舞《ま》い上がった白い粉塵《ふんじん》が沈むにつれて、視界が晴れてきた。裕生はカレーショップのドアの前で膝《ひざ》を突いていた。両隣《りょうどなり》には葉《よう》と佐貫《さぬき》が倒れている。佐貫は頭を振りながら起き上がろうとしていたが、葉はぴくりとも動かなかった。
「葉!」
慌てて彼女の口元に手を当てる——温かい息が掌《てのひら》にかかった。裕生はほっと息をついて、もう一度自分の周囲を見た。
(天内《あまうち》さんは?)
「全員、生きているようだね」
裕生ははっと振り返った。天井にぽっかりと丸い穴が開いて、地上の階が見えている。床《ゆか》の上には大小のガレキが散乱していた。その真ん中に両手を後ろに組んだ蔵前《くらまえ》と、アブサロム・ドッグヘッドが立っていた。
「一人ぐらい死ぬかと思ったが」
アブサロムの左手は無造作になにかをぶら下げていた。白い破片で汚れているが、よく見るとそれは首のあたりを掴《つか》まれている人間だった。
「天内《あまうち》さん!」
と、裕生《ひろお》は叫んだ。彼女はぴくりと体を震《ふる》わせて、ほんの少し顔を上げた。かろうじて生きているようだが、額《ひたい》からは幾筋もの細い血が流れている。
(ぼくたちを助けたからだ)
裕生の体ががたがたと震え始めた。
「……時間が惜しい」
と、蔵前《くらまえ》は言った。奇妙に苦しげな、聞き取りにくい声だった。その顔は先ほどよりもさらに憔悴《しょうすい》しているように見えた。
「大人《おとな》しく殺されてもらおうか」
アブサロムは茜《あかね》の体を引きずったまま、裕生の方へ足を踏み出した。突然、佐貫《さぬき》が立ち上がって白い獣人《じゅうじん》に向かって走った。ギプスをしていない左手には尖《とが》った鉄パイプのようなものを握りしめている。そして、その先端をカゲヌシの腰にずぶりと突き刺した。アブサロムはぴたりと足を止め、蔵前の顔も苦痛で歪《ゆが》んだ。
(「黒曜《こくよう》」だ)
その「武器」にはカゲヌシ用の毒——「黒曜」が仕込まれている。その先端をカゲヌシの体に突き刺しただけで、相手の体に「黒曜」が注入される仕組みになっていた。
佐貫はそのまま茜を捕まえているアブサロムの左腕に取りすがった。彼女を助け出すつもりらしかった。
「……バカバカしい」
蔵前がぽつりとつぶやいた。
「ドッグヘッドを持つこのカゲヌシに通用するはずがない」
裕生ははっとした。「黒曜」は「同族食い」の血から作られると聞いている。だとしたら、「黒の彼方《かなた》」の首の一つと融合《ゆうごう》しているこのカゲヌシに効果があるはずがない。
その瞬間《しゅんかん》、佐貫と茜の体が鈍《にぶ》く光る金属に浸食され始めた。
「やめろ!」
裕生は叫びながら飛び出そうとする。すると佐貫と茜は同時に叫んだ。
「裕生ちゃん逃げて!」
「裕生逃げろ!」
びくっと足が止まった。自分が行ってもあの二人を助けることは出来ない。一瞬、彼は眠ったままの葉《よう》を見た——それなら、葉を連れて逃げるのが自分の役割ではないのか。
アブサロムが茜と佐貫の体を床《ゆか》に投げ出した。かつん、と硬いものがぶつかり合う音が響《ひび》き渡った。茜は全身を金属に変えられていたが、よく見るとまぶたの奥の目は動いている。以前、アブサロムがやったように、体の表面だけを変化させたらしい。佐貫の方は両腕と胴体の前面を変えられただけだった。しかし、気を失ってしまったのか、その場に倒れてしまった。
「君たちに逃げられると困るんでね」
と、蔵前《くらまえ》は言った。
「だからとりあえずはまだ殺していない。もちろん、君たちが逃げ……」
突然、声が途切《とぎ》れた。蔵前は歯を食《く》い縛《しば》り、まるで握りつぶすようにしっかりと頭を掴《つか》む。痛みに耐えかねている様子《ようす》だった。
やがて、その痛みが引いたのか、顔を上げて裕生《ひろお》に向き直った。
「逃げようとすれば殺す」
二人を置いて逃げたくはなかった。しかし、そうしなければ誰《だれ》も助からないことも分かっている。裕生の隣《となり》で葉《よう》が身動きをし始める。目を覚まそうとしているらしかった。
(佐貫《さぬき》たちも逃げることを望んでるんだ)
裕生はぎりっと奥歯を噛《か》んだ。一瞬《いっしゅん》、目を閉じてから裕生は決意を固めた。
(ぼくたちだけで逃げよう)
自分に言い聞かせるように、心の中だけでつぶやいた。
(葉が目を覚ますまで、時間を稼《かせ》がないと)
「最後に一つ聞きたいことがある」
と、裕生は言った。蔵前は不審《ふしん》そうに眉《まゆ》を寄せた。
「……なんだい?」
裕生は内心ほっとした。とりあえず話には乗ってきた——しかし、その後の「聞きたいこと」などもちろん考えていなかった。話を続けるなら、双方ともに知っている事柄でなければならない。リグル・リグルを相手に時間稼ぎをした時もこんな風《ふう》だったな、と裕生はふと思い出した。
あの時、持ち出した話は——。
「……レインメイカー」
と、彼はつぶやいた。そして、蔵前の方へ顔を上げた。
「レインメイカーとはどこで会ったんだ?」
わずかな沈黙《ちんもく》が流れた。
「誰だい、それは」
わざととぼけている口調《くちょう》ではなかった。本当に知らないらしい。
「ふな……黄色《きいろ》いレインコートを着た男だ」
裕生は慌てて言い直した。船瀬《ふなせ》という名前までここで言う必要はない。その途端《とたん》、蔵前の顔色が変わった。
「あの男を知っているのか?」
視界の端の方で、葉のまぶたが震《ふる》えているのが見えた。もう少しで目を覚ます。
裕生はうなずいた。
「この何ヶ月かの間に、何度か会ってる。頭にアブサロムの攻撃《こうげき》を受けた跡があった」
「会ったのは前に君たちと別れてすぐだよ……そんなことが知りたかったのか?」
葉《よう》がうっすらと目を開けた。裕生《ひろお》はこっそりと彼女の手を握りしめた。まだ、眠ったふりをしていてほしい、という合図のつもりだった。
「……あの男とはぼくたちも色々あったんだ」
裕生は慎重に言葉を選びながら言った。
「お前の攻撃のせいで、カゲヌシを呼ぶことが出来なくなってた。こっちから話しかけても、逃げ出すだけだった」
カゲヌシを呼ぶ、と、逃げ出す、いうところだけ、裕生は握った手にさらに力をこめた。「黒の彼方《かなた》」を呼んで、ここから逃げ出そう、という合図のつもりだった。
葉が分かってくれるといいけど、と思った瞬間《しゅんかん》、
「……アオカガミか」
と、蔵前《くらまえ》が言った。
「え?」
「あいつが呼ぼうとしていたカゲヌシの名だ……確《たし》か、そんな名前だった」
その瞬間、葉が小さな声でカゲヌシの名を呼んだ。葉の影《かげ》からゆらりと黒犬が現れる。「黒の彼方」は四肢を踏ん張ってアブサロム・ドッグヘッドと対峙《たいじ》する。後ろ足を引きずってはいるが、先ほどとは違って立つことは出来るようだった。これなら、自分を乗せて走れるかもしれない。
契約上、このカゲヌシは生きている人間を助けなければならない。しかし、死んでいる人間はその限りではないはずだ。
「ぼくを助けて逃げろ、『黒の彼方』。あの二人はもう」
あの二人は死んでいる。
そう言うつもりでいた。覚悟は決めたはずだった。そうしなければ、佐貫《さぬき》になると分かっていた。しかし——。
「あの二人は……」
喉《のど》が塞《ふさ》がったように、その先を続けることが出来なかった。自分でも予想していなかった涙がじわりと湧《わ》き上がった。
「……やはり、この二人を置いて逃げるつもりだったのか」
蔵前が勝ち誇ったように言った。
「この二人はまだ生きているよ。どうする? 『黒の彼方』?」
葉——「黒の彼方」は無言で裕生を見つめた。彼に説明を求めているらしい。佐貫たちは身動き一つしていない。葉が眠っている間は、「黒の彼方」も外界の情報を得られない。佐貫たちがまだ死んでいないことを知らないはずだった。
ここで裕生《ひろお》があの二人が死んでいると言えば、「黒の彼方《かなた》」も契約を違《たが》えることなく逃げることが出来る——はずだった。
「……ごめん。二人とも……やっぱりダメだよ」
裕生は顔を伏せて言った。
「まだ、佐貫《さぬき》たちは生きてる。二人を助けてくれ」
傷だらけの双頭の犬がさらに一歩前へ出た。アブサロム・ドッグヘッドの巨躯《きょく》がその目の前に立《た》ち塞《ふさ》がる——戦う前から誰《だれ》の目にも勝敗は明らかだった。
蔵前《くらまえ》に異変が起こったのはその時だった。
両目をえぐり出そうとするかのように、両手で固く顔を覆《おお》った。掌《てのひら》の下から苦悶《くもん》の声が洩《も》れる。次の瞬間《しゅんかん》、耳を塞ぎたくなるような絶叫が爆発《ばくはつ》した。
「ウオオオオオオオ!」
裕生は呆然《ぽうぜん》とその姿を見つめていた。なにが起こっているのかまったく理解出来なかった。獣《けもの》の断末魔《だんまつま》めいたその声はいつまでも長く尾を引き続け、このままでは永遠に止まらないのではないかと裕生が思い始めた時、不意に沈黙《ちんもく》が訪れた。
蔵前はぜいぜいと肩で息をしながら、ガレキの上にがくりと膝《ひざ》を突いた。
「……なるほど」
葉《よう》の口から「黒の彼方」の言葉が聞こえた。
「これが弱点だったわけですね」
「えっ?」
裕生はあたりを見回して、ようやく気づいた。アブサロム・ドッグヘッドは姿を消していた。
「どういうこと?」
裕生は「黒の彼方」に尋《たず》ねた。蔵前はほとんど気絶しているようにも見えた。
「この男の影《かげ》の中に戻ったのですよ……外に出ていられる時間に制限があるようですね」
と、「黒の彼方」が言った。
「この男は変則的な契約をカゲヌシと結んでいる。わたしと雛咲《ひなさき》葉がそうしているように」
「あ……」
カゲヌシとの契約には、特殊な条件が付くことがある。葉は「黒の彼方」と契約を結び直し、「自分の体を明け渡す代わりに、人間を殺さない」という条件を付け加えていた。蔵前はカゲヌシの活動時間を限定する代わりに、複数のカゲヌシと契約を結んでいるらしい。
「というより、時間の制約を加えなければこの男の体は保《も》たないということなのでしょうが」
葉の体が床《ゆか》に落ちている「黒曜《こくよう》」を流し込む武器を拾い上げて、裕生の右手に握らせた。
「これは?」
「あの男を殺すべきです」
「黒の彼方」は葉の声で淡々《たんたん》と告げた。
「今が唯一の、おそらくは最後の機会《きかい》ですよ」
裕生《ひろお》は先端の尖《とが》った「武器」を見つめた。確《たし》かに今の蔵前《くらまえ》なら、裕生でも殺すことが出来る。そして、今この場でそれを実行出来るのも彼だけだった。
蔵前のすぐ目の前で裕生は立ち止まった。ひざまずき、頭《こうべ》を垂れた蔵前は命乞《いのちご》いをしているように見えた。今日《きょう》一日だけでも、この男は何十人、いや、ひょっとすると何百人もの命を奪《うば》ってしまった。
生かしておけば必ずまた人を殺すはずだ。アブサロム・ドッグヘッドが暴《あば》れ始めれば、力で止めることが出来るものはおそらくいない。仮に警察《けいさつ》が蔵前を捕らえたとしても、カゲヌシに取《と》り憑《つ》かれている蔵前を監禁《かんきん》することは出来ない。犠牲者《ぎせいしゃ》の列に大勢の警察官が加わるだけの話だった。
(こいつは悪なんだ)
自分に言い聞かせながら、斜めに切り立ったパイプの先端を蔵前の無防備な首筋に突き立てた。このまま体重をかけて深く突き刺せばすべては終わる。裕生はこれから蔵前が生み出す犠牲者を救うことになる。
裕生の額《ひたい》から汗が流れ落ちていた。
「……くそ」
この男は天内《あまうち》茜《あかね》の家族も殺した。自分たちも殺そうとしている。救いようのない殺人鬼だ。しかし、それでも裕生にはこの男を殺すことが出来ない。裕生は叫び声を上げながら、手にしていた武器を地面に叩《たた》き付けた。なぜか両目に涙がにじみ始めた。
「その程度ですか?」
低い声で「黒の彼方《かなた》」がつぶやいた。蔵前について言っているのではない。裕生に向けた言葉だった。覚悟が足りない、ということなのだろう。
「黙《だま》れ!」
裕生は言い返して涙を拭《ぬぐ》った。
蔵前はゆっくりと顔を上げた。表情は抜け落ち、目の焦点も合っていなかった。かすかに動いている唇から、途切《とぎ》れ途切れの小さな声が聞こえてきた。
「……お前たち……が……憎い」
濁《にご》った目がかすかに動いて、裕生の顔を見つめた。それから視線《しせん》は葉《よう》へ移り、さらに茜へと映った。
「お前たち……殺す……アブサロムを奪ったお前たち……すべてを奪った……お前たちを……」
裕生たちへの殺意を口にするたびに、目に力が戻ってくる。裕生は卒然《そつぜん》と悟った——この男は、自分たちへの殺意によって正気を保っている。その憎しみを失えば、この男の自我《じが》も完全に崩壊《ほうかい》するだろう。
蔵前はふらりと立ち上がった。裕生が身構えた瞬間《しゅんかん》、蔵前は体の向きを変え、倒れている茜の細い首をよろけながら踏みつけた。ぽきりと首の骨が折れる音を聞いたような気がした。
「やめろ!」
肩でぶつかるようにして蔵前《くらまえ》を突き飛ばす。蔵前はガレキの山から転げ落ち、壁《かべ》に背中を打ち付けた。裕生《ひろお》は茜《あかね》の体のそばにしゃがみ込む。折れたと思ったのは錯覚《さっかく》だったらしく、彼女の首はまっすぐに伸びていた。体の表面がほとんど金属に変えられているせいか、今の衝撃《しょうげき》にもびくともしていなかった。
「金属化したことが……かえってあだになったな」
蔵前は肩で大きく息をしながらつぶやく。体力は消耗したままのようだが、ひとまず正気を取り戻したようだった。
「しかし、放っておけばやがて死に至る……もう死んだようなものだ。次はお前たち二人を殺す」
裕生は唇を噛《か》んだ。カゲヌシが復活しさえすれば、確実《かくじつ》にこの男は自分たちを殺すだろう。大勢の人間がまた巻き添えになるかもしれない。
「アブサロム・ドッグヘッドが復活するまで、数時間の猶予《ゆうよ》がある……お前たちがどこへ逃げようと勝手だが、その代わり」
「ぼくたちはこれから加賀見《かがみ》へ帰る」
裕生は蔵前の言葉を遮《さえぎ》って言う。かすかに蔵前は目を瞠《みは》った。
「だから、これ以上お前が他《ほか》の人を傷つけてもなんの意味もない。ぼくと葉《よう》を殺したければ、加賀見まで来い。ぼくたちを真っ先に殺せ」
自分たちの行き先を明かして本当にいいのか、はっきりと自信が持てない。しかし、裕生たちを追っているうちは、他の人間への被害もそれだけ少なくなるはずだ。
「加賀見……」
壁に背中を預けていた蔵前が、がくんと膝《ひざ》を折りそうになった。体力の限界に来ているらしい。わざわざ加賀見へ帰る理由を尋《たず》ねられたらどう答えようかと裕生は思っていたが、幸いそこには注目していないようだった。
「いいだろう……誰《だれ》よりも先に……お前たちを殺す」
蔵前は頭を押さえ付けながら、裕生を睨《にら》み付けた。
「ここでぼくを殺さなかったことを……後悔するぞ」
そう言い残して、蔵前は裕生たちに背を向けた。そして、地下道の出口に向かってよろよろと歩み去って行った。
「葉!」
慌てて彼女の口元に手を当てる——温かい息が掌《てのひら》にかかった。裕生はほっと息をついて、もう一度自分の周囲を見た。
(天内《あまうち》さんは?)
「全員、生きているようだね」
裕生ははっと振り返った。天井にぽっかりと丸い穴が開いて、地上の階が見えている。床《ゆか》の上には大小のガレキが散乱していた。その真ん中に両手を後ろに組んだ蔵前《くらまえ》と、アブサロム・ドッグヘッドが立っていた。
「一人ぐらい死ぬかと思ったが」
アブサロムの左手は無造作になにかをぶら下げていた。白い破片で汚れているが、よく見るとそれは首のあたりを掴《つか》まれている人間だった。
「天内《あまうち》さん!」
と、裕生《ひろお》は叫んだ。彼女はぴくりと体を震《ふる》わせて、ほんの少し顔を上げた。かろうじて生きているようだが、額《ひたい》からは幾筋もの細い血が流れている。
(ぼくたちを助けたからだ)
裕生の体ががたがたと震え始めた。
「……時間が惜しい」
と、蔵前《くらまえ》は言った。奇妙に苦しげな、聞き取りにくい声だった。その顔は先ほどよりもさらに憔悴《しょうすい》しているように見えた。
「大人《おとな》しく殺されてもらおうか」
アブサロムは茜《あかね》の体を引きずったまま、裕生の方へ足を踏み出した。突然、佐貫《さぬき》が立ち上がって白い獣人《じゅうじん》に向かって走った。ギプスをしていない左手には尖《とが》った鉄パイプのようなものを握りしめている。そして、その先端をカゲヌシの腰にずぶりと突き刺した。アブサロムはぴたりと足を止め、蔵前の顔も苦痛で歪《ゆが》んだ。
(「黒曜《こくよう》」だ)
その「武器」にはカゲヌシ用の毒——「黒曜」が仕込まれている。その先端をカゲヌシの体に突き刺しただけで、相手の体に「黒曜」が注入される仕組みになっていた。
佐貫はそのまま茜を捕まえているアブサロムの左腕に取りすがった。彼女を助け出すつもりらしかった。
「……バカバカしい」
蔵前がぽつりとつぶやいた。
「ドッグヘッドを持つこのカゲヌシに通用するはずがない」
裕生ははっとした。「黒曜」は「同族食い」の血から作られると聞いている。だとしたら、「黒の彼方《かなた》」の首の一つと融合《ゆうごう》しているこのカゲヌシに効果があるはずがない。
その瞬間《しゅんかん》、佐貫と茜の体が鈍《にぶ》く光る金属に浸食され始めた。
「やめろ!」
裕生は叫びながら飛び出そうとする。すると佐貫と茜は同時に叫んだ。
「裕生ちゃん逃げて!」
「裕生逃げろ!」
びくっと足が止まった。自分が行ってもあの二人を助けることは出来ない。一瞬、彼は眠ったままの葉《よう》を見た——それなら、葉を連れて逃げるのが自分の役割ではないのか。
アブサロムが茜と佐貫の体を床《ゆか》に投げ出した。かつん、と硬いものがぶつかり合う音が響《ひび》き渡った。茜は全身を金属に変えられていたが、よく見るとまぶたの奥の目は動いている。以前、アブサロムがやったように、体の表面だけを変化させたらしい。佐貫の方は両腕と胴体の前面を変えられただけだった。しかし、気を失ってしまったのか、その場に倒れてしまった。
「君たちに逃げられると困るんでね」
と、蔵前《くらまえ》は言った。
「だからとりあえずはまだ殺していない。もちろん、君たちが逃げ……」
突然、声が途切《とぎ》れた。蔵前は歯を食《く》い縛《しば》り、まるで握りつぶすようにしっかりと頭を掴《つか》む。痛みに耐えかねている様子《ようす》だった。
やがて、その痛みが引いたのか、顔を上げて裕生《ひろお》に向き直った。
「逃げようとすれば殺す」
二人を置いて逃げたくはなかった。しかし、そうしなければ誰《だれ》も助からないことも分かっている。裕生の隣《となり》で葉《よう》が身動きをし始める。目を覚まそうとしているらしかった。
(佐貫《さぬき》たちも逃げることを望んでるんだ)
裕生はぎりっと奥歯を噛《か》んだ。一瞬《いっしゅん》、目を閉じてから裕生は決意を固めた。
(ぼくたちだけで逃げよう)
自分に言い聞かせるように、心の中だけでつぶやいた。
(葉が目を覚ますまで、時間を稼《かせ》がないと)
「最後に一つ聞きたいことがある」
と、裕生は言った。蔵前は不審《ふしん》そうに眉《まゆ》を寄せた。
「……なんだい?」
裕生は内心ほっとした。とりあえず話には乗ってきた——しかし、その後の「聞きたいこと」などもちろん考えていなかった。話を続けるなら、双方ともに知っている事柄でなければならない。リグル・リグルを相手に時間稼ぎをした時もこんな風《ふう》だったな、と裕生はふと思い出した。
あの時、持ち出した話は——。
「……レインメイカー」
と、彼はつぶやいた。そして、蔵前の方へ顔を上げた。
「レインメイカーとはどこで会ったんだ?」
わずかな沈黙《ちんもく》が流れた。
「誰だい、それは」
わざととぼけている口調《くちょう》ではなかった。本当に知らないらしい。
「ふな……黄色《きいろ》いレインコートを着た男だ」
裕生は慌てて言い直した。船瀬《ふなせ》という名前までここで言う必要はない。その途端《とたん》、蔵前の顔色が変わった。
「あの男を知っているのか?」
視界の端の方で、葉のまぶたが震《ふる》えているのが見えた。もう少しで目を覚ます。
裕生はうなずいた。
「この何ヶ月かの間に、何度か会ってる。頭にアブサロムの攻撃《こうげき》を受けた跡があった」
「会ったのは前に君たちと別れてすぐだよ……そんなことが知りたかったのか?」
葉《よう》がうっすらと目を開けた。裕生《ひろお》はこっそりと彼女の手を握りしめた。まだ、眠ったふりをしていてほしい、という合図のつもりだった。
「……あの男とはぼくたちも色々あったんだ」
裕生は慎重に言葉を選びながら言った。
「お前の攻撃のせいで、カゲヌシを呼ぶことが出来なくなってた。こっちから話しかけても、逃げ出すだけだった」
カゲヌシを呼ぶ、と、逃げ出す、いうところだけ、裕生は握った手にさらに力をこめた。「黒の彼方《かなた》」を呼んで、ここから逃げ出そう、という合図のつもりだった。
葉が分かってくれるといいけど、と思った瞬間《しゅんかん》、
「……アオカガミか」
と、蔵前《くらまえ》が言った。
「え?」
「あいつが呼ぼうとしていたカゲヌシの名だ……確《たし》か、そんな名前だった」
その瞬間、葉が小さな声でカゲヌシの名を呼んだ。葉の影《かげ》からゆらりと黒犬が現れる。「黒の彼方」は四肢を踏ん張ってアブサロム・ドッグヘッドと対峙《たいじ》する。後ろ足を引きずってはいるが、先ほどとは違って立つことは出来るようだった。これなら、自分を乗せて走れるかもしれない。
契約上、このカゲヌシは生きている人間を助けなければならない。しかし、死んでいる人間はその限りではないはずだ。
「ぼくを助けて逃げろ、『黒の彼方』。あの二人はもう」
あの二人は死んでいる。
そう言うつもりでいた。覚悟は決めたはずだった。そうしなければ、佐貫《さぬき》になると分かっていた。しかし——。
「あの二人は……」
喉《のど》が塞《ふさ》がったように、その先を続けることが出来なかった。自分でも予想していなかった涙がじわりと湧《わ》き上がった。
「……やはり、この二人を置いて逃げるつもりだったのか」
蔵前が勝ち誇ったように言った。
「この二人はまだ生きているよ。どうする? 『黒の彼方』?」
葉——「黒の彼方」は無言で裕生を見つめた。彼に説明を求めているらしい。佐貫たちは身動き一つしていない。葉が眠っている間は、「黒の彼方」も外界の情報を得られない。佐貫たちがまだ死んでいないことを知らないはずだった。
ここで裕生《ひろお》があの二人が死んでいると言えば、「黒の彼方《かなた》」も契約を違《たが》えることなく逃げることが出来る——はずだった。
「……ごめん。二人とも……やっぱりダメだよ」
裕生は顔を伏せて言った。
「まだ、佐貫《さぬき》たちは生きてる。二人を助けてくれ」
傷だらけの双頭の犬がさらに一歩前へ出た。アブサロム・ドッグヘッドの巨躯《きょく》がその目の前に立《た》ち塞《ふさ》がる——戦う前から誰《だれ》の目にも勝敗は明らかだった。
蔵前《くらまえ》に異変が起こったのはその時だった。
両目をえぐり出そうとするかのように、両手で固く顔を覆《おお》った。掌《てのひら》の下から苦悶《くもん》の声が洩《も》れる。次の瞬間《しゅんかん》、耳を塞ぎたくなるような絶叫が爆発《ばくはつ》した。
「ウオオオオオオオ!」
裕生は呆然《ぽうぜん》とその姿を見つめていた。なにが起こっているのかまったく理解出来なかった。獣《けもの》の断末魔《だんまつま》めいたその声はいつまでも長く尾を引き続け、このままでは永遠に止まらないのではないかと裕生が思い始めた時、不意に沈黙《ちんもく》が訪れた。
蔵前はぜいぜいと肩で息をしながら、ガレキの上にがくりと膝《ひざ》を突いた。
「……なるほど」
葉《よう》の口から「黒の彼方」の言葉が聞こえた。
「これが弱点だったわけですね」
「えっ?」
裕生はあたりを見回して、ようやく気づいた。アブサロム・ドッグヘッドは姿を消していた。
「どういうこと?」
裕生は「黒の彼方」に尋《たず》ねた。蔵前はほとんど気絶しているようにも見えた。
「この男の影《かげ》の中に戻ったのですよ……外に出ていられる時間に制限があるようですね」
と、「黒の彼方」が言った。
「この男は変則的な契約をカゲヌシと結んでいる。わたしと雛咲《ひなさき》葉がそうしているように」
「あ……」
カゲヌシとの契約には、特殊な条件が付くことがある。葉は「黒の彼方」と契約を結び直し、「自分の体を明け渡す代わりに、人間を殺さない」という条件を付け加えていた。蔵前はカゲヌシの活動時間を限定する代わりに、複数のカゲヌシと契約を結んでいるらしい。
「というより、時間の制約を加えなければこの男の体は保《も》たないということなのでしょうが」
葉の体が床《ゆか》に落ちている「黒曜《こくよう》」を流し込む武器を拾い上げて、裕生の右手に握らせた。
「これは?」
「あの男を殺すべきです」
「黒の彼方」は葉の声で淡々《たんたん》と告げた。
「今が唯一の、おそらくは最後の機会《きかい》ですよ」
裕生《ひろお》は先端の尖《とが》った「武器」を見つめた。確《たし》かに今の蔵前《くらまえ》なら、裕生でも殺すことが出来る。そして、今この場でそれを実行出来るのも彼だけだった。
蔵前のすぐ目の前で裕生は立ち止まった。ひざまずき、頭《こうべ》を垂れた蔵前は命乞《いのちご》いをしているように見えた。今日《きょう》一日だけでも、この男は何十人、いや、ひょっとすると何百人もの命を奪《うば》ってしまった。
生かしておけば必ずまた人を殺すはずだ。アブサロム・ドッグヘッドが暴《あば》れ始めれば、力で止めることが出来るものはおそらくいない。仮に警察《けいさつ》が蔵前を捕らえたとしても、カゲヌシに取《と》り憑《つ》かれている蔵前を監禁《かんきん》することは出来ない。犠牲者《ぎせいしゃ》の列に大勢の警察官が加わるだけの話だった。
(こいつは悪なんだ)
自分に言い聞かせながら、斜めに切り立ったパイプの先端を蔵前の無防備な首筋に突き立てた。このまま体重をかけて深く突き刺せばすべては終わる。裕生はこれから蔵前が生み出す犠牲者を救うことになる。
裕生の額《ひたい》から汗が流れ落ちていた。
「……くそ」
この男は天内《あまうち》茜《あかね》の家族も殺した。自分たちも殺そうとしている。救いようのない殺人鬼だ。しかし、それでも裕生にはこの男を殺すことが出来ない。裕生は叫び声を上げながら、手にしていた武器を地面に叩《たた》き付けた。なぜか両目に涙がにじみ始めた。
「その程度ですか?」
低い声で「黒の彼方《かなた》」がつぶやいた。蔵前について言っているのではない。裕生に向けた言葉だった。覚悟が足りない、ということなのだろう。
「黙《だま》れ!」
裕生は言い返して涙を拭《ぬぐ》った。
蔵前はゆっくりと顔を上げた。表情は抜け落ち、目の焦点も合っていなかった。かすかに動いている唇から、途切《とぎ》れ途切れの小さな声が聞こえてきた。
「……お前たち……が……憎い」
濁《にご》った目がかすかに動いて、裕生の顔を見つめた。それから視線《しせん》は葉《よう》へ移り、さらに茜へと映った。
「お前たち……殺す……アブサロムを奪ったお前たち……すべてを奪った……お前たちを……」
裕生たちへの殺意を口にするたびに、目に力が戻ってくる。裕生は卒然《そつぜん》と悟った——この男は、自分たちへの殺意によって正気を保っている。その憎しみを失えば、この男の自我《じが》も完全に崩壊《ほうかい》するだろう。
蔵前はふらりと立ち上がった。裕生が身構えた瞬間《しゅんかん》、蔵前は体の向きを変え、倒れている茜の細い首をよろけながら踏みつけた。ぽきりと首の骨が折れる音を聞いたような気がした。
「やめろ!」
肩でぶつかるようにして蔵前《くらまえ》を突き飛ばす。蔵前はガレキの山から転げ落ち、壁《かべ》に背中を打ち付けた。裕生《ひろお》は茜《あかね》の体のそばにしゃがみ込む。折れたと思ったのは錯覚《さっかく》だったらしく、彼女の首はまっすぐに伸びていた。体の表面がほとんど金属に変えられているせいか、今の衝撃《しょうげき》にもびくともしていなかった。
「金属化したことが……かえってあだになったな」
蔵前は肩で大きく息をしながらつぶやく。体力は消耗したままのようだが、ひとまず正気を取り戻したようだった。
「しかし、放っておけばやがて死に至る……もう死んだようなものだ。次はお前たち二人を殺す」
裕生は唇を噛《か》んだ。カゲヌシが復活しさえすれば、確実《かくじつ》にこの男は自分たちを殺すだろう。大勢の人間がまた巻き添えになるかもしれない。
「アブサロム・ドッグヘッドが復活するまで、数時間の猶予《ゆうよ》がある……お前たちがどこへ逃げようと勝手だが、その代わり」
「ぼくたちはこれから加賀見《かがみ》へ帰る」
裕生は蔵前の言葉を遮《さえぎ》って言う。かすかに蔵前は目を瞠《みは》った。
「だから、これ以上お前が他《ほか》の人を傷つけてもなんの意味もない。ぼくと葉《よう》を殺したければ、加賀見まで来い。ぼくたちを真っ先に殺せ」
自分たちの行き先を明かして本当にいいのか、はっきりと自信が持てない。しかし、裕生たちを追っているうちは、他の人間への被害もそれだけ少なくなるはずだ。
「加賀見……」
壁に背中を預けていた蔵前が、がくんと膝《ひざ》を折りそうになった。体力の限界に来ているらしい。わざわざ加賀見へ帰る理由を尋《たず》ねられたらどう答えようかと裕生は思っていたが、幸いそこには注目していないようだった。
「いいだろう……誰《だれ》よりも先に……お前たちを殺す」
蔵前は頭を押さえ付けながら、裕生を睨《にら》み付けた。
「ここでぼくを殺さなかったことを……後悔するぞ」
そう言い残して、蔵前は裕生たちに背を向けた。そして、地下道の出口に向かってよろよろと歩み去って行った。