遠くから、ぱん、と奇妙な破裂音が聞こえた。先ほどから同じ音が何度か聞こえている。
「気になってたんだけど、あの音なんだと思う?」
と、みちるが言った。
「銃声かもしれない」
と、裕生《ひろお》は答えた。一ヶ月前の事件の時にも、何度か銃声を耳にしている。その時の音とよく似ていた。
「……でも、誰《だれ》が」
「分からない。とにかく急ごう」
二人は加賀見《かがみ》高校に向かって夜の道を走り続けていた。雄一から蔵前《くらまえ》が現れたという連絡を受けてから、十分ほど過ぎている。裕生《ひろお》の怪我《けが》のために何度か歩調《ほちょう》を緩《ゆる》めなければならなかったが、次の角を曲がれば校舎が見えるはずだった。
<img src="img/dog head_239.jpg">
(兄さん、無茶《むちゃ》してなきゃいいけど)
一応注意はしたのだが、生返事しかかえってこなかった。ああいう時の雄一《ゆういち》は大抵なにかとんでもないことを考えている。心配で仕方がなかった。
その時、裕生の携帯《けいたい》が鳴った。画面を見ると、かかってきたのは雄一の番号からだった。
「兄さん、今大丈……」
『違います』
葉《よう》の声だった。
「え、葉? どうしたの?」
『雛咲《ひなさき》葉でもありません』
あざ笑うような口調《くちょう》に、裕生の全身がこわばった。今、話している相手は葉ではない。「黒の彼方《かなた》」だった。
「なんの用だ?」
『学校の正門に向かわずに、体育館《たいいくかん》の裏の方へ回って下さい』
「……どうして」
『正門へ行くと、校庭にいる蔵前《くらまえ》に見られてしまいます。体育館の裏から学校の敷地《しきち》に入って下さい。そこでわたしと落ち合いましょう』
「体育館の裏?」
思わず裕生は聞き返した。体育館の裏はおそろしく高いフェンスになっている。遅刻しそうな生徒があまりにも頻繁《ひんぱん》に出入りするので、去年設置されたのだ。
「あんなところからどうやって……」
その時にはすでに電話は切れていた。
「気になってたんだけど、あの音なんだと思う?」
と、みちるが言った。
「銃声かもしれない」
と、裕生《ひろお》は答えた。一ヶ月前の事件の時にも、何度か銃声を耳にしている。その時の音とよく似ていた。
「……でも、誰《だれ》が」
「分からない。とにかく急ごう」
二人は加賀見《かがみ》高校に向かって夜の道を走り続けていた。雄一から蔵前《くらまえ》が現れたという連絡を受けてから、十分ほど過ぎている。裕生《ひろお》の怪我《けが》のために何度か歩調《ほちょう》を緩《ゆる》めなければならなかったが、次の角を曲がれば校舎が見えるはずだった。
<img src="img/dog head_239.jpg">
(兄さん、無茶《むちゃ》してなきゃいいけど)
一応注意はしたのだが、生返事しかかえってこなかった。ああいう時の雄一《ゆういち》は大抵なにかとんでもないことを考えている。心配で仕方がなかった。
その時、裕生の携帯《けいたい》が鳴った。画面を見ると、かかってきたのは雄一の番号からだった。
「兄さん、今大丈……」
『違います』
葉《よう》の声だった。
「え、葉? どうしたの?」
『雛咲《ひなさき》葉でもありません』
あざ笑うような口調《くちょう》に、裕生の全身がこわばった。今、話している相手は葉ではない。「黒の彼方《かなた》」だった。
「なんの用だ?」
『学校の正門に向かわずに、体育館《たいいくかん》の裏の方へ回って下さい』
「……どうして」
『正門へ行くと、校庭にいる蔵前《くらまえ》に見られてしまいます。体育館の裏から学校の敷地《しきち》に入って下さい。そこでわたしと落ち合いましょう』
「体育館の裏?」
思わず裕生は聞き返した。体育館の裏はおそろしく高いフェンスになっている。遅刻しそうな生徒があまりにも頻繁《ひんぱん》に出入りするので、去年設置されたのだ。
「あんなところからどうやって……」
その時にはすでに電話は切れていた。
角を曲がった裕生とみちるは一瞬《いっしゅん》立ち止まりそうになった。学校の敷地に沿った道路から、何十人もの人々が校舎の方を不安げに見つめていた。パジャマやガウン姿の人がかなり混じっているところを見ると、このあたりの住民らしい。
彼らと同じように校舎を見上げた裕生たちは、見慣《みな》れた校舎の形が変わってしまっていることに気づいた。
「……渡り廊下がなくなってる」
と、みちるが小声で言った。間違いなくアブサロム・ドッグヘッドの仕業《しわざ》だろう。がしゃん、とどこかで破壊音《はかいおん》が響《ひび》いた。戦いは既《すで》に始まっているのだ。
裕生とみちるは敷地の角のあたりにいる。まっすぐに行けば校門だが、左に折れると体育館がある。裕生たちは左手の方へ小走りに進んだ。フェンスの向こうにプールと旧校舎が見える。体育館はその先だった。
「黒の彼方《かなた》」が体育館裏へ来いと言った理由はすぐに分かった。指示通りの場所へ到着すると、スチールパイプ製のフェンスは針金のようにぐにゃぐにゃに折れ曲がり、互いに絡《から》み合っていた。あのカゲヌシがここでも能力を使ったに違いない。
「ようやく来ましたね」
破壊《はかい》されたフェンスの向こうに、葉《よう》——「黒の彼方」が立っていた。周囲には他《ほか》に誰《だれ》の姿も見えなかった。
「時間がない。早く入って下さい」
と、「黒の彼方」は言った。
「兄さんやお前の『本体』はどうしてるんだ?」
フェンスを通り抜けながら裕生《ひろお》は言った。みちるもその後に続く。
「わたしの本体は、今あの校舎の中を逃げ回っています。アブサロムを引き付けながらね」
葉の体は体育館《たいいくかん》へ近づいていき、併設《へいせつ》された体育倉庫との間にある通路で立ち止まった。フェンスの外から誰かが覗《のぞ》き込んだとしても、その場所なら見られる心配はなかった。
「兄さんは?」
と、裕生は尋《たず》ねた。
「分かりません。私たちとは別に一人で校庭へ向かいました。蔵前《くらまえ》を殺すつもりだったようですが、カゲヌシが消えなかったところを見ると、失敗したのでしょうね」
裕生の顔を見つめながら、淡々《たんたん》と「黒の彼方」は言った。そうすることで、裕生の反応を楽しんでいるようにも見えた。
「な……」
「お怒りはごもっともですが、その前にあのアブサロムを倒さなければなりません」
ふと、葉の顔に奇妙な薄笑《うすわら》いが浮かんだ。
「レインメイカーはあなた方に協力しなかったんですね?」
「……今のアブサロムにはなにも出来ないって言われたよ」
慎重に言葉を選びながら裕生は言った。アオカガミとの約束はできるだけ伏せておきたかった——条件通りにアブサロム・ドッグヘッドを倒せたら、位階にいるカゲヌシすべてをこの世界から消す。
「まあ、そうでしょうね。非常に信用ならない相手ですから」
「黒の彼方」も同じだと思ったが、裕生は黙《だま》っていた。
「さて、今のアブサロムで狙《ねら》うべきところは、あの『ドッグヘッド』です。あの黒い首に攻撃《こうげき》を加えれば、全体の動きが止まりますから。可能なら切り落とすのが一番です」
裕生は一瞬《いっしゅん》どきりとした。彼の考えている攻撃目標も『ドッグヘッド』だった。考えを見透《みす》かされたのではないかと思った。
「わたしの『本体』は、もうほとんど能力を発揮出来ません。この契約者の体を使って、あの首を切るしかないでしょう」
「そんな危ない方法……」
そう言いながら、裕生《ひろお》にもそれが一番成功の可能性が高いと分かっていた。この中で一番身体能力が高いのは、「黒の彼方《かなた》」に操《あやつ》られている葉《よう》だった。
「でも、切るってどうやってやるんだよ?」
「それをあなた方に聞くつもりでした」
と、「黒の彼方」は言った。
「それを可能にするような武器や道具がこの学校のどこかにありませんか? 例えば大きな斧《おの》のような」
「斧って……そんなわけの分からないもの、うちの学校の中に……」
裕生はそう言いかけて、ふと記憶《きおく》のどこかに引っかかるものを感じた。学校のどこかで両手持ちの斧を見た気がする。ひどく散らかった部屋の中に、無造作に転がっていたような——あれはどこだっただろう。
「……あのね」
それまで黙《だま》っていたみちるが口を開いた。
「あたし、つい最近見たよ。大きな斧」
「え?」
「藤牧《ふじまき》も前に見てるはずだよ。入ったことがあるんだから」
そうだったが、場所までは思い出せなかった。
「……どこだっけ」
みちるは体育館《たいいくかん》のそばにある部室棟を指さした。
「佐貫《さぬき》の巣だよ。佐貫が入ってる色んな部活の部室」
「……あ」
と、裕生が声を上げた。
彼らと同じように校舎を見上げた裕生たちは、見慣《みな》れた校舎の形が変わってしまっていることに気づいた。
「……渡り廊下がなくなってる」
と、みちるが小声で言った。間違いなくアブサロム・ドッグヘッドの仕業《しわざ》だろう。がしゃん、とどこかで破壊音《はかいおん》が響《ひび》いた。戦いは既《すで》に始まっているのだ。
裕生とみちるは敷地の角のあたりにいる。まっすぐに行けば校門だが、左に折れると体育館がある。裕生たちは左手の方へ小走りに進んだ。フェンスの向こうにプールと旧校舎が見える。体育館はその先だった。
「黒の彼方《かなた》」が体育館裏へ来いと言った理由はすぐに分かった。指示通りの場所へ到着すると、スチールパイプ製のフェンスは針金のようにぐにゃぐにゃに折れ曲がり、互いに絡《から》み合っていた。あのカゲヌシがここでも能力を使ったに違いない。
「ようやく来ましたね」
破壊《はかい》されたフェンスの向こうに、葉《よう》——「黒の彼方」が立っていた。周囲には他《ほか》に誰《だれ》の姿も見えなかった。
「時間がない。早く入って下さい」
と、「黒の彼方」は言った。
「兄さんやお前の『本体』はどうしてるんだ?」
フェンスを通り抜けながら裕生《ひろお》は言った。みちるもその後に続く。
「わたしの本体は、今あの校舎の中を逃げ回っています。アブサロムを引き付けながらね」
葉の体は体育館《たいいくかん》へ近づいていき、併設《へいせつ》された体育倉庫との間にある通路で立ち止まった。フェンスの外から誰かが覗《のぞ》き込んだとしても、その場所なら見られる心配はなかった。
「兄さんは?」
と、裕生は尋《たず》ねた。
「分かりません。私たちとは別に一人で校庭へ向かいました。蔵前《くらまえ》を殺すつもりだったようですが、カゲヌシが消えなかったところを見ると、失敗したのでしょうね」
裕生の顔を見つめながら、淡々《たんたん》と「黒の彼方」は言った。そうすることで、裕生の反応を楽しんでいるようにも見えた。
「な……」
「お怒りはごもっともですが、その前にあのアブサロムを倒さなければなりません」
ふと、葉の顔に奇妙な薄笑《うすわら》いが浮かんだ。
「レインメイカーはあなた方に協力しなかったんですね?」
「……今のアブサロムにはなにも出来ないって言われたよ」
慎重に言葉を選びながら裕生は言った。アオカガミとの約束はできるだけ伏せておきたかった——条件通りにアブサロム・ドッグヘッドを倒せたら、位階にいるカゲヌシすべてをこの世界から消す。
「まあ、そうでしょうね。非常に信用ならない相手ですから」
「黒の彼方」も同じだと思ったが、裕生は黙《だま》っていた。
「さて、今のアブサロムで狙《ねら》うべきところは、あの『ドッグヘッド』です。あの黒い首に攻撃《こうげき》を加えれば、全体の動きが止まりますから。可能なら切り落とすのが一番です」
裕生は一瞬《いっしゅん》どきりとした。彼の考えている攻撃目標も『ドッグヘッド』だった。考えを見透《みす》かされたのではないかと思った。
「わたしの『本体』は、もうほとんど能力を発揮出来ません。この契約者の体を使って、あの首を切るしかないでしょう」
「そんな危ない方法……」
そう言いながら、裕生《ひろお》にもそれが一番成功の可能性が高いと分かっていた。この中で一番身体能力が高いのは、「黒の彼方《かなた》」に操《あやつ》られている葉《よう》だった。
「でも、切るってどうやってやるんだよ?」
「それをあなた方に聞くつもりでした」
と、「黒の彼方」は言った。
「それを可能にするような武器や道具がこの学校のどこかにありませんか? 例えば大きな斧《おの》のような」
「斧って……そんなわけの分からないもの、うちの学校の中に……」
裕生はそう言いかけて、ふと記憶《きおく》のどこかに引っかかるものを感じた。学校のどこかで両手持ちの斧を見た気がする。ひどく散らかった部屋の中に、無造作に転がっていたような——あれはどこだっただろう。
「……あのね」
それまで黙《だま》っていたみちるが口を開いた。
「あたし、つい最近見たよ。大きな斧」
「え?」
「藤牧《ふじまき》も前に見てるはずだよ。入ったことがあるんだから」
そうだったが、場所までは思い出せなかった。
「……どこだっけ」
みちるは体育館《たいいくかん》のそばにある部室棟を指さした。
「佐貫《さぬき》の巣だよ。佐貫が入ってる色んな部活の部室」
「……あ」
と、裕生が声を上げた。
蔵前《くらまえ》はグラウンドに手を突いてゆっくりと立ち上がった。雄一《ゆういち》に傷つけられた足はまだ痛むが、歩けないほどではない。
この騒《さわ》ぎでは警察《けいさつ》がやって来るのも時間の問題だ。周囲には倒れている雄一と夕紀《ゆき》の姿が見える。かろうじてまだ二人とも息があるはずだ。この二人が死ぬ前に裕生たちを殺し、ケリを付ける必要があった。
蔵前は銃を握りしめたまま歩き出した。アブサロムの五感を自分に繋《つな》ぐと、今もなお旧校舎の中を走り回っていた。その前には「黒の彼方」がいる。「眠り首」は金属と化し、「司令塔」の首は裂けかけている。全身にも奇妙な丸いくぼみのような傷がいくつも開いていた。もはや半死半生《はんしはんしょう》の状態だった。
「黒の彼方《かなた》」はドアや窓を細かく出入りすることで、かろうじてアブサロムの視線《しせん》を避け続けていたが、それにも限度があった。出入りした場所はその後からすべてアブサロムによって破壊《はかい》され、行き先は制限されていた。旧校舎の内部はまるで廃墟《はいきょ》のような有様《ありさま》になっていた。
新宿《しんじゅく》での戦いと違って、大規模な破壊を行わないのはそれだけ相手の生死の確認《かくにん》が難《むずか》しくなるからだった。渡り廊下を落とした時も、結局一時的に「黒の彼方」の姿を見失ってしまった。
「黒の彼方」は旧校舎の三階に上がり、廊下に出ようとした——が、既《すで》にその階の廊下は半分ほど崩落《ほうらく》している。階段を駆け上がるアブサロムを振り返って確認《かくにん》すると同時に、向きを変えてさらに上へ向かう階段を駆け上がって行った。鉄のドアを突き破る音が聞こえる。
アブサロムもそのすぐ後を追って、破壊されたドアをくぐる。
そこは校舎の屋上だった。「黒の彼方」は建物の縁《へり》にかろうじて立っている。満身創痍《まんしんそうい》で、おそらく立っているのもやっとの状態なのだろう。ふらふらと体が揺れている。アブサロムの「眠り首」が黒い光を放つと、わずかにその光に触れた途端《とたん》、すぐに縁の向こうへと落ちていった。
獣人《じゅうじん》は雄叫《おたけ》びを上げながら、「黒の彼方」が立っていた場所へ一直線《いっちょくせん》に駆け抜けると、一足飛びに空中へと飛び出した。
しかし、そこに黒犬の姿はなかった。
ドッグヘッドが振り返ると、たった今落ちた場所のほんの数十センチ下の外壁《がいへき》に、黒犬が四肢の爪《つめ》を食い込ませて取り付いているのが見えた。そして、壁《かべ》を蹴《け》ってアブサロムの背中に飛び付いてくる。
「黒の彼方」はかつての分身であるドッグヘッドに牙《きば》を立てた。一瞬《いっしゅん》、アブサロムの統一された意識《いしき》に亀裂《きれつ》が入る。しかし、すぐにその混乱を収拾し、アブサロムは両手で犬の両顎《りょうあご》を掴《つか》んだ。そして、そのままの姿勢で中庭の芝生《しばふ》の上に着地する。
鈍《にぶ》い衝撃《しょうげき》とともに足先が地面にめり込んで、アブサロムはこらえきれずに両膝《りょうひざ》を突いた。まずはこの黒犬を引きはがさなければならなかった。獣人が渾身《こんしん》の力をこめると、ゆっくりと顎が外れていった。背中に乗っていた黒犬を引きずり下ろし、地面の上に叩《たた》きつける。しかし、それで満足するつもりはなかった。まだ両手は「司令塔」の顎を掴んだままだ。さらに両手に力をこめると、黒犬の顎からみちみちと肉の裂ける音が聞こえた。このまま忌々《いまいま》しい「同族食い」の首を二つに引き裂くつもりだった。
アブサロム・ドッグヘッドは目の前の作業に集中していた。
そのため、「黒の彼方」の契約者の少女が近づいてきたことに直前まで気づかなかった。少女の両手には三日月《みかづき》形の刃《やいば》のついた斧《おの》が握られていること、自分が既にその間合いに入っていること、完全に両手が塞《ふさ》がっていることを知った時には、既に手遅れになっていた。
ほとんど背中を向けていた少女の体がくるりと回転する。唐突《とうとつ》に銀色《ぎんいろ》の刃がきらめいた。
次の瞬間《しゅんかん》、黒い首は獣人《じゅうじん》の胴体から離《はな》れ、空中を舞《ま》い上がって行った。
この騒《さわ》ぎでは警察《けいさつ》がやって来るのも時間の問題だ。周囲には倒れている雄一と夕紀《ゆき》の姿が見える。かろうじてまだ二人とも息があるはずだ。この二人が死ぬ前に裕生たちを殺し、ケリを付ける必要があった。
蔵前は銃を握りしめたまま歩き出した。アブサロムの五感を自分に繋《つな》ぐと、今もなお旧校舎の中を走り回っていた。その前には「黒の彼方」がいる。「眠り首」は金属と化し、「司令塔」の首は裂けかけている。全身にも奇妙な丸いくぼみのような傷がいくつも開いていた。もはや半死半生《はんしはんしょう》の状態だった。
「黒の彼方《かなた》」はドアや窓を細かく出入りすることで、かろうじてアブサロムの視線《しせん》を避け続けていたが、それにも限度があった。出入りした場所はその後からすべてアブサロムによって破壊《はかい》され、行き先は制限されていた。旧校舎の内部はまるで廃墟《はいきょ》のような有様《ありさま》になっていた。
新宿《しんじゅく》での戦いと違って、大規模な破壊を行わないのはそれだけ相手の生死の確認《かくにん》が難《むずか》しくなるからだった。渡り廊下を落とした時も、結局一時的に「黒の彼方」の姿を見失ってしまった。
「黒の彼方」は旧校舎の三階に上がり、廊下に出ようとした——が、既《すで》にその階の廊下は半分ほど崩落《ほうらく》している。階段を駆け上がるアブサロムを振り返って確認《かくにん》すると同時に、向きを変えてさらに上へ向かう階段を駆け上がって行った。鉄のドアを突き破る音が聞こえる。
アブサロムもそのすぐ後を追って、破壊されたドアをくぐる。
そこは校舎の屋上だった。「黒の彼方」は建物の縁《へり》にかろうじて立っている。満身創痍《まんしんそうい》で、おそらく立っているのもやっとの状態なのだろう。ふらふらと体が揺れている。アブサロムの「眠り首」が黒い光を放つと、わずかにその光に触れた途端《とたん》、すぐに縁の向こうへと落ちていった。
獣人《じゅうじん》は雄叫《おたけ》びを上げながら、「黒の彼方」が立っていた場所へ一直線《いっちょくせん》に駆け抜けると、一足飛びに空中へと飛び出した。
しかし、そこに黒犬の姿はなかった。
ドッグヘッドが振り返ると、たった今落ちた場所のほんの数十センチ下の外壁《がいへき》に、黒犬が四肢の爪《つめ》を食い込ませて取り付いているのが見えた。そして、壁《かべ》を蹴《け》ってアブサロムの背中に飛び付いてくる。
「黒の彼方」はかつての分身であるドッグヘッドに牙《きば》を立てた。一瞬《いっしゅん》、アブサロムの統一された意識《いしき》に亀裂《きれつ》が入る。しかし、すぐにその混乱を収拾し、アブサロムは両手で犬の両顎《りょうあご》を掴《つか》んだ。そして、そのままの姿勢で中庭の芝生《しばふ》の上に着地する。
鈍《にぶ》い衝撃《しょうげき》とともに足先が地面にめり込んで、アブサロムはこらえきれずに両膝《りょうひざ》を突いた。まずはこの黒犬を引きはがさなければならなかった。獣人が渾身《こんしん》の力をこめると、ゆっくりと顎が外れていった。背中に乗っていた黒犬を引きずり下ろし、地面の上に叩《たた》きつける。しかし、それで満足するつもりはなかった。まだ両手は「司令塔」の顎を掴んだままだ。さらに両手に力をこめると、黒犬の顎からみちみちと肉の裂ける音が聞こえた。このまま忌々《いまいま》しい「同族食い」の首を二つに引き裂くつもりだった。
アブサロム・ドッグヘッドは目の前の作業に集中していた。
そのため、「黒の彼方」の契約者の少女が近づいてきたことに直前まで気づかなかった。少女の両手には三日月《みかづき》形の刃《やいば》のついた斧《おの》が握られていること、自分が既にその間合いに入っていること、完全に両手が塞《ふさ》がっていることを知った時には、既に手遅れになっていた。
ほとんど背中を向けていた少女の体がくるりと回転する。唐突《とうとつ》に銀色《ぎんいろ》の刃がきらめいた。
次の瞬間《しゅんかん》、黒い首は獣人《じゅうじん》の胴体から離《はな》れ、空中を舞《ま》い上がって行った。