「良かった。もう外には出られないかもって思っていたんだ」
アオカガミは嬉《うれ》しそうにくるりと回って見せた。
「蔵前《くらまえ》に会いに行ったおかげで、ひどい目に遭ったよ。この男の脳が損なわれてしまったせいで、ぼくの意思を十分に伝達出来なくなった。だから、行動がかなり制限されていたんだよ。かといってぼくを呼んでもらおうにも、この男は名前を忘れちゃってたからね」
アオカガミのしぐさは人間の子供とあまり変わるところがない。前のアブサロムと同じように、人間型のカゲヌシなのかもしれない、と裕生《ひろお》は思った。
「ぼくはアブサロムなんかとは違うよ」
突然、不満げにそう言われて裕生はぎょっとした。
「こっちの考えてることが分かるの?」
アオカガミの頬《ほお》のあたりに、かすかな笑《え》みが浮かんだ。
「どの人間でも分かるわけじゃないよ。お前は特別だからね、藤牧《ふじまき》裕生」
「特別?」
「そう。だから、お前には便宜《べんぎ》をはかってやってたんだ」
アオカガミの無表情な目が裕生の顔を凝視《ぎょうし》した。一瞬《いっしゅん》、なぜか裕生の背筋が震《ふる》える。
裕生は「アオカガミ」という名前の由来について考えていた。このカゲヌシは蛇《へび》を思わせる姿をしている。「アオ」は着ている服と関係がありそうだが、「カガミ」はこのカゲヌシの形状とは無関係のようだった。てっきり、この町の「加賀見《かがみ》」か「鏡《かがみ》」に関係があるのかと思っていたのだが。
すると、アオカガミは首を振った。
「カガミの『カガ』は蛇を示す古語だよ。『カガミ』って地名自体も、このあたり一帯で崇《あが》められていた蛇神の名前から来てるらしいけど。船瀬《ふなせ》はぼくの姿から連想して、その名前を付けたのかもしれない」
船瀬は相変わらず病院のドアの前に石のようにうずくまったままだった。
「なんで、『サイン』を書いて回ってたの?」
と、裕生は言った。
「あれはちょっとしたメッセージだよ。自分たちが監視《かんし》されているのを自覚してほしかったんだ。連中とは滅多《めった》に接触しないけどね」
「じゃ、蔵前に会いに行ったのは?」
「出来心だよ。蔵前も『特別』だし、ぼくはあいつが好きなんだ。ちょっと驚《おどろ》かせすぎたけど」
好き、という言葉に裕生はどう反応したらいいか分からなかった。自分たち人間とは異なるルールでこのカゲヌシは動いている。
「ぼくはこの世界に最初に現れて、カゲたちを監視する役割を持ってる」
「カゲ……?」
と、裕生は聞き返した。ああ、と言いながらアオカガミはうろこだらけの手を振った。
「お前たちが『カゲヌシ』って呼んでいるものだよ。ぼくたちの種族。色んな世界で、色んな風《ふう》に呼ばれてきたから、ぼくは一番|簡単《かんたん》な名前で呼んでる」
裕生《ひろお》はうなずいて、話の続きを促《うなが》した。
アオカガミは嬉《うれ》しそうにくるりと回って見せた。
「蔵前《くらまえ》に会いに行ったおかげで、ひどい目に遭ったよ。この男の脳が損なわれてしまったせいで、ぼくの意思を十分に伝達出来なくなった。だから、行動がかなり制限されていたんだよ。かといってぼくを呼んでもらおうにも、この男は名前を忘れちゃってたからね」
アオカガミのしぐさは人間の子供とあまり変わるところがない。前のアブサロムと同じように、人間型のカゲヌシなのかもしれない、と裕生《ひろお》は思った。
「ぼくはアブサロムなんかとは違うよ」
突然、不満げにそう言われて裕生はぎょっとした。
「こっちの考えてることが分かるの?」
アオカガミの頬《ほお》のあたりに、かすかな笑《え》みが浮かんだ。
「どの人間でも分かるわけじゃないよ。お前は特別だからね、藤牧《ふじまき》裕生」
「特別?」
「そう。だから、お前には便宜《べんぎ》をはかってやってたんだ」
アオカガミの無表情な目が裕生の顔を凝視《ぎょうし》した。一瞬《いっしゅん》、なぜか裕生の背筋が震《ふる》える。
裕生は「アオカガミ」という名前の由来について考えていた。このカゲヌシは蛇《へび》を思わせる姿をしている。「アオ」は着ている服と関係がありそうだが、「カガミ」はこのカゲヌシの形状とは無関係のようだった。てっきり、この町の「加賀見《かがみ》」か「鏡《かがみ》」に関係があるのかと思っていたのだが。
すると、アオカガミは首を振った。
「カガミの『カガ』は蛇を示す古語だよ。『カガミ』って地名自体も、このあたり一帯で崇《あが》められていた蛇神の名前から来てるらしいけど。船瀬《ふなせ》はぼくの姿から連想して、その名前を付けたのかもしれない」
船瀬は相変わらず病院のドアの前に石のようにうずくまったままだった。
「なんで、『サイン』を書いて回ってたの?」
と、裕生は言った。
「あれはちょっとしたメッセージだよ。自分たちが監視《かんし》されているのを自覚してほしかったんだ。連中とは滅多《めった》に接触しないけどね」
「じゃ、蔵前に会いに行ったのは?」
「出来心だよ。蔵前も『特別』だし、ぼくはあいつが好きなんだ。ちょっと驚《おどろ》かせすぎたけど」
好き、という言葉に裕生はどう反応したらいいか分からなかった。自分たち人間とは異なるルールでこのカゲヌシは動いている。
「ぼくはこの世界に最初に現れて、カゲたちを監視する役割を持ってる」
「カゲ……?」
と、裕生は聞き返した。ああ、と言いながらアオカガミはうろこだらけの手を振った。
「お前たちが『カゲヌシ』って呼んでいるものだよ。ぼくたちの種族。色んな世界で、色んな風《ふう》に呼ばれてきたから、ぼくは一番|簡単《かんたん》な名前で呼んでる」
裕生《ひろお》はうなずいて、話の続きを促《うなが》した。
「ぼくたちは異なる世界を渡り歩いて人間を捕食する種族だ。人間の秘めたねがいに呼ばれて、卵の形態でこちらへ現れる。カゲたちは人間の精神に潜《ひそ》んで、そのねがいを解消する代わりに餌《えさ》を得る。しかし、それぞれ固有の能力を持ち、自立傾向の強いカゲたちは放っておけば暴走《ぼうそう》しかねない。少しでも問題が起こるのを防ぐために、階位による序列を作り、決まった順番によってカゲを出現させている。問題を起こしかねない危険なカゲは、なるべく後の方に現れることになっているんだ」
アオカガミは一旦《いったん》言葉を切る。裕生が理解しているかどうかを確認《かくにん》したらしい。
「そういう対策を講《こう》じても、カゲたちは問題を起こす。人間を見境《みさかい》なく殺して、この世界を滅ぼそうとしたりとかね。そこで『同族食い』を出現させて、カゲの間引きを行っている。勘違いをしているカゲもいるようだけど、『同族食い』が問題を引き起こすんじゃなくて、問題が起こったから『同族食い』が呼ばれるんだよ。それでも解決しない時は、カゲたちをみんな卵に返してしまう」
ふと、アオカガミは裕生の顔を意味ありげに覗《のぞ》き込んだ。
「カゲを人間から引き離《はな》すには方法は二つしかない。まず一つは『同族食い』がカゲを食べてしまうこと。あと一つは、ぼくが力を使うことだ……ぼくはカゲたちを元の卵に戻す力を持ってる」
裕生は胸を撫《な》で下ろした。やはり、以前聞いた通り、このカゲヌシはアブサロム・ドッグヘッドに対応する力を持っているのだ。
「お前がなにを言いたいのか分かるけど、安心しちゃ駄目《だめ》だよ」
と、アオカガミが言った。
「聞いていると思うけど、ぼくの力は階位の中にいるカゲにしか及ばないからね。もともと……」
「でも、それなら」
裕生が口を開きかけると、アオカガミの目がぎらっと光った。
「ぼくの話を遮《さえぎ》るな、藤牧《ふじまき》裕生」
うなるような低い声でカゲヌシは言った。裕生はなにも言えなくなった。
「もともと、カゲは名に縛《しば》られる。この世界にとどまるためには、人間と名と力の契約を結ぶけど、この世界に来るためにも彼らは契約を結ばなきゃならない」
誰《だれ》と別の契約を結ぶんだろう、と裕生は思った。相手は人間ではなさそうだった。
「契約を結ぶ相手は、すべてのカゲヌシの父である『|闇の奥にいる者《ハート・オブ・ダークネス》』だよ。この世界の人間には理解出来ない存在だけどね。彼との契約で与えられる名は、人間との契約で与えられる仮初《かりそめ》のものじゃない。隠された真の名なんだ……ぼくは『|闇の奥にいる者《ハート・オブ・ダークネス》』の一部で、その意思の一部を代表している」
裕生《ひろお》はなんとなく神や悪魔《あくま》のようなものを連想した。アオカガミはかすかに鼻を鳴らした。
「それぐらいの認識《にんしき》がお前の限界だろうけど、そう考えても別に問題ないよ。階位の中にいるカゲたちは真の名に縛《しば》られてる。その名を聞くと契約が発動して卵の形態に戻る……ぼくの能力は、この世界にいるカゲヌシたちに向けて、名前を聞かせることなんだ」
うまく理解は出来なかった。考えあぐねていると、それに答えるようにアオカガミは話を続けた。
「名で分からなければ、呪文《じゅもん》だと思えばいいんだよ。どうせ同じものなんだから。ぼくはぼくにしか唱《とな》えられない、階位の中のカゲヌシたちを卵に返す呪文を知っている。分かった?」
裕生は一応うなずく。自分がひどく頭の悪い人間のような気がした。
「でも、アブサロム・ドッグヘッドは『同族食い』の頭に支配されてる。変則的だけど、今は階位の中にいないんだ。だから、ぼくの力も及ばない」
「あ……」
体から力が抜けていった。アオカガミにもどうにもならないのだとしたら、やはり「黒の彼方《かなた》」をぶつけて倒させる以外に方法はない。しかし、まともにぶつかってあの黒犬がアブサロムに勝てるとも思えなかった。
「うん。お前たちはもう一回アブサロムと戦わなきゃならない。でも、ただ勝つだけじゃダメだよ。条件があるんだ」
アオカガミが先回りして言った。
「これ以上、『黒の彼方』に餌《えさ》を与えないようにして勝つこと。これは絶対守るんだよ」
一瞬《いっしゅん》、裕生の目の前が真っ暗になった。
「え……?」
「方法は問わない。お前がしなきゃいけないのは、あのアブサロム・ドッグヘッドをどうにかすること。殺すか、前みたいな普通のカゲヌシに戻すか……ただし、『同族食い』の力をこれ以上強くするようなことがあっちゃいけない。あいつに餌を与えない方法をなにか考えるんだ」
裕生は歯を食い縛《しば》った。ただ相手を殺すよりも、はるかに難《むずか》しい条件だった。
「ぼくが取り戻したいのは均衡《きんこう》なんだよ、藤牧《ふじまき》裕生。『黒の彼方』も、今のアブサロム・ドッグヘッドもぼくにとっては手に余るんだ。一方はカゲヌシを、もう一方は人間を殺しすぎる。『同族食い』がいなくなるのはまずいけど、かといってあいつがこれ以上強くなるのも困るからね」
「ちょっと、なに言ってるのよ!」
今まで黙《だま》っていたみちるが、耐えられなくなったように叫んだ。
「なんであんたにそんな条件なんか……」
アオカガミはみちるに顔を向けた。裕生《ひろお》は慌てて彼女の腕を掴《つか》んだ。彼は一人でアオカガミと会わなかったことを後悔し始めていた。やはりこのカゲヌシは危険だと感じた。
「ぼくを利用してたんだな」
冷静に言ったつもりだったが、怒りでかすかに声が震《ふる》えていた。
「お前は『黒の彼方《かなた》』の力を殺《そ》ぎたかっただけだ。ぼくに『黒曜《こくよう》』を渡したのも、あの犬を殺すのが目的じゃない。あいつの力を弱めればそれで十分だったんだ」
ドッグヘッドに気をつけろ、というあの言葉も、裕生たちに犬の首を切り落とさせるつもりだったのだろう——それは途中まではうまく行ったことになる。
初めてアオカガミは困ったような顔をした。
このカゲヌシも『黒の彼方』となにも変わるところはない。自分たちの味方ではないのだ。
「ぼくは人間の味方なんかじゃない。当たり前じゃないか。人間の味方は人間だけなんだよ。味方、なんてことを真剣に考えるのも人間だけだけどね」
あっさりとアオカガミは認めた。裕生の胸にその言葉が深く突き刺さる。レインメイカーを呼び出せばなんとかなる、と考えていた自分の甘さが情けなかった。
「『同族食い』の首は、死ねばいずれ再生する。だから定期的に首を切り落として、力を殺がなきゃいけないんだ。龍子主《たつこぬし》はうまくやったけど、首を食べたせいで失敗しちゃった。まあ、アブサロムもそうだけど」
いたずらを自慢している子供のような口調《くちょう》に、裕生は吐き気がした。おそらく、あの獣人《じゅうじん》が「黒の彼方」の首を食ったのも、このアオカガミの差し金なのだろう。今の均衡《きんこう》が崩れた原因はこのカゲヌシにある。
そして、今度は自分たちを利用しようとしている。
「難《むずか》しかったら、アブサロムと『同族食い』を一緒《いっしょ》に殺しちゃってもいいよ。うん。両方いなくなれば、ちょっとはましかもしれないし」
「そんなのもっと難しいじゃない!」
と、みちるは叫んだ。
「西尾《にしお》、黙《だま》って!」
「こんなの聞くことないよ、藤牧《ふじまき》」
裕生は首を横に振った。どんなに難しいとしても、裕生たちはこれをやらなければならない理由がある。彼はアオカガミに向き直った。
「それがうまく行った場合は? 条件って言うからには、見返りもあるんだろう?」
カゲヌシは初めて声を出して笑った。聞いているのが怖くなるほど澄《す》んだ声だった。
「やっぱりお前は分かってるね。もしさっきの条件通りに勝ったら、お前が一番望んでることを叶《かな》えてあげる……この世界にまだ沢山《たくさん》いる、他《ほか》のカゲヌシを全部卵に戻すよ。卵に戻ったカゲヌシは、放っておけばこの世界からは消える。そうなれば、あの『同族食い』がこの世界に残ってる理由もなくなる。餌《えさ》がないんだから」
裕生《ひろお》は黙《だま》っていた。しかし、黙っていたとしても、既《すで》にその提案を受け入れたことは相手に伝わっている。
「そうそう、頑張《がんば》ってね」
満足げにアオカガミはうなずき、それからからかうように付け加えた。
「……ドッグヘッドには気をつけるんだよ」
そして、澄《す》んだ笑い声を上げながら、軽い足取りで建物の中へ入ろうとする。契約者の船瀬《ふなせ》も無言でその後に付いて行く。
「聞きたいことが三つある」
アオカガミの背中に裕生は話しかけた。ふわりとマントをなびかせながらカゲヌシが振り返る。一瞬《いっしゅん》、蛇《へび》のうろこに覆《おお》われた腕が肘《ひじ》まで見えた。
「カゲヌシを卵に戻すのは、遠く離《はな》れていても出来る?」
「もちろん。それに、もしぼくを呼びたくなったら、心の中でぼくに話しかければいい。お前の考えなら伝わるから」
裕生は正確《せいかく》に自分の考えが伝わっていることに苦笑した。
後の二つの質問は今の質問とは意味合いが違う。アオカガミの話の中で感じた単なる疑問だった。
「階位の外にいるカゲヌシは、どうやって卵に戻る?」
かすかにアオカガミがためらったのを裕生は見逃さなかった。アオカガミは裕生の気付きを打ち消すように打って変わってよどみなく答えた。
「それってぼくや『同族食い』のことだよね。ぼくたちには他《ほか》のカゲを管理しなきゃいけない役割がある。だから、他のカゲたちとは別の『真の名前』をそれぞれ与えられてる。それを自分で唱《とな》えれば、卵に戻れるよ」
沈黙《ちんもく》が流れた。尋《たず》ねたいことはもう一つ残っている。しかし、裕生はその答えを聞くのが怖かった。みちるが不審《ふしん》そうに自分を見ているのが分かった。
「自分が特別だというわけを知りたいんだね?」
質問を悟ったらしいアオカガミがからかうように言った。裕生はためらいがちにうなずいた。
「お前も『黒い島』に流れつく夢を見てるだろ。こことは別の世界にあるあの島は、すべてのカゲたちの故郷、『|闇の奥にいる者《ハート・オブ・ダークネス》』の住んでる土地だ。本人が憶《おぼ》えてない場合もあるけど、カゲと契約を結べる者は無意識《むいしき》のうちにあそこに行ったことのある者だけなんだ。あの夢を見れば、契約者としての資格を持てるんだよ」
やっぱり、と裕生は思った。今まで知り合ったカゲヌシの契約者の多くが、あの島の夢を見ていた。なにかカゲヌシに関係があるはずだとずっと思っていた。しかし、できるだけそれを考えないようにしてきた。なぜなら——。
「その通りだよ」
アオカガミが上機嫌《じょうきげん》で言った。裕生《ひろお》は耳を塞《ふさ》ぎたくなるのを必死にこらえる。今まで目を背《そむ》けてきた罰だと思った。何ヶ月も前から分かっていたことだった。
「雛咲《ひなさき》葉《よう》が契約者の資格をもらえたのは、お前の物語のおかげだよ」
不意に頭の中が真っ白になった。地面がぐらりと揺れて、裕生は思わず膝《ひざ》を突いた。早鐘《はやがね》のような心臓《しんぞう》の鼓動も、せわしない呼吸も、他人のもののようだった。
「お前の書いた話を何度も何度も読み直すうちに、その『黒い島』のイメージが彼女の心に焼き付いていった。それはあの『黒い島』への道を開くのに等しい。お前の物語を通じて、彼女はあの島へ行ったんだ。きっと一度や二度は夢に見ただろうね。それで彼女は契約者となって、カゲヌシに……」
「やめてよ!」
遠くからみちるの叫ぶ声が聞こえた。
「もういいでしょ!」
みちるの両腕がかばうように裕生の首に回された。
「どうして、ぼくのところにはカゲヌシが来なかったんだろう」
かすれた声で裕生はつぶやいた——葉のところにはカゲヌシが来たのに、という言葉を続けることが出来なかった。喉《のど》のあたりに固いものがねじ込まれているようだった。
「そんなの、お前に『ねがい』がなかったからに決まってるじゃないか。この数年、いつでも卵を呼ぶことが出来たのにね」
裕生はのろのろと顔を上げる。背をかがめたアオカガミが、裕生のすぐ鼻先で首をかしげていた。黒石のような二つの目が光っていた。
「ぼくはお前の味方じゃない。でも、ぼくはお前が好きだよ、藤牧《ふじまき》裕生」
と、いたわるようにカゲヌシは言った。
「闇《やみ》に魅入《みい》られる素質を持ちながら、お前はそれに気づくことはなかった。なんの力もないお前なのにね。きっと、その無欲と無力がお前の才能なんだ」
アオカガミは踵《きびす》を返すと、ドアを開けて建物の暗闇《くらやみ》の中へ消えていった。後には裕生とみちるだけが残されていた。
裕生は物言わずにドアの向こうの暗闇を凝視《ぎょうし》している。動かなければ、と思うのだが、体に力が入らなかった。
みちるがずっと自分に抱き付いていることに気づいたのはかなり経《た》ってからだった。みちる自身もそのことを意識《いしき》していない様子《ようす》だった。
「あの時、あのノートをあたしが病室から持って帰れば良かった」
風にまぎれそうなほどか細い声で、みちるはつぶやいた。
「そうすれば、あたしにカゲヌシが来てたのに」
「え……?」
ようやく我《われ》に返った裕生《ひろお》が聞き返そうとした時、彼の携帯《けいたい》が鳴った。
アオカガミは一旦《いったん》言葉を切る。裕生が理解しているかどうかを確認《かくにん》したらしい。
「そういう対策を講《こう》じても、カゲたちは問題を起こす。人間を見境《みさかい》なく殺して、この世界を滅ぼそうとしたりとかね。そこで『同族食い』を出現させて、カゲの間引きを行っている。勘違いをしているカゲもいるようだけど、『同族食い』が問題を引き起こすんじゃなくて、問題が起こったから『同族食い』が呼ばれるんだよ。それでも解決しない時は、カゲたちをみんな卵に返してしまう」
ふと、アオカガミは裕生の顔を意味ありげに覗《のぞ》き込んだ。
「カゲを人間から引き離《はな》すには方法は二つしかない。まず一つは『同族食い』がカゲを食べてしまうこと。あと一つは、ぼくが力を使うことだ……ぼくはカゲたちを元の卵に戻す力を持ってる」
裕生は胸を撫《な》で下ろした。やはり、以前聞いた通り、このカゲヌシはアブサロム・ドッグヘッドに対応する力を持っているのだ。
「お前がなにを言いたいのか分かるけど、安心しちゃ駄目《だめ》だよ」
と、アオカガミが言った。
「聞いていると思うけど、ぼくの力は階位の中にいるカゲにしか及ばないからね。もともと……」
「でも、それなら」
裕生が口を開きかけると、アオカガミの目がぎらっと光った。
「ぼくの話を遮《さえぎ》るな、藤牧《ふじまき》裕生」
うなるような低い声でカゲヌシは言った。裕生はなにも言えなくなった。
「もともと、カゲは名に縛《しば》られる。この世界にとどまるためには、人間と名と力の契約を結ぶけど、この世界に来るためにも彼らは契約を結ばなきゃならない」
誰《だれ》と別の契約を結ぶんだろう、と裕生は思った。相手は人間ではなさそうだった。
「契約を結ぶ相手は、すべてのカゲヌシの父である『|闇の奥にいる者《ハート・オブ・ダークネス》』だよ。この世界の人間には理解出来ない存在だけどね。彼との契約で与えられる名は、人間との契約で与えられる仮初《かりそめ》のものじゃない。隠された真の名なんだ……ぼくは『|闇の奥にいる者《ハート・オブ・ダークネス》』の一部で、その意思の一部を代表している」
裕生《ひろお》はなんとなく神や悪魔《あくま》のようなものを連想した。アオカガミはかすかに鼻を鳴らした。
「それぐらいの認識《にんしき》がお前の限界だろうけど、そう考えても別に問題ないよ。階位の中にいるカゲたちは真の名に縛《しば》られてる。その名を聞くと契約が発動して卵の形態に戻る……ぼくの能力は、この世界にいるカゲヌシたちに向けて、名前を聞かせることなんだ」
うまく理解は出来なかった。考えあぐねていると、それに答えるようにアオカガミは話を続けた。
「名で分からなければ、呪文《じゅもん》だと思えばいいんだよ。どうせ同じものなんだから。ぼくはぼくにしか唱《とな》えられない、階位の中のカゲヌシたちを卵に返す呪文を知っている。分かった?」
裕生は一応うなずく。自分がひどく頭の悪い人間のような気がした。
「でも、アブサロム・ドッグヘッドは『同族食い』の頭に支配されてる。変則的だけど、今は階位の中にいないんだ。だから、ぼくの力も及ばない」
「あ……」
体から力が抜けていった。アオカガミにもどうにもならないのだとしたら、やはり「黒の彼方《かなた》」をぶつけて倒させる以外に方法はない。しかし、まともにぶつかってあの黒犬がアブサロムに勝てるとも思えなかった。
「うん。お前たちはもう一回アブサロムと戦わなきゃならない。でも、ただ勝つだけじゃダメだよ。条件があるんだ」
アオカガミが先回りして言った。
「これ以上、『黒の彼方』に餌《えさ》を与えないようにして勝つこと。これは絶対守るんだよ」
一瞬《いっしゅん》、裕生の目の前が真っ暗になった。
「え……?」
「方法は問わない。お前がしなきゃいけないのは、あのアブサロム・ドッグヘッドをどうにかすること。殺すか、前みたいな普通のカゲヌシに戻すか……ただし、『同族食い』の力をこれ以上強くするようなことがあっちゃいけない。あいつに餌を与えない方法をなにか考えるんだ」
裕生は歯を食い縛《しば》った。ただ相手を殺すよりも、はるかに難《むずか》しい条件だった。
「ぼくが取り戻したいのは均衡《きんこう》なんだよ、藤牧《ふじまき》裕生。『黒の彼方』も、今のアブサロム・ドッグヘッドもぼくにとっては手に余るんだ。一方はカゲヌシを、もう一方は人間を殺しすぎる。『同族食い』がいなくなるのはまずいけど、かといってあいつがこれ以上強くなるのも困るからね」
「ちょっと、なに言ってるのよ!」
今まで黙《だま》っていたみちるが、耐えられなくなったように叫んだ。
「なんであんたにそんな条件なんか……」
アオカガミはみちるに顔を向けた。裕生《ひろお》は慌てて彼女の腕を掴《つか》んだ。彼は一人でアオカガミと会わなかったことを後悔し始めていた。やはりこのカゲヌシは危険だと感じた。
「ぼくを利用してたんだな」
冷静に言ったつもりだったが、怒りでかすかに声が震《ふる》えていた。
「お前は『黒の彼方《かなた》』の力を殺《そ》ぎたかっただけだ。ぼくに『黒曜《こくよう》』を渡したのも、あの犬を殺すのが目的じゃない。あいつの力を弱めればそれで十分だったんだ」
ドッグヘッドに気をつけろ、というあの言葉も、裕生たちに犬の首を切り落とさせるつもりだったのだろう——それは途中まではうまく行ったことになる。
初めてアオカガミは困ったような顔をした。
このカゲヌシも『黒の彼方』となにも変わるところはない。自分たちの味方ではないのだ。
「ぼくは人間の味方なんかじゃない。当たり前じゃないか。人間の味方は人間だけなんだよ。味方、なんてことを真剣に考えるのも人間だけだけどね」
あっさりとアオカガミは認めた。裕生の胸にその言葉が深く突き刺さる。レインメイカーを呼び出せばなんとかなる、と考えていた自分の甘さが情けなかった。
「『同族食い』の首は、死ねばいずれ再生する。だから定期的に首を切り落として、力を殺がなきゃいけないんだ。龍子主《たつこぬし》はうまくやったけど、首を食べたせいで失敗しちゃった。まあ、アブサロムもそうだけど」
いたずらを自慢している子供のような口調《くちょう》に、裕生は吐き気がした。おそらく、あの獣人《じゅうじん》が「黒の彼方」の首を食ったのも、このアオカガミの差し金なのだろう。今の均衡《きんこう》が崩れた原因はこのカゲヌシにある。
そして、今度は自分たちを利用しようとしている。
「難《むずか》しかったら、アブサロムと『同族食い』を一緒《いっしょ》に殺しちゃってもいいよ。うん。両方いなくなれば、ちょっとはましかもしれないし」
「そんなのもっと難しいじゃない!」
と、みちるは叫んだ。
「西尾《にしお》、黙《だま》って!」
「こんなの聞くことないよ、藤牧《ふじまき》」
裕生は首を横に振った。どんなに難しいとしても、裕生たちはこれをやらなければならない理由がある。彼はアオカガミに向き直った。
「それがうまく行った場合は? 条件って言うからには、見返りもあるんだろう?」
カゲヌシは初めて声を出して笑った。聞いているのが怖くなるほど澄《す》んだ声だった。
「やっぱりお前は分かってるね。もしさっきの条件通りに勝ったら、お前が一番望んでることを叶《かな》えてあげる……この世界にまだ沢山《たくさん》いる、他《ほか》のカゲヌシを全部卵に戻すよ。卵に戻ったカゲヌシは、放っておけばこの世界からは消える。そうなれば、あの『同族食い』がこの世界に残ってる理由もなくなる。餌《えさ》がないんだから」
裕生《ひろお》は黙《だま》っていた。しかし、黙っていたとしても、既《すで》にその提案を受け入れたことは相手に伝わっている。
「そうそう、頑張《がんば》ってね」
満足げにアオカガミはうなずき、それからからかうように付け加えた。
「……ドッグヘッドには気をつけるんだよ」
そして、澄《す》んだ笑い声を上げながら、軽い足取りで建物の中へ入ろうとする。契約者の船瀬《ふなせ》も無言でその後に付いて行く。
「聞きたいことが三つある」
アオカガミの背中に裕生は話しかけた。ふわりとマントをなびかせながらカゲヌシが振り返る。一瞬《いっしゅん》、蛇《へび》のうろこに覆《おお》われた腕が肘《ひじ》まで見えた。
「カゲヌシを卵に戻すのは、遠く離《はな》れていても出来る?」
「もちろん。それに、もしぼくを呼びたくなったら、心の中でぼくに話しかければいい。お前の考えなら伝わるから」
裕生は正確《せいかく》に自分の考えが伝わっていることに苦笑した。
後の二つの質問は今の質問とは意味合いが違う。アオカガミの話の中で感じた単なる疑問だった。
「階位の外にいるカゲヌシは、どうやって卵に戻る?」
かすかにアオカガミがためらったのを裕生は見逃さなかった。アオカガミは裕生の気付きを打ち消すように打って変わってよどみなく答えた。
「それってぼくや『同族食い』のことだよね。ぼくたちには他《ほか》のカゲを管理しなきゃいけない役割がある。だから、他のカゲたちとは別の『真の名前』をそれぞれ与えられてる。それを自分で唱《とな》えれば、卵に戻れるよ」
沈黙《ちんもく》が流れた。尋《たず》ねたいことはもう一つ残っている。しかし、裕生はその答えを聞くのが怖かった。みちるが不審《ふしん》そうに自分を見ているのが分かった。
「自分が特別だというわけを知りたいんだね?」
質問を悟ったらしいアオカガミがからかうように言った。裕生はためらいがちにうなずいた。
「お前も『黒い島』に流れつく夢を見てるだろ。こことは別の世界にあるあの島は、すべてのカゲたちの故郷、『|闇の奥にいる者《ハート・オブ・ダークネス》』の住んでる土地だ。本人が憶《おぼ》えてない場合もあるけど、カゲと契約を結べる者は無意識《むいしき》のうちにあそこに行ったことのある者だけなんだ。あの夢を見れば、契約者としての資格を持てるんだよ」
やっぱり、と裕生は思った。今まで知り合ったカゲヌシの契約者の多くが、あの島の夢を見ていた。なにかカゲヌシに関係があるはずだとずっと思っていた。しかし、できるだけそれを考えないようにしてきた。なぜなら——。
「その通りだよ」
アオカガミが上機嫌《じょうきげん》で言った。裕生《ひろお》は耳を塞《ふさ》ぎたくなるのを必死にこらえる。今まで目を背《そむ》けてきた罰だと思った。何ヶ月も前から分かっていたことだった。
「雛咲《ひなさき》葉《よう》が契約者の資格をもらえたのは、お前の物語のおかげだよ」
不意に頭の中が真っ白になった。地面がぐらりと揺れて、裕生は思わず膝《ひざ》を突いた。早鐘《はやがね》のような心臓《しんぞう》の鼓動も、せわしない呼吸も、他人のもののようだった。
「お前の書いた話を何度も何度も読み直すうちに、その『黒い島』のイメージが彼女の心に焼き付いていった。それはあの『黒い島』への道を開くのに等しい。お前の物語を通じて、彼女はあの島へ行ったんだ。きっと一度や二度は夢に見ただろうね。それで彼女は契約者となって、カゲヌシに……」
「やめてよ!」
遠くからみちるの叫ぶ声が聞こえた。
「もういいでしょ!」
みちるの両腕がかばうように裕生の首に回された。
「どうして、ぼくのところにはカゲヌシが来なかったんだろう」
かすれた声で裕生はつぶやいた——葉のところにはカゲヌシが来たのに、という言葉を続けることが出来なかった。喉《のど》のあたりに固いものがねじ込まれているようだった。
「そんなの、お前に『ねがい』がなかったからに決まってるじゃないか。この数年、いつでも卵を呼ぶことが出来たのにね」
裕生はのろのろと顔を上げる。背をかがめたアオカガミが、裕生のすぐ鼻先で首をかしげていた。黒石のような二つの目が光っていた。
「ぼくはお前の味方じゃない。でも、ぼくはお前が好きだよ、藤牧《ふじまき》裕生」
と、いたわるようにカゲヌシは言った。
「闇《やみ》に魅入《みい》られる素質を持ちながら、お前はそれに気づくことはなかった。なんの力もないお前なのにね。きっと、その無欲と無力がお前の才能なんだ」
アオカガミは踵《きびす》を返すと、ドアを開けて建物の暗闇《くらやみ》の中へ消えていった。後には裕生とみちるだけが残されていた。
裕生は物言わずにドアの向こうの暗闇を凝視《ぎょうし》している。動かなければ、と思うのだが、体に力が入らなかった。
みちるがずっと自分に抱き付いていることに気づいたのはかなり経《た》ってからだった。みちる自身もそのことを意識《いしき》していない様子《ようす》だった。
「あの時、あのノートをあたしが病室から持って帰れば良かった」
風にまぎれそうなほどか細い声で、みちるはつぶやいた。
「そうすれば、あたしにカゲヌシが来てたのに」
「え……?」
ようやく我《われ》に返った裕生《ひろお》が聞き返そうとした時、彼の携帯《けいたい》が鳴った。