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シャドウテイカー ドッグヘッド12

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:4 周りで見ていた人間たちの間から、いくつもの悲鳴が上がった。それを耳にした裕生ははっと我《われ》に返った。彼は葉《よう
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 周りで見ていた人間たちの間から、いくつもの悲鳴が上がった。それを耳にした裕生ははっと我《われ》に返った。
彼は葉《よう》と顔を見合わせる。
(逃げよう)
ここでは戦えない。ひとまず狙《ねら》われている自分たちが逃げる必要があった。
不意にアブサロムは裕生《ひろお》たちの方へ一歩踏み出した。それと同時に、眠っていた方の白い首が右目を開けようとする。白い頭との対比をなしているような漆黒《しっこく》の目だった。瞼《まぶた》の奥が黒く輝《かがや》いたのを見た気がした。
(なんだ、あれ)
その瞬間《しゅんかん》、蔵前《くらまえ》の周囲の人垣から誰《だれ》かが飛び出してきた。
(佐貫《さぬき》?)
その時になって初めて、裕生は佐貫が自分のそばから消えていたことに気づいた。彼はちょうど白線《はくせん》のあたりに立っている蔵前に向かって突進する。明らかに裕生たちとアブサロムの方だけに集中していたこの殺人鬼は、直前まで迫ってくる人影《ひとかげ》に気づかなかった。
右腕のギプスを全身で押し付けるようにして、佐貫は力いっぱい蔵前をホームから突き飛ばした。白いコートをなびかせながら蔵前はホームから消え、佐貫は踵《きびす》を返して元の人混みの中へまぎれ込んだ。
次の瞬間、既にホームに到着していた黄色《きいろ》い車両が、ブレーキを軋《きし》ませながら蔵前の落ちたあたりに迫ってきた。裕生たちと対峙《たいじ》していた獣人《じゅうじん》は驚《おどろ》くほど敏捷《びんしょう》に体の向きを変え、契約者を助けるべく線路に向かって跳躍《ちょうやく》した。
カゲヌシの姿が見えなくなるのと同時に、鋼鉄《こうてつ》の車両が幕を引くように裕生たちの視界を遮《きえぎ》った。
ホームにいた人々は呪縛《じゅばく》が解けたように、一斉に近くの階段へと走り出す。
いつの間にか佐貫が裕生のそばに戻ってきていた。顔を真《ま》っ赤《か》にして汗をかいている。
「バカ、なにしてんだ。走るぞ!」
促《うなが》されるままに裕生は葉《よう》の手を握りしめたまま走り出す。佐貫と茜もそれに続いた。
 四人は人波に混じって地下の連絡通路への階段を駆け下りていた。
「あいつ、まだ死んでないよね?」
と、茜が言った。
「死ぬわけないっスよ、あんなんで」
と、佐貫が言った。裕生も同じ考えだった。おそらく電車に轢《ひ》かれる寸前に、カゲヌシに助けられて線路の向こう側へ抜けたはずだ。
「階段降りたら二手に分かれよう」
と、裕生が佐貫に向かって叫んだ。
「ぼくは葉と一緒《いっしょ》に左に行く。佐貫は天内《あまうち》さん連れて右に行って」
一瞬考えてから、佐貫はその意味を察したらしい。
「でも……」
「いいから!」
「黒の彼方《かなた》」に取《と》り憑《つ》かれている以上、葉《よう》はアブサロムに居場所を察知されてしまう。ここにいる全員を守りながら、「黒の彼方」がアブサロムと戦うのは不可能と言っていい。葉が意識《いしき》を取り戻すためには裕生《ひろお》は同行しなければならないが、他《ほか》の二人は葉から離《はな》れた方が生き残る確率《かくりつ》は高くなる。
それに同行するのが裕生だけになれば、「黒の彼方」が裕生と葉を背中に乗せて、脚力に任せて逃げることも出来るかもしれない。
「……気をつけろよ!」
佐貫《さぬき》が叫ぶのと同時に、彼らは階段を降りきった。四人は無言で二手に分かれた。「黒の彼方」と一緒《いっしょ》に逃げる裕生の方が、佐貫たちよりも危険だった。
JR新宿《しんじゅく》駅の地下通路は「通路」というよりは新宿駅を中心とした広大な地下街の一部で、何本もの地上のホームと繋《つな》がっている。裕生と葉はいくつもの階段の前を通り過ぎて、同じく地下にある改札口を目指した。
他のホームに通じる階段からも、わらわらと乗客が駆け下りてくる。その途端《とたん》、頭上からずしん、と鈍《にぶ》い振動が伝わってきた。天井《てんじょう》のパネルに音を立ててひびが入り、白っぽい粉のような破片がぱらぱらと降ってきた。
(なにが起こってるんだろう)
裕生は思わず地上を仰ぎ見た。とにかくできるだけ遠くに離れることだった。まずはこの群衆から抜け出なければならない。裕生たちはそのまま走り続けて改札口前の広場に出た。
「大丈夫? まだ走れる?」
と、裕生は葉を振り返りながら言った。
「へいき……」
しかし、葉は息を切らせている。無理もないと裕生は思った。右肩の傷はまだ治りきっていない。その時になって、ようやく裕生はポケットの携帯《けいたい》が鳴っていることに気づいた。誰《だれ》からなのか確認《かくにん》もせずに出ると、佐貫からだった。
『今どこだ?』
裕生は天井近くの案内板を見る。「東口改札口」とあった。
「東口の改札の前あたり」
しかし、改札口に近づくにつれて、人混みは徐々《じょじょ》に行列に近い状態になり始めていた。どうやら自動|改札機《かいさつき》の手前で詰まっているらしい。駅員が拡声器で避難《ひなん》誘導《ゆうどう》を行っているようだが、なにを言っているのか聞く余裕は裕生にはなかった。
『蔵前《くらまえ》はやっぱりお前たちの方に行ったみたいだ。気をつけろ。あと、電話切るなよ』
裕生は落ちないように手首にストラップを通して、しっかりと携帯を握りしめた。その時、ずっと後方から、誰かの悲鳴が聞こえてきた。葉と裕生は同時に振り返る。おそらく、アブサロムが地下に降りたのだ。
二人は互いの目を見た。「黒の彼方《かなた》」を葉《よう》に呼び出してもらわなければならない。しかし裕生《ひろお》の胸には先ほどからそれをためらう気持ちがわだかまっていた。
昨日《きのう》の夜、「黒の彼方」に言われたことが頭から離《はな》れなかった。
(次に消えるのはあなたに関する記憶《きおく》)
例によって裕生を動揺させるためのただの嘘《うそ》かもしれない。しかし、葉に自分を忘れられてしまうと思うだけで、胸がきりきりと痛んだ。
(バカ、こんな時に)
裕生は歯を食《く》い縛《しば》った。まず生き残るのが優先《ゆうせん》だ。自分や他《ほか》の人たちの命がかかっている時にどうかしている——。
「……なんですか?」
「なんでもない。『黒の彼方』を」
葉は黙《だま》ってうなずいた。そして目を閉じると、祈るようにカゲヌシの名を呼んだ。
 彼女の足元から巨大な黒犬が現れる。裕生はぐいと葉に手を引かれて、犬の背に乗せられた。眠っている方の首に腕を回した瞬間《しゅんかん》、黒犬は一声高く吠《ほ》えた。
周囲にいた人々が驚《おどろ》きの表情を浮かべながらさっと左右に分かれた。「黒の彼方」は猛然と走り出し、裕生を乗せたまま自動改札の上を楽々と飛び越えた。振り返ると葉もそれに続いている。
改札口は駅ビルの地下のショッピングモールと直接|繋《つな》がっている。買い物客たちは双頭の獣《けもの》に気づくと、ウィンドウに貼《は》り付くようにして慌てて道を開けた。「黒の彼方」は左右に並んでいるブティックやファストフードの店の前を恐るべき速さで走り抜けて行った。
ショッピングモールの先には短い階段があり、さらにそこを降りると左右にまっすぐ伸びた地下通路にぶつかった。黒犬はそこを右に折れてしばらく進み、やがて地上への階段のうちの一つの前で足を止める。前後にも階段にも通行人はほとんど見当たらなかった。
裕生は黒犬の背中から滑《すべ》りおりた。
「……ここなら視界を遮《さえぎ》られない。奴《やつ》が来ても分かるでしょう」
後から付いてきた葉が言った。今の彼女の肉体は完全に「黒の彼方」に支配されている。肉体の潜在《せんざい》能力を引き出すことが出来るらしく、普段《ふだん》よりも身体能力ははるかに高くなる。現にカゲヌシと同じ速度で走ってきても、彼女は息一つ切らせていなかった。
「葉の体は大丈夫なのか?」
彼女——「黒の彼方」は、自分の肩に視線《しせん》を走らせた。
「傷口はほぼ癒着《ゆちゃく》しています。この程度の動きなら、多少出血したところで大事には至りません」
その言い方に裕生《ひろお》は不愉快になった。分かっているつもりだったが、このカゲヌシは葉《よう》を道具としてしか見ていない。
ふと、裕生は手の中の携帯《けいたい》を見下ろした。電話の向こうから佐貫《さぬき》がなにか言っている。
「どうしたの?」
『ようやく話せるみたいだな。今どこだ?』
「どこって……」
裕生はあたりを見回した。普段《ふだん》、新宿《しんじゅく》には滅多《めった》に来ることがない。地理には疎《うと》かった。
「JRの改札から出てしばらく進んだところにある、地下鉄とかに繋《つな》がってる長い通路……みたい。壁《かべ》に広告のポスターとかが沢山《たくさん》貼《は》ってあるけど……」
『あ、新宿通りの地下だな。上に出ると新宿アルタとかがあるはずだ』
そのビルの名前ぐらいは聞いたことがある。裕生はうなずいた。
「佐貫は今どこにいるの?」
『俺《おれ》らはいったん西口の改札から出て、今は南口の方に来てる。さっきすごい音がしただろ? なにが起こったのか確《たし》かめようと思って』
裕生は先ほど駅の構内で感じた重い振動《しんどう》を思い出した。
「なんだったの?」
『電車が脱線《だっせん》してる』
裕生は絶句した。
『一両目が線路から外《はず》れて横転してて、その後ろの方が止まってた。あのカゲヌシがなにかしたらしい』
なんのためにそんなことをしたのかは分からなかった。しかし、それがアブサロム・ドッグヘッドの能力だとしたら、想像を絶する力を秘めていることになる。
裕生は葉の中にいる「黒の彼方《かなた》」に話しかけた。
「あのドッグヘッドってなんなんだよ? お前みたいに頭が二つあるのも、なにか意味があるのか?」
慎重に答えを選ぶような間が開いた。
「あれはもうただのカゲヌシではありません」
と、「黒の彼方」は言った。
「わたしと戦った時とはまったく別の存在に生まれ変わっています。形態も違いますし、首も以前は一つだけでした」
「えっ?」
「あの目を覚ましている方の首、あれがかつてのわたしの三つ目の首です……わたしから切り落とした首を捨てずに食ったようですね、あのカゲヌシは」
葉の口元にかすかに皮肉めいた笑《え》みが浮かんだ。
「……龍子主《たつこぬし》と同じように」
裕生《ひろお》ははっとした。以前、龍子主は「黒の彼方《かなた》」の首の一つを食いちぎったが、結局その首は龍子主の体内で生き続けていた。
「あの時も言ったはずですよ。わたしは他《ほか》のカゲヌシとは違う……『だから決して取り込まれない。こちらから取り込むことはあっても』」
「あ……」
裕生は鶴亀山《つるきやま》での夜のことを思い出した。確《たし》かに「黒の彼方」はそう言っていた。あのカゲヌシは「こちらから取り込んだ」結果ということなのだろう。
「あのカゲヌシは自分が食ったはずの首に取《と》り憑《つ》かれ、操《あやつ》られているのです」
と、「黒の彼方」は言った。
「じゃ、あの『ドッグヘッド』はお前の仲間ってことか?」
「仲間?」
「黒の彼方」はせせら笑った。
「今となってはただの『敵』ですよ。わたしの首であったというだけです。わたしたちにそのような感情はありません。主従の関係でしかない。それに、もともとあのドッグヘッドはわたしの首の中では最も攻撃的《こうげきてき》な性質を持っていた」
「でも、『眠り首』はお前のところに戻ってきたじゃないか」
「わたしの『眠り首』は、司令塔にふさわしい知能を持っていなかった。だからわたしの呼びかけに応《こた》えた。それだけのことです」
裕生は改めてこの怪物の冷えきった価値観《かちかん》に寒気を覚えた。自分の体の一部も、状況によっては自分の敵と化すのだ。
「あのカゲヌシの秘密は『ドッグヘッド』だけではないようですが」
「えっ?」
「あの契約者の様子《ようす》は異様です。前に見た時とは変わりすぎている。なにか多大な負担を強《し》いられるような契約を結んでいるとしか思えません」
その時、裕生たちがやって来た改札口の方から、蔵前《くらまえ》が姿を現した。地下の照明で見ているせいなのか、頬《ほお》と目はさらに落ちくぼんでいるように見えた。にもかかわらず、快活とも言えるような例の笑い声を上げた。
「そこにいたのか!」
「わたしに乗りなさい」
と、「黒の彼方」が言った。裕生はその背中に手をかけて——ふと、奇妙なことに気づいた。裕生たちのすぐそばにある階段から、小さな丸い影《かげ》のようなものがカゲヌシの背中に落ちていた。カゲヌシの背中の上にある裕生の左手も真っ黒に染め上げている。
(なんだ、これ)
影《かげ》は光を遮《さえぎ》らなければ生まれるはずがない。しかし、今裕生《ひろお》の目の前にある「影」は、頭上の蛍光灯《けいこうとう》の光を直接浴びても薄《うす》れていなかった。影というよりは一条の黒い光だった。黒いスポットライトが階段から当たっているように見えた。
裕生ははっと我《われ》に返った。彼らの前方にいる蔵前《くらまえ》のそばには、アブサロム・ドッグヘッドはいない。
階段を見上げると、地上からの入り口に二つの首を持った獣人《じゅうじん》が立っていた。裕生たちに当たっている丸い影は、白い首の右目から発せられたものだった。ホームで見た時は目を閉じていた右側の首が、今は覚醒《かくせい》していた。
(二手に分かれて、カゲヌシだけ地上から回り込んで……)
次の瞬間《しゅんかん》、裕生の思考は左手を貫く目もくらむほどの激痛《げきつう》で遮られた。
「うわあっ!」
悲鳴を上げると同時に、葉《よう》が裕生の体を突き飛ばした。彼は手を押さえながら背後へよろよろと下がる。「黒の彼方《かなた》」も苦しげな咆哮《ほうこう》を洩《も》らしながら飛びのいていた。
鈍《にぶ》く重い痛みが左手にのしかかってくる。自分の手を見下ろした裕生は一瞬気を失いそうになった。左手の指はどれもありえない方向に折れ曲がり、手の甲もぼこぼこと奇妙なところが盛り上がっている。何ヶ所もの場所で骨が折れているらしい。恐るべき力でぐしゃりと握りつぶされたように見えた。
「なんだ……これ」
震《ふる》える声で裕生はつぶやいた。これがあのアブサロム・ドッグヘッドの能力なのだろうか。
「黒の彼方」が裕生の方へ駆け寄ってくる。影を浴びた背中の一部が、ぼこりと陥没していることに気づいた。
「早く乗りなさい」
後ろにいた葉に急《せ》かされる。背中にまたがると同時に、「黒の彼方」は走り出した。振り向くとアブサロムが階段の下まで降りきったところだった。ふと、裕生はカゲヌシの両手が左右非対称なことに気づいた。右手は白い剛毛に覆《おお》われた獣《けもの》のものだったが、左手はアンバランスに細い人間のものだった。
(あの左手……)
アブサロムも背をかがめて走り出した。同時に白い首の目が再び開き、黒い光が地下通路の壁《かべ》や天井《てんじょう》をはね回る。影がかすめて行った蛍光灯が砕《くだ》け散り、広告のポスターを覆っていたガラスのウィンドウに音を立ててひびが入った。
「黒の彼方」と葉はその影を避けるように直角に曲がって、アブサロムが降りたのとは別の階段を駆け上がって行き、地上に出る手前で足を止めた。
「降りて下さい」
と、葉が裕生に言った。裕生は震えながら黒犬の背から降りる。すぐに葉に腕を掴《つか》まれて階段を地上まで上がりきった。
途端《とたん》に大通りの喧噪《けんそう》が耳に飛び込んでくる。そこはデパートや銀行や飲食店の入ったビルが並んでいる大通りで、人や車の往来が激《はげ》しかった。空を見上げると、駅の真上あたりをヘリコプターが何機《なんき》か旋回《せんかい》している。脱線《だっせん》事故を取材しに来たマスコミのヘリかもしれない。
地下から咆哮《ほうこう》が響《ひび》いてくる。振り向くとアブサロムが階段の一番下に辿《たど》り着いていた。「黒の彼方《かなた》」の眠っていた首がゆっくりと起き上がった。武器を使うつもりだ、と裕生《ひろお》は思った。このカゲヌシの「眠り首」は振動を発生させる能力を持っている。
突然、階段の途中にいるアブサロムの体のあちこちから煙が噴《ふ》き上がり、ばちばちと火花が跳《は》ねる——今、「黒の彼方」が発しているのは水分子を振動させる「波」だった。相手が生物であれば、体内に含まれる水分が振動によって高熱《こうねつ》を発し、いわば「煮立って」いく。
しかし、アブサロムは体を焼かれながらも足を止めなかった。双頭を覆《おお》うように長い腕を交差させる。接《つ》ぎ木《き》されたような不釣り合いな左手が余計《よけい》に際立《きわだ》った。
突然、その左手が鈍《にぶ》い光沢《こうたく》を持つ金属へと変化し始めた。その変化は左腕から右腕と頭へも広がり、やがて上半身全体へと広がっていった。体の表面を金属化させることで、「黒の彼方」が発している「波」を遮断《しゃだん》しようとしているのだと分かった。
「……前のアブサロムも残っているのか」
と、葉《よう》がつぶやいた。触れたものを金属化させるのは、以前のアブサロムの能力だった。裕生もようやく確信《かくしん》した。あの奇妙な左腕は「黒の彼方」が食い残した前のアブサロムの一部だ。それを今のアブサロムと合体させている。
アブサロムの体のほとんどが、関節のみを残して鈍色《にびいろ》の鎧《よろい》に覆われた。そして、一気に階段を駆け上がって「黒の彼方」に殺到する。そして、硬い金属と化した腕で「黒の彼方」を下から突き上げるように殴った。
「うっ……」
裕生の隣《となり》にいた葉の口から声が洩《も》れる。黒犬の体は裕生たちをかすめて地上へ飛び、銀行のガラス窓を突き破って床《ゆか》の上でごろごろと転がった。キャッシュディスペンサーを使っていた人々が声を上げながら左右に散っていった。
カゲヌシはゆっくりと階段を上がってくる。葉が裕生の無事な右手を引いて走り出した。
銀行の隣には大きなデパートがあり、壁面《へきめん》全体を秋物のバーゲンセールのポスターが覆っている。
裕生たちは自動ドアの手前にある太いコンクリートの柱の陰に隠れる。その途端、歩道からデパートに向かって人波が押し寄せてきた。子供連れや大学生らしいカップルが裕生たちの脇《わき》をすり抜けて、建物の中へ逃げ込んで行く。デパートの外にいるのは裕生たちだけになった。
おそるおそる裕生が顔を出すと、双頭の獣人《じゅうじん》はすでに地上へ姿を現して、仁王立《におうだ》ちで周囲を睥睨《へいげい》していた。
「あのカゲヌシも、あの契約者も、不安定な契約によって狂いかけています」
隣《となり》で葉《よう》がつぶやいた。
「どういうこと?」
「あの男は前のカゲヌシが死ぬ前に、新しいカゲヌシと契約を結んでしまいました。本来、複数のカゲヌシとの契約に人間の肉体は耐えられません」
「本来って……じゃあ、なんで蔵前《くらまえ》は生きてるんだよ」
「わたしの首が強引《ごういん》に新旧のアブサロムを一つに結び付けています。たまたまあのカゲヌシの中に入り込んでいたために……」
その時、アブサロムが裕生《ひろお》たちの隠れている柱に顔を向けた。あの異様な能力を持った白い首の目が開いている。裕生は慌てて頭を引っ込めた。
「あいつの目から出る黒い光はなんなんだ?」
「あのカゲヌシは重力を操《あやつ》る力を持っています。円形の影《かげ》の内部は一種の力場で、その中に入った物体には、焦点……つまり円の中心に向かって物理的な力が加えられる」
裕生には意味が分からなかった。葉は一旦《いったん》言葉を切り、冷めた目で裕生を見上げた。
「要するにあの目で見つめられたものはすべて押しつぶされるのです。あなたの手のように」
思わず自分の左手を見下ろす。痛みはさほど感じなかった。怪我《けが》が軽いわけではなく、痛みを感じる余裕もなくなっているのだろう。
その時、コンクリートの柱からばしっと弾《はじ》けるような音が聞こえた。もう一度顔を出してみると、柱の天井《てんじょう》に近い部分に黒い光が当たっていた。その部分からひびが広がりつつある。アブサロムの能力をもってすれば、この巨大な柱をも破壊《はかい》することが出来るらしい。これなら電車を脱線《だっせん》させることも可能かもしれなかった。
その時、咆哮《ほうこう》が響《ひび》き渡った。銀行の中から「黒の彼方《かなた》」が飛び出してきて、横を向いているアブサロムの左肩に体当たりを食らわせた。獣人《じゅうじん》は大きくのけぞって、後ずさりをしながら車道へと足を踏み入れた。
黒犬が一直線に裕生の方へ走ってくる。こちら側の歩道にいた人々は既《すで》に避難《ひなん》しているが、道路の反対側には大勢の野次馬《やじうま》が立ち止まってこちらを見ていた。なにかの映画の撮影《さつえい》と勘違いしているのか、携帯《けいたい》のカメラをカゲヌシに向けている人間までいた。
「黒の彼方」は柱を回り込んで裕生のそばに立ち止まった。よく見れば、脇腹《わきばら》の一部が鈍色《にびいろ》の金属に変わっている。さっき、殴られた時にそうされたに違いない。
「別の場所に奴《やつ》をおびき出します」
と、葉が言い、裕生はうなずいた。このように人通りの多い場所で戦うわけにはいかない。無関係な人間を巻き込んでしまう。
その時、車道の上のアブサロムがくるりと背を向けて、ゆっくりと道路の反対側へ歩き出した。通り過ぎる車が慌てたように大きく迂回《うかい》する。やがて、道路のちょうど真ん中に引かれた白いラインの上でカゲヌシは足を止めた。
(どうしたんだろう)
裕生《ひろお》たちからはむしろ離《はな》れて行っている。
「追うのは飽《あ》きたからね」
しゃがれた声が聞こえた。いつの間にか蔵前《くらまえ》が裕生たちのすぐそばに立っていた。黒犬の口から低いうなり声が洩《も》れる。今にも襲《おそ》いかかろうとするかのように、体を低くした。
「無駄《むだ》だよ。お前は契約で人間を襲うことは出来ないだろう? たとえ相手がぼくであってもだ。それどころか、人間の命を救わなければならない。以前、そこの少年を助けたように」
ふと、裕生は自分なら人間である蔵前を「襲う」ことも出来ると気づいた。もし、黒の彼方《かなた》がアブサロム・ドッグヘッドを殺せなかったら、自分たちの手で殺す以外にこの男を止める方法はないかもしれない。もし生かしておけば、蔵前はカゲヌシを使って人間を殺し続けるに違いないからだ。
(ぼくにそんなこと出来るのか)
彼はその想像に身を震《ふる》わせた。
「……その契約のために、お前はここから逃げることは出来ない」
蔵前は言葉を続けている。裕生ははっと我《われ》に返った。
「今、ここにいる人間たちを見殺しには出来ないからだ」
(ここにいる人間……?)
裕生が首をかしげた瞬間《しゅんかん》、タイヤの軋《きし》む音が響《ひび》き渡った。車道に立っているアブサロムの「眠り首」から、狂ったように黒い光が放出されていた。カゲヌシのそばを走り抜けようとする車に次々と目を向け、フロントガラスを粉砕《ふんさい》し、あるいはタイヤをバーストさせていく。ある車はスピンし、ある車はふらふらと中央のラインを越えかけたところで急停車する。そこをまた別の車に追突され、通りはたちまち動かなくなった車で埋め尽くされていった。
「あ……」
裕生がかすかに悲鳴を上げた。制御《せいぎょ》不能になった一台のミニバンが、裕生たちとは反対側の歩道にいる群衆に向かって突き進んで行った。とっさに人々は左右に分かれようとしたが、カメラ付きの携帯《けいたい》を構えていた大学生らしい若い男が逃げ遅れ、バンパーの角に弾《はじ》き飛ばされた。若い男の体はぞっとするような勢いで歩道の上を一直線《いっちょくせん》に飛び、スーツを着た中年の男の背中にぶつかる。二人は一塊《ひとかたまり》に折り重なって路上に倒れた。
歩道を横切ったミニバンは、コーヒーショップの自動ドアを粉砕したところでようやく停車した。
「黒の彼方」が全速力でアブサロムに向かって走り出した。契約上、人を殺そうとする獣人《じゅうじん》を放って逃げ出すことは出来ない。
「蔵前!」
怒りと恐怖で裕生《ひろお》の目がくらんだ。ほとんど無意識《むいしき》のうちに目の前のやせ細った男に殴りかかって行った。
不意に白いコートが翻《ひるがえ》り、蔵前《くらまえ》の右足が跳《は》ね上がった。裕生はみぞおちのあたりに重い衝撃《しょうげき》を受けて、背後の柱に激突《げきとつ》する。息を詰まらせながら、地面にがっくりと膝《ひざ》を突いた。
「君たちにぼくは倒せないよ」
道路の反対側からめきめきと金属の軋《きし》む音が聞こえてきた。例の停車しているミニバンをアブサロムの発する黒い影《かげ》がすっぽりと包み込んでいた。「影」の大きさを自在に変えることが出来るらしい。プレス機《き》にかけられているかのように、ボディが波を打つように歪《ゆが》んでいく——と、ボンネットのあたりから炎が噴《ふ》き上がった。
その時、「黒の彼方《かなた》」が獣人《じゅうじん》の背中にのしかかるように牙《きば》と爪《つめ》を立てた。一瞬《いっしゅん》、ぐらりとアブサロムはバランスを崩したが、すぐに黒犬の首を掴《つか》んで振りほどくと、雄叫《おたけ》びを上げながら裕生たちの方へ投げ返した。
「あっ」
葉《よう》が首のあたりを押さえてうずくまる。道路の上を低く飛んだ「黒の彼方」は、歩道の縁石《えんせき》にぶつかって高くバウンドし、蔵前の目の前にぼとりと落ちた。
「黒の彼方」は起き上がろうとしたが、また力尽きて地面に顎《あご》をつけた——裕生は目を瞠《みは》った。黒犬の「司令塔」の首が大きくえぐれていた。今の投擲《とうてき》の際に首の付け根の肉をもぎ取られたらしい。後ろ足の片方が折れ曲がり、立ち上がることも出来ないようだった。
契約者である葉の方もまた立ち上がれない様子《ようす》だった。「本体」である黒犬の体に与えられた痛みは、契約者もまた共有することになる。「本体」と同じ傷を負ったようなものだった。
「こうなると同族食いも哀れなものだ」
蔵前は頬《ほお》を歪《ゆが》めて笑った。
「一度倒した相手に倒されるのはどんな気分かな?」
「わたしを傷つけたのは、あなたではありません」
と、葉の口が苦しげにつぶやいた。
「わたしの首を奪《うば》ったカゲヌシと、わたし自身の首です」
一瞬、蔵前の笑《え》みがかすかに後退し、すぐ元に戻った。
「どちらにしても変わりはしない。契約者はこのぼくだ」
蔵前は裕生の方へ一歩足を踏み出した。黒犬はずるりと体を引きずって、裕生を庇《かば》うように二人の間に割って入った。
「そこまでしてこの少年を守るのも、契約のためか?」
「……違う」
裕生の隣《となり》にいる葉が、うわごとのようにつぶやいた。
「この少年は必ずわたしの手で殺す……それまで、他《ほか》の誰《だれ》の手にもかけさせない」
裕生《ひろお》の背筋がぞくっと震《ふる》えた。以前にもこの「黒の彼方《かなた》」は彼への殺意を口にしているが、瀕死《ひんし》の状況でも衰えないほど根深いものだとは思っていなかった。
「……しかし、今のお前には無理だね」
いくぶんくぐもった声で蔵前《くらまえ》は言った。
「いいえ。あなたにはなにかの弱点があるはずです」
ふと、この男の様子《ようす》がおかしいことに裕生は気づいた。くっきりと骨のかたちが浮き出た顔に、幾筋もの汗が流れていた。
「なにかを代償《だいしょう》にしなければ、あのような異常なカゲヌシと契約を結べるはずが……」
蔵前がつんのめるように足を踏み出し、黒犬の腹のあたりを蹴り上げた。「黒の彼方」の体が地面を滑《すべ》って行き、そして身動きを止めた。完全に気絶したらしかった。倒れかかってくる葉《よう》の体を、裕生はどうにか右腕だけで受け止めた。
その瞬間《しゅんかん》、再び爆発音《ばくはつおん》が聞こえた。玉突き衝突《しょうとつ》を起こして停《と》まっている車を、アブサロムが爆発させたのだ。路上に点在している車が、アブサロムの能力によって一台ずつ炎上していった。見渡す限り、裕生たち以外に大通りで動いている人間の姿は見えなくなっている。ところどころに巻き込まれて倒れている人間がいるだけだった。逃げて行った人々が投げ捨てたバッグや買い物袋が散乱していた。
携帯《けいたい》の着メロが鳴っている。足元にストラップの切れた携帯が転がっていた。さっき蔵前に殴りかかった時に落ちてしまったらしい。画面をちらりと見ると、かけているのは佐貫《さぬき》だった。おそらく通話が切れて、向こうからかけ直しているのだろう。
「あの二人をここへ呼んでもらおうか」
奇妙な早口で蔵前は言った。裕生は携帯を見つめたまま動かなかった。その途端《とたん》、車道の方でまた別の車が炎上した。
「早くしろ……この一帯を火の海にされたくなければ……」
裕生はのろのろと携帯を拾い上げる。「黒の彼方」は相変わらず動けそうもない。自分たちの命を差し出す以外に、この男の凶行《きょうこう》を止める方法はないのかもしれない。
通話ボタンを押しかけた時、裕生は蔵前の足元に目を留《と》めた。細く白いものが無数に散乱している——髪《かみ》の毛のような。はっと顔を上げると、蔵前はいつの間にか苦悶《くもん》の表情を浮かべて自分の頭をかきむしっている。
指と指の間から飛び出した白い髪の房がごっそりと抜けて、雪のようにはらはらと地面に落ちて行った。
「ぐ……」
蔵前は歯を食《く》い縛《しば》り、苦しげに叫んだ。
「まだだ! アブサロム・ドッグヘッド!」
反射的に道路にいるカゲヌシに視線《しせん》を移すと、双頭の獣人《じゅうじん》は空を見上げている。例の黒い光は空に向かって放たれていた。裕生《ひろお》もつられて頭上を見たが、デパートのせり出した上階部分に遮《さえぎ》られて、なにも見えなかった。
頭を抱えた蔵前《くらまえ》の唇からかすれた悲鳴が洩《も》れる。裕生たちに背を向けると、ふらふらした足取りでデパートの建物から離《はな》れて行った。
(どうしたんだろう)
裕生はそれを見送りながら考える。
その時、ようやく携帯《けいたい》の着メロが鳴りやんだ。今まで意識《いしき》していなかった、風を切るような音が突然くっきりと耳に響《ひび》き始めた。その音は徐々《じょじょ》に大きくなり、やがて他《ほか》の音などなにも耳に入らなくなった。
唐突《とうとつ》にそれは裕生の視界に入ってきた。強い風が彼の体に吹き付けてくる。
「うわああっ!」
爆音《ばくおん》にかき消されながら裕生は絶叫した。
それは上空を旋回《せんかい》していたはずのヘリコプターだった。白地のボディに青いラインの入った流線型《りゅうせんけい》の機体《きたい》は、ところどころがまるで握りつぶされたようにへこんでいる。黒い煙を噴《ふ》きながら裕生たちのいるデパートの入り口に向かってまっすぐに突っ込んできた。
(アブサロムだ)
あの黒い光をヘリコプターに当てて、墜落《ついらく》させようとしているのだ。
裕生は振り向いて退路を探す——真後ろにあるデパートの自動ドアの向こうには、幸い誰《だれ》も残っていなかった。既《すで》に逃げ出した後らしい。しかし自分たちもそこへ逃げ込むことは出来ない。まっすぐに後退するのは危険すぎる。
ふと、裕生は自動ドアの手前に地下に降りる階段があることに気づいた。
(あそこだ)
裕生はよろよろと立ち上がると、葉《よう》の体に腕を回し、引きずるようにして歩き始めた。できれば背負っていきたかったが、左手が動かない状態ではそれも難《むずか》しい。「黒の彼方《かなた》」の姿は既になかった。葉の影《かげ》の中に戻ってしまったらしい。
彼は呆《あき》れるほどゆっくりとしか前進で出来かった。ヘリコプターのローターが発する轟音《ごうおん》はさらに大きくなっている。自分たちの全身を巨大な影が覆《おお》っていく。
「……ダメだ」
裕生の口が無意識のうちに動いていた。彼はそれでも前に進もうとしていたが、もはや自分たちだけの力では間に合わないことをはっきりと感じていた。
 数秒後、デパートのエントランスに一台のヘリが墜落した。柱のうちの一本が根本から折れ、ショーウィンドウがすべて粉々に砕《くだ》けた。四散した機体の破片は売り場の奥まで転がって行った。さらにその数秒後、燃料《ねんりょう》に引火して機体の残骸《ざんがい》が激《はげ》しく炎上し始めた。
道路の上で白髪《はくはつ》の男が両手で頭を抱き、口から苦悶《くもん》の声を洩《も》らしている。目の前で起こった事故を見る余裕もない。
その傍《かたわ》らでアブサロム・ドッグヘッドは非対称な両手を天に掲《かか》げ、雄叫《おたけ》びを上げた——それはおのれの強さへの歓喜、そして身のうちに抱え込んだ無差別な殺戮《さつりく》への衝動《しょうどう》の表出だった。
    5
 すべてを失った二ヶ月前のあの日、蔵前《くらまえ》はわずかに残ったカゲヌシの左腕とともに、車に乗ってまっすぐに海を目指した——いつの間にか車に潜《ひそ》んでいた、あの黄色《きいろ》いレインコートを着た男がいなければ、彼の乗った車が崖《がけ》から飛び出すこともなかったはずだ。
その後の記憶《きおく》は断片的にしか残っていない。あのレインコートの男はカゲヌシの契約者だったらしい。あの男がカゲヌシを呼ぼうとしたこと、蔵前もとっさにアブサロムを呼んだことは憶《おぼ》えている。車が転落し、突き出た岩場が迫ってきた最後の瞬間《しゅんかん》、現れたカゲヌシの左腕を男に向けて投げ付けた気がする。
そこで意識《いしき》は途切《とぎ》れる。
再び目を覚ました時は水の中だった。自分が落ちたはずの崖はどこにも見あたらず、見渡す限り真っ暗な波間を漂っていた。空には月も星も見えない。
(なんだ、ここは)
もし自分が既《すで》に陸から離《はな》れているとしたら、誰《だれ》かに助けられない限り命を落とすのは時間の問題だ。しかし、恐怖は感じなかった。死に直面したこの時に、もう一度会って話したいと願《ねが》う相手はいなかった。
いるのは殺したいと願う相手だけだ。彼のアブサロムを見つけ出し、そして殺した者ども。それが殺意であったにせよ、この瞬間に願う相手がいるということは、自分は孤独ではないと感じた。
その時、唐突《とうとつ》に島が現れた。夜の闇《やみ》よりも黒いシルエットが波の向こうに浮かんでいる。蔵前は手足で水を切って進み、気が付くと急|勾配《こうばい》の砂浜に足を埋めて立っていた。
今となってはあの黒い海の漂流が本当に起こったことなのか、夢の中での出来事なのか、蔵前には判然としない。後から思い返せば、以前にも何度かあのように夜の海を漂う夢を見たことがあった気がする。しかし、その島で蔵前が新しいアブサロムを手に入れたことだけは事実だった。
砂浜を上がろうとした蔵前は、つま先に硬いものを感じて立ち止まった。
足元を見下ろすと、黒い楕円形《だえんけい》の卵が転がっていた。
 アブサロム・ドッグヘッドは以前のカゲヌシとはまったく異なっていた。卵が割れ、契約が結ばれた瞬間《しゅんかん》、彼ははっきりした意識《いしき》をほとんど保つことが出来なくなった。
カゲヌシは契約者の心の中に潜《ひそ》む。しかし、新しいアブサロムは複数の異なるカゲヌシから成り立っており、それらの意識はかろうじて「犬の首」——ドッグヘッドの強引な支配によって一つにまとまっているだけだった。その「支配」もカゲヌシが人間に対して抱く殺意によって強引にまとめ上げているだけだった。
複数のカゲヌシの殺意は、無差別な破壊《はかい》衝動《しょうどう》となって蔵前《くらまえ》を苛《さいな》んだ。あくまで社会の闇《やみ》に潜み、自分の好む対象だけを殺す蔵前の衝動とは意味合いがまったく異なっている。彼はカゲヌシの衝動を必死に抑えようと努め、そのために精神力のほとんどを使い果たしていた。
彼は何ヶ月もの間、海岸沿いの土地を彷徨《さまよ》い続けた。海岸は奇妙に一人きりの人間が訪れる場所だった。年齢《ねんれい》も、性別も、社会的な地位もさまざまだったが、一日に一度や二度は必ず両目に苦悩をたたえた人間に出会うことが出来た。
アブサロム・ドッグヘッドの欲望を宥《なだ》めるには、常に人を殺して捧《ささ》げなければならない。海岸はそのための漁場だった。出会った人間のうち何人かは自殺|志願者《しがんしゃ》にも見えたが、実際に彼らがなにを考えていたのかは分からない。彼らを殺し、カゲヌシに食わせるという過程にはなんの違いもなかった。
目的のない無為《むい》な殺戮《さつりく》を繰《く》り返すうちに、蔵前は自分のことをはっきりと思い出せなくなっていた。自分の中にあるどんなねがいがカゲヌシを呼んだのかも分からなくなった。意識には常に薄《うす》い膜がかかったようで、集中して物事を考えられなかった。
 その男に出会ったのは一ヶ月前の夕方だった。
メガネをかけたその中年の男は、砕《くだ》ける波頭《なみがしら》を断崖《だんがい》から見下ろしていた。荷物はなにも持っていない。
この男もまたなにかに倦《う》み疲れた男だと蔵前は思った。ただ、奇妙なことにかすかにカゲヌシの気配《けはい》を漂わせている。以前、カゲヌシとの契約者だったのかもしれない。
慎重に近づいていくと、相手はふと顔を上げた。
「……誰《だれ》だ、君は」
男は穏《おだ》やかな声で言った。蔵前はうまく答えることが出来なかった——自分は一体誰なのか。
「ここ……でなにをしている?」
蔵前の方も尋《たず》ねた。久しぶりに口にした言葉だった。男はためらうことなくはっきりと言った。
「わたしはこれから自分の始末をつけるところだ」
「……始末……?」
初めて聞く言葉のように、蔵前は繰り返した。
「君が近づいてこなければ、とっくに終わっていたところだよ」
海岸で何人もの人間と出会い、そして殺してきたが、はっきりと自殺を口にしたのはこの男が初めてだった。しかし、その答えが彼になにか影響《えいきょう》を及ぼしたわけではなかった。アブサロムを呼ぼう、と思った瞬間《しゅんかん》、
「君はカゲヌシの契約者なんだろう?」
と、男が言った。
蔵前《くらまえ》は凍り付いたように動けなくなった。確《たし》かに自分はカゲヌシに取《と》り憑《つ》かれている。カゲヌシがなんであるのかははっきりと分かる。しかし、「自分」とはなんなのかがよく分からなくなっていた。自分がカゲヌシであるような気がする時さえあった。
「分かる……のか」
男はかすかに笑った。
「なんとなくね。以前のわたしと同じ目をしている」
「同じ……目」
「自分を見失った人間の目だ。自分の戻る場所、求めるものを忘れた人間の目だよ」
蔵前は自分の顔に触れて、しばらく鏡《かがみ》を見ることも忘れていたことに気づいた。どのような目をしているのか、自分では見当もつかなかった。
「わたしはかつて住んでいた町に戻り、自分を取り戻すことが出来た。わたしの娘にも、自分自身として会うことが出来た」
わたしの娘、という言葉を口にした時、かすかに男の声が震《ふる》えた。
「もうわたしのするべきことは終わった。あとは自分の罪を贖《あがな》うだけだ」
「住んでいた……町」
頭の中にくっきりと古い教会が浮かび上がった。十字架のついた白い尖塔《せんとう》。雪を落とすための傾斜の強い屋根。その教会にかつて彼は住んでいた。
あの場所へ戻れば、自分というものを取り戻せるのか。
蔵前は頭をかきむしった——激《はげ》しく頭が痛んだ。
「蔵前、司《つかさ》」
それは男の最初の質問に対する答えだった。
「……アブサロム」
「それがカゲヌシか。すごい名前だな」
感心したように男は言った。
「旧約聖書に出てくる、ダビデ王に反乱を起こした王子の名だろう」
それから、男も自分の名を名乗った気がする。しかし、痛みに苛《さいな》まれている蔵前の耳には入っていなかった。その後の言葉だけがかろうじて聞き取れただけだった。
「——は、リグル・リグル。あがき、うごめくという意味だよ」
それは今の蔵前のことを言っているかのようだった。
痛みとともにいくつかの断片的なイメージが頭をよぎった。苦痛そのものが記憶《きおく》であるかのようだった。この土地から北へ行き、海を渡ったその先にその教会はある。芝生《しばふ》のある家の隣《となり》だ。そして、うっすらと町の名前も思い出せた。
(行こう)
あの場所に行かなければならない。蔵前《くらまえ》は顔を上げた。自分を取り戻す方法について、もっと詳しく男に聞こうと思った。
しかし、崖《がけ》の上に立っているのは蔵前一人だった。
既《すで》に波に呑《の》まれてしまったのか、崖下を覗《のぞ》き込んでも男の姿はどこにも見えなかった。
 その曖昧《あいまい》な記憶《きおく》を頼りに、蔵前は海岸線《かいがんせん》に沿って北へ向かった。海を渡るまでに半月かかり、教会を見つけ出すまでにさらに半月かかった。
教会は彼の記憶のままに建っていた。しかし、それを見てもなんの感情も呼び起こされなかった。自分が求めていたのはこれではなかったのだ、と彼は思った。しかし、なにか他《ほか》の重要なことを思い出すまでここを動く気にもなれなかった。他に行くべき場所を思いつかなかったのだ。
教会に忍び込み、窓に映る自分の顔を見た蔵前は、自分の風貌《ふうぼう》が変わっていることに気づいた。以前がどうだったのかはっきりと思い出せなかったが、自分の肉体が限界に近づいていることを察した。このカゲヌシは契約者の精神だけではなく、肉体をも破壊《はかい》していく。アブサロム・ドッグヘッドを呼び出した後は、必ずと言っていいほど体の自由が利かなくなっていた。
彼は時間をかけてじっくりと建物の内部を掃き清めていった。二階のかつての彼の部屋からは、隣家《りんか》の庭を見ることが出来た。初老の男性が飼い犬と一緒《いっしょ》に住んでいた。
その庭の光景にはなにか心を揺さぶられるものを感じた。前にもこうしてあの庭を見下ろしたことがあったはずだ。あの庭にいた誰《だれ》かに、なにか抗《あらが》いがたい強い衝動《しょうどう》を覚えた気がする。
空《あ》き家《や》になっているはずの教会に、誰かが住み着いていることに隣の家の男はすぐに気づいた。どうするべきか迷っていたようだが、結局ある朝犬の散歩を終えた後で挨拶《あいさつ》に来た。半年前にここに移り住んできたばかりで、この周辺のことはよく知らないらしい。気さくな男らしく、蔵前がどうしてここにいるのかをためらいもなく尋《たず》ねてきた。
答えようもなく黙《だま》っていると、
「なにかの病気なのかい?」
と、心配そうに言った。曖昧に話を合わせているうちに、ここは蔵前の家であり、病気の療養《りょうよう》のために戻ってきたと男は納得したらしい。当面は殺す必要はないと蔵前は判断したが、彼の中のカゲヌシは、この男への食欲を表明していた。
彼は家の中を案内すると言い、男を自分の部屋へ連れて行った。窓から見える隣家の庭について、ひとしきり男の話を聞き終えた後で、蔵前はアブサロム・ドッグヘッドを呼び出した。
 男を殺した後で、彼は隣《となり》の家へ向かった。この家自体は昔からあるはずで、中を見ればあるいはなにか思い出すかもしれないと思ったのだった。
しかし、分かったことと言えばこの家に住んでいた男のことだけだった。彼は定年後にここに移り住んだサラリーマンらしく、仏壇《ぶつだん》には亡くした妻らしい遺影《いえい》が飾ってあった。
蔵前《くらまえ》は縁側《えんがわ》の椅子《いす》に腰を下ろして、カーテン越しに芝生《しばふ》の庭を眺めた。飼い主が死んだことも知らずに、白い犬がボールで遊んでいる。
わざわざこの土地まで来たのは無駄《むだ》だったと思った。自分に関する記憶《きおく》はなにも戻らない。そのような「自分」など最初から存在せず、最初からうつろな存在だったのかもしれない——。
その時、フェンスの向こうに天内《あまうち》茜《あかね》が現れた。
突然、頭の中を満たしていた霧《きり》がさっと晴れたような気がした。自分を追いつめ、恥辱《ちじょく》を味わわせた者たち。雛咲《ひなさき》葉《よう》、天内茜、藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》、そして「黒の彼方《かなた》」、彼らに復讐《ふくしゅう》すること——それが彼の「日的」だった。
気が付くと蔵前は立ち上がって窓を開け、庭へ飛び出していた。体は羽根のように軽く、生まれ変わったように爽快《そうかい》な気分だった。今、天内茜は教会の中に入ったらしい。おそらくは自分を殺しにきたのだろう。
蔵前は体の奥から耐えがたい笑いが湧《わ》き上がるのを感じた。それならばまず彼女に贈《おく》り物《もの》をするべきだ。新しいアブサロム——アブサロム・ドッグヘッドにふさわしいものを。一瞬《いっしゅん》で自分を思い出し、悲鳴を上げざるを得ないものを。
玄関の脇《わき》に立てかけてあったナタを拾い上げると、必死に笑いをこらえながら、庭で遊んでいる犬に近づいて行った。
 蔵前にははっきりと分かっていた。
今や自分を正気に返すのは復讐だけであると。それを失えば、自分という存在はアブサロム・ドッグヘッドに呑《の》み込まれてしまうのだ。
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