部室、というよりも佐貫《さぬき》の部屋に上がり込んだ気分だった。壁際《かべぎわ》のスチールの棚にも中央の古いテーブルにも床《ゆか》にも雑多《ざった》ながらくたが溢《あふ》れている。マンガやCDが塔のごとく積《つ》まれているかと思えば、得体《えたい》の知れない楽器や古いパソコンが投げ出してある。ほとんど足の踏み場もなかった。隅《すみ》の方の大きな段ボールから大きな斧のようなものが見えている気もするが、見間違いだと思うことにした。
「そういえば、お前はここに来んの初めてだったよな。裕生は何回か来たことあるけど。そこらへん座れよ」
みちるはテーブルのそばの椅子《いす》に腰かけた。
「コーヒーでいいだろ?」
佐貫はどこかからかマグカップを二つ出してきて、ギプスをしていない片手だけで器用にインスタントコーヒーを淹れ始めた。もちろんポットもテーブルの上に置いてある。
「ここ、なんの部室?」
「なにって……色々だけど? マンドリン部とか、中国|将棋《しょうぎ》同好会とか、中世武器研究会……」
「なにそれ。全部聞いたことないよ……」
ふと、みちるは校内のどこかに「佐貫《さぬき》の巣」と呼ばれる部屋があるという噂《うわさ》を思い出した。佐貫は十以上の部活や同好会を掛け持ちしているが、そのうちの半分は彼以外に部員・会員のいない瀕死《ひんし》の団体らしい。それらの団体の「部室」という名目でどこかの部屋を使う許可を取り、私物を持ち込んでほとんど一人だけで独占している。学校側も快く思っていないが、一人でもきちんと活動しているので文句は言えない……という話だった。
「すごい。本当にあったんだ……」
「なんか言ったか?」
マグカップを差し出しながら佐貫は言った。
みちるは首を振りながらカップを受け取った。ふと、テーブルの上に書名も作者名もない小さな和装本《わそうぼん》が置いてあることに気づいた。表紙の色は真《ま》っ黒《くろ》で、四隅がすり切れて綴《と》じ糸もほどけかかっている。
皇輝山《おうきざん》文書《ぶんしょ》だった。みちるも何度か中身を見せてもらったことがある。
「ほんとに古い本みたいに見えるよね」
「作ったのは雛咲《ひなさき》さんの親父《おやじ》さんだけど、皇輝山|天明《てんめい》がわざとボロくしたんじゃねえかな」
これにはかつてこの町に住んでいた三人のカゲヌシの契約者が関《かか》わっている。階位に属していない、特殊なカゲヌシ——「レインメイカー」に取《と》り憑《つ》かれた船瀬《ふなせ》智和《ともかず》がこの本の内容を夢で見て、雛咲|清史《きよし》がこの本を作り、皇輝山天明がその所有者となった。奇妙なことに誰《だれ》もこの本の内容をはっきりと分かっていなかった。
みちるは本を開く。最初のページにはまるで題名のように大きく×が書かれている。その後のページには四角や三角を組み合わせた記号がびっしりと書いてある。ちょうど真ん中まで来ると、また最初のページと同じように×が大書されたページにぶつかる。そして、そこからまたびっしりと記号が書き込まれたページが続く。
どうやら、前半と後半で二つに分かれているらしかった。
「今のところ、俺《おれ》たちが分かってる『サイン』は全部で五つ……ボルガ、アブサロム、龍子主《たつこぬし》、リグル・リグル、それに『黒の彼方《かなた》』」
佐貫は左手の指を順々に折りながら言った。
「五つの『サイン』はそれぞれ前半に一ヶ所、後半に一ヶ所ずつ書いてある。全部で十ヶ所ってことだよな。『黒の彼方』だけちょっと外《はず》れたところに書いてあるけど」
みちるはうなずいた。『黒の彼方』のサインは×印だった。
「『サイン』が含まれてる以上、この本の内容がカゲヌシに絡《から》んでるのは間違いない。そこで問題になるのは、全部の記号がカゲヌシの『サイン』なのか、それとも『サイン』は全体の一部で、他《ほか》はなにかの文章になってるのかってことなんだけど……」
「それは調《しら》べようがないから、考えないようにするって言ってなかったっけ?」
みちるが口を挟む。この本を手に入れた時、佐貫自身がそう言っていた気がする。
「ああは言ったんだけど、やっぱり気になってさ。あの後ずっと調べてたんだ」
「どうやって?」
「もしこれがカゲヌシの『サイン』を含んでる文章だったら、『サイン』以外の記号の部分は組み合わさって意味のある文章になってるわけだろ。だったら、よく使う記号とそうじゃない記号の差が絶対出てくるはずなんだ。本の中に出てくる回数の偏《かたよ》りを調べたら、ひょっとして意味が分かるかもしれないと思って……でも、全然偏りがない。どの記号も二回……前半に一回、後半に一回出てくるだけ」
「……ごめん。なんかよく分からないんだけど」
みちるは首をかしげながら言った。
「だから、この本の中でどの記号がどこに何回ずつ出てくるか最初から最後まで全部チェックしてったんだよ」
「え……?」
みちるは思わず『皇輝山《おうきざん》文書《ぶんしょ》』を見下ろした。薄《うす》い本とはいえ、百ページ近くあるはずだ。
「ホントに大変だった。一個ずつ書き写して調べていったんだけど、見分けるのが微妙なのもあってさ」
「……全部でどれぐらい?」
「記号の数か? 全部で一万七千九百十二。種類にすると八千九百五十六。どれも二回ずつしか出てこないからな」
一万七千……とみちるは口の中でつぶやいた。気の遠くなるような作業だった。
「でもそれでだいたい分かった。全部の記号に偏りがないっていうことは、この本には多分《たぶん》意味のある文章は含まれてない。カゲヌシの『サイン』の一覧表《いちらんひょう》になってる可能性がすごく高いってこと」
それが正しければ、カゲヌシは全部で八千九百五十六種類いる、ということになる。
「そんなに多いの? カゲヌシって」
みちるがそう言うと、佐貫《さぬき》は軽く肩をすくめた。
「日本だけにいるとは限らないだろ? もし、世界中に散らばってたら、決して多い数じゃない」
「でも、これが『サイン』の一覧表だったら、なんで前半と後半で二回出てくるの?」
「もちろんそれも考えた」
と、佐貫は言った。
「多分、この本には前半と後半で二つの一覧表が入ってるんだと思う。前半と後半だと『サイン』の並び方が全然違う。ただの一覧表じゃなくて、並び方になにか意味があるんだよ。それで雛咲《ひなさき》さんが病院で言ってたことを思い出したんだ。『皇輝山文書』には、なにかの順番が書いてあるって」
「でも、雛咲《ひなさき》さんのお父さんってリグルに……」
みちるは言いよどんだ。あの時の清史《きよし》はカゲヌシの支配下にあったはずだ。どこまで本当のことを言っていたか分からない。
「ま、そうだけど、あそこであのカゲヌシが『皇輝山《おうきざん》文書《ぶんしょ》』のことで嘘《うそ》をつく必要なかったと思う。どっちかっていうと、俺《おれ》たちに知ってることを教えて謎《なぞ》を解かせた方がリグルにも有利だったはずだろ。レインメイカーと会うのに役に立つかもしれなかったんだし」
リグル・リグルの目的はレインメイカーを支配下に置くことだった。あのカゲヌシは清史《きよし》だけではなく船瀬《ふなせ》の娘の千晶《ちあき》まで操《あやつ》り、大勢の犠牲者《ぎせいしゃ》を出していた。佐貫《さぬき》が腕に怪我《けが》をしたのも、みちるの髪の毛が少し白くなってしまったのも、リグル・リグルのせいだった。
「だから、順番っていうのは信用していいんじゃないかと思った。で、今のところ分かってるカゲヌシの『サイン』が一覧表《いちらんひょう》の中でどういう順番になってるのか書き出してみた」
佐貫は一枚の紙をテーブルの上に置いた。そこにはこんなことが書いてあった。
「そういえば、お前はここに来んの初めてだったよな。裕生は何回か来たことあるけど。そこらへん座れよ」
みちるはテーブルのそばの椅子《いす》に腰かけた。
「コーヒーでいいだろ?」
佐貫はどこかからかマグカップを二つ出してきて、ギプスをしていない片手だけで器用にインスタントコーヒーを淹れ始めた。もちろんポットもテーブルの上に置いてある。
「ここ、なんの部室?」
「なにって……色々だけど? マンドリン部とか、中国|将棋《しょうぎ》同好会とか、中世武器研究会……」
「なにそれ。全部聞いたことないよ……」
ふと、みちるは校内のどこかに「佐貫《さぬき》の巣」と呼ばれる部屋があるという噂《うわさ》を思い出した。佐貫は十以上の部活や同好会を掛け持ちしているが、そのうちの半分は彼以外に部員・会員のいない瀕死《ひんし》の団体らしい。それらの団体の「部室」という名目でどこかの部屋を使う許可を取り、私物を持ち込んでほとんど一人だけで独占している。学校側も快く思っていないが、一人でもきちんと活動しているので文句は言えない……という話だった。
「すごい。本当にあったんだ……」
「なんか言ったか?」
マグカップを差し出しながら佐貫は言った。
みちるは首を振りながらカップを受け取った。ふと、テーブルの上に書名も作者名もない小さな和装本《わそうぼん》が置いてあることに気づいた。表紙の色は真《ま》っ黒《くろ》で、四隅がすり切れて綴《と》じ糸もほどけかかっている。
皇輝山《おうきざん》文書《ぶんしょ》だった。みちるも何度か中身を見せてもらったことがある。
「ほんとに古い本みたいに見えるよね」
「作ったのは雛咲《ひなさき》さんの親父《おやじ》さんだけど、皇輝山|天明《てんめい》がわざとボロくしたんじゃねえかな」
これにはかつてこの町に住んでいた三人のカゲヌシの契約者が関《かか》わっている。階位に属していない、特殊なカゲヌシ——「レインメイカー」に取《と》り憑《つ》かれた船瀬《ふなせ》智和《ともかず》がこの本の内容を夢で見て、雛咲|清史《きよし》がこの本を作り、皇輝山天明がその所有者となった。奇妙なことに誰《だれ》もこの本の内容をはっきりと分かっていなかった。
みちるは本を開く。最初のページにはまるで題名のように大きく×が書かれている。その後のページには四角や三角を組み合わせた記号がびっしりと書いてある。ちょうど真ん中まで来ると、また最初のページと同じように×が大書されたページにぶつかる。そして、そこからまたびっしりと記号が書き込まれたページが続く。
どうやら、前半と後半で二つに分かれているらしかった。
「今のところ、俺《おれ》たちが分かってる『サイン』は全部で五つ……ボルガ、アブサロム、龍子主《たつこぬし》、リグル・リグル、それに『黒の彼方《かなた》』」
佐貫は左手の指を順々に折りながら言った。
「五つの『サイン』はそれぞれ前半に一ヶ所、後半に一ヶ所ずつ書いてある。全部で十ヶ所ってことだよな。『黒の彼方』だけちょっと外《はず》れたところに書いてあるけど」
みちるはうなずいた。『黒の彼方』のサインは×印だった。
「『サイン』が含まれてる以上、この本の内容がカゲヌシに絡《から》んでるのは間違いない。そこで問題になるのは、全部の記号がカゲヌシの『サイン』なのか、それとも『サイン』は全体の一部で、他《ほか》はなにかの文章になってるのかってことなんだけど……」
「それは調《しら》べようがないから、考えないようにするって言ってなかったっけ?」
みちるが口を挟む。この本を手に入れた時、佐貫自身がそう言っていた気がする。
「ああは言ったんだけど、やっぱり気になってさ。あの後ずっと調べてたんだ」
「どうやって?」
「もしこれがカゲヌシの『サイン』を含んでる文章だったら、『サイン』以外の記号の部分は組み合わさって意味のある文章になってるわけだろ。だったら、よく使う記号とそうじゃない記号の差が絶対出てくるはずなんだ。本の中に出てくる回数の偏《かたよ》りを調べたら、ひょっとして意味が分かるかもしれないと思って……でも、全然偏りがない。どの記号も二回……前半に一回、後半に一回出てくるだけ」
「……ごめん。なんかよく分からないんだけど」
みちるは首をかしげながら言った。
「だから、この本の中でどの記号がどこに何回ずつ出てくるか最初から最後まで全部チェックしてったんだよ」
「え……?」
みちるは思わず『皇輝山《おうきざん》文書《ぶんしょ》』を見下ろした。薄《うす》い本とはいえ、百ページ近くあるはずだ。
「ホントに大変だった。一個ずつ書き写して調べていったんだけど、見分けるのが微妙なのもあってさ」
「……全部でどれぐらい?」
「記号の数か? 全部で一万七千九百十二。種類にすると八千九百五十六。どれも二回ずつしか出てこないからな」
一万七千……とみちるは口の中でつぶやいた。気の遠くなるような作業だった。
「でもそれでだいたい分かった。全部の記号に偏りがないっていうことは、この本には多分《たぶん》意味のある文章は含まれてない。カゲヌシの『サイン』の一覧表《いちらんひょう》になってる可能性がすごく高いってこと」
それが正しければ、カゲヌシは全部で八千九百五十六種類いる、ということになる。
「そんなに多いの? カゲヌシって」
みちるがそう言うと、佐貫《さぬき》は軽く肩をすくめた。
「日本だけにいるとは限らないだろ? もし、世界中に散らばってたら、決して多い数じゃない」
「でも、これが『サイン』の一覧表だったら、なんで前半と後半で二回出てくるの?」
「もちろんそれも考えた」
と、佐貫は言った。
「多分、この本には前半と後半で二つの一覧表が入ってるんだと思う。前半と後半だと『サイン』の並び方が全然違う。ただの一覧表じゃなくて、並び方になにか意味があるんだよ。それで雛咲《ひなさき》さんが病院で言ってたことを思い出したんだ。『皇輝山文書』には、なにかの順番が書いてあるって」
「でも、雛咲《ひなさき》さんのお父さんってリグルに……」
みちるは言いよどんだ。あの時の清史《きよし》はカゲヌシの支配下にあったはずだ。どこまで本当のことを言っていたか分からない。
「ま、そうだけど、あそこであのカゲヌシが『皇輝山《おうきざん》文書《ぶんしょ》』のことで嘘《うそ》をつく必要なかったと思う。どっちかっていうと、俺《おれ》たちに知ってることを教えて謎《なぞ》を解かせた方がリグルにも有利だったはずだろ。レインメイカーと会うのに役に立つかもしれなかったんだし」
リグル・リグルの目的はレインメイカーを支配下に置くことだった。あのカゲヌシは清史《きよし》だけではなく船瀬《ふなせ》の娘の千晶《ちあき》まで操《あやつ》り、大勢の犠牲者《ぎせいしゃ》を出していた。佐貫《さぬき》が腕に怪我《けが》をしたのも、みちるの髪の毛が少し白くなってしまったのも、リグル・リグルのせいだった。
「だから、順番っていうのは信用していいんじゃないかと思った。で、今のところ分かってるカゲヌシの『サイン』が一覧表《いちらんひょう》の中でどういう順番になってるのか書き出してみた」
佐貫は一枚の紙をテーブルの上に置いた。そこにはこんなことが書いてあった。
一覧表A(前半) ボルガ→アブサロム→リグル・リグル→龍子主《たつこぬし》
一覧表B(後半) リグル・リグル→龍子主→アブサロム→ボルガ
一覧表B(後半) リグル・リグル→龍子主→アブサロム→ボルガ
「一応、この本の前半を一覧表A、後半を一覧表Bっていう風《ふう》に考えてる」
「『黒の彼方《かなた》』が入ってないけど」
「『黒の彼方』の『サイン』はどっちの一覧表からも離《はな》れたとこに書いてある。あいつはカゲヌシの中でも異質だし、例外だろうと思ってとりあえず外《はず》したんだ」
みちるはうなずきながらぬるくなったコーヒーを一口飲んだ。佐貫もそれにつられたようにマグカップを口に運んで、再び話を続けた。
「一覧表Aの方はすぐに意味が分かった。ボルガよりもアブサロムが後、アブサロムよりも龍子主が後……多分《たぶん》、これはカゲヌシの『階位』を示してる。後になればなるほど格が上なんだよ」
みちるは二ヶ月前に鶴亀《つるき》神社《じんじゃ》で龍子主と「黒の彼方」が戦った時のことを思い出した。確《たし》か「黒の彼方」は龍子主がアブサロムたちよりも高位にある、と言っていた。
「で、問題は一覧表Bの方。こっちの方はちょっと悩んだ」
みちるは順番を見る。彼女にはさっぱり分からなかった。
「でも、手がかりはちゃんとあったんだ。本の方を見ると」
佐貫は『皇輝山文書』を開いた。リグル・リグルの『サイン』は後半の一覧表の一ページ目に入っている。そこからしばらくページをめくっていくと、龍子主とアブサロムとボルガのサインが現れた。その三つはすべて同じページにあり、アブサロムとボルガの『サイン』に至っては完全に連続していた。
「……どこが手がかりなの?」
「リグルがこっちの世界に現れたのが四年前。それ以外の三匹が現れたのが全部四ヶ月前……今年《ことし》の五月|頃《ごろ》なんだ。特にアブサロムとボルガはほとんど連続して現れてる」
みちるたちは実際に見ていないが、アブサロムとボルガの話は裕生《ひろお》から聞いていた。蔵前《くらまえ》司《つかさ》という連続殺人犯がマンションの一室で親子三人を惨殺《ざんさつ》した後、アブサロムに取《と》り憑《つ》かれた。そのすぐ後、自分の家族の死体を発見した天内《あまうち》茜《あかね》がボルガに取り憑かれたらしい。殺人事件そのものは大きく報道されたからよく憶《おぼ》えていた。
「あ……」
みちるにも佐貫《さぬき》の言おうとしていることが分かった。
「こっちの表は、カゲヌシたちがこの世界に現れた時期を現してるっていうこと?」
「そうだと思う」
佐貫はうなずいた。
「今まで裕生《ひろお》たちが会ったカゲヌシのうち、この時期に現れたカゲヌシがやけに多いのが気にはなるんだけど。ひょっとすると、この頃にカゲヌシが一気にこっちの世界に来たのかもしれない。例のカゲヌシの噂《うわさ》が流れ始めたのもこの頃だし」
佐貫は本を閉じると、コーヒーの残りを一気にぐっと飲んだ。みちるは改めて佐貫に感心していた。今までこの本に関《かか》わった人間たちの誰《だれ》にも分からなかったことを、佐貫は一人で解き明かしてしまった。
「まあ、今話したのは全部仮説だけどな。一応筋は通ってると思うけど、ひょっとしたら間違ってるかもしれない」
「でも、すごいと思うよ」
少し沈んだ声でみちるは言った。彼女は佐貫と違って、こんな風《ふう》に裕生の役に立つことは出来ない。それを察してくれたのか、佐貫は慌てたように首を振った。
「いや、それにこれが分かったからってなんの役に立つかは分からないしな」
みちるはもう一度『皇輝山《おうきざん》文書《ぶんしょ》』をぱらぱらめくり始めた。ここに記されているカゲヌシたちは、この世界のどこかにいるのだ。
「……あれ?」
一通りめくり終えたみちるは、ふと声を上げた。そして、二つの一覧表《いちらんひょう》の最後をもう一度見比べる。
「どうかしたのか?」
「どっちの一覧表でも、一番最後に来る『サイン』が同じだね」
「そうだったか?」
「ほら」
みちるは前半と後半の一覧表の最後を代わる代わる開いてみせた。どちらも最後は正六角形の『サイン』だった。少し大きめに描かれた正六角形の中に、一回り小さな正六角形が描かれている。
「ほんとにそうだな。俺《おれ》、チェックしたのに今まで気が付かなかった」
感心したように佐貫《さぬき》が言う。
「一番強いカゲヌシは、最後にこっちの世界に来るってことか」
みちるはなんとなくその『サイン』に触れた。このカゲヌシももうこの世界のどこかにいるんだろうか、とふと思った。
「『黒の彼方《かなた》』が入ってないけど」
「『黒の彼方』の『サイン』はどっちの一覧表からも離《はな》れたとこに書いてある。あいつはカゲヌシの中でも異質だし、例外だろうと思ってとりあえず外《はず》したんだ」
みちるはうなずきながらぬるくなったコーヒーを一口飲んだ。佐貫もそれにつられたようにマグカップを口に運んで、再び話を続けた。
「一覧表Aの方はすぐに意味が分かった。ボルガよりもアブサロムが後、アブサロムよりも龍子主が後……多分《たぶん》、これはカゲヌシの『階位』を示してる。後になればなるほど格が上なんだよ」
みちるは二ヶ月前に鶴亀《つるき》神社《じんじゃ》で龍子主と「黒の彼方」が戦った時のことを思い出した。確《たし》か「黒の彼方」は龍子主がアブサロムたちよりも高位にある、と言っていた。
「で、問題は一覧表Bの方。こっちの方はちょっと悩んだ」
みちるは順番を見る。彼女にはさっぱり分からなかった。
「でも、手がかりはちゃんとあったんだ。本の方を見ると」
佐貫は『皇輝山文書』を開いた。リグル・リグルの『サイン』は後半の一覧表の一ページ目に入っている。そこからしばらくページをめくっていくと、龍子主とアブサロムとボルガのサインが現れた。その三つはすべて同じページにあり、アブサロムとボルガの『サイン』に至っては完全に連続していた。
「……どこが手がかりなの?」
「リグルがこっちの世界に現れたのが四年前。それ以外の三匹が現れたのが全部四ヶ月前……今年《ことし》の五月|頃《ごろ》なんだ。特にアブサロムとボルガはほとんど連続して現れてる」
みちるたちは実際に見ていないが、アブサロムとボルガの話は裕生《ひろお》から聞いていた。蔵前《くらまえ》司《つかさ》という連続殺人犯がマンションの一室で親子三人を惨殺《ざんさつ》した後、アブサロムに取《と》り憑《つ》かれた。そのすぐ後、自分の家族の死体を発見した天内《あまうち》茜《あかね》がボルガに取り憑かれたらしい。殺人事件そのものは大きく報道されたからよく憶《おぼ》えていた。
「あ……」
みちるにも佐貫《さぬき》の言おうとしていることが分かった。
「こっちの表は、カゲヌシたちがこの世界に現れた時期を現してるっていうこと?」
「そうだと思う」
佐貫はうなずいた。
「今まで裕生《ひろお》たちが会ったカゲヌシのうち、この時期に現れたカゲヌシがやけに多いのが気にはなるんだけど。ひょっとすると、この頃にカゲヌシが一気にこっちの世界に来たのかもしれない。例のカゲヌシの噂《うわさ》が流れ始めたのもこの頃だし」
佐貫は本を閉じると、コーヒーの残りを一気にぐっと飲んだ。みちるは改めて佐貫に感心していた。今までこの本に関《かか》わった人間たちの誰《だれ》にも分からなかったことを、佐貫は一人で解き明かしてしまった。
「まあ、今話したのは全部仮説だけどな。一応筋は通ってると思うけど、ひょっとしたら間違ってるかもしれない」
「でも、すごいと思うよ」
少し沈んだ声でみちるは言った。彼女は佐貫と違って、こんな風《ふう》に裕生の役に立つことは出来ない。それを察してくれたのか、佐貫は慌てたように首を振った。
「いや、それにこれが分かったからってなんの役に立つかは分からないしな」
みちるはもう一度『皇輝山《おうきざん》文書《ぶんしょ》』をぱらぱらめくり始めた。ここに記されているカゲヌシたちは、この世界のどこかにいるのだ。
「……あれ?」
一通りめくり終えたみちるは、ふと声を上げた。そして、二つの一覧表《いちらんひょう》の最後をもう一度見比べる。
「どうかしたのか?」
「どっちの一覧表でも、一番最後に来る『サイン』が同じだね」
「そうだったか?」
「ほら」
みちるは前半と後半の一覧表の最後を代わる代わる開いてみせた。どちらも最後は正六角形の『サイン』だった。少し大きめに描かれた正六角形の中に、一回り小さな正六角形が描かれている。
「ほんとにそうだな。俺《おれ》、チェックしたのに今まで気が付かなかった」
感心したように佐貫《さぬき》が言う。
「一番強いカゲヌシは、最後にこっちの世界に来るってことか」
みちるはなんとなくその『サイン』に触れた。このカゲヌシももうこの世界のどこかにいるんだろうか、とふと思った。