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記憶の絵20

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:萩原葉子の「天上の花」私と萩原葉子とはへんな関係の親友であって、私は彼女の性格や、書く小説を大変好きであるとは言えないし
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萩原葉子の「天上の花」

私と萩原葉子とはへんな関係の親友であって、私は彼女の性格や、書く小説を大変好きであるとは言えないし、萩原葉子は葉子で、私の性格には解っていながら困っているし、私の小説には興味がない。理由は簡単であって、私の小説には粋《いき》な色男が大抵は登場するし、うぶな男と幼い娘が出て来ても、その関係を、粋《いき》な男の眼で見ているのであるのに、彼女は粋《いき》というものに興味がない。又私には彼女の質実な性格が、確実には掴めないし、彼女の小説は大きく分ければ私小説であって、空想好きの私としては熱心に読みたい小説ではない。ところが、空想好きで、私小説嫌いの私が(これは自分に書けないからかも知れない)、驚歎したのが、今度の彼女の「天上の花」である。もともと彼女の小説は、事実小説の中にフィクションを含んでいて(それは事実を変えるということではなく、彼女の事実小説は彼女のフィクションによって、より事実となって光るのである。養殖真珠のやり方よりももっと微妙、且天才的な方法で、彼女は輝くような事実を造る)私は彼女の「父 萩原朔太郎」の中の最も事実らしいところがフィクションだと知って、驚いたことがある。「天上の花」はあまり傑作で、褒める言葉がむつかしいが、つまり、激情家で、稚く、厳しく潔癖な詩人の三好達治という人物を敬愛をもって活写したものである。詩人を活写した葉子の眼は、微妙な堺《さかい》でふと光り、その光の屈折によって、そこにあるものが反射してくる、というような、スイスの名人の磨き職人が磨いたレンズであって、ここに至っては私小説も空想小説もない堺であって作者のレンズは空想の中に突っこんでいる。稚拙な文章を言う人もあるが、稚拙な文章もここでは問題外である。秀れたレンズは人生を捉え、人間を捉えていて、私は「天上の花」を昭和の名作と信じていて、それは決して親友の身びいきではない。萩原葉子の伯母さんの手記の形になっているところは、彼女の硝子の力が、彼女の見ていない場所での詩人を捉えたところであるが、ここの詩人の姿は凄惨であって、埃だらけの寒々とした家が見えてくる。現今《いま》の金で十何万円に当る千円札を、どこでどうやって造ったのか造った詩人の哀れさが、何気ない描写の外に滲《にじ》み出ている。
私はこの小説を、雑誌の出た日、いつも立ち読みしている本屋で二度繰り返して読んだが、最初の時には手記のところに驚歎したが、二回目には、地の文の方に、彼女の本領の、地味で深いものが出ていて、より光っていると感じた。私は少しばかり先にこの道に歩き出したことによって、彼女を後輩扱いしていて、彼女が知らない内に脱皮していたのを知らずに、彼女がこの小説の取材の意味で前橋に旅行をしたときいて一寸莫迦にしていたので、一層愕いたので、あった。
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