居間に通された夕紀は、雄一と向かい合って座っていた。
「悪かったな。こっちから電話かけ直さなくってよ。今起きたとこなんだ」
雄一は派手《はで》な柄《がら》のシャツに袖《そで》を通しながら言った。
「……別にいいですけど」
本当はあまり良くはない。この人に悪気がないし、なにか事情があるのは分かっている。それでも、連絡がないと不安になってしまう。
「家の中でもちゃんと服を着た方がいいですよ……女の子も一緒《いっしょ》に住んでるんだから」
夕紀はいつになく強い口調《くちょう》で言った。雄一は戸惑《とまど》ったように、ああ、とうなずく。彼女はなぜか苛立《いらだ》っていた。
「……まだ、大学には戻らないんですか?」
雄一の表情がかすかにくもった。
「まあ、そうだな。もうしばらくここにいるつもりだ」
一緒に住んでいる雛咲《ひなさき》葉が病気にかかっていて、その世話をしなければならない、というのが彼の説明だった。しかし、夕紀はもっと別の理由があるような気がしていた。どうして他人の雄一が大学を休んでまでそうしなければならないのか、理解出来なかった。
「でも、休みすぎると進級できないかも……」
その時、葉が日本茶の載ったお盆を手に部屋へ入ってきた。無言で夕紀の前に湯飲みを置いた。
「ありがとう」
夕紀は顔を上げて言い、まじまじと葉の横顔を見つめる。黒目がちの瞳《ひとみ》と白い肌が印象的な、整《ととの》った顔立ちだった。噂《うわさ》には聞いていたが、確《たし》かに可愛《かわい》らしい。
「そういや、お前ら顔合わせんの初めてじゃねーか?」
湯飲みを受け取りながら、屈託《くったく》なく雄一が言う。葉と夕紀の目が合い、お互いに軽くお辞儀《じぎ》をした。
「わたし、西尾夕紀です。聞いてると思うけど、加賀見《かがみ》高校ではわたしも茶道部《さどうぶ》にいたの」
「……茶道部?」
葉《よう》は不思議《ふしぎ》そうにつぶやいた。
「え、あなたも茶道部《さどうぶ》にいるんじゃ……」
夕紀《ゆき》は口をつぐんだ。葉の「病気」が記憶《きおく》に関係したものだということを思い出した。
「葉、お前も挨拶《あいさつ》しな」
と、雄一《ゆういち》が口を挟んだ。
「こんにちは……雛咲《ひなさき》葉です」
それだけ言って、彼女は居間から出て行った。
「ま、俺《おれ》の妹みてーなもんだ。裕生《ひろお》と結婚すりゃホントに妹なんだけどな」
突然、廊下を歩いていた葉がお盆を落とした。
「大丈夫?」
夕紀は声をかける。葉の顔は耳まで真《ま》っ赤《か》になっている。よほど恥ずかしいのか、お盆を拾うとキッチンへ駆け込んで行った。どうも「裕生と結婚」という言葉に反応したらしい。
(やっぱり、裕生くんの彼女だったんだ)
夕紀はほっと胸を撫《な》で下ろし——そういう自分に驚《おどろ》いた。ここへ来るまでに抱えていた不安の原因も分かった気がする。心のどこかで、雄一と葉の関係を疑っていたのだ。
彼女は膝《ひざ》の上でぎゅっと両手を握りしめた。
(わたし、嫌《いや》な女だ)
急に自分が恥ずかしくなった。こういう感情を雄一には知られたくない——。
「ん、どうかしたのか?」
「い、いえ、なんでもないです」
慌てて夕紀は言った。なにか話さなければ、と思った。
「そういえば、駅前で裕生くん見ましたよ」
「裕生に? いつ?」
「今日《きょう》の十時ぐらいかな……」
いつの間にかキッチンから葉が顔を出して、じっとこちらを見ていた。
「どこ行ったんだ、あいつ」
「さあ……あ、新宿《しんじゅく》の新大久保《しんおおくぼ》に行くって言ってました」
半ば葉の方を向いて答えた。葉はこの話にかなり興味《きょうみ》があるようだった。
「新大久保?」
と、雄一が首をひねった。
「喜嶋《きじま》バーにでも行ったのかな」
なんのことを言っているのか夕紀にはよく分からなかった。ただ、それを聞いた途端《とたん》、葉がすっとどこかの部屋へ入って行くのが見えた。
「十時って結構前だろ。今までなにしてたんだ?」
「実家に帰ってました。ちょっと母の様子《ようす》も見たかったし」
「お袋さん、元気か?」
と、雄一《ゆういち》が言った。
「はい。うちはもうみんな元気です」
一ヶ月前の監禁《かんきん》事件のショックも薄《うす》れ、西尾《にしお》家ではほとんど普段《ふだん》通りの生活に戻っていた。
「この家の人たちは……?」
と、夕紀《ゆき》は尋《たず》ねた。あの一連の事件では、この家の人々も大きな被害をこうむっている。操《あやつ》られていた警官《けいかん》に襲《おそ》われた雄一は全身に傷を負い、葉《よう》に至っては船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》に拳銃《けんじゅう》で肩を撃たれていた。
「俺《おれ》の怪我《けが》は大したことねえし、すぐ治ったけどな。後は……まあ……」
雄一は言葉を濁《にご》した。葉のことを言っているらしい。さっきもお茶を持ってきた時、少し右手を不自由そうにしていた。まだ彼女の傷は完治していないのだろう。
そういえば、船瀬千晶とともに葉の父親《ちちおや》も加賀見《かがみ》に現れたと聞いている。数日ですぐに姿を消してしまったということだったが。
「なんであんな事件、起こったんでしょうか」
夕紀の両親《りょうしん》は「監禁」されたとはいえ、その間ずっと眠らされているだけだった。しかし、妹のみちるはなにか恐ろしい目に遭ったようだった。本人ははっきり語ろうとしないが、髪《かみ》の毛が一房《ひとふさ》白くなってしまっていた。
「……なんでだろうな」
雄一はそう言って日本茶を一口すすった。この事件の話になると、雄一の口がやけに重くなるのを以前から不思議《ふしぎ》に思っていた。自分たちがどうして襲われたのかも分かっていないはずなのに、関心がなさそうな態度を取っている。
(この人、知ってるのかも)
一ヶ月前の事件だけではない。その前から自分たちの周りでは奇妙なことが起こっている。茶道部《さどうぶ》の後輩《こうはい》の飯倉《いいくら》志乃《しの》が自殺した頃《ころ》から、なにかがおかしくなっていた。
そういえば、雄一はそのことについてもほとんど話をしなくなった。自分への配慮《はいりょ》だろうと思っていたが、言うに言えない事情があるのかもしれない。葉の世話というのはただの口実で、大学に戻ろうとしないのもそのせいではないのか。
「わたしもしばらくこの町にいます」
と、夕紀は言った。
本当はずっと以前からその「なにか」の気配《けはい》を、夕紀も察していたのかもしれない。目を背《そむ》けていただけで。
「大学はどうすんだ?」
その時音もなくふすまが開いて、小さなトートバッグを肩から提《さ》げた葉が現れた。雄一のいる場所からは葉《よう》の姿は見えていない。夕紀《ゆき》は気付いたが、葉の様子《ようす》が自然だったので、大して気にも留めていなかった。近所に買い物に行くのかな、と思っただけだった。葉は玄関で靴を履《は》いて、静かにドアを開けて出て行った。
「大学はしばらく休みます」
「でもよ……」
「わたし、雄一《ゆういち》さんのそばにいたいんです」
雄一は困りきった表情を浮かべた。
「悪かったな。こっちから電話かけ直さなくってよ。今起きたとこなんだ」
雄一は派手《はで》な柄《がら》のシャツに袖《そで》を通しながら言った。
「……別にいいですけど」
本当はあまり良くはない。この人に悪気がないし、なにか事情があるのは分かっている。それでも、連絡がないと不安になってしまう。
「家の中でもちゃんと服を着た方がいいですよ……女の子も一緒《いっしょ》に住んでるんだから」
夕紀はいつになく強い口調《くちょう》で言った。雄一は戸惑《とまど》ったように、ああ、とうなずく。彼女はなぜか苛立《いらだ》っていた。
「……まだ、大学には戻らないんですか?」
雄一の表情がかすかにくもった。
「まあ、そうだな。もうしばらくここにいるつもりだ」
一緒に住んでいる雛咲《ひなさき》葉が病気にかかっていて、その世話をしなければならない、というのが彼の説明だった。しかし、夕紀はもっと別の理由があるような気がしていた。どうして他人の雄一が大学を休んでまでそうしなければならないのか、理解出来なかった。
「でも、休みすぎると進級できないかも……」
その時、葉が日本茶の載ったお盆を手に部屋へ入ってきた。無言で夕紀の前に湯飲みを置いた。
「ありがとう」
夕紀は顔を上げて言い、まじまじと葉の横顔を見つめる。黒目がちの瞳《ひとみ》と白い肌が印象的な、整《ととの》った顔立ちだった。噂《うわさ》には聞いていたが、確《たし》かに可愛《かわい》らしい。
「そういや、お前ら顔合わせんの初めてじゃねーか?」
湯飲みを受け取りながら、屈託《くったく》なく雄一が言う。葉と夕紀の目が合い、お互いに軽くお辞儀《じぎ》をした。
「わたし、西尾夕紀です。聞いてると思うけど、加賀見《かがみ》高校ではわたしも茶道部《さどうぶ》にいたの」
「……茶道部?」
葉《よう》は不思議《ふしぎ》そうにつぶやいた。
「え、あなたも茶道部《さどうぶ》にいるんじゃ……」
夕紀《ゆき》は口をつぐんだ。葉の「病気」が記憶《きおく》に関係したものだということを思い出した。
「葉、お前も挨拶《あいさつ》しな」
と、雄一《ゆういち》が口を挟んだ。
「こんにちは……雛咲《ひなさき》葉です」
それだけ言って、彼女は居間から出て行った。
「ま、俺《おれ》の妹みてーなもんだ。裕生《ひろお》と結婚すりゃホントに妹なんだけどな」
突然、廊下を歩いていた葉がお盆を落とした。
「大丈夫?」
夕紀は声をかける。葉の顔は耳まで真《ま》っ赤《か》になっている。よほど恥ずかしいのか、お盆を拾うとキッチンへ駆け込んで行った。どうも「裕生と結婚」という言葉に反応したらしい。
(やっぱり、裕生くんの彼女だったんだ)
夕紀はほっと胸を撫《な》で下ろし——そういう自分に驚《おどろ》いた。ここへ来るまでに抱えていた不安の原因も分かった気がする。心のどこかで、雄一と葉の関係を疑っていたのだ。
彼女は膝《ひざ》の上でぎゅっと両手を握りしめた。
(わたし、嫌《いや》な女だ)
急に自分が恥ずかしくなった。こういう感情を雄一には知られたくない——。
「ん、どうかしたのか?」
「い、いえ、なんでもないです」
慌てて夕紀は言った。なにか話さなければ、と思った。
「そういえば、駅前で裕生くん見ましたよ」
「裕生に? いつ?」
「今日《きょう》の十時ぐらいかな……」
いつの間にかキッチンから葉が顔を出して、じっとこちらを見ていた。
「どこ行ったんだ、あいつ」
「さあ……あ、新宿《しんじゅく》の新大久保《しんおおくぼ》に行くって言ってました」
半ば葉の方を向いて答えた。葉はこの話にかなり興味《きょうみ》があるようだった。
「新大久保?」
と、雄一が首をひねった。
「喜嶋《きじま》バーにでも行ったのかな」
なんのことを言っているのか夕紀にはよく分からなかった。ただ、それを聞いた途端《とたん》、葉がすっとどこかの部屋へ入って行くのが見えた。
「十時って結構前だろ。今までなにしてたんだ?」
「実家に帰ってました。ちょっと母の様子《ようす》も見たかったし」
「お袋さん、元気か?」
と、雄一《ゆういち》が言った。
「はい。うちはもうみんな元気です」
一ヶ月前の監禁《かんきん》事件のショックも薄《うす》れ、西尾《にしお》家ではほとんど普段《ふだん》通りの生活に戻っていた。
「この家の人たちは……?」
と、夕紀《ゆき》は尋《たず》ねた。あの一連の事件では、この家の人々も大きな被害をこうむっている。操《あやつ》られていた警官《けいかん》に襲《おそ》われた雄一は全身に傷を負い、葉《よう》に至っては船瀬《ふなせ》千晶《ちあき》に拳銃《けんじゅう》で肩を撃たれていた。
「俺《おれ》の怪我《けが》は大したことねえし、すぐ治ったけどな。後は……まあ……」
雄一は言葉を濁《にご》した。葉のことを言っているらしい。さっきもお茶を持ってきた時、少し右手を不自由そうにしていた。まだ彼女の傷は完治していないのだろう。
そういえば、船瀬千晶とともに葉の父親《ちちおや》も加賀見《かがみ》に現れたと聞いている。数日ですぐに姿を消してしまったということだったが。
「なんであんな事件、起こったんでしょうか」
夕紀の両親《りょうしん》は「監禁」されたとはいえ、その間ずっと眠らされているだけだった。しかし、妹のみちるはなにか恐ろしい目に遭ったようだった。本人ははっきり語ろうとしないが、髪《かみ》の毛が一房《ひとふさ》白くなってしまっていた。
「……なんでだろうな」
雄一はそう言って日本茶を一口すすった。この事件の話になると、雄一の口がやけに重くなるのを以前から不思議《ふしぎ》に思っていた。自分たちがどうして襲われたのかも分かっていないはずなのに、関心がなさそうな態度を取っている。
(この人、知ってるのかも)
一ヶ月前の事件だけではない。その前から自分たちの周りでは奇妙なことが起こっている。茶道部《さどうぶ》の後輩《こうはい》の飯倉《いいくら》志乃《しの》が自殺した頃《ころ》から、なにかがおかしくなっていた。
そういえば、雄一はそのことについてもほとんど話をしなくなった。自分への配慮《はいりょ》だろうと思っていたが、言うに言えない事情があるのかもしれない。葉の世話というのはただの口実で、大学に戻ろうとしないのもそのせいではないのか。
「わたしもしばらくこの町にいます」
と、夕紀は言った。
本当はずっと以前からその「なにか」の気配《けはい》を、夕紀も察していたのかもしれない。目を背《そむ》けていただけで。
「大学はどうすんだ?」
その時音もなくふすまが開いて、小さなトートバッグを肩から提《さ》げた葉が現れた。雄一のいる場所からは葉《よう》の姿は見えていない。夕紀《ゆき》は気付いたが、葉の様子《ようす》が自然だったので、大して気にも留めていなかった。近所に買い物に行くのかな、と思っただけだった。葉は玄関で靴を履《は》いて、静かにドアを開けて出て行った。
「大学はしばらく休みます」
「でもよ……」
「わたし、雄一《ゆういち》さんのそばにいたいんです」
雄一は困りきった表情を浮かべた。
佐貫《さぬき》は加賀見《かがみ》駅に向かって歩いていた。裕生《ひろお》と電話で話し終えてすぐに教室を出たのだった。できれば一度家に帰って私服に着替えたかったが、その時間もなさそうだった。なるべく急いで歩いていたが、右腕のギプスのせいで体が揺れて妙に疲れる。
彼は車の行き来の激《はげ》しい大通りを渡って、閉鎖《へいさ》された高いビルの前を通り過ぎて行った。JRの加賀見駅はそのすぐ先にある。
(西尾《にしお》も来ればよかったのに)
いくら誘ってもみちるは首を縦《たて》に振らなかった。授業をサボりたくないという理由でもない。裕生と顔を合わせるのがどうしても恥ずかしいのだという。
(そういうもんかな)
と、佐貫は思う。好きな相手に気持ちをぶつければ済むと考えるほど無神経ではないつもりだが、具体的にそれでどう済まなくなるのかが分からなかった。そもそも、どうして好きな相手の前で照れたり臆《おく》したりするのだろう。
佐貫には好きな女の子はいない。もちろん、女の子に興味《きょうみ》はあるのだが、無理に誰《だれ》かと付き合おうとは思っていなかった。恋愛よりも面白《おもしろ》いことが彼にとっては多すぎるのだ。
タクシー乗り場の前にある入り口から駅舎に足を踏み入れて、切符の自動|販売機《はんばいき》の方へ向かった。
「……お?」
佐貫は目を瞠《みは》った。販売機の列の前で、デニムのロングスカートと白のブラウスを着た小柄《こがら》な女の子が路線図《ろせんず》を見上げていた。
「雛咲《ひなさき》さん?」
一瞬《いっしゅん》の間を置いて、葉がくるっと振り返った。
「なにしてんの、こんなとこで」
葉は困ったように佐貫を見返しているだけだった。どうも、彼の顔を憶《おぼ》えていないらしい。
「あ、俺《おれ》は佐貫。手帳に俺のこと書いてあると思うよ」
葉はトートバッグを開けてごそごそと中を探り始めた。しかし、左のスカートのポケットから、かすかに手帳の角が覗《のぞ》いている。
「それじゃないか?」
と、佐貫《さぬき》は手帳を出してめくり始める。身体的特徴も書いてあるのか、何度か手帳と佐貫を見比べている。
その間、佐貫の方もじっと葉を見ていた。可愛《かわい》いよなあ、と素直に感心していた。特にそれ以上の感情はない。やっぱり昔っから裕生《ひろお》にホレてたのかなあ、などと無駄《むだ》なことを考えていた。
やがて、葉は納得してくれたらしい。手帳を閉じてまたポケットにしまった。
「……すいません。こんにちは」
と、彼女は言った。
「どこに行くの?」
葉がどこかに行く時は、必ず雄一《ゆういち》か裕生が一緒《いっしょ》にいると聞いていたが。
「裕生ちゃんのところ。わたしの叔母《おば》の家にいるみたいなんです」
「あ、なんだ。実は今から俺《おれ》も……ん?」
裕生は先ほどの電話では一言も葉のことを口にしなかった。そもそも葉に一人で行動させるぐらいなら、最初から一緒に連れて行くはずだ。
「裕生が来いって言ったの?」
葉はうつむいて答えなかった。はっきり憶《おぼ》えていないのかもしれない。
「分かりません……けど」
一応、裕生に確認《かくにん》した方が良さそうだった。携帯《けいたい》を出して裕生にかけようとすると、葉が消え入りそうな声で言った。
「……わたし、裕生ちゃんと一緒にいたい」
佐貫は電話をかけるのをやめて、まじまじと葉の顔を見つめた。
(こういうもんなんだな)
誰《だれ》かがここまではっきりと好意を口にするところを、佐貫は初めて見た。新鮮《しんせん》な感動のようなものを感じる。さすがに裕生が羨《うらや》ましくなった。
「分かった。じゃ、俺と一緒に行こう」
裕生に電話をかけて家に帰してくれと言われても、残酷《ざんこく》すぎて実行する気になれない。葉ははい、と小さな声で答えた。
(なんか言われたら、俺が連れてきちまったってことにすればいいや)
と、彼は自分に言い聞かせた。
彼は車の行き来の激《はげ》しい大通りを渡って、閉鎖《へいさ》された高いビルの前を通り過ぎて行った。JRの加賀見駅はそのすぐ先にある。
(西尾《にしお》も来ればよかったのに)
いくら誘ってもみちるは首を縦《たて》に振らなかった。授業をサボりたくないという理由でもない。裕生と顔を合わせるのがどうしても恥ずかしいのだという。
(そういうもんかな)
と、佐貫は思う。好きな相手に気持ちをぶつければ済むと考えるほど無神経ではないつもりだが、具体的にそれでどう済まなくなるのかが分からなかった。そもそも、どうして好きな相手の前で照れたり臆《おく》したりするのだろう。
佐貫には好きな女の子はいない。もちろん、女の子に興味《きょうみ》はあるのだが、無理に誰《だれ》かと付き合おうとは思っていなかった。恋愛よりも面白《おもしろ》いことが彼にとっては多すぎるのだ。
タクシー乗り場の前にある入り口から駅舎に足を踏み入れて、切符の自動|販売機《はんばいき》の方へ向かった。
「……お?」
佐貫は目を瞠《みは》った。販売機の列の前で、デニムのロングスカートと白のブラウスを着た小柄《こがら》な女の子が路線図《ろせんず》を見上げていた。
「雛咲《ひなさき》さん?」
一瞬《いっしゅん》の間を置いて、葉がくるっと振り返った。
「なにしてんの、こんなとこで」
葉は困ったように佐貫を見返しているだけだった。どうも、彼の顔を憶《おぼ》えていないらしい。
「あ、俺《おれ》は佐貫。手帳に俺のこと書いてあると思うよ」
葉はトートバッグを開けてごそごそと中を探り始めた。しかし、左のスカートのポケットから、かすかに手帳の角が覗《のぞ》いている。
「それじゃないか?」
と、佐貫《さぬき》は手帳を出してめくり始める。身体的特徴も書いてあるのか、何度か手帳と佐貫を見比べている。
その間、佐貫の方もじっと葉を見ていた。可愛《かわい》いよなあ、と素直に感心していた。特にそれ以上の感情はない。やっぱり昔っから裕生《ひろお》にホレてたのかなあ、などと無駄《むだ》なことを考えていた。
やがて、葉は納得してくれたらしい。手帳を閉じてまたポケットにしまった。
「……すいません。こんにちは」
と、彼女は言った。
「どこに行くの?」
葉がどこかに行く時は、必ず雄一《ゆういち》か裕生が一緒《いっしょ》にいると聞いていたが。
「裕生ちゃんのところ。わたしの叔母《おば》の家にいるみたいなんです」
「あ、なんだ。実は今から俺《おれ》も……ん?」
裕生は先ほどの電話では一言も葉のことを口にしなかった。そもそも葉に一人で行動させるぐらいなら、最初から一緒に連れて行くはずだ。
「裕生が来いって言ったの?」
葉はうつむいて答えなかった。はっきり憶《おぼ》えていないのかもしれない。
「分かりません……けど」
一応、裕生に確認《かくにん》した方が良さそうだった。携帯《けいたい》を出して裕生にかけようとすると、葉が消え入りそうな声で言った。
「……わたし、裕生ちゃんと一緒にいたい」
佐貫は電話をかけるのをやめて、まじまじと葉の顔を見つめた。
(こういうもんなんだな)
誰《だれ》かがここまではっきりと好意を口にするところを、佐貫は初めて見た。新鮮《しんせん》な感動のようなものを感じる。さすがに裕生が羨《うらや》ましくなった。
「分かった。じゃ、俺と一緒に行こう」
裕生に電話をかけて家に帰してくれと言われても、残酷《ざんこく》すぎて実行する気になれない。葉ははい、と小さな声で答えた。
(なんか言われたら、俺が連れてきちまったってことにすればいいや)
と、彼は自分に言い聞かせた。