじろうとすると、さらに痛みが激しくなって意識《いしき》がブラックアウトした。
気が付くと彼は建物の裏手の駐車場《ちゅうしゃじょう》にいる。アスファルトのあちこちがひび割れ、区画を示す白線《はくせん》はほとんど消えかかっていた。駐車場《ちゅうしゃじょう》のちょうど中心に、さびついた古いマイクロバスがうち捨てられたままになっている。四つのタイヤはすべてパンクしていて、元の色が分からないほど塗装が剥《は》げ落ちていた。
そこへ双頭の黒犬が彼らを追ってやってくる。その背後からは契約者である葉《よう》が続いていた。
「黒の彼方《かなた》」はここまでの戦いで一度も自らの能力を使っていない。左側の首には振動を自在に発する武器があるものの、その武器を使う時以外は意識《いしき》がない。それゆえに「眠り首」と呼ばれている。
「眠り首」の武器は対カゲヌシの武器としては強力だが、欠点もあった——周囲にいるカゲヌシ以外の対象をも巻きこむ恐れがある。
この場合は裕生《ひろお》とリグルの位置が近すぎた。結果として牙《きば》を使った単純な攻撃《こうげき》しかできないのだった。
(なんとかして、ぼくとこいつが離《はな》れれば……)
苦痛の中を漂いながら裕生は思う。しかし、今の裕生には体を動かすことはできない。
(……あ)
人間を操《あやつ》っている状態のリグルには、電撃《でんげき》を使うことができない。必然的に「黒の彼方」を攻撃しようとすれば、裕生から離れざるを得ないことになる。
その時に必ずチャンスがあるはずだ。
再び裕生の体が動き、驚《おどろ》くべき跳躍力《ちょうやくりょく》でマイクロバスの屋根に飛び乗った。ばん、という金属音とともにぐらぐらと車体が揺れた。
「黒の彼方」も同様にその場所への跳躍を試みる。黒犬が屋根に着地しようとしたその時、裕生の体はそこからさらに高く跳躍した。彼の体は病院の建物の二階ほどの高さにまで達した。
そこで彼の体はくるりと回転し、天地が逆になった。そこで裕生とリグルは分離《ぶんり》する。彼の体からまるで嘘《うそ》のように痛みが消えた。
「……よし」
リグルは「黒の彼方」に向かっている。こうなればあの双頭の犬もリグルを自由に攻撃できる、と思いかけた瞬間《しゅんかん》、裕生ははっと気づいた——今、自分は真《ま》っ逆《さか》さまに落ちている。このまま行けば間違いなく地面に頭から激突《げきとつ》する。
「あっ」
思わず声を上げる。みるみるうちに地面が迫ってきた。
その時、裕生の体に誰《だれ》かの手が回された。
「葉!」
葉の体が空中で裕生を受け止めていた。彼を抱いたまま、彼女はアスファルトの上に着地した。ずしん、と重い衝撃《しょうげき》が裕生の体にも伝わる——。
裕生は葉の腕から無理にすべり降りると、アスファルトの上をごろごろと転がっていった。
「黒の彼方《かなた》」の支配下にある今の葉《よう》は、普段《ふだん》よりも高い運動能力を発揮できる。しかし、裕生《ひろお》の体重を支えられるほどの筋力はもともと備わっていないはずだ。まして、今は重傷を負っている。
裕生が跳《は》ね起きると、案《あん》の定《じょう》葉は膝《ひざ》を突いたまま立ち上がれなくなっていた。裕生が彼女に駆け寄った時、マイクロバスの上からばりばりと耳障りな音が響《ひび》いた。
思わず音の方を見上げる——マイクロバスの上に立った「黒の彼方」の全身から煙が上がっている。葉の体から苦しげな声が洩《も》れて、彼女の体がさらに沈んだ。
(白のリグルは?)
あの不気味《ぶきみ》な虫の姿が見えなかった。裕生が立ち上がってあたりを見回した時、頭上からぽとりと白い物体が落ちてきた。
裕生は目を瞠《みは》った——リグルが落ちた先は、葉の背中の上だった。
「これでわたしの勝ちです」
リグルが叫んだ。葉の体はぴくりとも動かない。おそらく彼女の中で、「黒の彼方」とリグルが肉体の支配権をめぐってせめぎ合っているのだろう。
「ここから電撃《でんげき》を叩《たた》きこめば、この契約者の脊髄《せきずい》を焼くことができます」
その言葉を耳にしても、黒い犬のカゲヌシは全身をくすぶらせながら裕生と葉たちを見つめているだけだった。
「早くこの体の主導権《しゅどうけん》を渡しなさい」
と、リグルは言った。それでも「黒の彼方」は動かなかった。
あたりは水を打ったように静まり返っていた。
「……なにをしているのですか? 早くしなければ」
「わたしはお前を許さない、と言った」
突然、葉の口から小さな低い声が流れ出した。
「そう、言ったはずだ」
よく見ると「黒の彼方」の体は小刻みに震《ふる》えている。裕生は胸騒《むなさわ》ぎがした。
「わたしは契約で人間に危害を及ぼせない……そして、契約者をも傷つけられない。しかし……」
まるで呪文《じゅもん》のように「黒の彼方」の言葉が響く。
裕生は息を詰めてなにが起こるのかを待った。「黒の彼方」の本体の司令塔の口が、大きく開いているのを見た。
「わたし自身の体は別だ!」
次の瞬間《しゅんかん》、起きている方の首が「眠り首」の頭にがぶりと噛《か》みつき、自らの目の上から耳にかけてを食いちぎった。まるで噴水《ふんすい》のように黒い血がどっと噴《ふ》き出し、裕生と葉の全身を濡《ぬ》らした。
(これって……?)
なにが起こったのか最初は分からなかった。裕生《ひろお》は「黒の彼方《かなた》」の血の雨を見上げる。その血の一滴が口の中に入った時、裕生は悟った。
(『黒曜《こくよう》』?)
それは『黒曜』の匂《にお》いによく似ていた。あの毒は「同族食い」の血から作られると聞いている。だとすれば、この「黒の彼方」の血も同じような力を持ってもおかしくない。
不意に白のリグルが苦しそうに葉《よう》の背中から高く飛び上がり、黒い雨から抜け出した。裕生ははっと葉の肩に手を回して、黒い血だまりの中へ一緒《いっしょ》に体を伏せた。
上の方の空間がぞわりと震動《しんどう》するのを背中に感じた——「黒の彼方」が眠り首の能力を使ったに違いない。
やがて、最後のリグルが力なく地面に落ちてきた。
「古い娘が来たようね」
と、リグルが言った。
「呼んだのはお前でしょう?」
白いリグルが裕生に尋《たず》ねる。裕生は答えなかった。
「では、お前を人質に取ることにするわ」
次の瞬間《しゅんかん》、何の助走もなくぱっとリグルが跳躍《ちょうやく》し、裕生の胸に飛びついてきた。裕生はどさりとそこで尻餅《しりもち》をついた。この白のリグルは中型の犬ほどの大きさだった。単体のカゲヌシとしては小柄《こがら》だが、今の跳躍《ちょうやく》を見ても身のこなしが軽い。今まで相手にしてきた赤や青のリグルとは次元の違うカゲヌシだった。
リグルの四本の脚《あし》が伸びて、裕生《ひろお》の口をこじ開ける。必死にこの虫を押し戻そうとしたが、確実《かくじつ》にこのカゲヌシは裕生の口の中へ入ってきた。
目もくらむような苦痛が裕生の意識《いしき》を一瞬《いっしゅん》にして洗い流し、同じ苦痛が彼の意識を回復させた。彼の顎《あご》はおぞましいほど大きく開き、そこへ拳《こぶし》ほどの大きさの少女の形をした頭が侵入しようとしている。このままでは気が狂うかもしれない、と思った時、
「うっ」
彼の口の中でリグルの呻《うめ》き声が聞こえた。そして頭を抜いて外へ出ると、裕生の顔を蹴《け》るように再び飛んだ。
裕生は背中を丸めて激《はげ》しく咳《せき》こんだ。
「お前、あらかじめ『黒曜《こくよう》』を体の中に入れているわね」
リグルは苦々《にがにが》しげに言った。
「あの娘にも『黒曜』を飲ませてあるの?」
と、白い蜘蛛《くも》は裕生に尋ねた。
「だったらなんなんだよ?」
もちろん、葉《よう》にも自分と同じように飲んでもらっている。万が一、リグルに入りこまれないようにする処置だった。
「おそらく効き目はそう長く保《も》たないけれど……その間はわたしと雛咲《ひなさき》葉は一つになれないということね」
「一つに……?」
白いリグルはかさかさと床《ゆか》の上を動き、清史《きよし》のそばへ戻った。
「あの古い娘はね」
と、リグルは言った。
「自分の父親が出ていった日も、そして今日《きょう》も、父親よりもお前と一緒《いっしょ》にいることを選んだの。だからわたしがあの子の体に入って、あの子の心の代わりをするの」
リグルの白い顔にうっとりとした笑みが浮かんだ。
「そうすれば、わたしと父さんは静かな生活を送ることができる」
(わたしと父の静かな生活)
裕生は吐き気とともにその言葉を思い出した。千晶《ちあき》がみちるに言った言葉だった。船瀬《ふなせ》千晶と船瀬|智和《ともかず》のことではなかったのだ。
(リグルとこの人のことだったんだ)
その時、清史たちの後ろから葉が現れた。スカートとブラウスに着替えてはいるが、左肩のあたりが包帯で盛り上がっているのがはっきり分かる。
「ようやく来たのね。わたしの体が」
自分にそっくりの顔を持つカゲヌシを見た瞬間《しゅんかん》、葉《よう》は青い顔で一歩後ずさった。できることなら裕生《ひろお》は彼女の目と耳をふさいでやりたかった。このおぞましいカゲヌシと接触させたくなかった。
「ああ、そうだ。お前が父さんにした質問に、わたしが答えてあげる……母親はどこに行ったのか、って」
白いリグルは葉に向かって言った。
「お前の母親は、四年前にこのわたしが」
「黒の彼方《かなた》!」
裕生が驚《おどろ》くほどの強い声で葉が叫んだ。彼女の影《かげ》の中から、双頭の黒犬が飛び出してきた。「黒の彼方」は廊下を疾駆《しっく》し、リグルに襲《おそ》いかかった。白い昆虫は迫りくる巨大な牙《きば》をジャンプでかわし、「黒の彼方」の二つの首のうちの一つ——目覚めている方の頭にしがみついた。そして、尖《とが》った脚《あし》の先端を敵の体内にずぶりと差しこみながら電撃《でんげき》を放った。
黒犬はふらりとよろけたが、すぐにコンクリートの壁《かべ》にリグルを叩《たた》きつけようとする。その直前、リグルは敵の体から離《はな》れると、今度は壁と天井《てんじょう》をバウンドしながら裕生の方へ向かってきた。
そして、向きを変えて逃げようとする裕生の背中——ちょうどうなじの下あたりにしがみついた。そして、胴体と脚をぴったりと裕生の首筋に密着させる。慌てて虫を振り払おうとした瞬間、彼の体の自由がまったくきかなくなった。声を上げることもできない。
(あっ)
同時に激《はげ》しい痛みが頭からつま先までを貫いていった。
「体に触れてさえいれば、体内に入らなくとも人間の体を制御《せいぎょ》できる」
彼の耳元でリグルがささやいた。
「青と赤のリグルには脚がないから、仕方なく人間の体に入っていただけよ。むしろ脳に近いこの場所からの方が——」
裕生は彼の意思とは無関係に走り出し、すぐそばのドアから室内に飛びこんだ。自分の体とは思えないほど敏捷《びんしょう》な動きだった。わずかに右足を引きずっているが、ほとんど動きには影響《えいきょう》がない。
「——体をうまく制御できる」
リグルを乗せた裕生の体は、なにもない部屋を横切って一気に窓へとジャンプした。
(うわっ)
彼は目を閉じることもできずに迫り来る割れた窓を見つめた。必死に体をよじろうとすると、さらに痛みが激しくなって意識《いしき》がブラックアウトした。
気が付くと彼は建物の裏手の駐車場《ちゅうしゃじょう》にいる。アスファルトのあちこちがひび割れ、区画を示す白線《はくせん》はほとんど消えかかっていた。駐車場《ちゅうしゃじょう》のちょうど中心に、さびついた古いマイクロバスがうち捨てられたままになっている。四つのタイヤはすべてパンクしていて、元の色が分からないほど塗装が剥《は》げ落ちていた。
そこへ双頭の黒犬が彼らを追ってやってくる。その背後からは契約者である葉《よう》が続いていた。
「黒の彼方《かなた》」はここまでの戦いで一度も自らの能力を使っていない。左側の首には振動を自在に発する武器があるものの、その武器を使う時以外は意識《いしき》がない。それゆえに「眠り首」と呼ばれている。
「眠り首」の武器は対カゲヌシの武器としては強力だが、欠点もあった——周囲にいるカゲヌシ以外の対象をも巻きこむ恐れがある。
この場合は裕生《ひろお》とリグルの位置が近すぎた。結果として牙《きば》を使った単純な攻撃《こうげき》しかできないのだった。
(なんとかして、ぼくとこいつが離《はな》れれば……)
苦痛の中を漂いながら裕生は思う。しかし、今の裕生には体を動かすことはできない。
(……あ)
人間を操《あやつ》っている状態のリグルには、電撃《でんげき》を使うことができない。必然的に「黒の彼方」を攻撃しようとすれば、裕生から離れざるを得ないことになる。
その時に必ずチャンスがあるはずだ。
再び裕生の体が動き、驚《おどろ》くべき跳躍力《ちょうやくりょく》でマイクロバスの屋根に飛び乗った。ばん、という金属音とともにぐらぐらと車体が揺れた。
「黒の彼方」も同様にその場所への跳躍を試みる。黒犬が屋根に着地しようとしたその時、裕生の体はそこからさらに高く跳躍した。彼の体は病院の建物の二階ほどの高さにまで達した。
そこで彼の体はくるりと回転し、天地が逆になった。そこで裕生とリグルは分離《ぶんり》する。彼の体からまるで嘘《うそ》のように痛みが消えた。
「……よし」
リグルは「黒の彼方」に向かっている。こうなればあの双頭の犬もリグルを自由に攻撃できる、と思いかけた瞬間《しゅんかん》、裕生ははっと気づいた——今、自分は真《ま》っ逆《さか》さまに落ちている。このまま行けば間違いなく地面に頭から激突《げきとつ》する。
「あっ」
思わず声を上げる。みるみるうちに地面が迫ってきた。
その時、裕生の体に誰《だれ》かの手が回された。
「葉!」
葉の体が空中で裕生を受け止めていた。彼を抱いたまま、彼女はアスファルトの上に着地した。ずしん、と重い衝撃《しょうげき》が裕生の体にも伝わる——。
裕生は葉の腕から無理にすべり降りると、アスファルトの上をごろごろと転がっていった。
「黒の彼方《かなた》」の支配下にある今の葉《よう》は、普段《ふだん》よりも高い運動能力を発揮できる。しかし、裕生《ひろお》の体重を支えられるほどの筋力はもともと備わっていないはずだ。まして、今は重傷を負っている。
裕生が跳《は》ね起きると、案《あん》の定《じょう》葉は膝《ひざ》を突いたまま立ち上がれなくなっていた。裕生が彼女に駆け寄った時、マイクロバスの上からばりばりと耳障りな音が響《ひび》いた。
思わず音の方を見上げる——マイクロバスの上に立った「黒の彼方」の全身から煙が上がっている。葉の体から苦しげな声が洩《も》れて、彼女の体がさらに沈んだ。
(白のリグルは?)
あの不気味《ぶきみ》な虫の姿が見えなかった。裕生が立ち上がってあたりを見回した時、頭上からぽとりと白い物体が落ちてきた。
裕生は目を瞠《みは》った——リグルが落ちた先は、葉の背中の上だった。
「これでわたしの勝ちです」
リグルが叫んだ。葉の体はぴくりとも動かない。おそらく彼女の中で、「黒の彼方」とリグルが肉体の支配権をめぐってせめぎ合っているのだろう。
「ここから電撃《でんげき》を叩《たた》きこめば、この契約者の脊髄《せきずい》を焼くことができます」
その言葉を耳にしても、黒い犬のカゲヌシは全身をくすぶらせながら裕生と葉たちを見つめているだけだった。
「早くこの体の主導権《しゅどうけん》を渡しなさい」
と、リグルは言った。それでも「黒の彼方」は動かなかった。
あたりは水を打ったように静まり返っていた。
「……なにをしているのですか? 早くしなければ」
「わたしはお前を許さない、と言った」
突然、葉の口から小さな低い声が流れ出した。
「そう、言ったはずだ」
よく見ると「黒の彼方」の体は小刻みに震《ふる》えている。裕生は胸騒《むなさわ》ぎがした。
「わたしは契約で人間に危害を及ぼせない……そして、契約者をも傷つけられない。しかし……」
まるで呪文《じゅもん》のように「黒の彼方」の言葉が響く。
裕生は息を詰めてなにが起こるのかを待った。「黒の彼方」の本体の司令塔の口が、大きく開いているのを見た。
「わたし自身の体は別だ!」
次の瞬間《しゅんかん》、起きている方の首が「眠り首」の頭にがぶりと噛《か》みつき、自らの目の上から耳にかけてを食いちぎった。まるで噴水《ふんすい》のように黒い血がどっと噴《ふ》き出し、裕生と葉の全身を濡《ぬ》らした。
(これって……?)
なにが起こったのか最初は分からなかった。裕生《ひろお》は「黒の彼方《かなた》」の血の雨を見上げる。その血の一滴が口の中に入った時、裕生は悟った。
(『黒曜《こくよう》』?)
それは『黒曜』の匂《にお》いによく似ていた。あの毒は「同族食い」の血から作られると聞いている。だとすれば、この「黒の彼方」の血も同じような力を持ってもおかしくない。
不意に白のリグルが苦しそうに葉《よう》の背中から高く飛び上がり、黒い雨から抜け出した。裕生ははっと葉の肩に手を回して、黒い血だまりの中へ一緒《いっしょ》に体を伏せた。
上の方の空間がぞわりと震動《しんどう》するのを背中に感じた——「黒の彼方」が眠り首の能力を使ったに違いない。
やがて、最後のリグルが力なく地面に落ちてきた。