植え込みに隠れていた裕生《ひろお》とみちるは、ドッグヘッドが切られた瞬間に飛び出して行った。
獣人は肩の傷口から黒い血を流しながらうずくまり、満身創痍《まんしんそうい》の「黒の彼方《かなた》」がゆっくりと立ち上がった。
不意にアブサロムが苦痛に耐えかねるように左腕を押さえ付けた。
「あ……」
みちるが声を上げた。アブサロムの細い左腕と接合している肘《ひじ》のあたりから、黒い液体がどっと噴《ふ》き出した。そして、黒く染まった左腕がぼとりと芝生《しばふ》の上に落ちた。
「……ドッグヘッドの細胞を含んだ黒い血が、二つの異なるカゲヌシの仲立ちをしていました」
いつの間にか、斧《おの》を手にした葉《よう》が裕生たちのすぐそばに立っていた。
「しかし、司令塔であるドッグヘッドを失った今、すべてのものが互いに排除し合う異物でしかなくなったのです」
アブサロムから左腕が離《はな》れた途端《とたん》、「黒の彼方」の金属化した部分が元に戻っていく。三ヶ月前の戦いで倒れたカゲヌシの最後の残骸《ざんがい》が、ようやく死に絶えようとしているようだった。
ふと、葉は裕生の顔を見上げた。
「あなたには礼をしなければなりませんね」
と、「黒の彼方」は言った。
「あなたの協力があってこそ、今まで戦ってこられました」
正直なところ、皮肉にしか聞こえない言葉だった。今までに裕生は何度も「黒の彼方」を倒そうとしてきた。このカゲヌシも裕生を憎んできたはずだった。
しかし、今は奇妙に穏《おだ》やかな笑《え》みを浮かべている。
「そして、ついにわたしの仇敵《きゅうてき》を……」
「まだ終わっていないぞ」
しゃがれた声に、裕生たちは振り向いた。そこには一山のガレキと化した渡り廊下の残骸があった。その山の一番上に、血染めのコートを着た蔵前《くらまえ》が立っていた。
その手には拳銃《けんじゅう》が握られていた。
獣人は肩の傷口から黒い血を流しながらうずくまり、満身創痍《まんしんそうい》の「黒の彼方《かなた》」がゆっくりと立ち上がった。
不意にアブサロムが苦痛に耐えかねるように左腕を押さえ付けた。
「あ……」
みちるが声を上げた。アブサロムの細い左腕と接合している肘《ひじ》のあたりから、黒い液体がどっと噴《ふ》き出した。そして、黒く染まった左腕がぼとりと芝生《しばふ》の上に落ちた。
「……ドッグヘッドの細胞を含んだ黒い血が、二つの異なるカゲヌシの仲立ちをしていました」
いつの間にか、斧《おの》を手にした葉《よう》が裕生たちのすぐそばに立っていた。
「しかし、司令塔であるドッグヘッドを失った今、すべてのものが互いに排除し合う異物でしかなくなったのです」
アブサロムから左腕が離《はな》れた途端《とたん》、「黒の彼方」の金属化した部分が元に戻っていく。三ヶ月前の戦いで倒れたカゲヌシの最後の残骸《ざんがい》が、ようやく死に絶えようとしているようだった。
ふと、葉は裕生の顔を見上げた。
「あなたには礼をしなければなりませんね」
と、「黒の彼方」は言った。
「あなたの協力があってこそ、今まで戦ってこられました」
正直なところ、皮肉にしか聞こえない言葉だった。今までに裕生は何度も「黒の彼方」を倒そうとしてきた。このカゲヌシも裕生を憎んできたはずだった。
しかし、今は奇妙に穏《おだ》やかな笑《え》みを浮かべている。
「そして、ついにわたしの仇敵《きゅうてき》を……」
「まだ終わっていないぞ」
しゃがれた声に、裕生たちは振り向いた。そこには一山のガレキと化した渡り廊下の残骸があった。その山の一番上に、血染めのコートを着た蔵前《くらまえ》が立っていた。
その手には拳銃《けんじゅう》が握られていた。
みちるは裕生の様子《ようす》が気になっていた。
ドッグヘッドが切られてから、裕生の様子がどことなくおかしくなった。その前よりも緊張《きんちょう》しているように見える。蔵前が現れたというのに、そのことにもあまり驚《おどろ》いている様子はなかった。
「ドッグヘッドを失っても、アブサロムが死んだわけじゃない。これが最強のカゲヌシだということを忘れたのか」
獣人《じゅうじん》の眠り首がゆっくりと起き上がり始めた。このカゲヌシの本当の首だったということを、今さらながらみちるは思い出した。ドッグヘッドは寄生していたにすぎない。
しかし、葉《よう》は首を振った。
「この傷だらけのカゲヌシが『最強』だと思うのですか?」
その言葉と同時に「黒の彼方《かなた》」がアブサロムに襲《おそ》いかかった。相手が反応する間も与えず、喉笛《のどぶえ》に噛《か》み付いて地面に引き倒していた。アブサロムは目を開けたが、その視線《しせん》は空を向いたままだった。黒い光が夜空に向けて迸《ほとばし》る。それはなにものをも破壊《はかい》することなく、ただ空を黒い扇形に染めただけだった。
蔵前《くらまえ》にも痛みが伝わったのか、喉元を押さえてうずくまる。やがて、ゆっくりとアブサロムの発する光が小さくなり、やがて消えて行った。完全にこの白いカゲヌシは意識《いしき》を失ったようだった。
「大人《おとな》しくわたしの餌《えさ》になることですね」
と、「黒の彼方」は勝ち誇ったように言った。さらに力をこめたらしく、黒犬の顎《あご》のあたりがぐっと緊張《きんちょう》した。このままアブサロムの喉笛を食いちぎるつもりらしい。
その時、みちるは裕生《ひろお》が口の中でつぶやいていることに気づいた。
「……もう分かってるはずだ」
「藤牧《ふじまき》?」
思わず聞き返すと、裕生はその場にいる二匹のカゲヌシとその契約者を見回して言った。
「ドッグヘッドもなくなった。アブサロムは倒した」
そして、最後に敵を食おうとしている「黒の彼方」に目を留めた。黒犬も顔を上げて、裕生を見つめている。
「方法は問わない。そうだったよな」
みちるははっとした。裕生は今ここにいる誰《だれ》かに向かって話しかけているのではない。念じれば伝わる相手に向かって、言葉を発しているのだ。
彼女にも裕生がなにを言おうとしているのかはっきりと分かった。ドッグヘッドがなくなった今、アブサロムは階位の中のカゲヌシに戻っていた。
「お前が自分の能力を使え! アオカガミ! アブサロムを今すぐ卵に戻せ!」
一瞬《いっしゅん》、しんと中庭が静まりかえった。
ぽつん、と水滴がみちるの頬《ほお》を叩《たた》いた。思わず空を見上げたが、星も月も出ていた。そこへ再び水滴が降ってきた。顔にも手のひらにも次々と水のつぶてが当たる。
「……雨?」
と、みちるはつぶやいた。雲一つない夜空から、雨が降り始めていた。
(レインメイカー)
それは雨乞《あまご》いをする祈祷師《きとうし》を意味する言葉だ。これがあのカゲヌシの能力なのだ。その呼び名も、この能力にちなんだものに違いない。
その場にいた全員が無言で「雨」を見上げていた。
すぐにみちるはこの世界の自然現象とはまったく異なっていることに気付いた。自分の体も地面もまったく濡《ぬ》れていない。手のひらで受けてみると、水滴はすぐに黒いもやとなって散っていってしまう。そのせいか、周囲には黒煙のような霧《きり》が立ちこめている。
みるみるうちに視界がぼやけ、隣《となり》にいる裕生《ひろお》の姿もはっきり見えなくなってきた。みちるは慌てて手を伸ばし、彼の腕にしがみ付いた。裕生は一瞬《いっしゅん》息を呑《の》んだようだったが、なにも言わなかった。
気が付くと目を開けているのか、閉じているのかも分からない暗闇《くらやみ》の中に立っていた。みちるはますますしがみ付いている腕に力をこめた。地面を踏みしめている感覚もあやふやになり、上下の感覚も分からなくなっていった。自分が立っているのかどうかも自信が持てない。水の中に浮いているような気分だった。
みちるは不安になり始めていた。ここは人間が来てはいけない場所のような気がした。
「なんなの、これ」
みちるの声は震《ふる》えていた。
「大丈夫だよ」
普段《ふだん》と同じ声で裕生は言った。彼はこの闇を恐れてはいないようだった。
「多分《たぶん》、ぼくたちにはなにも起こらない」
ここを知っているような口ぶりだった。それを尋《たず》ねようとした時、闇の奥からなにか見上げるほど巨大なものが現れた。校舎ではない。闇よりもさらに濃《こ》い漆黒《しっこく》の稜線《りょうせん》がぼんやりと浮かんでいる。
最初は山だと思った。しかし、しばらく見つめるうちにそうではないと気付いた。
「……島?」
黒い島だった。
「西尾《にしお》は見ない方がいい」
突然、裕生は囁《ささや》いた。みちるは素直にその言葉に従った。ただ、裕生は目を閉じているのか気になった。
不意に島の方から誰《だれ》かの太い声が聞こえた。なにか意味のある単語のようだが、あちこちに反響《はんきょう》してなにを言っているのか分からなかった。
なぜかみちるの全身がぞっと粟立《あわだ》った。声の主を絶対に見たくないと心の底から思った。
やがてその声はゆっくりと遠ざかっていき、完全に消えてしまった。おそるおそる目を開けると、もうさっきと同じ学校の中庭に戻っていた。雨も霧も嘘《うそ》のように姿を消していた。
みちるは裕生《ひろお》から体を離《はな》してあたりを見回す。アブサロムはもうどこにもいなくなっていた。芝生《しばふ》の上にサッカーボールほどの大きさの、黒い楕円体《だえんたい》が転がっているだけだった。
(あれが、卵)
アブサロムは卵に戻ったのだ。ふと、彼女は「黒の彼方《かなた》」も姿が見えないことに気付いた。葉《よう》は先ほどと同じくみちるたちのそばにいる。目つきを見る限りでは、相変わらず「黒の彼方」の支配下にあるらしい。
その時、みちるは葉の手帳が地面に落ちていることに気付いた。拾い上げて渡そうとしたが、今の彼女はカゲヌシに支配されていることを思い出してポケットにしまった。後で目を覚ました時に渡せばいいだろう。
「……なにをしたんだ」
蔵前《くらまえ》の声が聞こえた。彼は雨が降る前と同じ、渡り廊下の残骸《ざんがい》の上で呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしている。
「お前たちはぼくになにをしたんだ」
今までとは別人のような、途方《とほう》にくれた目をしていた。
「お前をカゲヌシから解放した」
と、裕生は静かに言った。
「アブサロムは卵に戻った。お前ももう普通の人間に戻ったんだ」
「普通の……人間?」
かすかにパトカーのサイレンが聞こえた。もうすぐここへ警察《けいさつ》が到着するだろう。カゲヌシの契約者でなくなった今、この殺人鬼の処分も警察に任せることが出来る。みちるはほっと胸を撫《な》で下ろした。
「そうか」
蔵前は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「また、お前たちがぼくからアブサロムを奪《うば》ったのか」
悲しみに満ちた声音にみちるは胸を衝《つ》かれた。蔵前の両目から涙が溢《あふ》れていた。コートのポケットから拳銃《けんじゅう》を出し、銃口を葉に向けた。
「お前たちには死を以《も》って贖《あがな》ってもらう。まずは黒犬を飼っているお前……」
一陣の黒い風のようなものがガレキの山を駆け上がり、蔵前の目の前をさっと横切った。ガレキの下に着地した姿を見て、みちるはようやくそれが黒の彼方だと気付いた。
「……え?」
と、みちるはつぶやいた。
蔵前の銃が消えていた。いや、銃だけではなく、右の手首から先がなくなっていた。一拍置いて、白いコートの袖《そで》から鮮血《せんけつ》が噴《ふ》き出した。
「う……お……」
声にならない悲鳴を上げて、蔵前《くらまえ》は膝《ひざ》を突いた。その時、切り飛ばされた血まみれの手首と銃が、みちるたちの目の前にぼとりと落ちてきた。
みちるはもう少しで気を失いそうになって、裕生《ひろお》にしがみ付いた。裕生の顔も真《ま》っ青《さお》になっている。
「黒の彼方《かなた》」がうなり声を上げながら、再び蔵前に殺到した。悲鳴を上げる余裕もなく、彼は黒犬ごとガレキの向こう側へと落ちて行った。激《はげ》しいうなり声だけが響《ひび》いてくる。
葉《よう》が両手を背中で組んで、渡り廊下の残骸《ざんがい》へ歩いて行き、その手前でみちるたちの方にくるりと振り返った。
「初めまして、藤牧《ふじまき》裕生。そして、西尾《にしお》みちる」
芝居《しばい》がかった優雅《ゆうが》なしぐさで、スカートを持ち上げながら二人にお辞儀《じぎ》をした。頭を上げた彼女は晴れやかに笑った。
「完全なわたしとして、あなた方に会うのはこれが初めてですね」
「……お前は、人間を殺させないんじゃなかったのか?」
裕生はあえぐように言った。
「契約は終わりました。たった今」
「なに言ってるんだよ、お前」
彼の体が小刻みに震《ふる》えている。今にも泣き出しそうな顔になっていた。
<img src="img/dog head_257.jpg">
「だから、もうこの娘は目覚めない。わたしは自由の身です」
「……え?」
裕生《ひろお》はかすかに首をかしげる。完全に混乱しているらしかった。
「お前の負けです。藤牧《ふじまき》裕生」
子供に言い聞かせるように、「黒の彼方《かなた》」は言った。
「……そんな、嘘《うそ》だ」
「わたしがあのアブサロムを食べたがっていると誤解したのがお前の敗因でした。あんなカゲヌシなど、最初からわたしにはどうでもよかった」
その時、ガレキの向こうから「黒の彼方《かなた》」が姿を現した。
みちるは呆然《ぼうぜん》とした。アブサロムの能力は解けて、「眠り首」は元に戻っている。その隣《となり》に「司令塔」がある——さらにその隣に、新しい首が生《は》えていた。さっきまでアブサロムを操《あやつ》っていた「ドッグヘッド」だった。
「わたしが欲しかったのは、自分の三番目の首です」
「お、お前の……敵じゃなかったのか?」
裕生は舌がもつれてうまく喋《しゃべ》れないようだった。
「主従の関係だ、とも言ったはずですよ。もう一度支配下に置けばこの通り……今度こそわたしは完全体になった」
「葉《よう》!」
唐突《とうとつ》に裕生は叫んだ。今までみちるが聞いたこともないような悲痛な声だった。
しかし、相手は冷笑を浮かべているだけだった。
「葉!」
もう一度叫んだ。聞いているみちるの胸がつぶれるようだった。
裕生は力が抜けたようにぐったりと座り込んだ。
ふと、みちるはかすかにパトカーのサイレンを聞いた。徐々《じょじょ》にこちらへ向かってくるらしい。付近の住民が通報したのだろう。
「さて、約束は憶《おぼ》えているでしょうね?」
と、「黒の彼方」は言った。
「契約が終わった暁《あかつき》には、必ずお前を殺すと言ったはずです」
「藤牧!」
みちるは裕生の肩を揺さぶった——しかし、裕生はうつろな目で座っているだけだった。裕生の葉への深い気持ちを、今さらのようにみちるは知った。
葉は裕生の方へ足を踏み出した。同時に「黒の彼方」もガレキの上から滑《すべ》り降りてくる。みちるは裕生を庇《かば》うように彼の体をしっかりと抱いた。
「一緒《いっしょ》に死にたいのですか?」
と、葉《よう》の声で「黒の彼方《かなた》」が言う。裕生《ひろお》の気持ちが心に流れ込んでくるようで、涙が溢《あふ》れて止まらなかった。みちるは彼を放すまいと両腕にもっと力をこめた。
「そんなに人間を殺したければ、代わりにあたしを殺せばいいでしょ」
みちるは声を震《ふる》わせた。筋の通らないことを言っていると分かっていたが、たとえ自分の命を引き替えにしても裕生を助けたかった。
「では、あなたから先に殺しましょう」
彼女は言葉を失った。黒犬が牙《きば》を剥《む》き出しにして走ってくる。みちるは目を閉じて裕生の肩に顔を埋めた——が、しばらく待ってもなにも起こらなかった。
おそるおそる顔を上げると、黒犬の三つの顔が二人の目の前にある。開いている四つの赤い目が、裕生を吟味《ぎんみ》するように見つめていた。
裕生は彫像のように反応しなかった。
「なにが起こっているのか、分かっていないのですか?」
苛立《いらだ》たしげに「黒の彼方」は言った。みちるはその言葉にかっとなった。
「藤牧《ふじまき》がこんな風《ふう》になったのはあんたのせいじゃない!」
沈黙《ちんもく》が流れる。パトカーのサイレンはますます近づいてきていた。
「……今のこの少年には殺す価値もないですね」
と、「黒の彼方」は嘲笑《ちょうしょう》した。みちるは相手に分からないように、ほっと息をついた。ひょっとすると命が助かるかもしれない。侮辱《ぶじょく》されても、殺されるよりはずっといい——。
「西尾《にしお》みちる」
不意に呼びかけられて、みちるはどきっとした。
「な、なに?」
「この少年を正気に戻させなさい。明日《あした》の朝まで待ちます」
「え……?」
「こんな抜け殻《がら》を殺しても、わたしは満足しない」
みちるの背筋に戦慄《せんりつ》が走った。「黒の彼方」はこの魂《たましい》が抜けたような裕生でも見逃すつもりはないらしい。むしろ満足に殺すために、正気に戻せと言っている。
しかし、選択の余地はないとみちるにも分かっていた。嫌《いや》だと言えば、裕生も蔵前《くらまえ》のようにこの場で惨殺《ざんさつ》されるだけだ。
突然、サイレンが止《や》んだ。パトカーは校門の方に停車したらしい。ドアを開閉する音が次々に響《ひび》いた。みちるは裕生を抱きしめたまま固まっていた。自分と裕生の息遣《いきづか》いが奇妙に大きく聞こえた。
「答えなさい。西尾みちる。どうしますか?」
彼女はかすかにうなずいた。「黒の彼方」は満足げな笑《え》みを浮かべた。
「駅前に閉鎖《へいさ》された高いビルがありますね。明け方の五時に、藤牧裕生を来させなさい。あそこなら邪魔《じゃま》も入らないでしょう」
黒犬はくるりと向きを変えて、契約者の許《もと》に駆け戻った。
「もし藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》が来なかった場合、代わりにあなた方の肉親、知人を全員殺します」
と、「黒の彼方《かなた》」は言った。みちるのみぞおちのあたりに、その言葉がずしりと重くのしかかってきた。少なくとも誰《だれ》かは死から逃れられないのだ。
カゲヌシと契約者は踵《きびす》を返して走り去っていった。
みちるは無言でその背中を見送った。
ドッグヘッドが切られてから、裕生の様子がどことなくおかしくなった。その前よりも緊張《きんちょう》しているように見える。蔵前が現れたというのに、そのことにもあまり驚《おどろ》いている様子はなかった。
「ドッグヘッドを失っても、アブサロムが死んだわけじゃない。これが最強のカゲヌシだということを忘れたのか」
獣人《じゅうじん》の眠り首がゆっくりと起き上がり始めた。このカゲヌシの本当の首だったということを、今さらながらみちるは思い出した。ドッグヘッドは寄生していたにすぎない。
しかし、葉《よう》は首を振った。
「この傷だらけのカゲヌシが『最強』だと思うのですか?」
その言葉と同時に「黒の彼方《かなた》」がアブサロムに襲《おそ》いかかった。相手が反応する間も与えず、喉笛《のどぶえ》に噛《か》み付いて地面に引き倒していた。アブサロムは目を開けたが、その視線《しせん》は空を向いたままだった。黒い光が夜空に向けて迸《ほとばし》る。それはなにものをも破壊《はかい》することなく、ただ空を黒い扇形に染めただけだった。
蔵前《くらまえ》にも痛みが伝わったのか、喉元を押さえてうずくまる。やがて、ゆっくりとアブサロムの発する光が小さくなり、やがて消えて行った。完全にこの白いカゲヌシは意識《いしき》を失ったようだった。
「大人《おとな》しくわたしの餌《えさ》になることですね」
と、「黒の彼方」は勝ち誇ったように言った。さらに力をこめたらしく、黒犬の顎《あご》のあたりがぐっと緊張《きんちょう》した。このままアブサロムの喉笛を食いちぎるつもりらしい。
その時、みちるは裕生《ひろお》が口の中でつぶやいていることに気づいた。
「……もう分かってるはずだ」
「藤牧《ふじまき》?」
思わず聞き返すと、裕生はその場にいる二匹のカゲヌシとその契約者を見回して言った。
「ドッグヘッドもなくなった。アブサロムは倒した」
そして、最後に敵を食おうとしている「黒の彼方」に目を留めた。黒犬も顔を上げて、裕生を見つめている。
「方法は問わない。そうだったよな」
みちるははっとした。裕生は今ここにいる誰《だれ》かに向かって話しかけているのではない。念じれば伝わる相手に向かって、言葉を発しているのだ。
彼女にも裕生がなにを言おうとしているのかはっきりと分かった。ドッグヘッドがなくなった今、アブサロムは階位の中のカゲヌシに戻っていた。
「お前が自分の能力を使え! アオカガミ! アブサロムを今すぐ卵に戻せ!」
一瞬《いっしゅん》、しんと中庭が静まりかえった。
ぽつん、と水滴がみちるの頬《ほお》を叩《たた》いた。思わず空を見上げたが、星も月も出ていた。そこへ再び水滴が降ってきた。顔にも手のひらにも次々と水のつぶてが当たる。
「……雨?」
と、みちるはつぶやいた。雲一つない夜空から、雨が降り始めていた。
(レインメイカー)
それは雨乞《あまご》いをする祈祷師《きとうし》を意味する言葉だ。これがあのカゲヌシの能力なのだ。その呼び名も、この能力にちなんだものに違いない。
その場にいた全員が無言で「雨」を見上げていた。
すぐにみちるはこの世界の自然現象とはまったく異なっていることに気付いた。自分の体も地面もまったく濡《ぬ》れていない。手のひらで受けてみると、水滴はすぐに黒いもやとなって散っていってしまう。そのせいか、周囲には黒煙のような霧《きり》が立ちこめている。
みるみるうちに視界がぼやけ、隣《となり》にいる裕生《ひろお》の姿もはっきり見えなくなってきた。みちるは慌てて手を伸ばし、彼の腕にしがみ付いた。裕生は一瞬《いっしゅん》息を呑《の》んだようだったが、なにも言わなかった。
気が付くと目を開けているのか、閉じているのかも分からない暗闇《くらやみ》の中に立っていた。みちるはますますしがみ付いている腕に力をこめた。地面を踏みしめている感覚もあやふやになり、上下の感覚も分からなくなっていった。自分が立っているのかどうかも自信が持てない。水の中に浮いているような気分だった。
みちるは不安になり始めていた。ここは人間が来てはいけない場所のような気がした。
「なんなの、これ」
みちるの声は震《ふる》えていた。
「大丈夫だよ」
普段《ふだん》と同じ声で裕生は言った。彼はこの闇を恐れてはいないようだった。
「多分《たぶん》、ぼくたちにはなにも起こらない」
ここを知っているような口ぶりだった。それを尋《たず》ねようとした時、闇の奥からなにか見上げるほど巨大なものが現れた。校舎ではない。闇よりもさらに濃《こ》い漆黒《しっこく》の稜線《りょうせん》がぼんやりと浮かんでいる。
最初は山だと思った。しかし、しばらく見つめるうちにそうではないと気付いた。
「……島?」
黒い島だった。
「西尾《にしお》は見ない方がいい」
突然、裕生は囁《ささや》いた。みちるは素直にその言葉に従った。ただ、裕生は目を閉じているのか気になった。
不意に島の方から誰《だれ》かの太い声が聞こえた。なにか意味のある単語のようだが、あちこちに反響《はんきょう》してなにを言っているのか分からなかった。
なぜかみちるの全身がぞっと粟立《あわだ》った。声の主を絶対に見たくないと心の底から思った。
やがてその声はゆっくりと遠ざかっていき、完全に消えてしまった。おそるおそる目を開けると、もうさっきと同じ学校の中庭に戻っていた。雨も霧も嘘《うそ》のように姿を消していた。
みちるは裕生《ひろお》から体を離《はな》してあたりを見回す。アブサロムはもうどこにもいなくなっていた。芝生《しばふ》の上にサッカーボールほどの大きさの、黒い楕円体《だえんたい》が転がっているだけだった。
(あれが、卵)
アブサロムは卵に戻ったのだ。ふと、彼女は「黒の彼方《かなた》」も姿が見えないことに気付いた。葉《よう》は先ほどと同じくみちるたちのそばにいる。目つきを見る限りでは、相変わらず「黒の彼方」の支配下にあるらしい。
その時、みちるは葉の手帳が地面に落ちていることに気付いた。拾い上げて渡そうとしたが、今の彼女はカゲヌシに支配されていることを思い出してポケットにしまった。後で目を覚ました時に渡せばいいだろう。
「……なにをしたんだ」
蔵前《くらまえ》の声が聞こえた。彼は雨が降る前と同じ、渡り廊下の残骸《ざんがい》の上で呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしている。
「お前たちはぼくになにをしたんだ」
今までとは別人のような、途方《とほう》にくれた目をしていた。
「お前をカゲヌシから解放した」
と、裕生は静かに言った。
「アブサロムは卵に戻った。お前ももう普通の人間に戻ったんだ」
「普通の……人間?」
かすかにパトカーのサイレンが聞こえた。もうすぐここへ警察《けいさつ》が到着するだろう。カゲヌシの契約者でなくなった今、この殺人鬼の処分も警察に任せることが出来る。みちるはほっと胸を撫《な》で下ろした。
「そうか」
蔵前は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「また、お前たちがぼくからアブサロムを奪《うば》ったのか」
悲しみに満ちた声音にみちるは胸を衝《つ》かれた。蔵前の両目から涙が溢《あふ》れていた。コートのポケットから拳銃《けんじゅう》を出し、銃口を葉に向けた。
「お前たちには死を以《も》って贖《あがな》ってもらう。まずは黒犬を飼っているお前……」
一陣の黒い風のようなものがガレキの山を駆け上がり、蔵前の目の前をさっと横切った。ガレキの下に着地した姿を見て、みちるはようやくそれが黒の彼方だと気付いた。
「……え?」
と、みちるはつぶやいた。
蔵前の銃が消えていた。いや、銃だけではなく、右の手首から先がなくなっていた。一拍置いて、白いコートの袖《そで》から鮮血《せんけつ》が噴《ふ》き出した。
「う……お……」
声にならない悲鳴を上げて、蔵前《くらまえ》は膝《ひざ》を突いた。その時、切り飛ばされた血まみれの手首と銃が、みちるたちの目の前にぼとりと落ちてきた。
みちるはもう少しで気を失いそうになって、裕生《ひろお》にしがみ付いた。裕生の顔も真《ま》っ青《さお》になっている。
「黒の彼方《かなた》」がうなり声を上げながら、再び蔵前に殺到した。悲鳴を上げる余裕もなく、彼は黒犬ごとガレキの向こう側へと落ちて行った。激《はげ》しいうなり声だけが響《ひび》いてくる。
葉《よう》が両手を背中で組んで、渡り廊下の残骸《ざんがい》へ歩いて行き、その手前でみちるたちの方にくるりと振り返った。
「初めまして、藤牧《ふじまき》裕生。そして、西尾《にしお》みちる」
芝居《しばい》がかった優雅《ゆうが》なしぐさで、スカートを持ち上げながら二人にお辞儀《じぎ》をした。頭を上げた彼女は晴れやかに笑った。
「完全なわたしとして、あなた方に会うのはこれが初めてですね」
「……お前は、人間を殺させないんじゃなかったのか?」
裕生はあえぐように言った。
「契約は終わりました。たった今」
「なに言ってるんだよ、お前」
彼の体が小刻みに震《ふる》えている。今にも泣き出しそうな顔になっていた。
<img src="img/dog head_257.jpg">
「だから、もうこの娘は目覚めない。わたしは自由の身です」
「……え?」
裕生《ひろお》はかすかに首をかしげる。完全に混乱しているらしかった。
「お前の負けです。藤牧《ふじまき》裕生」
子供に言い聞かせるように、「黒の彼方《かなた》」は言った。
「……そんな、嘘《うそ》だ」
「わたしがあのアブサロムを食べたがっていると誤解したのがお前の敗因でした。あんなカゲヌシなど、最初からわたしにはどうでもよかった」
その時、ガレキの向こうから「黒の彼方《かなた》」が姿を現した。
みちるは呆然《ぼうぜん》とした。アブサロムの能力は解けて、「眠り首」は元に戻っている。その隣《となり》に「司令塔」がある——さらにその隣に、新しい首が生《は》えていた。さっきまでアブサロムを操《あやつ》っていた「ドッグヘッド」だった。
「わたしが欲しかったのは、自分の三番目の首です」
「お、お前の……敵じゃなかったのか?」
裕生は舌がもつれてうまく喋《しゃべ》れないようだった。
「主従の関係だ、とも言ったはずですよ。もう一度支配下に置けばこの通り……今度こそわたしは完全体になった」
「葉《よう》!」
唐突《とうとつ》に裕生は叫んだ。今までみちるが聞いたこともないような悲痛な声だった。
しかし、相手は冷笑を浮かべているだけだった。
「葉!」
もう一度叫んだ。聞いているみちるの胸がつぶれるようだった。
裕生は力が抜けたようにぐったりと座り込んだ。
ふと、みちるはかすかにパトカーのサイレンを聞いた。徐々《じょじょ》にこちらへ向かってくるらしい。付近の住民が通報したのだろう。
「さて、約束は憶《おぼ》えているでしょうね?」
と、「黒の彼方」は言った。
「契約が終わった暁《あかつき》には、必ずお前を殺すと言ったはずです」
「藤牧!」
みちるは裕生の肩を揺さぶった——しかし、裕生はうつろな目で座っているだけだった。裕生の葉への深い気持ちを、今さらのようにみちるは知った。
葉は裕生の方へ足を踏み出した。同時に「黒の彼方」もガレキの上から滑《すべ》り降りてくる。みちるは裕生を庇《かば》うように彼の体をしっかりと抱いた。
「一緒《いっしょ》に死にたいのですか?」
と、葉《よう》の声で「黒の彼方《かなた》」が言う。裕生《ひろお》の気持ちが心に流れ込んでくるようで、涙が溢《あふ》れて止まらなかった。みちるは彼を放すまいと両腕にもっと力をこめた。
「そんなに人間を殺したければ、代わりにあたしを殺せばいいでしょ」
みちるは声を震《ふる》わせた。筋の通らないことを言っていると分かっていたが、たとえ自分の命を引き替えにしても裕生を助けたかった。
「では、あなたから先に殺しましょう」
彼女は言葉を失った。黒犬が牙《きば》を剥《む》き出しにして走ってくる。みちるは目を閉じて裕生の肩に顔を埋めた——が、しばらく待ってもなにも起こらなかった。
おそるおそる顔を上げると、黒犬の三つの顔が二人の目の前にある。開いている四つの赤い目が、裕生を吟味《ぎんみ》するように見つめていた。
裕生は彫像のように反応しなかった。
「なにが起こっているのか、分かっていないのですか?」
苛立《いらだ》たしげに「黒の彼方」は言った。みちるはその言葉にかっとなった。
「藤牧《ふじまき》がこんな風《ふう》になったのはあんたのせいじゃない!」
沈黙《ちんもく》が流れる。パトカーのサイレンはますます近づいてきていた。
「……今のこの少年には殺す価値もないですね」
と、「黒の彼方」は嘲笑《ちょうしょう》した。みちるは相手に分からないように、ほっと息をついた。ひょっとすると命が助かるかもしれない。侮辱《ぶじょく》されても、殺されるよりはずっといい——。
「西尾《にしお》みちる」
不意に呼びかけられて、みちるはどきっとした。
「な、なに?」
「この少年を正気に戻させなさい。明日《あした》の朝まで待ちます」
「え……?」
「こんな抜け殻《がら》を殺しても、わたしは満足しない」
みちるの背筋に戦慄《せんりつ》が走った。「黒の彼方」はこの魂《たましい》が抜けたような裕生でも見逃すつもりはないらしい。むしろ満足に殺すために、正気に戻せと言っている。
しかし、選択の余地はないとみちるにも分かっていた。嫌《いや》だと言えば、裕生も蔵前《くらまえ》のようにこの場で惨殺《ざんさつ》されるだけだ。
突然、サイレンが止《や》んだ。パトカーは校門の方に停車したらしい。ドアを開閉する音が次々に響《ひび》いた。みちるは裕生を抱きしめたまま固まっていた。自分と裕生の息遣《いきづか》いが奇妙に大きく聞こえた。
「答えなさい。西尾みちる。どうしますか?」
彼女はかすかにうなずいた。「黒の彼方」は満足げな笑《え》みを浮かべた。
「駅前に閉鎖《へいさ》された高いビルがありますね。明け方の五時に、藤牧裕生を来させなさい。あそこなら邪魔《じゃま》も入らないでしょう」
黒犬はくるりと向きを変えて、契約者の許《もと》に駆け戻った。
「もし藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》が来なかった場合、代わりにあなた方の肉親、知人を全員殺します」
と、「黒の彼方《かなた》」は言った。みちるのみぞおちのあたりに、その言葉がずしりと重くのしかかってきた。少なくとも誰《だれ》かは死から逃れられないのだ。
カゲヌシと契約者は踵《きびす》を返して走り去っていった。
みちるは無言でその背中を見送った。