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シャドウテイカー ドッグヘッド29

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:彼女は海沿いの古びたベンチに座っている。昼食の後、療養所の敷地《しきち》にある庭へ出て、こうして海を眺めるのが彼女の日
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   彼女は海沿いの古びたベンチに座っている。昼食の後、療養所の敷地《しきち》にある庭へ出て、こうして海を眺めるのが彼女の日課《にっか》だった。
ここで彼女は失われた記憶を取り戻すための治療を受けている。記憶はゆっくりと、そして些末《さまつ》なところから戻ってきていた。昨日《きのう》は自分が料理はあまり得意でないこと、学校では茶道部《さどうぶ》にいたことを思い出した。
もっと大事なこと——例えば、知っているはずの人たちの名前や顔は相変わらず思い出せなかったし、自分の名前も忘れがちだった。
それでも、記憶《きおく》をなくしたと分かるようになっただけでも、回復してきたと言えるのかもしれない。
彼女の膝《ひざ》の上には古びたノートが置いてある。そこには小さな島にいる少女の物語が書かれている。いつだったか、ここへ見舞《みま》いに来てくれた髪《かみ》の長い女の子がくれたものだった。
自分が記憶というものを持っていたと気付いたのは、この物語のおかげだった。他《ほか》のあらゆることを忘れているのに、なぜかこの物語を途中まで憶《おぼ》えていた。男の子に連れられて旅に出た女の子が、そうとは知らないままに自分の父親《ちちおや》と会う。その父親は涙を流す——。
彼女は初めて自分の忘れていることに疑問を持った。いつどこでこれを読んだのか、どうして途中までしか憶えていないのか。
そして、これを書いたのは誰《だれ》なのか。
ノートの裏には藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》、と書かれている。知らない名前だった。
木のベンチがかすかに軋《きし》んだ。隣《となり》を見ると、彼女より少し年上らしい小柄《こがら》な男の子が腰を下ろしていた。怪我《けが》をしているらしく、左手の先が分厚いギプスでくるまれていた。
「こんにちは」
と、彼は笑顔《えがお》で言った。
「……こんにちは」
つられて彼女も笑顔で答えた。ここの入所者ではないらしい——ひょっとすると、知り合いかもしれない。彼の顔には見覚えはないが、どこかで声を聞いた気がする。
「あの……わたしと会ったこと、あります?」
「……うん、あるよ。何度も」
「ごめんなさい、わたし……」
そう言いかけて、彼女はふと目を逸《そ》らした。彼の顔を見ていると胸が高鳴ってくる。頬《ほお》が熱《あつ》くなっているのが、自分でもはっきり分かった。
「……謝《あやま》らなくていいよ。元気そうで良かった」
どんな知り合いだったのかな、と彼女は思った。
「それ、よく読んでるの?」
「え?」
彼女は自分の膝を見下ろす。開きっぱなしの例のノートがあった。黙《だま》ってうなずくと、彼は心底|嬉《うれ》しそうな顔をした。彼女の方も嬉しくなった。
「これのこと、知ってるんですか?」
「うん、知ってる」
「わたし、好きなんです。このお話」
彼女は几帳面《きちょうめん》な字に指で触れながら言った。
「これを書いた人のこと、なにか知って……」
急に彼女の胸が詰まった。言葉が出てこない。それなのに、心の奥では言いたいことが無数にせめぎ合っているような、狂おしい気持ちだった。
二人の間に沈黙《ちんもく》が流れた。波の音がやけに大きく響《ひび》いた。
「君は自分の名前を思い出せる?」
彼女は首を横に振った。何度聞いても忘れてしまう。それでも、憶《おぼ》えていられる時間は少しずつ長くなりつつあった。
「今は、ちょっと……」
彼は自分の手を彼女の手に重ねた。温かく、懐《なつ》かしい感触だった。戸惑《とまど》いながら相手の顔を見ると、
「葉《よう》だよ」
優《やさ》しく諭《さと》すように彼は言った。
「雛咲《ひなさき》、葉」
「あ……」
突然、熱《あつ》い風のようなものが胸の中を吹き抜けて行った。葉はこらえるように胸を押さえる。名前を言ってくれただけなのに、なぜか涙が出るほど嬉《うれ》しかった。
「どうしたの?」
心配そうに彼が自分の顔を窺《うかが》っている。彼女は彼と見つめ合った。この人が誰《だれ》なのか、まだよく思い出せない。しかし、今すぐこの人の名前を呼ばなければならないと思った。なぜかそれを彼も望んでいるとはっきり分かる。
彼女は無意識《むいしき》のうちに唇を開いた。記憶《きおく》以前の自分の心に導《みちび》かれるように、気が付くとその名前を口にしていた。
「……裕生《ひろお》ちゃん」
その途端《とたん》、彼の唇がわなないた。彼の両目からみるみるうちに透明なものが溢《あふ》れてくる。見つめている彼女の視界もかすんで行った。
握りしめた二人の手の上に、どちらのものか分からない涙がほたほたと落ちた。まばゆい光に似た歓喜が彼女の胸を満たして行った。
「裕生ちゃん」
葉はもう一度言った。彼の手は彼女の手から離《はな》れて、頬《ほお》に添えられている。彼の息遣《いきづか》いを唇のすぐそばに感じた。
「……葉、会いに来たよ」
裕生は涙声で言い、かすかに葉はうなずいた。
(わたしはこの人を待っていたんだ)
彼にそう言いたかったが、その言葉を口にすることは出来なかった。
いつの間にか、葉《よう》の唇は静かに塞《ふさ》がれていた。
生まれて初めてのキスだった。
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