その日の夜。
『おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……』
携帯《けいたい》の向こうから無機質《むきしつ》なメッセージが流れてくる。裕生《ひろお》はぱたんと携帯を閉じた。裕生は団地のベランダに立っていた。最近、夜風の冷たさがはっきり分かるようになった。夏の名残《なごり》も完全に消え、秋になったのを改めて感じる。
裕生が電話した相手は天内《あまうち》茜《あかね》——ボルガの元契約者だった。カゲヌシから解放された後も、家族を殺した蔵前《くらまえ》司《つかさ》を探し続けている。
二日に一度は必ず彼女と連絡を取ることにしていたが、昨日《きのう》から電話にもメールにも返事がない。最後に話した時には、蔵前と茜の故郷である北海道《ほっかいどう》に行くと言っていた。
(また忘れてるのかな)
裕生の方からしなければ、茜は連絡を忘れがちだった。彼女はボルガと契約していたせいで、一部の記憶《きおく》を失っているが、どちらかというとルーズな性格のせいだろう。今までにも返事がかえってこなかったことはある。心配するほどのことではないのかもしれない。
定期的に茜と連絡を取るようになったのは理由がある。
一ヶ月前、裕生はレインメイカーの契約者・船瀬《ふなせ》智和《ともかず》の体に奇妙な現象が起こっていることに気づいた。彼の頭の一部はカゲヌシの能力によって金属化されていた。
金属化の能力を持つカゲヌシを、裕生はアブサロム以外に知らない。
蔵前のカゲヌシ・アブサロムは「黒の彼方《かなた》」によって倒されている。「黒の彼方」がアブサロムを捕食するところを裕生自身も確《たし》かに見ていた。カゲヌシが死ねばその能力も解除されるはずである。しかし、船瀬の体にその効果が残っているということは、アブサロムは生きており、どこかで船瀬と戦ったということになる。
蔵前は裕生と葉《よう》と茜を憎んでいる。もし、アブサロムが生きているとすれば、間違いなく裕生たちはその標的になるはずだ。カゲヌシを持たずに単独で蔵前を追っている茜が最も危険だった。
『おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……』
携帯《けいたい》の向こうから無機質《むきしつ》なメッセージが流れてくる。裕生《ひろお》はぱたんと携帯を閉じた。裕生は団地のベランダに立っていた。最近、夜風の冷たさがはっきり分かるようになった。夏の名残《なごり》も完全に消え、秋になったのを改めて感じる。
裕生が電話した相手は天内《あまうち》茜《あかね》——ボルガの元契約者だった。カゲヌシから解放された後も、家族を殺した蔵前《くらまえ》司《つかさ》を探し続けている。
二日に一度は必ず彼女と連絡を取ることにしていたが、昨日《きのう》から電話にもメールにも返事がない。最後に話した時には、蔵前と茜の故郷である北海道《ほっかいどう》に行くと言っていた。
(また忘れてるのかな)
裕生の方からしなければ、茜は連絡を忘れがちだった。彼女はボルガと契約していたせいで、一部の記憶《きおく》を失っているが、どちらかというとルーズな性格のせいだろう。今までにも返事がかえってこなかったことはある。心配するほどのことではないのかもしれない。
定期的に茜と連絡を取るようになったのは理由がある。
一ヶ月前、裕生はレインメイカーの契約者・船瀬《ふなせ》智和《ともかず》の体に奇妙な現象が起こっていることに気づいた。彼の頭の一部はカゲヌシの能力によって金属化されていた。
金属化の能力を持つカゲヌシを、裕生はアブサロム以外に知らない。
蔵前のカゲヌシ・アブサロムは「黒の彼方《かなた》」によって倒されている。「黒の彼方」がアブサロムを捕食するところを裕生自身も確《たし》かに見ていた。カゲヌシが死ねばその能力も解除されるはずである。しかし、船瀬の体にその効果が残っているということは、アブサロムは生きており、どこかで船瀬と戦ったということになる。
蔵前は裕生と葉《よう》と茜を憎んでいる。もし、アブサロムが生きているとすれば、間違いなく裕生たちはその標的になるはずだ。カゲヌシを持たずに単独で蔵前を追っている茜が最も危険だった。
背後の窓が開いて兄の雄一《ゆういち》がのっそりと姿を現した。手にはタバコとライターを持っている。
「ん、なんだ、電話すんのか?」
「ううん、今終わったところ」
居間の方をちらっと振り返ると、誰《だれ》もいなかった。
「葉《よう》なら自分の部屋にいるぞ」
先回りするように雄一は言い、タバコに火を点《つ》ける。一瞬《いっしゅん》だけ口元が炎に照らし出された。最近、雄一は部屋の中で喫煙《きつえん》するのをやめた。葉への配慮《はいりょ》のつもりらしい。
裕生《ひろお》は先月の出来事を思い出した。このベランダで雄一と話しているところを、カゲヌシに操《あやつ》られた警官《けいかん》に撃《う》たれたのだった。その夜の襲撃《しゅうげき》で船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》が死に、葉を初めとして何人もの人間が怪我《けが》を負った——しかし、カゲヌシの存在は表沙汰《おもてざた》になっていない。操られていた警官たちはカゲヌシを見ているが、一様に「幻覚」を見たということで片づいたらしい。
雄一は暗闇《くらやみ》の少し先をぼんやりと見つめている。なにか言いたいことがあるような気がする。彼は裕生の視線《しせん》に気づくと、ゆっくりと口を開いた。
「さっき親父《おやじ》から電話があって、今日《きょう》は帰らねえってよ」
「は?」
裕生は戸惑《とまど》った。こんな真面目《まじめ》な顔でする話なんだろうか。
「それでな……」
沈黙《ちんもく》が流れ、裕生は心の中で身構えた——また、兄がとんでもないことを言い出す気がする。
「昼間は悪かったな」
「なにが?」
「いや、ちょっと目ェ離《はな》したスキに葉がいなくなっちまってよ」
「別に兄さんが悪いんじゃないよ」
と、裕生は言った。話の繋《つな》がりが多少おかしい気もしたが、神妙な態度はそのせいかもしれないとなんとなく納得した。
雄一の表情は晴れなかった。
「やっぱ俺《おれ》じゃ安心出来ねえ……っていうか裕生、もうお前じゃねえとダメだな。お前以外の人間をもうあいつはロクに憶《おぼ》えてねーんだ」
痛みを感じているかのように、雄一はかすかに眉《まゆ》をしかめた。
「お前、あいつの態度が変わったの気が付いたか?」
裕生はうなずいた。父親の清史《きよし》が去ってから、葉は自分から離れまいとしている。父親と再会したことも憶えていないはずなのだが。
「うん……色々と不安なんだと思うけど……」
「バッッッカだなお前は」
押し殺した低い声で雄一《ゆういち》いた。
「見て分かんねーか? あれが葉《よう》の本音だ」
「本音?」
ああ、と大きく雄一はうなずいた。
「あいつはお前が好きなんだよ。今までずっとガマンしてきたのが、記憶《きおく》がなくなって抑えがきかなくなってんだ。本音じゃお前と色々やりてーんだ。手ェ繋《つな》いだり抱き合ったり」
「ちょ、ちょっとなに勝手なこと言ってるの」
裕生は兄の言葉を遮《さえぎ》った。以前、記憶をなくし始めたことで取り乱した葉と、キッチンで「抱き合った」時のことが脳裏をよぎる。
「好きって、兄さんに葉の気持ちが分かるわけないじゃないか」
「おいおいおい。本気で言ってんのか? 俺《おれ》に分かんねーワケねえだろ?」
呆《あき》れ果てたように雄一は首を振る。
「そんな自信、一体どこから……」
突然、はっと我《われ》に返った。今、雄一はみちるの姉の西尾《にしお》夕紀《ゆき》と付き合っているが、何年もの間ずっと自分の気持ちを胸に秘めてきた。夕紀に好意を持っていることすら、告白するまで誰《だれ》も気づかなかった。
「葉はな、ずっと自分の気持ちにフタしてきたんだ。そういうこと考えたらお前に悪いとか思ってたんじゃねーか? 俺にゃそういう気持ちが分かる。人の気持ちを分かってねーのはお前だ、裕生」
雄一はぴしっと人差し指を裕生の鼻先に突き付けた。
「お前は葉をどう思ってんだ?」
「どう……って……」
返事のしようがなかった。葉には信頼されていると思っているし、それに応《こた》えたいと思う自分もいる。それは恋愛などではなく、妹に対するような気持ちだとずっと思ってきたはずだった。
最近それが少し変わってきたような気がする。葉が成長するにつれて、妹として見る気持ちは薄《うす》れていた。考えてみれば裕生と一つしか年は変わらないのだ。もう公園で遊んでいた小さな女の子ではない——。
(なに考えてるんだよ)
裕生はうろたえた。
「で、でも今はそんなこと考えてる場合じゃないよ。葉はあんな状態なんだから、元に戻ってからじっくり」
「お前、そう簡単《かんたん》に葉が元に戻るって思ってんのか?」
一瞬《いっしゅん》、裕生は絶句した。
「なに言ってるんだよ。このまま葉《よう》がカゲヌシに乗っ取られるって思ってるの?」
「思ってねえよ」
と、雄一《ゆういち》はきっぱり言った。
「でも、そう簡単《かんたん》には元に戻らねえ。これっていう方法でもありゃ話は別だけどな。違うか?」
「でも、うまくレインメイカーの能力を使えたら……」
船瀬《ふなせ》智和《ともかず》に取《と》り憑《つ》いているレインメイカーは、「黒の彼方《かなた》」と同じく、階位の中にいるカゲヌシではない。階位の中にいるカゲヌシを人間から引きはがし、卵の状態に戻す能力を持っているという。
「『黒の彼方』には直《じか》には関係ねえ能力じゃねえか」
「でも、あいつは他《ほか》のカゲヌシを食って生きてるんだ。餌《えさ》がなくなれば、あいつだってこの世界にいる必要も……」
雄一は呆《あき》れ顔で首を振った。
「お前、あの船瀬ってオッサンが自分のカゲヌシを呼び出せる状態に見えんのか? 自分の命が危ねえ時だって呼ばなかったじゃねえか。お前だって見ただろ?」
裕生は立ち尽くしていた。兄の言う通りだと思った。他のカゲヌシに襲《おそ》われ、銃で撃《う》たれた時も船瀬は身を守ろうともしなかった。船瀬はレインメイカーを呼び出さないのではなく、呼び出せないのだ。
レインメイカーは「同族食い」と同じく、他のカゲヌシたちによる通称でしかない。船瀬と契約を結んだ時の名前は他に存在する。アブサロムによって頭部に損傷を受けている船瀬は、自分のカゲヌシの名前を思い出せないらしい。
そして、その名前を知る者は誰《だれ》もいなかった。
「今の葉は色んなことを忘れてってる」
雄一は一度も吸わないまま、根本まで燃《も》え尽きているタバコをベランダの手すりに押し付けて消した。
「葉が今まで持ちこたえてきたのは、お前がいたからだろ。今すぐに葉をカゲヌシから解放すんのは難《むずか》しい。だったら、あいつが元気になるようなことをしてやってもらいてえんだ。それはお前にしか出来ねえ。まあ、お前にその気がねーんだったらムリにとは言わねえけどよ」
「そ、その気って……急に言われても……」
雄一は裕生《ひろお》を一瞥《いちべつ》すると、また暗闇《くらやみ》の方へ目を戻した。
「ま、確《たし》かに急だな。だから、今夜一晩じっくり考えろ。さっきも言ったけど今日《きょう》は親父《おやじ》も帰ってこねえし……」
うなずきそうになって、裕生は首をかしげた。そういえばどうして父の話が出てきたのだろう——なんとなく嫌《いや》な予感がする。
「……俺《おれ》はこれから出かけっから」
と、雄一《ゆういち》は付け加えた。
「え?」
今夜は父もいない。兄もいない。ということは。
この部屋に葉《よう》と二人っきりになる。
「ちょっと待ってよ。それって……」
「大丈夫だって。安心しろよ。俺《おれ》も朝まで帰らねえから」
「だ、大丈夫じゃないよ!」
裕生《ひろお》の声はほとんど裏返りそうになっていた。前にも二人っきりになりそうな夜はあった。多少危ない場面もあった気もしたが、結局父の吾郎《ごろう》が帰ってきてくれた。もしあの時、二人っきりのままだったらどうなっていたか。
「そんな……もしなにかあったら……」
なにか、の中身を考えるのは避けていた。
「……なんかあったら?」
雄一はなぜか晴れ晴れした笑顔《えがお》でぽんと裕生の肩を叩《たた》いた。
「なんかあるといいよな。がんばれ!」
裕生にはもう言い返す気力も残っていなかった。
「ん、なんだ、電話すんのか?」
「ううん、今終わったところ」
居間の方をちらっと振り返ると、誰《だれ》もいなかった。
「葉《よう》なら自分の部屋にいるぞ」
先回りするように雄一は言い、タバコに火を点《つ》ける。一瞬《いっしゅん》だけ口元が炎に照らし出された。最近、雄一は部屋の中で喫煙《きつえん》するのをやめた。葉への配慮《はいりょ》のつもりらしい。
裕生《ひろお》は先月の出来事を思い出した。このベランダで雄一と話しているところを、カゲヌシに操《あやつ》られた警官《けいかん》に撃《う》たれたのだった。その夜の襲撃《しゅうげき》で船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》が死に、葉を初めとして何人もの人間が怪我《けが》を負った——しかし、カゲヌシの存在は表沙汰《おもてざた》になっていない。操られていた警官たちはカゲヌシを見ているが、一様に「幻覚」を見たということで片づいたらしい。
雄一は暗闇《くらやみ》の少し先をぼんやりと見つめている。なにか言いたいことがあるような気がする。彼は裕生の視線《しせん》に気づくと、ゆっくりと口を開いた。
「さっき親父《おやじ》から電話があって、今日《きょう》は帰らねえってよ」
「は?」
裕生は戸惑《とまど》った。こんな真面目《まじめ》な顔でする話なんだろうか。
「それでな……」
沈黙《ちんもく》が流れ、裕生は心の中で身構えた——また、兄がとんでもないことを言い出す気がする。
「昼間は悪かったな」
「なにが?」
「いや、ちょっと目ェ離《はな》したスキに葉がいなくなっちまってよ」
「別に兄さんが悪いんじゃないよ」
と、裕生は言った。話の繋《つな》がりが多少おかしい気もしたが、神妙な態度はそのせいかもしれないとなんとなく納得した。
雄一の表情は晴れなかった。
「やっぱ俺《おれ》じゃ安心出来ねえ……っていうか裕生、もうお前じゃねえとダメだな。お前以外の人間をもうあいつはロクに憶《おぼ》えてねーんだ」
痛みを感じているかのように、雄一はかすかに眉《まゆ》をしかめた。
「お前、あいつの態度が変わったの気が付いたか?」
裕生はうなずいた。父親の清史《きよし》が去ってから、葉は自分から離れまいとしている。父親と再会したことも憶えていないはずなのだが。
「うん……色々と不安なんだと思うけど……」
「バッッッカだなお前は」
押し殺した低い声で雄一《ゆういち》いた。
「見て分かんねーか? あれが葉《よう》の本音だ」
「本音?」
ああ、と大きく雄一はうなずいた。
「あいつはお前が好きなんだよ。今までずっとガマンしてきたのが、記憶《きおく》がなくなって抑えがきかなくなってんだ。本音じゃお前と色々やりてーんだ。手ェ繋《つな》いだり抱き合ったり」
「ちょ、ちょっとなに勝手なこと言ってるの」
裕生は兄の言葉を遮《さえぎ》った。以前、記憶をなくし始めたことで取り乱した葉と、キッチンで「抱き合った」時のことが脳裏をよぎる。
「好きって、兄さんに葉の気持ちが分かるわけないじゃないか」
「おいおいおい。本気で言ってんのか? 俺《おれ》に分かんねーワケねえだろ?」
呆《あき》れ果てたように雄一は首を振る。
「そんな自信、一体どこから……」
突然、はっと我《われ》に返った。今、雄一はみちるの姉の西尾《にしお》夕紀《ゆき》と付き合っているが、何年もの間ずっと自分の気持ちを胸に秘めてきた。夕紀に好意を持っていることすら、告白するまで誰《だれ》も気づかなかった。
「葉はな、ずっと自分の気持ちにフタしてきたんだ。そういうこと考えたらお前に悪いとか思ってたんじゃねーか? 俺にゃそういう気持ちが分かる。人の気持ちを分かってねーのはお前だ、裕生」
雄一はぴしっと人差し指を裕生の鼻先に突き付けた。
「お前は葉をどう思ってんだ?」
「どう……って……」
返事のしようがなかった。葉には信頼されていると思っているし、それに応《こた》えたいと思う自分もいる。それは恋愛などではなく、妹に対するような気持ちだとずっと思ってきたはずだった。
最近それが少し変わってきたような気がする。葉が成長するにつれて、妹として見る気持ちは薄《うす》れていた。考えてみれば裕生と一つしか年は変わらないのだ。もう公園で遊んでいた小さな女の子ではない——。
(なに考えてるんだよ)
裕生はうろたえた。
「で、でも今はそんなこと考えてる場合じゃないよ。葉はあんな状態なんだから、元に戻ってからじっくり」
「お前、そう簡単《かんたん》に葉が元に戻るって思ってんのか?」
一瞬《いっしゅん》、裕生は絶句した。
「なに言ってるんだよ。このまま葉《よう》がカゲヌシに乗っ取られるって思ってるの?」
「思ってねえよ」
と、雄一《ゆういち》はきっぱり言った。
「でも、そう簡単《かんたん》には元に戻らねえ。これっていう方法でもありゃ話は別だけどな。違うか?」
「でも、うまくレインメイカーの能力を使えたら……」
船瀬《ふなせ》智和《ともかず》に取《と》り憑《つ》いているレインメイカーは、「黒の彼方《かなた》」と同じく、階位の中にいるカゲヌシではない。階位の中にいるカゲヌシを人間から引きはがし、卵の状態に戻す能力を持っているという。
「『黒の彼方』には直《じか》には関係ねえ能力じゃねえか」
「でも、あいつは他《ほか》のカゲヌシを食って生きてるんだ。餌《えさ》がなくなれば、あいつだってこの世界にいる必要も……」
雄一は呆《あき》れ顔で首を振った。
「お前、あの船瀬ってオッサンが自分のカゲヌシを呼び出せる状態に見えんのか? 自分の命が危ねえ時だって呼ばなかったじゃねえか。お前だって見ただろ?」
裕生は立ち尽くしていた。兄の言う通りだと思った。他のカゲヌシに襲《おそ》われ、銃で撃《う》たれた時も船瀬は身を守ろうともしなかった。船瀬はレインメイカーを呼び出さないのではなく、呼び出せないのだ。
レインメイカーは「同族食い」と同じく、他のカゲヌシたちによる通称でしかない。船瀬と契約を結んだ時の名前は他に存在する。アブサロムによって頭部に損傷を受けている船瀬は、自分のカゲヌシの名前を思い出せないらしい。
そして、その名前を知る者は誰《だれ》もいなかった。
「今の葉は色んなことを忘れてってる」
雄一は一度も吸わないまま、根本まで燃《も》え尽きているタバコをベランダの手すりに押し付けて消した。
「葉が今まで持ちこたえてきたのは、お前がいたからだろ。今すぐに葉をカゲヌシから解放すんのは難《むずか》しい。だったら、あいつが元気になるようなことをしてやってもらいてえんだ。それはお前にしか出来ねえ。まあ、お前にその気がねーんだったらムリにとは言わねえけどよ」
「そ、その気って……急に言われても……」
雄一は裕生《ひろお》を一瞥《いちべつ》すると、また暗闇《くらやみ》の方へ目を戻した。
「ま、確《たし》かに急だな。だから、今夜一晩じっくり考えろ。さっきも言ったけど今日《きょう》は親父《おやじ》も帰ってこねえし……」
うなずきそうになって、裕生は首をかしげた。そういえばどうして父の話が出てきたのだろう——なんとなく嫌《いや》な予感がする。
「……俺《おれ》はこれから出かけっから」
と、雄一《ゆういち》は付け加えた。
「え?」
今夜は父もいない。兄もいない。ということは。
この部屋に葉《よう》と二人っきりになる。
「ちょっと待ってよ。それって……」
「大丈夫だって。安心しろよ。俺《おれ》も朝まで帰らねえから」
「だ、大丈夫じゃないよ!」
裕生《ひろお》の声はほとんど裏返りそうになっていた。前にも二人っきりになりそうな夜はあった。多少危ない場面もあった気もしたが、結局父の吾郎《ごろう》が帰ってきてくれた。もしあの時、二人っきりのままだったらどうなっていたか。
「そんな……もしなにかあったら……」
なにか、の中身を考えるのは避けていた。
「……なんかあったら?」
雄一はなぜか晴れ晴れした笑顔《えがお》でぽんと裕生の肩を叩《たた》いた。
「なんかあるといいよな。がんばれ!」
裕生にはもう言い返す気力も残っていなかった。