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十月四日。加賀見《かがみ》高校。
下校のチャイムが鳴っている。昇降口《しょうこうぐち》まで来た時、藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》は下駄箱《げたばこ》で靴を履《は》き替えている見慣《みな》れた女子生徒の姿に気づいた。
裕生には背を向けているが、腰まで伸びたロングヘアといい、すらりとした体型といい、見間違いようがない。
「西尾《にしお》!」
と、裕生は言う。同じクラスの西尾みちるだった。一瞬《いっしゅん》、声に反応して足を止めたように見えたが、振り返らずに玄関から小走りに出て行ってしまう。裕生もあわただしく靴を履き替えると、人混みをすり抜けて校舎の外へ走り出た。
あたりをきょろきょろと見回したが、もう見失っていた。
「どした?」
振り返ると小太りの男子生徒が立っている。友人の佐貫《さぬき》峻《たかし》だった。ギプスに固められた右腕を首から吊《つ》っている。まだ帰るつもりはないのか、バッグは持っていない。
「今、西尾がいたんだけど、声かけたのに行っちゃったんだよ」
「……なんか用事でもあったんじゃねえのか?」
「うん……まあ、そうかもしれないけど」
裕生は納得が行かなかった。みちると佐貫と三人で一緒《いっしょ》にいることが多かったが、最近教室でみちるに話しかけられた記憶《きおく》がほとんどない。
「最近、西尾に避けられてる気がするんだけど」
佐貫の顔にちらりと困った表情が浮かんだ気がした。
「……そうだったか?」
「なんか変だよ、最近」
と、裕生は言った。
「ぼく、なにか怒らせるようなことしたかな」
みちるはさっぱりした性格で、なにか言いたいことがあればきちんと言うはずだ。そうしないのはよほどの事情があるのではないかと思う。
「それはないないないない。絶対あり得ない」
なぜかきっぱりと佐貫《さぬき》は否定する。
「怒ってるとかじゃなくて、どっちかっていうと……」
一瞬《いっしゅん》、佐貫は口をつぐんだ。
「……色々あったからな。ちょっと元気ないだけじゃないか」
「そうかなあ」
確《たし》かにみちるは裕生《ひろお》や佐貫と一緒《いっしょ》している。精神的なショックが残っていてもおかしくはないのだが、どうしてそれが裕生を避けるという行動に結び付くのかよく分からなかった。それに佐貫とは以前と変わりなく接している気がする。
「お前、もう帰るんだろ?」
佐貫は話題を変えるように言い、裕生はうなずいた。
「うん……団地で葉《よう》が待ってると思うし」
裕生の幼馴染《おさななじ》みの雛咲《ひなさき》葉には秘密がある。
彼女は「カゲヌシ」という異世界の怪物に取《と》り憑《つ》かれている。カゲヌシは人間の秘めた「ねがい」に呼ばれて現れ、それを叶《かな》える代わりに宿主《やどぬし》以外の人間を捕食する。しかし、人間を食べるたびにカゲヌシの力も増し、やがて人間の自我《じが》を完全に乗っ取ってしまう。
葉に取り憑いているカゲヌシの名前は「黒の彼方《かなた》」。双頭の犬の姿をしている。この「黒の彼方」だけは人間ではなく他《ほか》のカゲヌシを餌《えさ》としており、そのために「同族食い」と呼ばれて同じ種族からも忌《い》み嫌《きら》われていた。
今、葉は学校を休学している。一ヶ月前に負った怪我《けが》の治療《ちりょう》という名目になっているが、退院した後も学校へ戻っていない。葉の精神は少しずつ「黒の彼方」に浸食され、記憶《きおく》を失いつつある。もう通学して授業を受けられる状態ではなかった。
裕生の目的は葉をカゲヌシから解放することにあった。
「佐貫はこれから部活行くの?」
と、裕生は言った。佐貫はまた微妙な表情を浮かべる。
「いや、そうじゃないけど……ちょっと人と待ち合わせしてたんだ。お前は早く帰って雛咲さんに顔見せてやれよ。なんかあったら連絡するから」
佐貫とみちるは葉の事情を知っている。二人とも裕生たちに協力してくれていた。
「うん……分かった」
裕生は戸惑《とまど》っていた。なんとなく追い立てられている気もするが、急いで帰りたいのは本当だった。
「じゃあ、また明日《あした》」
背中に佐貫の視線《しせん》を感じつつ、裕生は歩き出した。
下校のチャイムが鳴っている。昇降口《しょうこうぐち》まで来た時、藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》は下駄箱《げたばこ》で靴を履《は》き替えている見慣《みな》れた女子生徒の姿に気づいた。
裕生には背を向けているが、腰まで伸びたロングヘアといい、すらりとした体型といい、見間違いようがない。
「西尾《にしお》!」
と、裕生は言う。同じクラスの西尾みちるだった。一瞬《いっしゅん》、声に反応して足を止めたように見えたが、振り返らずに玄関から小走りに出て行ってしまう。裕生もあわただしく靴を履き替えると、人混みをすり抜けて校舎の外へ走り出た。
あたりをきょろきょろと見回したが、もう見失っていた。
「どした?」
振り返ると小太りの男子生徒が立っている。友人の佐貫《さぬき》峻《たかし》だった。ギプスに固められた右腕を首から吊《つ》っている。まだ帰るつもりはないのか、バッグは持っていない。
「今、西尾がいたんだけど、声かけたのに行っちゃったんだよ」
「……なんか用事でもあったんじゃねえのか?」
「うん……まあ、そうかもしれないけど」
裕生は納得が行かなかった。みちると佐貫と三人で一緒《いっしょ》にいることが多かったが、最近教室でみちるに話しかけられた記憶《きおく》がほとんどない。
「最近、西尾に避けられてる気がするんだけど」
佐貫の顔にちらりと困った表情が浮かんだ気がした。
「……そうだったか?」
「なんか変だよ、最近」
と、裕生は言った。
「ぼく、なにか怒らせるようなことしたかな」
みちるはさっぱりした性格で、なにか言いたいことがあればきちんと言うはずだ。そうしないのはよほどの事情があるのではないかと思う。
「それはないないないない。絶対あり得ない」
なぜかきっぱりと佐貫《さぬき》は否定する。
「怒ってるとかじゃなくて、どっちかっていうと……」
一瞬《いっしゅん》、佐貫は口をつぐんだ。
「……色々あったからな。ちょっと元気ないだけじゃないか」
「そうかなあ」
確《たし》かにみちるは裕生《ひろお》や佐貫と一緒《いっしょ》している。精神的なショックが残っていてもおかしくはないのだが、どうしてそれが裕生を避けるという行動に結び付くのかよく分からなかった。それに佐貫とは以前と変わりなく接している気がする。
「お前、もう帰るんだろ?」
佐貫は話題を変えるように言い、裕生はうなずいた。
「うん……団地で葉《よう》が待ってると思うし」
裕生の幼馴染《おさななじ》みの雛咲《ひなさき》葉には秘密がある。
彼女は「カゲヌシ」という異世界の怪物に取《と》り憑《つ》かれている。カゲヌシは人間の秘めた「ねがい」に呼ばれて現れ、それを叶《かな》える代わりに宿主《やどぬし》以外の人間を捕食する。しかし、人間を食べるたびにカゲヌシの力も増し、やがて人間の自我《じが》を完全に乗っ取ってしまう。
葉に取り憑いているカゲヌシの名前は「黒の彼方《かなた》」。双頭の犬の姿をしている。この「黒の彼方」だけは人間ではなく他《ほか》のカゲヌシを餌《えさ》としており、そのために「同族食い」と呼ばれて同じ種族からも忌《い》み嫌《きら》われていた。
今、葉は学校を休学している。一ヶ月前に負った怪我《けが》の治療《ちりょう》という名目になっているが、退院した後も学校へ戻っていない。葉の精神は少しずつ「黒の彼方」に浸食され、記憶《きおく》を失いつつある。もう通学して授業を受けられる状態ではなかった。
裕生の目的は葉をカゲヌシから解放することにあった。
「佐貫はこれから部活行くの?」
と、裕生は言った。佐貫はまた微妙な表情を浮かべる。
「いや、そうじゃないけど……ちょっと人と待ち合わせしてたんだ。お前は早く帰って雛咲さんに顔見せてやれよ。なんかあったら連絡するから」
佐貫とみちるは葉の事情を知っている。二人とも裕生たちに協力してくれていた。
「うん……分かった」
裕生は戸惑《とまど》っていた。なんとなく追い立てられている気もするが、急いで帰りたいのは本当だった。
「じゃあ、また明日《あした》」
背中に佐貫の視線《しせん》を感じつつ、裕生は歩き出した。
裕生が校門を出るまで見送った佐貫は、軽くため息をついた。
校舎の玄関からはコンクリートの屋根が張り出していて、太い柱がそれを支えている。佐貫《さぬき》は柱へ近づいて行き、反対側を覗《のぞ》き込んだ。
「もう行ったぞ」
と、無愛想《ぶあいそう》に言った。
「……ごめん」
みちるが柱にぴったりと背中を預けて立っていた。裕生《ひろお》に見つからないよう隠れていたのだった。
「ま、別に謝《あやま》らなくていいんだけどよ……」
佐貫が校舎の前にいたのは、みちると待ち合わせをするためだった。彼女に話しておきたいことがあった。
「なにも隠れることねえだろ」
と、佐貫は言った。うつむいたみちるの顔は真《ま》っ赤《か》になっている。
「裕生の奴《やつ》、ニブいけど、いくらなんでもバレるぞ。もっと普通にしてろよ」
「……うん」
蚊《か》の鳴くような声でみちるは答えた。
「とにかく行こうぜ」
佐貫は彼女を促《うなが》して歩き出した。体育館《たいいくかん》裏の部室棟に、佐貫の所属する部活の部室がある。邪魔《じゃま》が入らないのでそこで話すつもりだった。二人は校舎の角を曲がった。
佐貫はみちるの横顔を見る。彼女の長い髪は一房《ひとふさ》だけ白くなっている。今月の初めに起こった事件でそうなったのだが、彼女の心の方にはもっと別の変化が起こっていた。
「この際だから聞くけどよ」
と、佐貫は言った。
「なに?」
暗い声でみちるは言う。佐貫はどう尋《たず》ねようか迷ったが、みちるとは遠回しの話をするようなよそよそしい間柄《あいだがら》ではない。性別を超えた「親友《しんゆう》」である。ずばっと言うことにした。
「お前と裕生って中学ん時からずっと仲いいだろ? いくら好きだからって今さら……」
「お、おっきな声で言わないでよっ」
慌てたようにみちるが言った。すぐそばをサッカー部の部員たちがかけ声と一緒《いっしょ》に走って行く。佐貫は咳払《せきばら》いをして少し声を低めた。
「……今さらそんなに顔合わせにくいか?」
みちるの様子《ようす》がおかしいと真っ先に気づいたのは佐貫だった。ひょっとするとみちる本人よりも早かったかもしれない。自覚してからのみちるは徐々《じょじょ》に裕生を避けるようになっていた。
「しょうがないでしょ。顔見てると話せなくなっちゃうの」
正直なところ、佐貫は驚《おどろ》いていた。みちるは言いたいことをはっきり言う性格の持ち主だとずっと思ってきたからだ。
「お前、女の子だったんだな……」
しみじみと佐貫《さぬき》は言う。途端《とたん》にみちるににらまれた。
「なんだと思ってたの?」
「え?……いや別に悪い意味じゃなくてよ」
俺《おれ》、どうしたらいいんだ、と佐貫は思った。黙《だま》っていれば裕生《ひろお》に嘘《うそ》を付くことになるし、もちろんみちるの気持ちを裕生に言ってしまうわけにもいかない。
「もうちょっと待ってて」
「え?」
「そのうちちゃんと慣《な》れて、元通り藤牧《ふじまき》と話すようにするから」
「お前それじゃ……」
問題の解決にはなっていない気がする。みちるの状況はなにも変わらない。
「告白しようとか考えないのか?」
「無理だよ」
みちるは首を振った。
「佐貫にも分かってるでしょ」
「……そうか。そうかもな」
おそらく、雛咲《ひなさき》葉《よう》に気を遣《つか》っているのだろう。周りから見れば明らかに葉の好きな相手は裕生だった。裕生の態度は今ひとつはっきりしないが、彼女の心の支えになっているのは間違いない。みちるが下手《へた》な行動を起こせば、葉にも動揺を与えてしまうかもしれない。そもそも、今の裕生にはみちるの告白を聞く余裕はないだろう。
プレハブの部室棟の前に二人は辿《たど》りついた。一階建ての細長い建物にいくつものドアが並んでいる。どこかの部室の方からかすかにギターの音色が聞こえた。
「それで話ってなんなの?」
と、みちるが尋《たず》ねる。一番端のドアの前で佐貫は立ち止まり、ポケットから部室の鍵《かぎ》を出した。
「昨日《きのう》、裕生にはもう話したんだけど、俺の調査《ちょうさ》結果の報告みたいなもんだ」
佐貫はドアの鍵を開けながら言った。昨日みちるも誘ったのだが、裕生と同席したがらなかったので、今日《きょう》待ち合わせをしたのだ。
「『皇輝山《おうきざん》文書《ぶんしょ》』のことなんだけど」
『皇輝山文書』——二ヶ月前、皇輝山|天明《てんめい》というカゲヌシの元契約者から手に入れた偽《にせ》の古文書《こもんじょ》である。奇妙な記号に埋め尽くされた内容を、解読出来る者は今まで誰《だれ》もいなかった。
「あれがどうかしたの?」
「なにが書いてあるか分かったかもしれない」
みちるは目を瞠《みは》った。
校舎の玄関からはコンクリートの屋根が張り出していて、太い柱がそれを支えている。佐貫《さぬき》は柱へ近づいて行き、反対側を覗《のぞ》き込んだ。
「もう行ったぞ」
と、無愛想《ぶあいそう》に言った。
「……ごめん」
みちるが柱にぴったりと背中を預けて立っていた。裕生《ひろお》に見つからないよう隠れていたのだった。
「ま、別に謝《あやま》らなくていいんだけどよ……」
佐貫が校舎の前にいたのは、みちると待ち合わせをするためだった。彼女に話しておきたいことがあった。
「なにも隠れることねえだろ」
と、佐貫は言った。うつむいたみちるの顔は真《ま》っ赤《か》になっている。
「裕生の奴《やつ》、ニブいけど、いくらなんでもバレるぞ。もっと普通にしてろよ」
「……うん」
蚊《か》の鳴くような声でみちるは答えた。
「とにかく行こうぜ」
佐貫は彼女を促《うなが》して歩き出した。体育館《たいいくかん》裏の部室棟に、佐貫の所属する部活の部室がある。邪魔《じゃま》が入らないのでそこで話すつもりだった。二人は校舎の角を曲がった。
佐貫はみちるの横顔を見る。彼女の長い髪は一房《ひとふさ》だけ白くなっている。今月の初めに起こった事件でそうなったのだが、彼女の心の方にはもっと別の変化が起こっていた。
「この際だから聞くけどよ」
と、佐貫は言った。
「なに?」
暗い声でみちるは言う。佐貫はどう尋《たず》ねようか迷ったが、みちるとは遠回しの話をするようなよそよそしい間柄《あいだがら》ではない。性別を超えた「親友《しんゆう》」である。ずばっと言うことにした。
「お前と裕生って中学ん時からずっと仲いいだろ? いくら好きだからって今さら……」
「お、おっきな声で言わないでよっ」
慌てたようにみちるが言った。すぐそばをサッカー部の部員たちがかけ声と一緒《いっしょ》に走って行く。佐貫は咳払《せきばら》いをして少し声を低めた。
「……今さらそんなに顔合わせにくいか?」
みちるの様子《ようす》がおかしいと真っ先に気づいたのは佐貫だった。ひょっとするとみちる本人よりも早かったかもしれない。自覚してからのみちるは徐々《じょじょ》に裕生を避けるようになっていた。
「しょうがないでしょ。顔見てると話せなくなっちゃうの」
正直なところ、佐貫は驚《おどろ》いていた。みちるは言いたいことをはっきり言う性格の持ち主だとずっと思ってきたからだ。
「お前、女の子だったんだな……」
しみじみと佐貫《さぬき》は言う。途端《とたん》にみちるににらまれた。
「なんだと思ってたの?」
「え?……いや別に悪い意味じゃなくてよ」
俺《おれ》、どうしたらいいんだ、と佐貫は思った。黙《だま》っていれば裕生《ひろお》に嘘《うそ》を付くことになるし、もちろんみちるの気持ちを裕生に言ってしまうわけにもいかない。
「もうちょっと待ってて」
「え?」
「そのうちちゃんと慣《な》れて、元通り藤牧《ふじまき》と話すようにするから」
「お前それじゃ……」
問題の解決にはなっていない気がする。みちるの状況はなにも変わらない。
「告白しようとか考えないのか?」
「無理だよ」
みちるは首を振った。
「佐貫にも分かってるでしょ」
「……そうか。そうかもな」
おそらく、雛咲《ひなさき》葉《よう》に気を遣《つか》っているのだろう。周りから見れば明らかに葉の好きな相手は裕生だった。裕生の態度は今ひとつはっきりしないが、彼女の心の支えになっているのは間違いない。みちるが下手《へた》な行動を起こせば、葉にも動揺を与えてしまうかもしれない。そもそも、今の裕生にはみちるの告白を聞く余裕はないだろう。
プレハブの部室棟の前に二人は辿《たど》りついた。一階建ての細長い建物にいくつものドアが並んでいる。どこかの部室の方からかすかにギターの音色が聞こえた。
「それで話ってなんなの?」
と、みちるが尋《たず》ねる。一番端のドアの前で佐貫は立ち止まり、ポケットから部室の鍵《かぎ》を出した。
「昨日《きのう》、裕生にはもう話したんだけど、俺の調査《ちょうさ》結果の報告みたいなもんだ」
佐貫はドアの鍵を開けながら言った。昨日みちるも誘ったのだが、裕生と同席したがらなかったので、今日《きょう》待ち合わせをしたのだ。
「『皇輝山《おうきざん》文書《ぶんしょ》』のことなんだけど」
『皇輝山文書』——二ヶ月前、皇輝山|天明《てんめい》というカゲヌシの元契約者から手に入れた偽《にせ》の古文書《こもんじょ》である。奇妙な記号に埋め尽くされた内容を、解読出来る者は今まで誰《だれ》もいなかった。
「あれがどうかしたの?」
「なにが書いてあるか分かったかもしれない」
みちるは目を瞠《みは》った。
裕生《ひろお》は団地に向かって急ぎ足で歩いていた。
なるべく長い時間|葉《よう》のそばにいようと心に決めていた。本当は自分も学校を休学するつもりだったが、周囲に止められて思いとどまっていた。その代わり、兄の雄一《ゆういち》が葉と一緒《いっしょ》にいてくれている。
彼女のそばにいると以前から決めていた。それに、葉の父の清史《きよし》とも約束を交わしている。娘を一人にしないでほしい、と。
清史もまたカゲヌシの犠牲者《ぎせいしゃ》の一人だった。一ヶ月前、失踪《しっそう》していた清史が四年ぶりに加賀見《かがみ》に戻ってきた。清史は「リグル・リグル」というカゲヌシに取《と》り憑《つ》かれていた。結局、葉の「黒の彼方《かなた》」がリグル・リグルを倒したが、葉のそばにとどまることなく去って行った。
カゲヌシに操《あやつ》られていたとはいえ、自分の妻を初めとする多くの人々を犠牲にしたことを彼は悔いていた——おそらくはもうこの世にいない。
裕生の胸がきりきりと痛んだ。
以前、葉は「同族食い」の力を使って、カゲヌシに取り憑かれた人々を助けたいと言ったことがある。裕生もそのつもりだった。今まで「黒の彼方」は五匹のカゲヌシを食っているが、「助ける」ことが出来たと言える契約者はほとんどいない。カゲヌシを倒しても、彼らの周囲の人々が「カゲヌシ」の犠牲になっている事実は残るからだ。
カゲヌシを食うにつれて「黒の彼方」の力は大きくなってきている。あと一度でもカゲヌシを食わせれば、おそらく葉は完全に「黒の彼方」の支配下に入ってしまうだろう。
もうあまり時間は残っていなかった。
国道沿いを歩いていた裕生は、コンビニの前にさしかかっていた。ここを過ぎればもうすぐ団地に着く。そのまま通り過ぎようとして、ふと足を止めた。
ワンピース姿の小柄《こがら》な少女がしゃがみ込んで、緑色《みどりいろ》の金網《かなあみ》フェンスに背中を預けていた。膝《ひざ》に顔を埋めているが、肩ぐらいまでの不揃《ふぞろ》いな髪ですぐに誰《だれ》か分かった。
「葉?」
遠慮《えんりょ》がちに声をかけると、彼女は顔を上げた。黒目がちの瞳《ひとみ》が裕生の前で止まり、金網から跳《は》ね返るように立ち上がった。そして、笑顔《えがお》で裕生の方へ走ってきた。
「こんなとこでなにして……」
裕生の言葉は途中で止まった。葉は裕生の右腕を両手でぎゅっと抱え込んだ。やわらかい髪の毛が裕生の鼻のあたりをくすぐっている。
「待ってたの」
裕生の頬《ほお》が熱《あつ》くなっていた。あたりを見回すと、コンビニの前にいる小学生たちが微妙な目つきで自分たちを見ている。それに抱き付かれているせいで、ちょうど肘《ひじ》のあたりに葉のふくらみがぐいぐい押し付けられている。
「あの、ちょっと、胸……じゃなくて、ちょっと歩きにくいんだけど」
慌てて裕生《ひろお》は言い直した。葉《よう》すと、それでも裕生の手を探り当ててしっかりと握りしめる。裕生もおそるおそる握り返して歩き出した。
「怪我《けが》、大丈夫?」
二日前に退院したものの、肩に負った傷はまだ完全には治りきっていないはずだ。
「……だいぶ」
この数週間で葉は変わってきていた。子供の頃《ころ》ならともかく、こんな風《ふう》に自分から手を握ることなど以前は絶対になかったことだ。不安なせいなのか、あるいは記憶《きおく》をなくしていることがなにか関係しているのかもしれない。
人間の記憶にはいくつかの種類があるらしい。医師の診断ではものごとの意味や形についての葉の記憶はさほど失われておらず、ものごとに関するエピソードが消えていっている。
例えば「時計」や「バス」を見た時に、それが時間を計るものであり、交通|機関《きかん》であることは認識《にんしき》出来る。しかし、自分が実際に時計を見た時のことや、バスに乗った時のことは忘れている。
つまり彼女の脳からは「思い出」が失われつつある。それに加えて、新しく見聞きしたことを憶《おぼ》えようとしても、うまく行かないようだった。
「兄さんは一緒《いっしょ》じゃなかったの?」
「……一人で来ました」
「心配させるから、離《はな》れちゃ駄目《だめ》だよ」
退院してから葉《よう》はあまり雄一《ゆういち》えているものの、同じ団地に住んでいることは忘れている。
「ちょっと、怖かったから」
どうやら外見の印象で怖いと感じているらしい。仕方のないこととはいえ、雄一が聞いたらがっかりするだろう。
「大丈夫だよ。今頃《いまごろ》、捜し回ってると思う」
生まれた時から近所に住んでいる雄一の記憶がなくなってしまったのは大きなショックだった。もうどんな知人の記憶を失ってもおかしくないことになる。もちろん裕生のこともいつ忘れられるか分からない。
「葉を一人にしない」という約束の意味を裕生は噛《か》みしめていた。もし完全に記憶を失えば、葉は一人になるのと同じだ。そうさせないためには、彼女を「黒の彼方《かなた》」から解放するしかない。清史《きよし》もそのことを言いたかったに違いなかった。
なるべく長い時間|葉《よう》のそばにいようと心に決めていた。本当は自分も学校を休学するつもりだったが、周囲に止められて思いとどまっていた。その代わり、兄の雄一《ゆういち》が葉と一緒《いっしょ》にいてくれている。
彼女のそばにいると以前から決めていた。それに、葉の父の清史《きよし》とも約束を交わしている。娘を一人にしないでほしい、と。
清史もまたカゲヌシの犠牲者《ぎせいしゃ》の一人だった。一ヶ月前、失踪《しっそう》していた清史が四年ぶりに加賀見《かがみ》に戻ってきた。清史は「リグル・リグル」というカゲヌシに取《と》り憑《つ》かれていた。結局、葉の「黒の彼方《かなた》」がリグル・リグルを倒したが、葉のそばにとどまることなく去って行った。
カゲヌシに操《あやつ》られていたとはいえ、自分の妻を初めとする多くの人々を犠牲にしたことを彼は悔いていた——おそらくはもうこの世にいない。
裕生の胸がきりきりと痛んだ。
以前、葉は「同族食い」の力を使って、カゲヌシに取り憑かれた人々を助けたいと言ったことがある。裕生もそのつもりだった。今まで「黒の彼方」は五匹のカゲヌシを食っているが、「助ける」ことが出来たと言える契約者はほとんどいない。カゲヌシを倒しても、彼らの周囲の人々が「カゲヌシ」の犠牲になっている事実は残るからだ。
カゲヌシを食うにつれて「黒の彼方」の力は大きくなってきている。あと一度でもカゲヌシを食わせれば、おそらく葉は完全に「黒の彼方」の支配下に入ってしまうだろう。
もうあまり時間は残っていなかった。
国道沿いを歩いていた裕生は、コンビニの前にさしかかっていた。ここを過ぎればもうすぐ団地に着く。そのまま通り過ぎようとして、ふと足を止めた。
ワンピース姿の小柄《こがら》な少女がしゃがみ込んで、緑色《みどりいろ》の金網《かなあみ》フェンスに背中を預けていた。膝《ひざ》に顔を埋めているが、肩ぐらいまでの不揃《ふぞろ》いな髪ですぐに誰《だれ》か分かった。
「葉?」
遠慮《えんりょ》がちに声をかけると、彼女は顔を上げた。黒目がちの瞳《ひとみ》が裕生の前で止まり、金網から跳《は》ね返るように立ち上がった。そして、笑顔《えがお》で裕生の方へ走ってきた。
「こんなとこでなにして……」
裕生の言葉は途中で止まった。葉は裕生の右腕を両手でぎゅっと抱え込んだ。やわらかい髪の毛が裕生の鼻のあたりをくすぐっている。
「待ってたの」
裕生の頬《ほお》が熱《あつ》くなっていた。あたりを見回すと、コンビニの前にいる小学生たちが微妙な目つきで自分たちを見ている。それに抱き付かれているせいで、ちょうど肘《ひじ》のあたりに葉のふくらみがぐいぐい押し付けられている。
「あの、ちょっと、胸……じゃなくて、ちょっと歩きにくいんだけど」
慌てて裕生《ひろお》は言い直した。葉《よう》すと、それでも裕生の手を探り当ててしっかりと握りしめる。裕生もおそるおそる握り返して歩き出した。
「怪我《けが》、大丈夫?」
二日前に退院したものの、肩に負った傷はまだ完全には治りきっていないはずだ。
「……だいぶ」
この数週間で葉は変わってきていた。子供の頃《ころ》ならともかく、こんな風《ふう》に自分から手を握ることなど以前は絶対になかったことだ。不安なせいなのか、あるいは記憶《きおく》をなくしていることがなにか関係しているのかもしれない。
人間の記憶にはいくつかの種類があるらしい。医師の診断ではものごとの意味や形についての葉の記憶はさほど失われておらず、ものごとに関するエピソードが消えていっている。
例えば「時計」や「バス」を見た時に、それが時間を計るものであり、交通|機関《きかん》であることは認識《にんしき》出来る。しかし、自分が実際に時計を見た時のことや、バスに乗った時のことは忘れている。
つまり彼女の脳からは「思い出」が失われつつある。それに加えて、新しく見聞きしたことを憶《おぼ》えようとしても、うまく行かないようだった。
「兄さんは一緒《いっしょ》じゃなかったの?」
「……一人で来ました」
「心配させるから、離《はな》れちゃ駄目《だめ》だよ」
退院してから葉《よう》はあまり雄一《ゆういち》えているものの、同じ団地に住んでいることは忘れている。
「ちょっと、怖かったから」
どうやら外見の印象で怖いと感じているらしい。仕方のないこととはいえ、雄一が聞いたらがっかりするだろう。
「大丈夫だよ。今頃《いまごろ》、捜し回ってると思う」
生まれた時から近所に住んでいる雄一の記憶がなくなってしまったのは大きなショックだった。もうどんな知人の記憶を失ってもおかしくないことになる。もちろん裕生のこともいつ忘れられるか分からない。
「葉を一人にしない」という約束の意味を裕生は噛《か》みしめていた。もし完全に記憶を失えば、葉は一人になるのと同じだ。そうさせないためには、彼女を「黒の彼方《かなた》」から解放するしかない。清史《きよし》もそのことを言いたかったに違いなかった。