アブサロム・ドッグヘッドは二機目《にきめ》のヘリを落とした。
今度は駅にほど近いホテルの最上階に突入させた。たちまちヘリは爆発《ばくはつ》し、下の階に向かって炎が燃え広がり始めたが、現場には消防車も救急車も到着しなかった。
周辺の道路は事故を起こし、炎上した車によってあちこちで寸断されている。交通|網《もう》は完全にマヒしており、なによりも炎上した車の中に消防車や救急車も多く含まれていた。警察《けいさつ》はすでに機動隊をも出動させていたが、異様な力を持つ怪物が相手とあってはなす術《すべ》がなかった。彼らの持つ通常の武器はこの敵にまったく効果を持たなかったからだ。
ひとまず警察《けいさつ》はこの一帯を封鎖《ふうさ》し、人々を避難《ひなん》させることに徹《てっ》していた。しかし、その間に被害はさらに広がり続けていた。
今度は駅にほど近いホテルの最上階に突入させた。たちまちヘリは爆発《ばくはつ》し、下の階に向かって炎が燃え広がり始めたが、現場には消防車も救急車も到着しなかった。
周辺の道路は事故を起こし、炎上した車によってあちこちで寸断されている。交通|網《もう》は完全にマヒしており、なによりも炎上した車の中に消防車や救急車も多く含まれていた。警察《けいさつ》はすでに機動隊をも出動させていたが、異様な力を持つ怪物が相手とあってはなす術《すべ》がなかった。彼らの持つ通常の武器はこの敵にまったく効果を持たなかったからだ。
ひとまず警察《けいさつ》はこの一帯を封鎖《ふうさ》し、人々を避難《ひなん》させることに徹《てっ》していた。しかし、その間に被害はさらに広がり続けていた。
蔵前《くらまえ》は大通りの真ん中でうずくまっている。ビルの外壁《がいへき》やガラスの破片が彼の周囲に散乱している。至るところで発生している火災のせいで、視界には黒いもやがかかっているようだった。そして、炎であぶられた通りはさっきよりもはるかに暑くなっていた。
蔵前はようやく立ち上がった——周囲はまるで爆撃《ばくげき》でも受けたような光景に変わっていた。
「どこだ?」
と、アブサロムに問いかける。すぐに彼の脳にもカゲヌシの見聞きしているものが伝わってきた。彼のカゲヌシはデパートの屋上に立ち、偵察に現れた自衛隊《じえいたい》のものらしいヘリを落とそうと試みていた。
「やめろ……」
歯を食《く》い縛《しば》って蔵前はつぶやいた。人を殺し、街を破壊《はかい》するのは構わない。しかし、まず優先《ゆうせん》すべきなのは葉《よう》たちを確実《かくじつ》に殺すことだった。
「その後で、好きなことをしろ」
あのドッグヘッドの本能に任せていては、本来の目的を果たすことが出来なくなるかもしれない。空に向かって例の黒い光を放とうとしていた獣人《じゅうじん》は、しぶしぶと向きを変えて、フェンスを乗り越えて通りへと飛び降りてきた。
蔵前はヘリの突入で破壊されたデパートの入り口付近を見ていた。建物の中からもくもくと黒い煙が噴《ふ》き出ている。一階の売り場の中に燃《も》え広がった炎はまったく衰える気配《けはい》を見せなかった。あの中で人間が生きているはずはない。
しかし、蔵前は確信していた——まだ、連中は生きている。「黒の彼方《かなた》」の気配は消えていなかった。
アブサロムが彼のもとに駆け寄ってきて、彼の前で片膝《かたひざ》を突いた。
「……行くぞ」
蔵前はデパートに向かって歩き出した。
蔵前はようやく立ち上がった——周囲はまるで爆撃《ばくげき》でも受けたような光景に変わっていた。
「どこだ?」
と、アブサロムに問いかける。すぐに彼の脳にもカゲヌシの見聞きしているものが伝わってきた。彼のカゲヌシはデパートの屋上に立ち、偵察に現れた自衛隊《じえいたい》のものらしいヘリを落とそうと試みていた。
「やめろ……」
歯を食《く》い縛《しば》って蔵前はつぶやいた。人を殺し、街を破壊《はかい》するのは構わない。しかし、まず優先《ゆうせん》すべきなのは葉《よう》たちを確実《かくじつ》に殺すことだった。
「その後で、好きなことをしろ」
あのドッグヘッドの本能に任せていては、本来の目的を果たすことが出来なくなるかもしれない。空に向かって例の黒い光を放とうとしていた獣人《じゅうじん》は、しぶしぶと向きを変えて、フェンスを乗り越えて通りへと飛び降りてきた。
蔵前はヘリの突入で破壊されたデパートの入り口付近を見ていた。建物の中からもくもくと黒い煙が噴《ふ》き出ている。一階の売り場の中に燃《も》え広がった炎はまったく衰える気配《けはい》を見せなかった。あの中で人間が生きているはずはない。
しかし、蔵前は確信していた——まだ、連中は生きている。「黒の彼方《かなた》」の気配は消えていなかった。
アブサロムが彼のもとに駆け寄ってきて、彼の前で片膝《かたひざ》を突いた。
「……行くぞ」
蔵前はデパートに向かって歩き出した。
誰《だれ》かに背負われているような気がする。
どこかへ運ばれているところらしい。しばらくその状態が続いた後で、裕生《ひろお》の体はどこかへ下ろされた。どすん、と背中に硬いものがぶつかって、彼はかすかにうめいた。
「乱暴《らんぼう》だよ佐貫《さぬき》っち。そんな置き方しちゃダメ」
どこかから茜《あかね》の声が聞こえた。
「しょうがないじゃないスか。だって俺《おれ》、片手使えねえし」
むっとした声で佐貫が言い返す。
「今ので裕生《ひろお》ちゃんにトドメ刺しちゃったらどうすんの?」
「え、そんなバカな……って平気……だよな?」
佐貫《さぬき》は心配し始めている。起きなきゃ、とは思ったが、ひどく眠かった。ふと誰《だれ》かのひやりとした細い指が頬《ほお》に触れた。
「……大丈夫です」
葉《よう》の声だった。裕生ははっと目を開けた。
葉と佐貫と茜《あかね》の三人が、彼の顔を覗《のぞ》き込んでいた。
「あ、目、開けたよ」
と、茜が言った。裕生は慌てて体を起こそうとする。しかし、その途端《とたん》にずきんと頭が痛んだ。手で触れてみると、大きなコブができていた。
「すぐに起きない方がいいぞ。結構強く頭打ったしな」
裕生は自分の体を確《たし》かめる。あの爆発《ばくはつ》で怪我《けが》をしたところは特にないようだった。例のつぶされた左手には、どこかで見た柄《がら》の布が不器用に巻き付けてある。ふと葉を見ると、ブラウスの片方の袖《そで》がなくなって、肩があらわになっていた。
「……これ、葉がやってくれたの?」
彼女は少し顔を背《そむ》けて、黙《だま》ってうなずいた。彼女は特に怪我をしていないらしい。
「ありがとう……あの、葉はなんともなかった?」
「……はい」
「よかった」
裕生はほっと息をついた。
あのヘリが落ちてきた時、裕生たちは地下へ降りる階段に向かっていた。絶対に間に合わないと思った時、佐貫と茜が地下から飛び出してきたのだった。
二人の助けを借りて、裕生たちはどうにか階段に身を隠すことが出来た。しかし、その後に続けて起こった爆発で、裕生は意識《いしき》を失ってしまった。
「あ、ひどーい。あたしらもかなり危なかったのに、葉ちゃんしか心配しないの?」
茜が口を尖《とが》らせる。葉の顔が赤くなり、裕生は慌てて首を振った。
「あ、そ、そうじゃなくて……天内《あまうち》さんたちは?」
「ふーん、ついでで心配するんだー」
裕生はなにも言えなくなった。
「俺《おれ》らは大丈夫だって。心配しなくても」
と、佐貫が助け船を出す。しかし、二人が命を張って助けてくれたのは確《たし》かだった。
「でも、お礼言わないと。二人が助けてくれなかったら、ほんとにダメだったと思う」
「いや、別に」
と、佐貫は首を振った。
「はっきり言って偶然だし」
「え?」
思わず裕生《ひろお》は聞き返した——そういえば、どうして佐貫《さぬき》たちは地下から現れたのだろう。
「お前らが地下で襲《おそ》われたみたいだったから、俺《おれ》らも地下に降りたんだよ。それで電話で聞いたあたりまで行ったけど、お前らはもういなくてさ。とにかく近くの階段から上にあがったら、ちょうどヘリが突っ込んでくるとこで……お前らより俺らの方が慌ててたかもな」
裕生は立ち上がってあたりを見回した。四人がいるのはやはり地下街のどこからしい。まっすぐに伸びた通路の途中で、左右にはカレーショップや定食屋が並んでいる。明かりが点《つ》いているのに、人の姿はどこにもない。なんとなく不気味な眺めだった。
「……さっきまであのデパートの階段の下にいたんだけど、一階が火事になったから危なくなってきてさ。それで、お前背負って別のビルまで来たんだよ」
「蔵前《くらまえ》は追って来なかったの?」
「……いや、来てないな」
「黒の彼方《かなた》」は佐貫たちが現れた瞬間《しゅんかん》、自分から葉《よう》の影《かげ》に戻った。ということは、今の葉はカゲヌシの気配《けはい》を発している。蔵前なら簡単《かんたん》に追跡も出来るはずだ。
「どうして来ないんだろう」
と、裕生は言った。
「さっきから俺もそれを考えてた」
地上の方からかすかに爆発音《ばくはつおん》が聞こえた。裕生は思わず天井《てんじょう》を見上げる。
「上はどうなってるの?」
「見てねえけど、さっきからずっとこんな音がしてる……かなりヤバいことになってるかもな」
蔵前は裕生たちを殺すことを目的としていた。わざわざ茜《あかね》を生かしておいて、裕生たちを呼び寄せたのもそのためだったはずだ。それなのに、獲物《えもの》が揃《そろ》った今は街の破壊《はかい》を優先《ゆうせん》させている。
裕生はあのヘリが墜落《ついらく》する寸前、蔵前の叫んだ一言が気になっていた。
まだだ、と蔵前は自分のカゲヌシに言っていた。ひょっとすると、今の蔵前はアブサロム・ドッグヘッドを制御《せいぎょ》出来ない状態にあるのかもしれない。
「……どうする?」
と、佐貫が言う。裕生は唇を噛《か》んだ。
もし、あのカゲヌシが蔵前の意思とは関係なく動いているとしたら、自分たちが逃げてもこの状況はなにも変わらないことになる。
「戦うしかないよ」
と、裕生は言った。しかし、もう一度「黒の彼方」をぶつけて果たして勝算があるのだろうか。明らかに「黒の彼方」は動ける状態ではない。
裕生《ひろお》は葉《よう》の方を見る——茜《あかね》が葉の右手にペンでなにかを書き込んでいるところだった。葉の方は微妙に困った顔をしている。
「なにしてるの?」
「ん、ほら見て」
茜は葉の手首を裕生と佐貫《さぬき》に見せた。
「手帳をどこに入れてるか、葉ちゃんすぐ忘れるみたいだから、書いておけば大丈夫かなーって」
裕生ははっとした。最近、手帳を探すしぐさをよく見ている気がした。それも記憶《きおく》の欠落の一部だとしたら、症状は裕生の考える以上に進んでいるのかもしれない。もし、アブサロムを倒せたとしても、葉が「黒の彼方《かなた》」に支配されるようなことになったら——。
「なに迷ってんの、裕生ちゃん」
と、茜がペンをしまいながら言った。
「蔵前《くらまえ》を殺せばいいんだよ、あたしたちが」
「そんな……」
裕生は言葉を失った。
「カゲヌシは殺せないかもしれないけど、うまくやれば人間は殺せるよ、あたしたちでも」
「なに言ってるんだよ。確《たし》かにあいつは殺人鬼かもしれないけど、それでも人間なんだよ?」
しかし、彼女の言ったことは先ほど裕生の頭に浮かんだ考えと同じだった。どんなカゲヌシでも、契約者である人間は弱点になる。
「俺《おれ》も天内《あまうち》さんに賛成《さんせい》だな」
と、佐貫が言った。
「……佐貫」
「っていうか、そういう覚悟は決めてた。カゲヌシと戦うんだったら、契約者を殺すことになるかもしれないって」
「あ、気が合うね。佐貫っち」
嬉《うれ》しそうに茜が笑った。佐貫はちょっと戸惑《とまど》ったようにうなずいて、話を続けた。
「裕生にやれなんて言わない。直接手を下すのは俺だ。お前は雛咲《ひなさき》さんのそばにいてやんなきゃダメなんだし」
「そうだね、裕生ちゃんは外《はず》そう。がんばろう、佐貫っち」
「も、もっとダメだよそんなの!」
と、裕生は叫んだ。自分一人が手を汚さず、佐貫たちだけが罪をかぶることになってしまう。
「それならぼくも一緒《いっしょ》に」
「わたしがやります」
それまで聞いていた葉が言った。
「わたしがもう一度、カゲヌシを呼べばいいんです。うまく戦えば」
「でも、『黒の彼方《かなた》』じゃアブサロムにはかなわないよ?」
裕生《ひろお》はどうしたらいいか分からなかった——誰《だれ》もが納得出来る、正しい選択があればと心から思った。しかし、おそらくそのようなものは存在しないのだ。
(あれ……?)
ふと、裕生は顔を上げて天井《てんじょう》を見た。なんとなく誰かに見られているような気がしたからだ。そこにはなんの変哲もない、パネルのはめ込まれた天井があるだけだった。
(気のせいかな)
そう思いかけた時、ぶるっと天井が震《ふる》え始めた。
「えっ」
その震えは瞬《またた》く間に激《はげ》しさを増し、パネルに長いひびが入り始めた。そして、まるで開閉を始めたかのように天井が真っ二つに割れていった。
「危ないっ!」
と、茜《あかね》が叫び、他《ほか》の三人は彼女に突き飛ばされた。
轟音《ごうおん》とともに天井が降ってきた。
どこかへ運ばれているところらしい。しばらくその状態が続いた後で、裕生《ひろお》の体はどこかへ下ろされた。どすん、と背中に硬いものがぶつかって、彼はかすかにうめいた。
「乱暴《らんぼう》だよ佐貫《さぬき》っち。そんな置き方しちゃダメ」
どこかから茜《あかね》の声が聞こえた。
「しょうがないじゃないスか。だって俺《おれ》、片手使えねえし」
むっとした声で佐貫が言い返す。
「今ので裕生《ひろお》ちゃんにトドメ刺しちゃったらどうすんの?」
「え、そんなバカな……って平気……だよな?」
佐貫《さぬき》は心配し始めている。起きなきゃ、とは思ったが、ひどく眠かった。ふと誰《だれ》かのひやりとした細い指が頬《ほお》に触れた。
「……大丈夫です」
葉《よう》の声だった。裕生ははっと目を開けた。
葉と佐貫と茜《あかね》の三人が、彼の顔を覗《のぞ》き込んでいた。
「あ、目、開けたよ」
と、茜が言った。裕生は慌てて体を起こそうとする。しかし、その途端《とたん》にずきんと頭が痛んだ。手で触れてみると、大きなコブができていた。
「すぐに起きない方がいいぞ。結構強く頭打ったしな」
裕生は自分の体を確《たし》かめる。あの爆発《ばくはつ》で怪我《けが》をしたところは特にないようだった。例のつぶされた左手には、どこかで見た柄《がら》の布が不器用に巻き付けてある。ふと葉を見ると、ブラウスの片方の袖《そで》がなくなって、肩があらわになっていた。
「……これ、葉がやってくれたの?」
彼女は少し顔を背《そむ》けて、黙《だま》ってうなずいた。彼女は特に怪我をしていないらしい。
「ありがとう……あの、葉はなんともなかった?」
「……はい」
「よかった」
裕生はほっと息をついた。
あのヘリが落ちてきた時、裕生たちは地下へ降りる階段に向かっていた。絶対に間に合わないと思った時、佐貫と茜が地下から飛び出してきたのだった。
二人の助けを借りて、裕生たちはどうにか階段に身を隠すことが出来た。しかし、その後に続けて起こった爆発で、裕生は意識《いしき》を失ってしまった。
「あ、ひどーい。あたしらもかなり危なかったのに、葉ちゃんしか心配しないの?」
茜が口を尖《とが》らせる。葉の顔が赤くなり、裕生は慌てて首を振った。
「あ、そ、そうじゃなくて……天内《あまうち》さんたちは?」
「ふーん、ついでで心配するんだー」
裕生はなにも言えなくなった。
「俺《おれ》らは大丈夫だって。心配しなくても」
と、佐貫が助け船を出す。しかし、二人が命を張って助けてくれたのは確《たし》かだった。
「でも、お礼言わないと。二人が助けてくれなかったら、ほんとにダメだったと思う」
「いや、別に」
と、佐貫は首を振った。
「はっきり言って偶然だし」
「え?」
思わず裕生《ひろお》は聞き返した——そういえば、どうして佐貫《さぬき》たちは地下から現れたのだろう。
「お前らが地下で襲《おそ》われたみたいだったから、俺《おれ》らも地下に降りたんだよ。それで電話で聞いたあたりまで行ったけど、お前らはもういなくてさ。とにかく近くの階段から上にあがったら、ちょうどヘリが突っ込んでくるとこで……お前らより俺らの方が慌ててたかもな」
裕生は立ち上がってあたりを見回した。四人がいるのはやはり地下街のどこからしい。まっすぐに伸びた通路の途中で、左右にはカレーショップや定食屋が並んでいる。明かりが点《つ》いているのに、人の姿はどこにもない。なんとなく不気味な眺めだった。
「……さっきまであのデパートの階段の下にいたんだけど、一階が火事になったから危なくなってきてさ。それで、お前背負って別のビルまで来たんだよ」
「蔵前《くらまえ》は追って来なかったの?」
「……いや、来てないな」
「黒の彼方《かなた》」は佐貫たちが現れた瞬間《しゅんかん》、自分から葉《よう》の影《かげ》に戻った。ということは、今の葉はカゲヌシの気配《けはい》を発している。蔵前なら簡単《かんたん》に追跡も出来るはずだ。
「どうして来ないんだろう」
と、裕生は言った。
「さっきから俺もそれを考えてた」
地上の方からかすかに爆発音《ばくはつおん》が聞こえた。裕生は思わず天井《てんじょう》を見上げる。
「上はどうなってるの?」
「見てねえけど、さっきからずっとこんな音がしてる……かなりヤバいことになってるかもな」
蔵前は裕生たちを殺すことを目的としていた。わざわざ茜《あかね》を生かしておいて、裕生たちを呼び寄せたのもそのためだったはずだ。それなのに、獲物《えもの》が揃《そろ》った今は街の破壊《はかい》を優先《ゆうせん》させている。
裕生はあのヘリが墜落《ついらく》する寸前、蔵前の叫んだ一言が気になっていた。
まだだ、と蔵前は自分のカゲヌシに言っていた。ひょっとすると、今の蔵前はアブサロム・ドッグヘッドを制御《せいぎょ》出来ない状態にあるのかもしれない。
「……どうする?」
と、佐貫が言う。裕生は唇を噛《か》んだ。
もし、あのカゲヌシが蔵前の意思とは関係なく動いているとしたら、自分たちが逃げてもこの状況はなにも変わらないことになる。
「戦うしかないよ」
と、裕生は言った。しかし、もう一度「黒の彼方」をぶつけて果たして勝算があるのだろうか。明らかに「黒の彼方」は動ける状態ではない。
裕生《ひろお》は葉《よう》の方を見る——茜《あかね》が葉の右手にペンでなにかを書き込んでいるところだった。葉の方は微妙に困った顔をしている。
「なにしてるの?」
「ん、ほら見て」
茜は葉の手首を裕生と佐貫《さぬき》に見せた。
「手帳をどこに入れてるか、葉ちゃんすぐ忘れるみたいだから、書いておけば大丈夫かなーって」
裕生ははっとした。最近、手帳を探すしぐさをよく見ている気がした。それも記憶《きおく》の欠落の一部だとしたら、症状は裕生の考える以上に進んでいるのかもしれない。もし、アブサロムを倒せたとしても、葉が「黒の彼方《かなた》」に支配されるようなことになったら——。
「なに迷ってんの、裕生ちゃん」
と、茜がペンをしまいながら言った。
「蔵前《くらまえ》を殺せばいいんだよ、あたしたちが」
「そんな……」
裕生は言葉を失った。
「カゲヌシは殺せないかもしれないけど、うまくやれば人間は殺せるよ、あたしたちでも」
「なに言ってるんだよ。確《たし》かにあいつは殺人鬼かもしれないけど、それでも人間なんだよ?」
しかし、彼女の言ったことは先ほど裕生の頭に浮かんだ考えと同じだった。どんなカゲヌシでも、契約者である人間は弱点になる。
「俺《おれ》も天内《あまうち》さんに賛成《さんせい》だな」
と、佐貫が言った。
「……佐貫」
「っていうか、そういう覚悟は決めてた。カゲヌシと戦うんだったら、契約者を殺すことになるかもしれないって」
「あ、気が合うね。佐貫っち」
嬉《うれ》しそうに茜が笑った。佐貫はちょっと戸惑《とまど》ったようにうなずいて、話を続けた。
「裕生にやれなんて言わない。直接手を下すのは俺だ。お前は雛咲《ひなさき》さんのそばにいてやんなきゃダメなんだし」
「そうだね、裕生ちゃんは外《はず》そう。がんばろう、佐貫っち」
「も、もっとダメだよそんなの!」
と、裕生は叫んだ。自分一人が手を汚さず、佐貫たちだけが罪をかぶることになってしまう。
「それならぼくも一緒《いっしょ》に」
「わたしがやります」
それまで聞いていた葉が言った。
「わたしがもう一度、カゲヌシを呼べばいいんです。うまく戦えば」
「でも、『黒の彼方《かなた》』じゃアブサロムにはかなわないよ?」
裕生《ひろお》はどうしたらいいか分からなかった——誰《だれ》もが納得出来る、正しい選択があればと心から思った。しかし、おそらくそのようなものは存在しないのだ。
(あれ……?)
ふと、裕生は顔を上げて天井《てんじょう》を見た。なんとなく誰かに見られているような気がしたからだ。そこにはなんの変哲もない、パネルのはめ込まれた天井があるだけだった。
(気のせいかな)
そう思いかけた時、ぶるっと天井が震《ふる》え始めた。
「えっ」
その震えは瞬《またた》く間に激《はげ》しさを増し、パネルに長いひびが入り始めた。そして、まるで開閉を始めたかのように天井が真っ二つに割れていった。
「危ないっ!」
と、茜《あかね》が叫び、他《ほか》の三人は彼女に突き飛ばされた。
轟音《ごうおん》とともに天井が降ってきた。