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記憶の絵31

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:怒りの虫銀座のレストランというのはどういうわけか、巴里の一流の料理店より、私には可怕《こわ》い場所である。(銀の塔)より
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怒りの虫

銀座のレストランというのはどういうわけか、巴里の一流の料理店より、私には可怕《こわ》い場所である。(銀の塔)より(黄金《きん》の鶏)が、私には可怕いのである。先ず階上《うえ》に上って、卓子《テエブル》の間に車付きの小卓子があって、古びたラベルの、あらゆる種類の洋酒が満載されているのを見つけても、立止まって見てはいけないのである。それは可笑しいことなのである。銀座の高級料理店《レストラン》に入るお客連中というものは、どんなに見馴れないものがあっても、耳馴れない楽《がく》の音《ね》が聴えても、こんなものは何千遍も見た、或は聴いた、という顔で済まし返っていることになっている。料理をたべに来た、という気楽なようすはなくて突張っている彼らは、(いずれを見ても山家育ち)で大したことはない。卓子についてボオイに(犢《こうし》のカツレツを下さい)と言うと変に首を傾《かし》げて「ペラペラペラのペラペラですか?」てなことを言う。二度押問答をした私の頭にふと、犢《こうし》のカツレツのフランス語が浮んだ。(これで行ってやれ)と思った私は、「フランス語ならコトゥレットゥ・ドゥ・ヴォオよ」と言うと、ボオイは黙って向うへ行き、今度は別のボオイが犢のカツレツを運んで来た。ちゃんと通じていたのである。レストランに限って、日本人に日本語が通じないというのは困ったことである。巴里の料理店《レストラン》のボオイは、万国からお客が集まってくるから(まるで万国博覧会である)それこそ引っくり返って笑いたいようなお客も往々あるにちがいないが、巴里のボオイが笑ったのを見たことがない。恋人にするような、やさしい微笑《わら》いで迎えることはあるが。もっとも銀座のボオイにはそんな素敵な微笑《わら》いはやろうとしたって出来ないだろうから、微笑《わら》えとは言っていない。面胞《にきび》を削った瘡《あと》が真紅《まつか》な、いやにかさかさ白い、硬《こわ》ばった顔面神経で下手に微笑《わら》われると、こっちは寒気がしてくるのである。巴里のボオイには商売人的な利口さも、又徹底した観光客向けの精神も、むろんあるが、彼らは、美味しい料理をたべようと、楽しんでやってくる異国の奇妙な女の子に対《むか》って、つい柔《やさ》しく微笑《わら》ってしまう、というようなところがあるのである。(日本人の女の顔は殊に凸凹が少ないから、十八の私は十四、五で結婚した女の子にみえたらしかった)私は、偉い先生達が糺弾する不道徳もむろん、条件と状態によっては悪いが、こういう、善良な人間を揶揄《からか》う小さな悪意をひどく憎んでいる。メニュウにある英語だけを覚えこんだというだけで、全智全能になった気のボオイたちは要するに、真物《ほんもの》のレディというものを見たことがない。真物《ほんもの》のレディは珍らしいものがあれば見入り、ボオイなんかにも柔しく微笑《わら》いかけるものである。私は巴里では酒の壜の台は部屋の隅にあったし、壜が皆古いので大変珍しかったのだ。私はその日、洋酒の台を面白がった私を、場所馴れないトンチキの客だといわないばかりの顔で軽蔑した、一山《ひとやま》百文で売っているような顔のボオイを、ひどく憎んだのである。
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