蔵前《くらまえ》は校庭の真ん中でうつむき加減に立っている。
アブサロムの五感を通じて、彼の脳には戦いの様子《ようす》が逐一《ちくいち》報告されていた。「黒の彼方」と雛咲葉、そして一人の大男がアブサロムに背を向けて走って行くところだった。大男にはどこかで見覚えがあったが、誰《だれ》なのかは分からなかった。
(藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》がいない)
一瞬、蔵前はうろたえたが、葉のいる場所に裕生のいないはずがないと思い直した。一時的にこの場を離《はな》れているとしても、すぐに戻ってくるはずだ。
(その前にあの黒犬を完全につぶすべきだな)
今の「黒の彼方」は満身創痍《まんしんそうい》で、「眠り首」の能力も封じられている。
蔵前《くらまえ》の命令で、アブサロムの白い首がゆっくりと目を開け始めた。一条の黒い光が、廊下の真ん中を走っている葉《よう》の背中を捕らえようとする——が、次の瞬間《しゅんかん》、彼女はさっと窓際《まどきわ》に飛びのいてその「光」を避けた。
(無駄《むだ》だ)
アブサロムの目が大きく開かれるにつれて、黒い光の領域は大きくなっていく。大男が驚愕《きょうがく》の表情でアブサロムを振り返った。
(廊下ごとつぶしてやろう)
この黒い影《かげ》が廊下全体を満たせば、呑《の》み込まれた連中も一緒《いっしょ》につぶれる。
アブサロムは「黒い目」を全開にした。しかし、いつの間にか廊下の途中にあった鉄の扉《とびら》が閉ざされ、葉たちへの視線《しせん》が遮《さえぎ》られていた。大男が防火扉を動かしたらしい。
蔵前は舌打ちをする。黒い光を浴びた鉄製の扉は、まるで紙を丸めるようにぐしゃりとつぶれ、巨大な丸い鉄塊《てっかい》となって転がった。廊下の奥まで再び見通せるようになったが、「黒の彼方《かなた》」は既《すで》にそこにいなかった。
アブサロム・ドッグヘッドは追跡を始めようとして、ふと視界の端で動くものに気づいた。廊下の窓の向こうに、別の校舎へ通じているコンクリート製の渡り廊下が見える。葉と「黒の彼方」がそこを走っているところだった。
「……愚かな」
と、蔵前はぽつりとつぶやいた。再びアブサロムの「眠り首」が目を開ける。すぐ目の前のガラスが砕《くだ》け、そのはるか向こうにある渡り廊下が夜よりも黒い影に呑み込まれた。
たちまち外壁《がいへき》に太い亀裂《きれつ》が走った。渡り廊下の窓ガラスはすべて同時に砕け散り、影に呑み込まれた部分がまるで切り離《はな》されるように乾いた音を立ててずれていく。コンクリートの中を通っていた鉄骨がむき出しになり、めきめきと音を立てて軋《きし》んだ。
「黒の彼方」と契約者は廊下の真ん中あたりで立ち止まっているようだった。
次の瞬間、渡り廊下は両端にわずかな余白を残して圧壊《あっかい》し、地響《じひび》きとともに地面に落下した。
蔵前の口元がぴくりと震《ふる》えた。まだ気配《けはい》を発しているところを見ると、「黒の彼方」も葉も死んではいないらしい。間髪入《かんぱつい》れずにアブサロムを向かわせようとした瞬間、彼ははっと息を呑んだ。
(あの大男はどうした?)
渡り廊下にあのバットを持った男の姿はなかったような気がする。
不意にとんとん、と肩を叩《たた》かれた。振り向くと蔵前のすぐ隣《となり》に、肩で息をしている大男が立っていた。
蔵前は一瞬のうちに悟った。この男だけ別行動を取り、契約者である自分を襲《おそ》いに来たのだ。「黒の彼方」たちは、アブサロム・ドッグヘッドを引き付けるためのただの囮《おとり》にすぎない。
「よそ見してんじゃねーぞ、ボケが」
男の拳《こぶし》が飛んでくる。頬《ほお》に重い衝撃《しょうげき》を受けて蔵前《くらまえ》は吹き飛んだ。
アブサロムの五感を通じて、彼の脳には戦いの様子《ようす》が逐一《ちくいち》報告されていた。「黒の彼方」と雛咲葉、そして一人の大男がアブサロムに背を向けて走って行くところだった。大男にはどこかで見覚えがあったが、誰《だれ》なのかは分からなかった。
(藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》がいない)
一瞬、蔵前はうろたえたが、葉のいる場所に裕生のいないはずがないと思い直した。一時的にこの場を離《はな》れているとしても、すぐに戻ってくるはずだ。
(その前にあの黒犬を完全につぶすべきだな)
今の「黒の彼方」は満身創痍《まんしんそうい》で、「眠り首」の能力も封じられている。
蔵前《くらまえ》の命令で、アブサロムの白い首がゆっくりと目を開け始めた。一条の黒い光が、廊下の真ん中を走っている葉《よう》の背中を捕らえようとする——が、次の瞬間《しゅんかん》、彼女はさっと窓際《まどきわ》に飛びのいてその「光」を避けた。
(無駄《むだ》だ)
アブサロムの目が大きく開かれるにつれて、黒い光の領域は大きくなっていく。大男が驚愕《きょうがく》の表情でアブサロムを振り返った。
(廊下ごとつぶしてやろう)
この黒い影《かげ》が廊下全体を満たせば、呑《の》み込まれた連中も一緒《いっしょ》につぶれる。
アブサロムは「黒い目」を全開にした。しかし、いつの間にか廊下の途中にあった鉄の扉《とびら》が閉ざされ、葉たちへの視線《しせん》が遮《さえぎ》られていた。大男が防火扉を動かしたらしい。
蔵前は舌打ちをする。黒い光を浴びた鉄製の扉は、まるで紙を丸めるようにぐしゃりとつぶれ、巨大な丸い鉄塊《てっかい》となって転がった。廊下の奥まで再び見通せるようになったが、「黒の彼方《かなた》」は既《すで》にそこにいなかった。
アブサロム・ドッグヘッドは追跡を始めようとして、ふと視界の端で動くものに気づいた。廊下の窓の向こうに、別の校舎へ通じているコンクリート製の渡り廊下が見える。葉と「黒の彼方」がそこを走っているところだった。
「……愚かな」
と、蔵前はぽつりとつぶやいた。再びアブサロムの「眠り首」が目を開ける。すぐ目の前のガラスが砕《くだ》け、そのはるか向こうにある渡り廊下が夜よりも黒い影に呑み込まれた。
たちまち外壁《がいへき》に太い亀裂《きれつ》が走った。渡り廊下の窓ガラスはすべて同時に砕け散り、影に呑み込まれた部分がまるで切り離《はな》されるように乾いた音を立ててずれていく。コンクリートの中を通っていた鉄骨がむき出しになり、めきめきと音を立てて軋《きし》んだ。
「黒の彼方」と契約者は廊下の真ん中あたりで立ち止まっているようだった。
次の瞬間、渡り廊下は両端にわずかな余白を残して圧壊《あっかい》し、地響《じひび》きとともに地面に落下した。
蔵前の口元がぴくりと震《ふる》えた。まだ気配《けはい》を発しているところを見ると、「黒の彼方」も葉も死んではいないらしい。間髪入《かんぱつい》れずにアブサロムを向かわせようとした瞬間、彼ははっと息を呑んだ。
(あの大男はどうした?)
渡り廊下にあのバットを持った男の姿はなかったような気がする。
不意にとんとん、と肩を叩《たた》かれた。振り向くと蔵前のすぐ隣《となり》に、肩で息をしている大男が立っていた。
蔵前は一瞬のうちに悟った。この男だけ別行動を取り、契約者である自分を襲《おそ》いに来たのだ。「黒の彼方」たちは、アブサロム・ドッグヘッドを引き付けるためのただの囮《おとり》にすぎない。
「よそ見してんじゃねーぞ、ボケが」
男の拳《こぶし》が飛んでくる。頬《ほお》に重い衝撃《しょうげき》を受けて蔵前《くらまえ》は吹き飛んだ。
血染めの白いコートの男が地面に転がった。しかし、すぐさま手をついて起き上がろうとする。雄一《ゆういち》はすかさず靴のかかとで蔵前の膝頭《ひざがしら》を力いっぱい踏み付けた。ごりっという嫌《いや》な感触とともに、一瞬《いっしゅん》だけ膝が反対側に曲がりかける。蔵前の口から低い悲鳴がこぼれた。おそらく骨は折れていないが、しばらくは立ち上がれないはずだ。
もう一発殴りつけようとして、雄一はふと足を止めた。
「くっ……」
めまいを感じてその場にうずくまりそうになった。さっきから走り通しだったせいか、折れた肋骨《ろっこつ》がこすれて激痛《げきつう》を発している。蔵前から一歩|離《はな》れて、雄一は呼吸を整《ととの》えようと努めた。
「……どうして殺さなかった?」
震《ふる》える声で蔵前は言った。彼は座ったまま自分の膝を両手で押さえている。
「君はぼくを殺しに来たんだろう? そのバットで殴ればよかったじゃないか」
雄一もそのつもりだった。この男を殺さなければ勝機《しょうき》がないことも分かっている。しかし、最後の最後で躊躇《ちゅうちょ》してしまったのは理由があった。
「俺《おれ》は丸腰の人間をエモノで殴るシュミはねえ……そんな卑怯《ひきょう》なマネは出来ねーんだよ」
雄一はバットを遠くへ放り投げて、自分も素手になった。これで対等だ、と思った。
「君は誰《だれ》だ?」
蔵前は無事な両手と左足を使って、雄一から離れようと後ずさりを始める。
「俺ァ藤牧《ふじまき》雄一。裕生《ひろお》の兄貴《あにき》だ」
相手はぴたりと動きを止めて、なにか珍しい生き物でも見るような目をした。そして、口を大きく開けて笑い声を上げた。
「兄弟|揃《そろ》って考え方が甘いみたいだね。君も人を殺せない口か?」
「いや、俺はお前を殺す」
きっぱりと雄一は言いきった。蔵前の表情がかすかに動いた。
「お前は大勢の人間を殺してきた。生かしておいちゃ世の中のためになんねえ。でも、武器は使わねえ……素手で殺す」
それは雄一なりの手向《たむ》けのようなものだった。自分の両手には死の瞬間の感触がいつまでも残るだろうし、そうでなければならない。なんらかの罪を背負うことは覚悟している。その行為が他人の役に立つなら、致し方のないことだった。
「首、絞めんぞ……それで死ね」
そう言って、蔵前の方へ歩き出そうとする——しかし、すぐに足を止めた。
蔵前は座ったまま拳銃《けんじゅう》を構えていた。
もう一発殴りつけようとして、雄一はふと足を止めた。
「くっ……」
めまいを感じてその場にうずくまりそうになった。さっきから走り通しだったせいか、折れた肋骨《ろっこつ》がこすれて激痛《げきつう》を発している。蔵前から一歩|離《はな》れて、雄一は呼吸を整《ととの》えようと努めた。
「……どうして殺さなかった?」
震《ふる》える声で蔵前は言った。彼は座ったまま自分の膝を両手で押さえている。
「君はぼくを殺しに来たんだろう? そのバットで殴ればよかったじゃないか」
雄一もそのつもりだった。この男を殺さなければ勝機《しょうき》がないことも分かっている。しかし、最後の最後で躊躇《ちゅうちょ》してしまったのは理由があった。
「俺《おれ》は丸腰の人間をエモノで殴るシュミはねえ……そんな卑怯《ひきょう》なマネは出来ねーんだよ」
雄一はバットを遠くへ放り投げて、自分も素手になった。これで対等だ、と思った。
「君は誰《だれ》だ?」
蔵前は無事な両手と左足を使って、雄一から離れようと後ずさりを始める。
「俺ァ藤牧《ふじまき》雄一。裕生《ひろお》の兄貴《あにき》だ」
相手はぴたりと動きを止めて、なにか珍しい生き物でも見るような目をした。そして、口を大きく開けて笑い声を上げた。
「兄弟|揃《そろ》って考え方が甘いみたいだね。君も人を殺せない口か?」
「いや、俺はお前を殺す」
きっぱりと雄一は言いきった。蔵前の表情がかすかに動いた。
「お前は大勢の人間を殺してきた。生かしておいちゃ世の中のためになんねえ。でも、武器は使わねえ……素手で殺す」
それは雄一なりの手向《たむ》けのようなものだった。自分の両手には死の瞬間の感触がいつまでも残るだろうし、そうでなければならない。なんらかの罪を背負うことは覚悟している。その行為が他人の役に立つなら、致し方のないことだった。
「首、絞めんぞ……それで死ね」
そう言って、蔵前の方へ歩き出そうとする——しかし、すぐに足を止めた。
蔵前は座ったまま拳銃《けんじゅう》を構えていた。
「なんだ、そりゃ」
唖然《あぜん》とした声で雄一《ゆういち》は言った。
「ぼくがなんの護身用《ごしんよう》の手段も持たずに、アブサロムを自分から離《はな》れた場所にやると思うのか?」
拳銃《けんじゅう》は天内《あまうち》茜《あかね》が北海道《ほっかいどう》の教会へ持ってきたものだった。意外なところで役に立ってくれたと蔵前《くらまえ》は思った。もうアブサロムをここへ呼び戻して、蔵前を守らせる必要はなさそうだ。
今、アブサロムは渡り廊下の落ちた場所に行き、「黒の彼方《かなた》」の居場所を探っているところだ。向こうの戦いももう少しで決着が付きそうだった。
「動けば撃《う》つ」
と、蔵前は言った。今すぐ殺したかったが、裕生《ひろお》たちを最初に殺すと決めている。だとしたら、このまま銃口を突き付けて人質に使うのが一番いい——。
蔵前ははっとした。雄一が一歩ずつ近づいてきていた。両腕で顔だけをしっかりと隠し、顎《あご》を引いている。ガードを固めているボクサーのようだった。
「……ぼくが撃つのをためらう人間に見えるのか?」
「撃ってみろ」
と、雄一はくぐもった声で言った。
「お前みたいなクズ野郎のタマじゃ俺《おれ》ァ絶対死なねえ」
蔵前はため息をつく——どうやら、こちらの言葉を本気では受け取っていないらしい。彼はためらいもなく二発撃った。
「ウッ」
雄一は体を震《ふる》わせてうめき声を上げる。一発は太腿《ふともも》に、もう一発は右胸に当たった。即死かどうかはともかく、もう動けないはずだった。
しかし、彼は倒れることなく、足を引きずりながらじりじりと進んできた。
(……あっ)
蔵前は愕然《がくぜん》とした。雄一の着ているシャツの前面が、アブサロムの能力で金属に変えられている。衝撃《しょうげき》は与えているようだが、この口径の小さな拳銃では撃《う》ち抜くことが出来なかった。
さらにもう一発蔵前は撃った。今度は頭を狙《ねら》ったが、その前で組まれている腕に命中しただけだった。緊張《きんちょう》した筋肉と骨にぶつかったせいか、貫通《かんつう》していない。
「……あきらめろ」
地の底から聞こえるような低い声で雄一は言った。相当の痛みがあるらしく、歯を食い縛《しば》っている。まるで死神に話しかけられているようだと思った。さらにもう一発撃とうとしたが、手が小刻みに震えて狙《ねら》いをつけられなかった。
背筋に冷たい汗が流れた。今まで無数の人間を屠《ほふ》ってきたが、生身の人間に生命を脅《おびや》かされたことはなかった。二十四年にわたる人生の中で、初めて味わう感覚に彼は戸惑《とまど》った。
「……殺される側の気持ちが分かったか?」
蔵前《くらまえ》はようやく気づいた。これが死の恐怖、というものなのかもしれない。
「じゃ、今度は俺《おれ》がお前の気持ちを分かってやる……殺す側の気持ちをよ」
蔵前の口の中がからからに乾いた。今すぐアブサロムを呼び戻さなければならない、と彼は思った。もう間に合わないかもしれないが——。
「雄一《ゆういち》さん!」
突然、女の叫び声が校庭に響《ひび》き渡った。
唖然《あぜん》とした声で雄一《ゆういち》は言った。
「ぼくがなんの護身用《ごしんよう》の手段も持たずに、アブサロムを自分から離《はな》れた場所にやると思うのか?」
拳銃《けんじゅう》は天内《あまうち》茜《あかね》が北海道《ほっかいどう》の教会へ持ってきたものだった。意外なところで役に立ってくれたと蔵前《くらまえ》は思った。もうアブサロムをここへ呼び戻して、蔵前を守らせる必要はなさそうだ。
今、アブサロムは渡り廊下の落ちた場所に行き、「黒の彼方《かなた》」の居場所を探っているところだ。向こうの戦いももう少しで決着が付きそうだった。
「動けば撃《う》つ」
と、蔵前は言った。今すぐ殺したかったが、裕生《ひろお》たちを最初に殺すと決めている。だとしたら、このまま銃口を突き付けて人質に使うのが一番いい——。
蔵前ははっとした。雄一が一歩ずつ近づいてきていた。両腕で顔だけをしっかりと隠し、顎《あご》を引いている。ガードを固めているボクサーのようだった。
「……ぼくが撃つのをためらう人間に見えるのか?」
「撃ってみろ」
と、雄一はくぐもった声で言った。
「お前みたいなクズ野郎のタマじゃ俺《おれ》ァ絶対死なねえ」
蔵前はため息をつく——どうやら、こちらの言葉を本気では受け取っていないらしい。彼はためらいもなく二発撃った。
「ウッ」
雄一は体を震《ふる》わせてうめき声を上げる。一発は太腿《ふともも》に、もう一発は右胸に当たった。即死かどうかはともかく、もう動けないはずだった。
しかし、彼は倒れることなく、足を引きずりながらじりじりと進んできた。
(……あっ)
蔵前は愕然《がくぜん》とした。雄一の着ているシャツの前面が、アブサロムの能力で金属に変えられている。衝撃《しょうげき》は与えているようだが、この口径の小さな拳銃では撃《う》ち抜くことが出来なかった。
さらにもう一発蔵前は撃った。今度は頭を狙《ねら》ったが、その前で組まれている腕に命中しただけだった。緊張《きんちょう》した筋肉と骨にぶつかったせいか、貫通《かんつう》していない。
「……あきらめろ」
地の底から聞こえるような低い声で雄一は言った。相当の痛みがあるらしく、歯を食い縛《しば》っている。まるで死神に話しかけられているようだと思った。さらにもう一発撃とうとしたが、手が小刻みに震えて狙《ねら》いをつけられなかった。
背筋に冷たい汗が流れた。今まで無数の人間を屠《ほふ》ってきたが、生身の人間に生命を脅《おびや》かされたことはなかった。二十四年にわたる人生の中で、初めて味わう感覚に彼は戸惑《とまど》った。
「……殺される側の気持ちが分かったか?」
蔵前《くらまえ》はようやく気づいた。これが死の恐怖、というものなのかもしれない。
「じゃ、今度は俺《おれ》がお前の気持ちを分かってやる……殺す側の気持ちをよ」
蔵前の口の中がからからに乾いた。今すぐアブサロムを呼び戻さなければならない、と彼は思った。もう間に合わないかもしれないが——。
「雄一《ゆういち》さん!」
突然、女の叫び声が校庭に響《ひび》き渡った。
雄一はびくっと体を震《ふる》わせた。
校門の方を見ると、緑色《みどりいろ》のコートを着た髪《かみ》の長い女が走ってくるところだった。
西尾《にしお》夕紀《ゆき》だった。
「来んな! 戻れ!」
雄一は叫んだが、彼女は走るのをやめなかった。血まみれで向かい合っている自分と蔵前を見て、取り乱しているに違いない。しかし、この戦いには彼女を巻き込みたくなかった。
「来んな! 馬鹿《ばか》!」
もう一度叫んだ時は、もう雄一まで数メートルのところに迫っていた。
「なにをして……」
夕紀が息を弾ませながらそう言いかけた時、銃声が鳴った。思わず雄一は目を閉じたが、体のどこにも新しい銃創《じゅうそう》は増えなかった。
夕紀の方から物音が聞こえた。
横を向くと、彼女が地面に倒れている。肩を押さえた指と指の間から、鮮血《せんけつ》が溢《あふ》れ出ていた。
「な……」
雄一は棒のように立ち尽くした。彼女が現れる前、自分がなにを決意し、なにをしようとしていたのか、すべてが頭から吹き飛んだ。最愛の恋人が傷ついたという現実が彼をパニックに陥《おとしい》れていた。
「……やっぱり、君の彼女か」
と、目の前の男が言った。ほんのわずかな時間、雄一はこの男がなにものであるのかを思い出せなかった。そして、唐突《とうとつ》に今まで想像したこともない凶暴《きょうぼう》な怒りが体の中心から湧《わ》き上がってきた。雄一は完全に逆上していた。
この男はカゲヌシに取《と》り憑《つ》かれた殺人鬼であり、自分の恋人が撃《う》たれた——我《われ》を忘れて蔵前の方へ足を踏み出そうとした途端《とたん》、夕紀がうめき声を上げた。
(生きてる)
雄一はこの上なく混乱し、動揺していた。自分がなにをしたらよいか分からなくなっていた。目の前のこの男を倒すべきなのか、それとも傷ついた恋人のところへ駆け寄るべきなのか。
ふと、夕紀《ゆき》が苦しげな表情で雄一《ゆういち》を見上げた。かすかに唇が動いている。自分の名を呼んでいる気がした。もうなにも考えられなくなった。
「夕紀……」
雄一は彼女へ駆け寄ろうと向きを変えた。その瞬間《しゅんかん》、脇腹《わきばら》から背中にかけて、熱《あつ》いものが貫《つらぬ》いた。ぬるりと生温かいもので濡《ぬ》れた腹を押さえながら、雄一は前のめりに倒れていった。
校門の方を見ると、緑色《みどりいろ》のコートを着た髪《かみ》の長い女が走ってくるところだった。
西尾《にしお》夕紀《ゆき》だった。
「来んな! 戻れ!」
雄一は叫んだが、彼女は走るのをやめなかった。血まみれで向かい合っている自分と蔵前を見て、取り乱しているに違いない。しかし、この戦いには彼女を巻き込みたくなかった。
「来んな! 馬鹿《ばか》!」
もう一度叫んだ時は、もう雄一まで数メートルのところに迫っていた。
「なにをして……」
夕紀が息を弾ませながらそう言いかけた時、銃声が鳴った。思わず雄一は目を閉じたが、体のどこにも新しい銃創《じゅうそう》は増えなかった。
夕紀の方から物音が聞こえた。
横を向くと、彼女が地面に倒れている。肩を押さえた指と指の間から、鮮血《せんけつ》が溢《あふ》れ出ていた。
「な……」
雄一は棒のように立ち尽くした。彼女が現れる前、自分がなにを決意し、なにをしようとしていたのか、すべてが頭から吹き飛んだ。最愛の恋人が傷ついたという現実が彼をパニックに陥《おとしい》れていた。
「……やっぱり、君の彼女か」
と、目の前の男が言った。ほんのわずかな時間、雄一はこの男がなにものであるのかを思い出せなかった。そして、唐突《とうとつ》に今まで想像したこともない凶暴《きょうぼう》な怒りが体の中心から湧《わ》き上がってきた。雄一は完全に逆上していた。
この男はカゲヌシに取《と》り憑《つ》かれた殺人鬼であり、自分の恋人が撃《う》たれた——我《われ》を忘れて蔵前の方へ足を踏み出そうとした途端《とたん》、夕紀がうめき声を上げた。
(生きてる)
雄一はこの上なく混乱し、動揺していた。自分がなにをしたらよいか分からなくなっていた。目の前のこの男を倒すべきなのか、それとも傷ついた恋人のところへ駆け寄るべきなのか。
ふと、夕紀《ゆき》が苦しげな表情で雄一《ゆういち》を見上げた。かすかに唇が動いている。自分の名を呼んでいる気がした。もうなにも考えられなくなった。
「夕紀……」
雄一は彼女へ駆け寄ろうと向きを変えた。その瞬間《しゅんかん》、脇腹《わきばら》から背中にかけて、熱《あつ》いものが貫《つらぬ》いた。ぬるりと生温かいもので濡《ぬ》れた腹を押さえながら、雄一は前のめりに倒れていった。