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記憶の絵12

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:鋏私には切り抜きをする趣味がある。このごろでこそ、小説を書くために、その小説のイメエジに合った人の顔の写真とか、景色、静
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私には切り抜きをする趣味がある。このごろでこそ、小説を書くために、その小説のイメエジに合った人の顔の写真とか、景色、静物なぞを切り抜くようになったので、私の切り抜きは趣味というより、必要な仕事になったが、私の切り抜き癖は幼い時からである。幼い時私の父親が、ノオトブックに独逸の雑誌から写真を切り抜いて張り、それぞれの写真の下にわかりやすい説明を書いてくれた。クリイム色をおびた紙は明るい方へかざすと、女王の横顔や、西欧の武士の顔なぞが透かしになっている、上等のノオトブックである。今でも覚えているのは、女の子の写真がフィルムのように五枚続きで、表情が少しずつ違っている楽しい写真である。女の子の顔は微笑《わら》いかけたり、きょとんとしたり、一喜一憂している。最後のは満面に笑いを湛えている。「ママがいらっしゃった」、「チョコレエトだわ」「下さるかしら?」「ああ下さる」「下さった」。たしかこんなことだった。もう一つは鳥の羽や、リボンを飾った鍔《つば》の広い帽子を被った貴婦人の半身像で、(帽子を被った奥さん)と書いてあった。厚い帳面で三、四冊はあったのに、その二つ位しか記憶がない。みんな失われた記憶の中に埋もれてしまっている。父親が切り抜きをしてくれたためか、私は幼い時から切り抜きをするようになった。私は画用紙に人形を描いて切り抜き、千代紙と色紙で着物、羽織、洋服と無限に造った。幼い私の着物、帯、リボン、草履への欲望は無限で、たべるものでももっと、もっと、と欲しがって際限がなかった。枝から枝へ奔走して餌を運ぶ鶯と、嘴《くちばし》を大きく開けたきりの雷鳥の雛の映画を見た私は、幼い私をそこに見たようで、思わず心の内で笑った。晩年になった今、着物がまるで無い同様になったのは、欲ばりの罪が罰せられたのかも知れない。
父親は独逸製の、鈍く光る銀色の鋏を持っていて、彼も独逸の雑誌なぞから何か切り抜いていたが、すべて私の望みをかなえてくれる彼が、その鋏だけは使わせてくれても直ぐにとり返した。「これは子供の使う鋏ではないのだよ」彼は言った。
私はこの鋏の事だけでは父に反抗し、その鋏をそっと隠してやりたいように思った。その鋏で滑らかな西洋紙を切ると、豆腐を切るようで気持がよかった。ゾリンゲンという剃刀で有名な町がある位の国だから刃物は優秀だったにちがいない。私は誰でも使っている爪切りが使えないので、尖端《さき》が綺麗な形に反っている、指を通すところも細い、華奢《きやしや》な鋏を使っているが、独逸製ではないかも知れないが、小さな刃物店にはないので、店員にきいてみると手術《オペ》の糸を截るためのものだそうである。
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