目を開けると彼女は電車のシートに腰を下ろしていた。電車はレールを響《ひび》かせながらどこかへ走っている。彼女の目の前には乗客たちが壁《かべ》のように立ち並んでいた。既《すで》に太陽はほとんど沈んでいるおり、かすかな光の名残《なごり》が車内に射《さ》し込んでいた。
「わたし……」
彼女は口の中で小さくつぶやく。その後に続くはずの疑問《ぎもん》がいくつも頭をよぎった——どうしてここにいるの? どこへ行こうとしているの? なにをしていたの?
霧《きり》がかかったように頭がはっきりしない。彼女はそれらの疑問をひとまず隅《すみ》に追いやった。
その前にまず思い出さなければならないことがある。
(わたしの名前)
彼女は記憶《きおく》を探る。まだそこまでは忘れてはいないはずだった。
「……よう」
すぐ耳元で誰《だれ》かの声が聞こえた。懐《なつ》かしくて心が安らぐ声。
「葉《よう》?」
水をかぶったように我《われ》に返る。聞こえているのは自分の名前だった。
雛咲《ひなさき》葉。わたしの名前。
葉は顔を上げる。声の主《ぬし》は隣《となり》に座っている少年だった。柔和《にゅうわ》な優《やさ》しげな顔立ちだが、影《かげ》が射しているせいかどことなく疲れているように見える。
「……裕生《ひろお》ちゃん」
彼の名前を思い浮かべるのにほんの少し努力が必要だった。口に出すとその呼び名はかすかに引っかかる。以前は別の名前で呼んでいた気がした。
「今、電車出たところだよ」
少しかすれた声で藤牧《ふじまき》裕生は言った。
彼の着ているシャツのあちこちが黒く汚れている。髪の毛は土か砂でもかぶったようにばさばさになっていた。さんざん地面の上を這《は》いずり回った後、という様子《ようす》だった。
彼女の胸の奥で不安が広がる。なにか良くないことが起こったのかもしれない。
「あの、わたしたち、今なにしてるんですか?」
おそるおそる葉が尋《たず》ねると、
「えっ?」
裕生は大きく目を見開いた。そして、なにかに思い当たったようにちらりと自分の腕時計を見た。
「そうか……結構、時間が過ぎたから」
自分に言い聞かせるようにつぶやき、葉に向かって笑《え》みを浮かべた。心からの笑顔《えがお》にはほど遠い。彼女を安心させるためだけに笑っている気がした。
「今日《きょう》は十月五日」
と、裕生《ひろお》は言った。日付を教えられて初めて、今日《きょう》が何日なのか思い出せない自分に気づいた。
「これから加賀見《かがみ》に帰るところ」
加賀見、という記憶《きおく》にない言葉に彼女は戸惑《とまど》った。しかし、「帰る」という言葉で自分たちの住む街の地名だと分かった。
葉《よう》えているのかも自分ではよく分からない。失った記憶が多すぎるのだ。時間の感覚もはっきりしなくなっていた。
「……手帳」
忘れてはいけないことを記した手帳をいつも持ち歩いているはずだ。一体どこにしまっただろう。自分の体を探ろうとして、ふと右手の甲に黒いマジックペンでなにか書いてあることに気づいた。
「わたし……」
彼女は口の中で小さくつぶやく。その後に続くはずの疑問《ぎもん》がいくつも頭をよぎった——どうしてここにいるの? どこへ行こうとしているの? なにをしていたの?
霧《きり》がかかったように頭がはっきりしない。彼女はそれらの疑問をひとまず隅《すみ》に追いやった。
その前にまず思い出さなければならないことがある。
(わたしの名前)
彼女は記憶《きおく》を探る。まだそこまでは忘れてはいないはずだった。
「……よう」
すぐ耳元で誰《だれ》かの声が聞こえた。懐《なつ》かしくて心が安らぐ声。
「葉《よう》?」
水をかぶったように我《われ》に返る。聞こえているのは自分の名前だった。
雛咲《ひなさき》葉。わたしの名前。
葉は顔を上げる。声の主《ぬし》は隣《となり》に座っている少年だった。柔和《にゅうわ》な優《やさ》しげな顔立ちだが、影《かげ》が射しているせいかどことなく疲れているように見える。
「……裕生《ひろお》ちゃん」
彼の名前を思い浮かべるのにほんの少し努力が必要だった。口に出すとその呼び名はかすかに引っかかる。以前は別の名前で呼んでいた気がした。
「今、電車出たところだよ」
少しかすれた声で藤牧《ふじまき》裕生は言った。
彼の着ているシャツのあちこちが黒く汚れている。髪の毛は土か砂でもかぶったようにばさばさになっていた。さんざん地面の上を這《は》いずり回った後、という様子《ようす》だった。
彼女の胸の奥で不安が広がる。なにか良くないことが起こったのかもしれない。
「あの、わたしたち、今なにしてるんですか?」
おそるおそる葉が尋《たず》ねると、
「えっ?」
裕生は大きく目を見開いた。そして、なにかに思い当たったようにちらりと自分の腕時計を見た。
「そうか……結構、時間が過ぎたから」
自分に言い聞かせるようにつぶやき、葉に向かって笑《え》みを浮かべた。心からの笑顔《えがお》にはほど遠い。彼女を安心させるためだけに笑っている気がした。
「今日《きょう》は十月五日」
と、裕生《ひろお》は言った。日付を教えられて初めて、今日《きょう》が何日なのか思い出せない自分に気づいた。
「これから加賀見《かがみ》に帰るところ」
加賀見、という記憶《きおく》にない言葉に彼女は戸惑《とまど》った。しかし、「帰る」という言葉で自分たちの住む街の地名だと分かった。
葉《よう》えているのかも自分ではよく分からない。失った記憶が多すぎるのだ。時間の感覚もはっきりしなくなっていた。
「……手帳」
忘れてはいけないことを記した手帳をいつも持ち歩いているはずだ。一体どこにしまっただろう。自分の体を探ろうとして、ふと右手の甲に黒いマジックペンでなにか書いてあることに気づいた。
手帳はスカートの左のポケット
前にも自分はこんな風《ふう》に手帳を探したことがあったに違いない。そのための注意書きなのだろう。ポケットを探ろうとして、ふと彼女は自分の服を見下ろした。
「え……?」
彼女は長袖《ながそで》のブラウスにロングスカートを身につけているが、裕生と同じように彼女の服も黒く汚れている。ブラウスの右の袖は根本から破りとられ、むき出しの白い肩が見えていた。
スカートの膝《ひざ》のあたりをこすってみると、指先が灰のようなもので汚れる。
彼女は目を上げて、立っている乗客たちを見た。皆、葉たちと同じように服を汚している。
「葉」
と、裕生は言った。
「ぼくと一緒《いっしょ》に、死ぬのは怖い?」
葉は目を瞠《みは》った。どうしてそんなことを尋《たず》ねるのか、聞き返すのがはばかられるような真剣さが裕生の声にはこもっていた。
彼女は心の深い部分に問いかけるように目を閉じた。
死ぬのはあまり怖くない。一人になる方が恐ろしかった。
「一緒だったら、いいです」
裕生はなぜかほっとしたような顔をした。
「……そっか。良かった」
裕生の額《ひたい》には汗がにじんでいる。それなのに、体はかすかに震《ふる》えていた。体調《たいちょう》が悪いのかもしれない。
ふと、葉は裕生の膝に投げ出されている左手に目を留《と》めた。
背中にぞくりと震《ふる》えが走った。
「その手は……?」
裕生《ひろお》の左手には細長い布が巻き付けられている。包帯の代わりらしかった。布の隙間《すきま》から、紫色《むらさきいろ》に腫《は》れ上がった指が何本か見えている。
指同士が編《あ》まれたようによじれ合い、でたらめな方向を向いていた。布に包まれた手の甲もあり得ない場所がぼこりと盛り上がっていた。
「あ、これ?」
裕生は軽く左手を持ち上げながら、無関心に言った。
「大した怪我《けが》じゃないよ。骨が折れてるだけだから」
「どうして病院に」
行かなかったの、という言葉を彼女は呑《の》み込んだ。裕生の左手に巻かれている布には見覚えがある。葉《よう》の着ているブラウスと同じ柄《がら》——破りとられている右の袖《そで》だった。
これを巻いたのは彼女自身らしい。
「病院に行くどころじゃなかったんだよ。ほら」
裕生は肩越しに窓の外を見る。彼にならって葉も窓を振り返った。
オレンジ色に染まったビルの群れが見える。建物の中からも、その周囲からも無数の黒煙が立ちのぼっていた。黒煙は上空で一つの塊《かたまり》となって雨雲のように空を汚していた。何機《なんき》ものヘリコプターが煙を迂回《うかい》するように空を飛び回っていた。
一つの街が燃《も》やされていた。
「……ゆめ?」
無意識《むいしき》のうちに彼女はつぶやいていた。今見ているこの光景が、現実のものとは思えなかった。
「夢じゃない」
すぐ耳元で裕生が囁《ささや》いた。かすかに震えているその声には、まぎれもない恐怖がこもっていた。
「夢じゃないんだ」
来るはずのない目覚めを待っているかのように、葉は呆然《ぼうぜん》とその光景を見つめていた。
「え……?」
彼女は長袖《ながそで》のブラウスにロングスカートを身につけているが、裕生と同じように彼女の服も黒く汚れている。ブラウスの右の袖は根本から破りとられ、むき出しの白い肩が見えていた。
スカートの膝《ひざ》のあたりをこすってみると、指先が灰のようなもので汚れる。
彼女は目を上げて、立っている乗客たちを見た。皆、葉たちと同じように服を汚している。
「葉」
と、裕生は言った。
「ぼくと一緒《いっしょ》に、死ぬのは怖い?」
葉は目を瞠《みは》った。どうしてそんなことを尋《たず》ねるのか、聞き返すのがはばかられるような真剣さが裕生の声にはこもっていた。
彼女は心の深い部分に問いかけるように目を閉じた。
死ぬのはあまり怖くない。一人になる方が恐ろしかった。
「一緒だったら、いいです」
裕生はなぜかほっとしたような顔をした。
「……そっか。良かった」
裕生の額《ひたい》には汗がにじんでいる。それなのに、体はかすかに震《ふる》えていた。体調《たいちょう》が悪いのかもしれない。
ふと、葉は裕生の膝に投げ出されている左手に目を留《と》めた。
背中にぞくりと震《ふる》えが走った。
「その手は……?」
裕生《ひろお》の左手には細長い布が巻き付けられている。包帯の代わりらしかった。布の隙間《すきま》から、紫色《むらさきいろ》に腫《は》れ上がった指が何本か見えている。
指同士が編《あ》まれたようによじれ合い、でたらめな方向を向いていた。布に包まれた手の甲もあり得ない場所がぼこりと盛り上がっていた。
「あ、これ?」
裕生は軽く左手を持ち上げながら、無関心に言った。
「大した怪我《けが》じゃないよ。骨が折れてるだけだから」
「どうして病院に」
行かなかったの、という言葉を彼女は呑《の》み込んだ。裕生の左手に巻かれている布には見覚えがある。葉《よう》の着ているブラウスと同じ柄《がら》——破りとられている右の袖《そで》だった。
これを巻いたのは彼女自身らしい。
「病院に行くどころじゃなかったんだよ。ほら」
裕生は肩越しに窓の外を見る。彼にならって葉も窓を振り返った。
オレンジ色に染まったビルの群れが見える。建物の中からも、その周囲からも無数の黒煙が立ちのぼっていた。黒煙は上空で一つの塊《かたまり》となって雨雲のように空を汚していた。何機《なんき》ものヘリコプターが煙を迂回《うかい》するように空を飛び回っていた。
一つの街が燃《も》やされていた。
「……ゆめ?」
無意識《むいしき》のうちに彼女はつぶやいていた。今見ているこの光景が、現実のものとは思えなかった。
「夢じゃない」
すぐ耳元で裕生が囁《ささや》いた。かすかに震えているその声には、まぎれもない恐怖がこもっていた。
「夢じゃないんだ」
来るはずのない目覚めを待っているかのように、葉は呆然《ぼうぜん》とその光景を見つめていた。